指先で伝えたい13
 




                二十八



 寝すぎて腫れた目をこすりながら、隣接した「食事処末永」の店内をのぞくと、込み合った食堂の入り口では、紫の浴衣を着た元同級生が立ったまま笑っていた。
「真白、遅い、もう花火始まっちゃうよ」
 すらりとした長身。高校の時も美人だったが、細く整ったうりざね顔は、あれから二年たって――思わず足を止めてしまうほど綺麗になっている。
 他のパーツは全て繊細なのに、その唇だけがイメージを裏切って大きくて、どこかセクシャルなところだけは変らない。
 瀬戸七生実。
 真白は微笑し、軽く片手を上げる。
「元気そうじゃん、七生実」
「あんたもねー」
「……もう、行く?」
「そのつもりで来たけど、……着がえるなら、待つよ」
 間の悪い会話。
 七生実の笑顔が、どこかぎこちなく見えるのも気のせいではない。多分、真白の笑顔も、普段より強張ってしまっている。
「……ううん、このまま行くから、ちょっと待ってて」
 真白は、寝乱れた髪を手で直し、店内の母親を振り返った。
「じゃ、港祭行って来る、すぐに戻るから」
「真白、浴衣」
「今年は着ないって言ったでしょ」
 非難めいた目を振り切り、再び七生実を振り返った。
「えーと、じゃ、待ってて、家からお金とか、持ってくるし」
「いいの?……そんな、思いっきり部屋着のままで」
「いいよ、別に」
 交わす会話も視線もどこか壁を感じるのは、高校を卒業して以来すれ違い続きで――直接会うのが、二年ぶりだからという、それだけの理由ではない。
 真白は、隣接する自宅に戻った。
 二階の自分の部屋で、一応、Tシャツだけはロゴ入りの新しいものに着替え、後は七部丈ジーパンにサンダル、というスタイルで飛び出した。
「おまたせ」
 そのまま七生実と、肩を並べて、群青色の空の下を歩き出す。
「尚、元気かな」
「さぁ、私も会ってないんだ」
 込み合った駅に向かいながら、ぼつり、ぼつりと会話を繋ぐ。
 あれから二年。
 真白は、大阪の私立大学に進学を決め、小さなアパートを借りて一人暮らしをしていた。
 七生実は、予定通り推薦を決め、隣県の国立大学文学部に進学している。詳しくは聞いていないが、寮生活を送っているという。
 尚哉は東京の私立大学へ進み、音沙汰がなくなった。尚哉のことだから、相変わらずもてまくってるんだろうな、と真白は思う。
 しばらく、七生実と真白は、ぎこちないながらも、昔話を続けていた。先生のこと、同級生のこと、バスケ部のこと……いったん糸口が見つかるとよどみなく会話が続く。
 七生実のことを許したわけではないが、今となっては、怒っているわけでもない。
 懐かしくて、ぎこちない、曖昧な感情のまま、真白は不思議な気持ちで言葉を繋ぐ。それは、七生実も同じことのようだった。
「あの電話って何さ」
「え……?」
 ホームで電車を持っている時、ふいに苦笑しながら七生実が言った。
「今思い出した、二年前の夏祭りの日……真白、携帯に電話くれたじゃない」
「……ああ、」
「処女って誤魔化せる?……あれ、なんだったのよ」
「さぁ、忘れちゃった」
 そんなことをまだ記憶されていることに、胸苦しさを感じながら、真白はなんでもないように言って、腕時計に視線を落とす振りをする。
 七生実もそれ以上口を開かず、そのまま二人は、電車が来るまで無言で過ごした。
「……会ってもらえるとは……思わなかった」
 電車に乗ってから、七生実はぽつり、と呟いた。
「真白は頑なだからね……一生、許してもらえないかと思ってた」
「…………」
 三年の夏休みに決別してから卒業まで、真白は、元親友を頑なに無視していた。七生実の方は、何かと口実をつけて、話をする機会を探しているようだったが、それすら気づかないふりをしてやりすごした。
「……片瀬とは、時々連絡取り合ってるよ」
 浴衣と同じ生地の巾着を弄びながら、七生実が言った。
「…………」
 ふぅん、とだけ答え、真白は黙って視線を窓の外に向ける。
 あの年の暮れ、片瀬りょうが、「STORM」という新ユニットで、J&M事務所からデビューを果たしたことは、この田舎町では、相当、衝撃的なニュースだった。
 あの年。
 夏休みの終る頃には、片瀬澪は退学届を出し、すでに東京に戻っていた。父親と相当激しいやり取りがあったらしいが、結局は、向こうで、事務所の友人の家に居候する形で、収まりをつけたらしい。
 それが9月で、11月には、もうデビューが決まっていた。
 その経緯は、東京から来た茶髪の彼女の言う通りで、ワールドカップバレーにあわせて、テレビ局と組み、アイドルユニットとしては、相当派手なお披露目を行ったらしい。
 連日、テレビからは、彼等のデビュー曲「STORM」が流れ、バレーの試合が放送されるたびに、ブラウン管の中、ここにいた頃とは別人のように洗練された男が、伸びやかに踊り、笑顔を見せて手を振っている姿が映し出される。
