指先で伝えたい14







                 三十


「あれぇ?真白、何してんの?」
 ガラっと店の扉が開いて、ひょいっと顔を出したのは、意外にも真白の姉葉月だった。
「お帰り、お姉ちゃん」
 空いた席から食器を載せたトレーを持ち上げながら、真白は声だけを姉に返す。ラッシュのような客の波が途絶え、ようやく一息ついた時だった。
「なんだ、港祭りに行くっていったのに、結局は店の手伝い?」
 いまだ結婚もせず、実家から銀行に通っている姉は、珍しく友人連れである。
「こんにちは」
 葉月の背後で、控えめに頭を下げる女性は、姉よりいくつか年上に見える。小柄で、ひっつめた髪。いかにも銀行の同僚――という感じの真面目そうな女性だ。
 真白が会釈だけ返して、トレーをカウンターに持っていくと、
「真白、彼女よ、ほら、昔よく、J&Mのビデオとか貸してくれた」
 ちょっと声を押さえ、傍によってきた葉月が囁いた。
 あっ、と思った。
 あれだけお世話になったのに、そう言えば実際に会うのは初めてだ。
 片瀬りょうの追っかけをしていたという、葉月の会社の先輩。
 真白は振り返り、テレビの前のテーブル席に座る女性の横顔をまじまじと見る。清楚で――どちらかと言えば美人の部類だ。いかにも真面目そうで、到底「片瀬りょうくんスペシャル」の編集責任者には見えない。
 その真白の隣で、葉月がカウンターに身を乗り出す。
「えーと、おかあちゃん、サシ定二人分、大急ぎ、私ら夕食食べてないの」
「ちょっと、もうサシ定終ったのよ」
「いいからいいから、残り物でも何でもいいから」
「あのう」
 水とお絞りを持ってその女の席に向かった真白に、色白の肌をした女性は、ためらいがちに声をかけた。
「テレビ……替えてもよろしいでしょうか」
「……はい?」 
 テレビは今、野球中継をやっている。11対0というどうでもいいスコアで、店内にちらほらいるお客さんは、もう誰も注目していない。
「あ、いいですよ、えーと、何チャンにしましょうか」
 真白は慌ててテレビの傍に行き、女の指定するチャンネルにテレビを合わせた。
 そして、切り替わった画面を見上げ、そのまま脚を止めていた。
 見覚えのある、そして決して記憶にはない笑顔が、画面いっぱいに映し出されている。
 低くて、どこか掠れた声が聞こえる。マイクを唇に寄せ、何かためらいがちに受け答えしている。ぼけたことを言ったのか、背後に立つ「STORM」のメンバーたちに頭を小突かれ、つっこまれて閉口している。
―――あ……。
 その困惑した表情に、初めて真白の知っている澪の面影を見たような気がした。
「最近、よく出るね、STORM」
 テーブルに戻った葉月が、対面の女性にそう言って声をかけている。
「コンサートツアーだからよ、新曲も出してるし、今が一番忙しい時期。可愛いわぁ、りょう、なんだかますますセクシーになったみたい」
 と、いきなり清楚だったはずの女が、本領を発揮しはじめた。
「デビューして背も伸びたし、骨格も変ったわよね。美少年からいきなり男になった感じ。これでもっと演技力ついたら、ポスト拓海も夢じゃないんだけどなぁ。ああ、でも今が旬よ、彼。こんなことなら、彼がこっちにいる時、なんとかして会ってもらえばよかった」
「ホント、綺麗になったねぇ、この子」
 と、隣席に陣取っていた家族連れの母親が呟く。近所の電気店の一家である。
「私、行ったのよ、ほら、誓桐高校のなんとか祭り。この子がさ、たこ焼きマンの着ぐるみ着てた時」
「すいません、それ、ビデオとか写真とかありますか」
「うちは撮ってないけどね、そこいらの学生さん、携帯で撮りまくってましたよ」
 女の――恐いくらい真剣な眼差しが、テレビから視線を逸らした真白に向けられる。
「えっ、私は……持ってないですよ、そんなの」
 真白は慌てて両手を振る。
「どうかなぁ、なぁんか、怪しいのよね、真白ってば」
 テーブルに肘をついたまま、にやにやと笑ってそう言ったのは葉月だった。
「もしかして、片瀬りょうと何かあったんじゃない?同じバスケ部だったし、なんか、彼のことになると、妙に怒りっぽくなってたし」
