指先で伝えたい12 






                 二十五


「……電話?」
 濡れた頭を拭いながら、浴室から出てきた澪が、少し照れたような笑顔で聞く。
「うん、お母さんに、……遅くなるって言い訳してた」
 ぱちん、と携帯を閉じて巾着に収めながら、真白もまた、笑顔で応えた。
「泊まるって言えばいいのに」
「ばーか、言えるわけないじゃん」
「ま、金もないしな」
 澪はくすっと笑って、ベッドの上に腰を下ろすと、備えつけのタオルで、ごしごしと頭を拭った。
「ここの払いなら、割り勘でいいからね」
「いいよ、そんなの」
「駄目、それだけは絶対に嫌」
「じゃ、次は払ってよ」
「だめ、今日、払わせて」
 きっぱりと言うと、タオルからのぞく澪の目に、ようやく、けげんそうな色が浮かぶ。
 真白は無言で、巾着の中の財布から、千円札を数枚出して、テーブルの上に置いた。
「……ま、いいけど」
 少しの間黙っていた澪は、ひょい、と立ち上がって千円札を取り上げると、それをポケットにねじ込んだ。
「帯、結ぼうか」
「うん……本当にできるの?」
「ま、多分」
 帯以外の浴衣本体は、見よう見真似で、自分で着付けていた。
 澪は、ベッドの上に置いてある黄色の帯を持ち上げる。
 裏表を確認し、多分、そういうやりかたなのだろうが、半ばで折り返し、その折り目を真白の腰に当て、片膝をつく。
「器用だね」
「これくらいで言われてもな」
 からかうような声が返ってくる。
 一巻きしてから、背中の部分できつく巻き閉められる。
「うっ……」
 思わずうめいてしまうと、
「はは、ちょっと緩めよっか」
 その手付きが、不思議なくらい、先日の――七生実のそれと同じだった。
「……澪……」
「んー?細いね、腰、あまり着物体型じゃないね」
「…………」
 もう一度、前に回ってくる綺麗な指を、真白は静かな気持ちで見つめながら言った。
「いつもの指輪、どうしたの」
「ああ、家。部活ん時、邪魔になるから……そういや、最近つけるの忘れてるな」
「バスケの時は、軍手つけられないもんね」
「なんだよ、それ」
 ほんのわずかな時間で、澪は器用に、元通りに帯を結びなおしてくれた。
 真白は時計を見た。もう、終電の時間が近づいている。
 澪も、ドアの方に歩み寄り、そこに脱いでいたサンダルを履き始める。
「タオルとか、片付けとこうか」
 部屋を出間際に、ふと気づいてそう言うと、
「いいんじゃない、そのままで」
「……ふぅん」
「……?何」
 扉を閉め、澪は先に立って歩き出す。
 真白は黙って、その背中を見つめながら、歩き出した。
 愛しい背中。今は、――今だけは、私だけの背中。
「やっぱ、こういうとこ、慣れてるんだと思ってさ」
 からかうような声でそう言うと、がくっと澪の肩が下がるのがわかった。
「……って、つか、ホテルは慣れてるよ、……コンサートとか、時々ついてまわってたから」
 振り返り、閉口したような顔で、言いわけする。
「嘘だよ」
 笑顔でそう言い、真白は、澪の腕に、自分の手を絡めた。