 バレーの試合会場は、連日、試合より新しいアイドルユニットを見たいファンの女の子で満員になり、黄色い喚声と、色とりどりの写真入り団扇が入り乱れている。
 これが、「デビュー」ってことなんだ、と、真白もようやく納得がいった。
 基本時には、同じことをしていても、周囲の反応や扱いがまるで違う。端から売り出すための戦略が敷かれている上を走るのだから、確実にヒットするようになっているのかもしれない。
 デビューして、二年。STORMの新曲は、全てオリコン1位を獲得し、全国規模のコンサートツアーも三度行っている。澪は、ドラマの主演も果たし、すでにトップアイドルと呼ばれる風格を備えつつある。
 あれから――たった三年足らずで、もう、片瀬澪は、別世界の人になってしまった。
 見たくなくても、ふいに視界に飛び込んでくる写真や、CM。
 見知らぬ他人のような冷たい目と、済ました笑顔。影のある横顔。挑発的な微笑。女性タレントと笑顔ではしゃいでいる姿。真白の記憶に残る澪は、その中にはひとつもない。
 それが……こんなに辛いものだとは思ってもみなかった。
 だから、片瀬りょうの話題が出たら、自然に意識を逸らすのは、もう癖のような習慣になっている。
「ふぅんって……なんとも、ない?」
 七生実が、探るような目で見下ろしてくる。
「ないよ」
 真白は、そっけなくそれに答える。
 隣で、はぁ、と溜息を吐くような気配がした。
「……あんたの、そういうとこ嫌いだったな」
 そして、七生実はふいに口調を変えて呟いた。
「つか、会った最初から何もかも嫌いだった。あったかい家も、友達も、仲間も――自分の居場所、なにもかも持ってるくせに、アタシのことうらやましいって目で見るあんたが、大キライだった」
「…………」
 真白は、こわばった表情のまま、自分の膝の上に置いた手の指を見つめていた。ひどいことを言われているはずなのに、腹は全くたたなくて、ただ、寂しいだけなのが不思議だった。
「初めての彼とセックスしようかどうか、そんな莫迦みたいなことで迷ってるあんたに、……本当は心底むかついてた」
「…………どういうこと?」
 さすがにその言葉は聞き流せなかった。
 眉をひそめて顔を上げると、七生実はわずかに口元を緩めた。
「やっと、こっち見たね」
「…………」
 その目に、初めて見るような寂しげな色が滲んだ気がした。
 真白は何も言えないまま、その横顔を見つめ続けた。そして判った。七生実は――ずっと寂しかったのだと。今、真白が初めて感じた寂しさを、彼女はこの二年、ずっと抱き続けていたのだと――。
「………いつ……話そうかなって、……思ってた」
 七生実の横顔が呟いた。
「ずっと謝りたかったし、言い訳したかった。私のためじゃないよ、……私じゃなくて、あの莫迦のために」
―――莫迦……?
 思わず、つられたように、七生実の視線を追って顔を上げていた。
「……私、転校してここに来る前……東京にいた頃、……日舞習っててさ」
 電車の音と、周辺の女子高生たちのはしゃぎ声が煩かった。
 だから、七生実の声が、真白には一瞬聞き取れなかった。
「それが片瀬のお母さんの教室……その時には、片瀬、もう事務所に入ってて、まぁ、滅多に会うこともなかったけどね」
「…………」
 七生実の横顔に、暗い影が落ちて来る。
「まだ中二だったんだけどね、あたし。あいつには、いくつに見えてたんだろ。優しい人だったから、油断もしてたし、私にも隙があったんだけど」
 蓮っ葉な言い方をしても、その実、それが――相当苦しみながら、言っている言葉だと、真白にはわかった。
「七生実……、」
 思わず、言葉を挟もうとすると、
「いきなり背中から抱きつかれて、で、そのまんま、泣いて頼んでも駄目だった……お師匠さんにも言えなくてさ、あ、それ、片瀬のママのことだけど……言えないよね、普通」
「…………」
「あんたの旦那さんに、やられちゃいましたって、中二のアタシがさ、しかもホステスの娘がさ、そんなこと言ってどうなるかなんて、判りきってるよね」
「…………」
「片瀬がさ、……私を庇おうとしてた理由、それだけだから」
「…………」
「ほっときゃいいのに、煙草のこと、莫迦みたいに説教すんの。……言い争ってるとこ、荒神原に見られちゃって、……私はとっさに逃げたんだけど、あいつが一人で被っちゃって」
「…………」
「そんなお人よしのあいつをさ……オヤジさんへの面当てもあって、好きなように使ってたのも私だから。……片瀬はさ、多分、病気のお母さん、守りたかっただけだと思うよ」
 電車が、目的の駅につく。
 七生実と並んで電車を下りながら、真白は、ただ無言で、地面に落ちる光の饗宴を見つめていた。