「は……はぁ?」
 葉月の、必要以上に大きな声で、店内の注目が、真白一人に集まっている。その全員の眼差しより、今はたった一人の女の目が恐かった。
「あの、そ、そんなこと、絶対にないです、ありませんから」
 ガラっと背後で扉が開いた。
「あっ、いらっしゃいませ」
 好都合と、ばかりに振り返る。
 テレビでは、丁度STORMが、ステージで新曲「My Life……」を、歌い始めたところだった。
 夜の定食屋には明らかに不似合いな、ラップ調のメロディーが流れる中、一時、店内の全員が静まり返っていた。
「……もしかして、そっくりさん?」
 と、呟いたのは葉月だった。
 扉を半開きにしたまま、意表をつかれたような目で立っていた男は、ああ、と眉を上げ、店内の隅にあるテレビを見上げた。
「あれ……録画だから」
 がたんっと激しい音がした。
 ようやく我に返った真白が振り返ると、葉月の同僚が椅子からひっくり返って床に転がっている。
 後は――もう、大騒ぎだった。


                 三十一


「サングラスとか、しないの」
 あまりに無防備に、テレビのままの素顔で現れた――ほぼ、二年ぶりに会う後輩に、真白はあきれながらそう言った。
 人気の途絶えた商店街。
 店は閉まり、行き交う人はまばらだった。
 本来ならこの時間、静まり返っているはずの大通りに、それでもちらほら浴衣姿の人が見えるのは、今日が港祭りの日だからだろう。
 その祭りもとうに終り、すでに上りの電車もない時間だ。
「サングラス?」
「ほら、有名人が、顔隠すやつ」
 そう言って眼鏡をかける振りをすると、隣に並んで歩く男は、なんで?とでも言うように目をすがめた。
「目立つじゃない、そのまんまの人が歩いてたら」
「夜道でそんなの、返って目立つだろ。普通に歩いてたら、わかんないもんだよ」
 なんでもないように返される。
 真白は内心、それは、人口の過密した都市だからこそ言えることで、こんな田舎町では絶対に通用しないわよ――。
 と、思ったが、それは口にはしなかった。
 真白は改めて、再会したばかりの片瀬澪を見上げた。
「……何?」
「変らないね」
「そう?」
 うん、とうなずきながら、本当は随分変ったな、と思っていた。
 目線が記憶よりも数センチ上にある。肩幅もしっかりして、線の細いのは相変わらずだが、腕にも、腰にも、以前にはない逞しさがある。
 ヘンリーネックの半袖シャツの下、きれいに伸びた手の、その指には見慣れたリングが光っていた。下は褪せたジーンズで、手荷物は何も持っていない。
 髪は――テレビのままの髪型で、少長めのウルフカット。流行の髪形だということは、大阪で暮らす真白にも判った。髪色だけは、相変わらず闇のように黒い。
「……あまり、驚かなかったね」
 歩きながら、今度は澪が口を開いた。
 どこか途切れがちになる会話。沈黙が続けば、どちらからとなくぎこちない話題を繋ぐ。二人の行き先はこの町でただひとつの駅で、それはもう目の前だった。
 真白は、少し笑って視線を下げた。足元には、街灯に照らされた二人の影が、幾重にも重なって伸びている。
「だって、……あんまり、普通に現れるから」
 本当は――心臓が停まりそうだったよ……。
 それは、心の中だけで呟いた。
 そして、深くなる感慨を誤魔化すように顔を上げ、明るく言った。
「もっと、劇的に登場してくれればよかったのに、真っ赤なスポーツカーに乗ってさ、ききーって店に横付けして、ぱっと薔薇の花束なんか出すの」
「そんなもん、期待してたんだ?」
 ようやくぎこちなさを解いたように、澪は笑う。
 少し皮肉な、けれど、微妙にはにかんだような。
 記憶の中の――よく知っている、真白の好きな笑い方だった。
「一応、女の子だし」
 真白も笑う。少しの間視線が絡み、男の目から笑みが消えた。そして、どこか暗い熱を帯びる。
 先に目を逸らし、真白は少し歩調を早くした。
「……七生実が知らせたんだ」
 そして、歩きながらそう言った。
「……昨日、メールくれた。……なんとか仕事、都合つけて、夕方、新幹線に飛び乗ってきた」