                二十六


 時間が時間だけに、電車には、殆んど乗客がいなかった。
 やはり、帯を気にして座れない真白に、寄り添うように立ったまま、澪は、ずっと、手を繋いでいてくれた。
 往路より暖かい、そのてのひらの感触が心地よかった。
 ゆるやかにゆれる電車。
 乗降口近くに立つ二人の陰が、暗い窓に映し出されている。 
「……来年も、行こうな」
「…………」
 それには答えず、真白は無言で、澪の手を握り締める。
 澪が、自分を見下ろしているのが判る。
「……浴衣くらい、自分で着れるようにならなきゃね」
 窓に映る、二人の影を見つめながらそう言うと、
「いいよ、来年は俺が着せるから」
 澪は、かすかに笑って、真白の頭を抱いて、引き寄せてくれた。額に軽く唇が当てられる。
「―――俺が、着せてやるよ」
「……ん、」
「―――来年も再来年も、俺が、真白さんに浴衣着せるから」
―――澪……。
 アナウンスが聞こえる。
 夜の闇の向こう、見慣れた海の遠景がかすかに滲む。
 ゆるやかに停車する電車の、軋むようなブレーキ音を聞きながら、真白は大きく深呼吸した。
―――バイバイ……。
 人気のないホームに降り立つと、澪が肩をすくめながら、周辺を見回した。
「家……どっちだったっけ、送ってくよ」
「いいよ」
 真白は言った。電車を降りるまでのわずかな間、もう、覚悟を決めていた。
「尚が向かえに来てるんだ、悪いけど、ここで別れてくれる?」
 振り返った澪の目は、それでもまだ笑っていた。
 冗談でも言われているような、そんな感じの、無邪気な表情を浮かべていた。
「ふたまたって、最初、澪が言ってくれたことだよね」
 真白は、自分も笑おうとしたが、もう笑うことはできなかった。多分、強張った――醜い顔になっているだろう、と思っていた。
 澪の目が、わずかにすがまる。
「尚と別れてないよ、私。……尚には、澪のこと言ってないし……言う気もない」
「…………」
 澪が何か言いかける。その目には、まだどこか、今の会話を冗談にしたい、楽観的な色がある。
 それを真白は、冷たい眼差しで遮った。
「片瀬君だって、私のこと、本気で好きだったわけじゃないよね」
 警笛が鳴り、停まっていた電車が走り出す。ホームには、もう澪と真白しか残っていなかった。
「七生実に頼まれたんでしょ、……私を、誘惑するようにって言われたんでしょ」
「……それは、」
 意外そうに開く唇を、真白は首を振って、閉じ込めた。
「言い訳なんて絶対にしないで。片瀬君は七生実とつきあってて、七生実が喫煙してることも全部知ってた。……そうだよね」
「…………」
 軽く息を吐き、澪は眉を寄せながら頷く。が、「でもそれは……」と、その目が、言い訳のように抵抗している。
「その七生実に、私にちょっかい出すように頼まれたのは、七生実が、……尚のこと、好きだったからでしょ」
「…………」
「だから、片瀬君、知ってたんだ……尚と私が、一線越えてなくて、私が……そういう行為、恐がってること」
(―――大丈夫……。)
 最初のあの日、何度も囁いてくれた声。
 後になって不信を感じた。あれは、最初から、真白を未経験と知った上での優しさだった。
(―――唐渡君のセックスって上手?)
 部室であんな場面を見られて、あんな言葉まで掛けておきながら、どうして澪は――まだ自分と尚が一線を越えられないでいることを知っていたのだろうか、と、後になって不思議に思った。
「そういうのも……全部、七生実から聞いてたんだ」
「…………」
 それには、澪は答えない。黙ったまま、ただ視線を足元に落としている。
「……片瀬君は、ただ、七生実を守りたかったんだよね」
 追い討ちをかけるように、真白は冷たい口調で続けた。
「だから、必死でリップの跡ついた煙草隠して、あの夜、……東京の彼女まで使ってあんな莫迦な芝居うったんだよね。やっと判ったよ。荒神原君は、最初から七生実のこと疑ってたんだ。だから七生実は焦ってたんだ。私と尚を使って、疑い晴らそうとしてたんだ。そうだよね、片瀬君」
 澪は無言で目を細める。それは、肯定しているようでもあり、否定しているようでもある。