                二十九


「真白、どうしたの。こんなに早く帰るなんて」
 母親の、非難がましい声がする。
「……うん……なんとなく」
 七生実とは向こうで別れ、結局真白は、殆んど花火も見ないまま、帰りの電車に乗っていた。
(―――私さ……ずっと、真白がねたましかった。)
 まだ暮れきっていない空、淡く滲む花火を見上げながら、七生実は、はじめて聞くような素直な声でそう言った。
(―――この町に転校してきて、……本当は息がつまりそうだった。町内一同仲良くて、私の居場所なんてどこにもなかった。真白は……人気者で、……親にも愛されて、幸せそうで、私から見たら、殺してやりたいくらいに無神経な女に見えた。)
(―――……真白が怪我して休んでる時、杏子を推したの私なんだ。真白から居場所を全部奪ったらどうなるかって、そんなこと考えてた。一年扇動して、……真白を傷つけるように仕組んだのは、みんな私。)
「暇なら、店を手伝いなさいよ、今日は忙しいんだから」
「……うん……」
 曖昧に頷いて仰向けになる、天井のしみを見上げる。
 母親は、はあっと息を吐いて、階段を降りていった。
(―――でも、真白は、強いね。)
(―――私、負けたなって思ったから……真白は、……最後に手に入れた大切なものを、その人のために、自分から棄てたでしょ。)
(―――片瀬、それ、判ったんだと思う。だから、退学、決意したんじゃないかと思う……もういいじゃん、……意地張らずに会ってみなよ。)
「…………」
(―――会いなよ、私なら、片瀬と連絡取れるから、いくらでも段取りつけてあげられるよ。)
「…………」
 会えるわけ、ない。
「―――俺が、着せてやるよ」
「―――来年も再来年も、俺が、真白さんに浴衣着せるから」
 あんな風に、優しく言ってくれた男を、甘えた目で自分を見下ろし、信じきってくれた眼差しを――。
 理由はどうあれ、最低の言葉で踏みにじり、拒絶した。傷つけた。
 あの時、駅のホームで。
 うなだれたまま、唇を震わせていた澪の横顔を、真白はまだ忘れてはいない。あれほど――打ちのめされ、傷ついた人の顔を見たのは初めてだった。
 その時の、胸が千切れそうな苦しさを、まだ真白は、昨日のことのように思い出せる。
―――澪……。
 てのひらで、両目をふさいだ。
 避け続けていても、いつも、無意識に澪の情報を探している自分がいる。
 聞きたくなくても、STORMの曲の中、澪の声を求めている自分がいる。
―――澪……。
 忘れたことなんて、一度もなかった。
 後悔しない夜は、一度もなかった。
 あんなに――苦しいほど、誰かを好きになっのは初めてだった。
 STORMは今、夏の全国ツアーの真っ最中だ。
 確か一昨日が広島だった。明日が福岡。その中間にあるこの小さな町は、あっさり素通りされている。多分、今ごろは東京で仕事をしているのだろう。
 コンサートに行けば、生の澪に会うことができる。が、それは、実体であっても、宇宙の果てより遠い場所にいる人と会うも同然だ。
 多分―――今以上に、距離を実感させられるだけだから。






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