「…………」
「……明日、福岡だから……今夜には異動しないといけないけど」
 そのために、今、澪は駅に向かっている。荷物は別便で福岡のホテルに送ったらしい。下りの電車、その最終便の発車時間までは、あと、十分もない。
「そんなに、慌しく来なくてもよかったのに」
 うつむいたまで真白は笑ったが、澪が笑う気配はなかった。
「祭り……今日だろ」
「…………」
 澪はそこで言葉を途切れさせ、ためらうように息を吐く。
 真白も黙ったまま、とにかく足だけは止めずに歩き続けていた。
 そして、どうして七生実が、今日に拘って再会の日を指定したのか、―――ようやくそれを理解していた。
「ホントは、港祭りに一緒に行こうって思ってた……それは、スケジュール的に無理だったんだけど」
「…………」
「約束したろ、……俺が、来年も再来年も、浴衣着せるって」
「…………」
 強張った顔があげられない。正直、今、どんな顔をして澪を見ていいか判らない。
 澪が苦しげに息を吐く。彼がひどく緊張していて、多分、祈るような思いで再会した女の返事を待っているのが、痛いくらい伝わってくる。
「二年ぶりに会って、いきなり言われても困る、……かな」
 真白は言った。
 ようやく出た言葉が、それだった。
 自然に言ったつもりでも、妙にぎこちない声になっている。
「……気持ちだけ、ありがとう……でも、私はもう、そういう気はないから、マジで」
 喋りながら歩き続ける。顔も上げずに歩き続ける。澪の表情を見上げるのが恐かった。それだけの勇気はなかった。
 駅までのわずかな距離が、今は永遠のように長く感じられる。
「…………俺、遅かった?」
 澪がぽつり、と呟いた。
「遅いとか、早いとか、そんなんじゃないよ」
「…………」
「…………ごめん」
 かすかな、溜息のような吐息が頭上から聞こえる。
 男の失望が判っていても、真白は顔をあげられなかった。
「ここでいいよ」
 声と共に、澪が脚を止める。
 ようやく真白が顔を上げると、駅の構内に続く階段が目の前にあった。
 暗い闇に続く長い階段。その闇を見つめたまま、澪はしばらくみじろぎもしなかった。
 真白は――ただ、うつむいたままだった。そして、ひとり言のように、ごめん、澪と、呟いた。
「いいよ……つか、やっぱ、俺、今回も遅かったんだと思う」
 ふいに澪はそう言った。何かを振り切ったような、明るい、そして優しい声だった。
「……本当言うと、あの時も恐かっただけだから」
 真白は、無言で澪を見上げた。
 澪の顔は、わずかな苦笑を浮かべているように見えた。
 あの時。
 それが何時を指すのか。それは、説明してもらわなくても、真白には判る。
「……恐かったって……尚が?」
 ぎこちない声でそう聞くと、澪は、口元に笑みを刻んだまま、首を横に振った。
「……唐渡君と真白さん……、マジでエッチしてたらどうしようって……俺、それが怖かった」
「…………」
「……自分が、傷つくのが、怖かった」
「…………」
「今夜のことも恐かった。……顔見るなり、逃げられたり、無視されたらどうしようかって、昨日からそればっか考えてた」
「…………」
「俺は……臆病で、今まで、そういうことから逃げてばかりだったから」
 真白は無言で、澪の足元に視線を落とした。
 使い込まれたスニーカー。褪せたジーンズ。脚だけ見ていると、目の前に立つ男が、日本中の女の子を熱狂させているアイドルだとは思えない。
 ただの――二つ年下の、傷つきやすいナイーブな少年。
 澪の言った言葉は、そのまま、自分の行動の底にあるものを言い当てていたようだった。
 真白も恐かった。
 バスケ部を辞めた時もそうだった。これ以上部に在籍していると、自分がひどく惨めで、傷つきそうな気がした。だから――辞めた。
 澪と別れた時もそうだった。
 建前としての思いは、東京でもう一度チャンスを掴んで欲しかった。でも、それ以上に――。
 これ以上、澪を好きになるのが恐かった。
 いつか、絶対に、自分の元を去っていく人だから。―――だから。
「…………澪……」
 そして、今も。