 しばらくの間、怖いような沈黙があった。
「…………あいつの家、私立行くような余裕、ないから」
 ようやく諦めたのか、澪の声は落ち着いていた。
 ああ、そうか。と真白も思った。七生実は、国立の推薦がもう殆んど決定している。もし、喫煙が学校に漏れれば、推薦は間違いなく取り消しになるだろう。
 澪は、足元を見つめたまま、言葉を繋ぐ。
「煙草のこと、……それだけは、隠してやれればって思ってた。……でも、俺とあいつの間には」
「言わないで、聞きたくない」
「聞けよ、俺は」
「言わないで、そんなことどうでもいいから!」
 激しい口調で、否定すると、澪は、初めて、打ちのめされたような顔になった。
「今、片瀬君が、誰をどう思ってようと、私は絶対に許さないから」
「…………」
「判ってたよね、知ってたよね、あの夜部室で、尚が私に何をしたのか」
「…………」
「莫迦莫迦しい芝居につきあわされて、その挙句、私が、どんな目にあったのか」
「…………」
 凍りついたような目が、硬く強張って逸らされる。
 うつむいた澪は何も言わなかった。もう、何も――このまま永久に、何も言わないように見えた。
「それでも、片瀬君は私を助けにこなかったんだ」
「…………」
「荒神原君呼びに行っても、自分の手は汚したくなかったんだ」
「…………」
「なんで?尚が喧嘩腰だったから?喧嘩になれば、命より大切な顔に怪我でもしちゃうから?」
「真白さん、」
 苦しげに開かれる唇を、真白は、首を振って激しく遮る。
「優しいんだよね、片瀬君は。一度寝た女をほっとけないって、東京の彼女も言ってたよ。それで七生実をほっとけなかった?自分のせいで、酷い目にあった私をほっとけなくなった?」
「……そんなんじゃ……」
「本気で好きだったら!」
 真白は拳を握り締めた。怒り続けていないと、自分の感情が上手くコントロールできそうもなかった。
「本気で私のこと好きだったら、呑気に人なんて呼びに行かずに、自分で助けに来るはずだよね」
「……真白さん」
「片瀬君が、誰を好きだろうと、どんな莫迦な芝居しようと、私には全然関係ないし、騙されたことを怒ってるわけでもない」
「…………」
「でも、あのことだけは許せない。私は片瀬君が好きだったし、片瀬君もそれはわかってたはずだった。わかってて、……見捨てたんだ」
 今、この刹那。
 澪が、どれだけ苦しんでいるか、真白にはよく判っていた。
 あの夜の顛末を、おそらく誰よりも不安に思い、ずっと――それを確かめたがっていたのを、真白はよく知っていたからだ。
 それが、愛情からなのか、罪悪感からなのか。
 それはもう、想像するしかないけれど。
 うつむいたままの澪の唇から、きれぎれの声が、聞こえてきた。
「……あの時、真白さんは……唐渡君の、彼女だったから」
「今でもそうだよ」
「…………」
「無理矢理だったけど、あれで判った。私には尚しかいないって、……少なくとも、あんたみたいに、汚い男じゃないから、尚は」
「…………」
 うつむいた澪の唇が震えている。
 真白は――自分の唇も震えるのを感じ、それを強く噛み締めた。
「私がどれだけ悔しかったか、今日はそれを、片瀬君に教えてあげたかっただけ。悪いけど、片瀬君がマジで優しくて」
「…………」
「私に、罪悪感持ってるなら、もう出てって、この町から出てって」
「…………」
「バスケ部も学校もやめて、私の前に、二度と、永久に現れないで」
「…………」
「…………東京に、戻って………」
 泣かないで、真白は自分に言い聞かせた。
 ここで、何もかも、だいなしにさせないで。
「こんな田舎でちやほやされて、それで満足なんて、かっこ悪いにもほどがあるよ。みっともなくて、見てられない。女守るより、自分の顔守りたいあんたは、根っからの芸能人だよ、……とっとと帰れば?東京に、」
 澪が、ようやく顔を上げる。
 もう限界だった。今度は真白がうつむいていた。
「さよなら……せめて今夜のこと、将来友達に自慢できるくらい有名な人に……なってよね」
 バイバイ。
 最後にそう呟いて、動かない澪の傍をすり抜けると、真白は黙って歩き出した。


                 二十七


「……つかさ」
 並んで歩きながら、尚哉は不機嫌そうに月夜を仰いだ。
「どうしてそこで、俺が悪役のまま終るわけよ」
「だって、本当に悪役じゃない」
 むっとして言い捨て、真白はすたすたと歩き出す。念のため、電話で本当に呼び出したのだが、澪が、後を追ってくる気配はなかった。
「だから、あれはもう……マジで反省してるから」
「いい、あれでよく判った。嫌な時ははっきりそういわなきゃ、痛い目に合うのは私なんだって」
「ましろ〜」
 情けないような声が追ってくる。
 尚哉は、あの夜から、憑き物が落ちたように落ち着いた。荒神原に相当厳しく叱られたのが骨身に染みたのかもしれないが、その他にも、色んな意味で目が醒めたからだろうと、思う。
「……なぁ、マジでやりなおさない?」
「絶対に、いや」
「………………」
 月が、無意味に明るくて綺麗だった。
 いつか、澪と二人で歩いた朝の商店街。あの朝と同じように店は閉まって人気はなくて、でもそこを――今は、尚哉と歩いている。
「……尚、七生実とつきあえばいいじゃん」
 先を歩きながら、真白は言った。
「なんでそうなるんだよ」
 溜息のような声が返ってくる。
「だって、尚、あの夜本当は、七生実を捜しに部室まで戻ったんでしょ?七生実が、一人で倉庫に行くって言ったから」
「…………」
「それに、私に片瀬君を近づけようと……あれこれ尚に余計なことを吹き込んだのも七生実。だから尚、私にあんなこと頼んだんでしょ。……片瀬を説得してくれって」
「…………はぁ」
 深く、息を吐くような溜息が聞こえた。
「お前さ、そんなにずはずばもの言う奴だったっけ」
「そうよ、尚が知らないだけで」
 本当は――私が尚の前で、そんな自分を見せられなかっただけ……。
 それは、胸の中だけで呟いた。
「……俺、あの人に、実はいっぺんふられてんだ」
 さすがに脚を止めかけていた。
「一年の時、告って、あっさり……あっさりっつーか、ばっさりふられた。ま、俺も、振り向かない女をぐじぐじ思うほど暇じゃないし」
「…………」
「で、俺にしてみれば、それきりだったはずなのにさ……。お前とつきあいはじめてからだよ。七生実さん、なーんか、こう、……誘惑するんだよな、いや、あれは勘違いとかじゃなくてさ、マジで」
「…………」
「俺も……莫迦だったよ、なんか、……ふらふらっとさ、気がつけば、七生実さんの言いなりになってた気がする。……マジで、莫迦なことしたと思ってるよ、片瀬のことは」
 真白は無言のまま、自分の影を見つめていた。
 それは――どういうことなのだろう。
 七生実は、それじゃ、まるで。
「七生実さんと、仲直り、しねぇの?」
「しない」
 それだけは即答した。
「……上手く言えねぇけど……あの人も、なんか色々抱えてるような気がするよ。……片瀬とのことも」
「…………」
「単にセックスした以上の、何か……つながりがあるような気がするんだよな、ま、それは俺のカンだけどさ」
「…………」
 真白は、黙って歩調を速める。
 尚哉は、呆れたような嘆息を漏らしながらも、その後をついて来てくれる。
「……片瀬、学校、やめんの?」
「…………」
「もったいないよなぁ、俺、せっかくあいつ、見直し始めたのに、荒神原さんだって」
「…………」
「…………真白」
「…………」
「……お前、泣くくらいなら……」
 尚哉は、そこで言葉を途切れさせ、もう何も言わなくなった。
 にじんでぼやけていく視界を、真白はただ、まっすぐに歩き続けていた。








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