 今も、自分は逃げようとしている。
 澪から。
 自分がやがて――確実に傷つくと判る、辛すぎる恋愛から。
「今……歌ってる曲だけど、……知らないよな、CDに入ってるボーナストラックの三曲目、作詞、メンバーの将君がやってんだけど」
「…………」
 顔をあげ、それでも澪の目を直視できないまま、再び下げ、真白は曖昧に微笑した。
「俺……真白さんとのこと、将君に話して……、将君、俺の気持ちをイメージして、詩作ったって言ってくれた……一番仲いい奴で、このリング、Kids時代にくれたのも将君なんだけど」
「…………」
「あんま、興味ないと思うけど……今度、機会あったら、聞いてみて」
「…………」
「……じゃ」
 ためらった足が、階段の方に向けて歩き出す。
 真白は、唇を震わせて顔を上げた。
「知ってるよ」
「…………」
 澪の背中が、階段の手前で止まる。驚いたように振り返る。
「歌おっか、下手だけど、……歌詞くらい全部記憶してるから」
「…………」
「いい曲だよね。君がいなくても大丈夫、大丈夫、僕は平気って、何回も繰り返して、……聞きながら何回も泣けた。だって、会いたいって感情がびしびし伝わってくるような詩だったから」
「…………」
「最初の曲から、アルバムの曲まで、全部聴いた、全部、知ってる」
「真白さん……」
 澪の声が、足が、もう、触れるほど近くにある。
「だって」
 その影が、視界がみるみる滲んでいく。
「澪の声……なんだもん」
「…………」
「澪の声が……するんだもん、聞きたいじゃない、毎日だって、聞きたいじゃない」
 両手で唇を抑える、たまりかねたものが、ぽたぽたと頬を伝った。
「真白さん……」
 肩を抱かれ、そのまま真白は逆らわずに体重を預けた。
 優しく、けれど力強く抱き締められる。
 苦しいほど懐かしい体温と、忘れたことのなかった澪の香り。
「……私の、ことなんか」
 髪を撫でてくれる暖かな手。先のことはどうでもいい。今はもう、二度とこの手を離したくない。
「真白さん……」
「……もう、忘れたんだと思ってた……。もう、嫌われたんだと思ってた……」
「無理だよ」
 強く抱かれる。抱き締められる。
 髪に顔を埋めたまま、掠れた澪の声がした。
「……初めてのくせに、そうじゃない振りして、……そんな莫迦な女、どうやったら、忘れられんだよ」
―――澪……。
「俺のこと好き好きって、目から手から、びしびし伝わってくんのに……泣きそうな顔で嘘ばっか言う女を」
「………澪……」
「教えろよ、どうやったら、嫌いになれんだよ」
―――澪……。
 抱かれている腕が緩み、少しだけ顔を離した澪と、唇を重ねる。
 身長差が開いた分、上から被さってくるように求められる。
 溶けるほど甘く、痛いほど苦しいキスを交わし、真白は澪の背に両手を回した。
「……澪……」
「もう、……俺から離れないで」
「…………」
「俺から、逃げないで」
「…………」
 恐いけど。
 この恋が、決して楽しいだけじゃないと、それが判るから、恐いけど――。
 頷いて、そして笑みを浮かべて、額をあわせる。ようやく澪の目に安堵したような優しさが滲む。
「……住所、教えて」
「……ん……」
「……俺の荷物送るから、……大坂、ちょくちょく行くから、その時は泊まらせて」
「……いいけど、大丈夫?アイドルなのに」
 涙を誤魔化して顔を上げると、唇に軽くキスされた。
 いたずらっぽい目に見下ろされる。
「たまってるからさ、覚悟しろよ」
「エッチ」
「二年間、待ってたからさ」
 言いさして、澪の笑顔がわずかに翳る。時間を気にしているのだろう、と思う。
 真白は自分から身体を離し、最後に澪の手を強く握った。
「……伝わる?」
 真白がそう聞くと、澪は笑った。
 透き通るように綺麗で、そして年相応の無邪気で可愛い笑い方だった。
「びしびしきてる」
―――大好きだよ……澪……。
「俺も、大好き」
 本当に伝わるんだな、と思いながら、最後にもう一度、甘いキスを交わしていた。









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