6



「ナルちゃん」
 たどたどしい声がして、甘い匂いが胸元に飛び込んでくる。
「よ、元気にしてた?」
 成瀬雅之は微笑して、その頭をぽんぽんと叩き、持ってきたお土産の袋を手渡した。
「今日はなぁに?」
「んー、開けてごらん」
 この年の女の子と話すようになって初めて知った。
 そっか、今、女の子ってこんなもんにはまってんだ、と。
「わーっ、セイラー戦士だっ」
「読んであげよっか」
「うん、うんっ」
 雅之は椅子を引きずってきて、そこに腰掛けて本を開く。
 実写の女の子向け特撮「セイラー戦士月子」の子供むけ絵本。
 開いてみると、あり得ない衣装を着た月子役の女の子が、絵本の中で笑っている。
―――あ、この子……前、ドラマにちょい役で出てたな。
 と、思ったが、それは口には出さなかった。
 カタカナばかりで読みにくい本だった。なのに読んでやると、多分意味も判らないだろうに、雅之の膝に体を預けた少女はきらきらと目を輝かせている。
「あたし、大きくなったらセイラー戦士になりたいな」
……いや、無理だろ。
 と、思ったが、そこは大人らしくにっこりと笑ってみた。
「そうだね、でもさー、悪の女王と戦わないといけないから、大変だよー」
「………なにゆってんの」
 が、少女は冷めた目で雅之を見上げた。
「これ、ドラマだよ、ナルちゃん」
 ナルちゃん。
 少女は、出会った最初から雅之のことをそう呼んでいる。
「…………そ、そうだけど」
「あたし、大きくなったら女優さんになるのー、でね、セイラー戦士の月子になるの」
 そ、そっか、そういう意味かよ。
「じゃあ、お兄ちゃんが」
 タキシードマンになるかな。
 そう言いかけた雅之は言葉を途切れさせた。
 それはもう――終わったはずの夢だった。
「……でもね、これはママに言っちゃダメ、こっちのが麻友の夢なんだ、とっておきの夢」
 少女――もう知り合って半年になる麻友がそう言って、そっと雅之の耳に顔を近づけてくる。
 くすぐってー、と、思ったものの、その吐息さえ愛しかった。
「ナルちゃんの夢はなぁに?」
 頬を赤くしながら自分の夢を打ち明けてくれた少女は、真剣な目で雅之を見上げた。
「俺?んー、なんだろ、麻友ちゃんが元気になることかなー」
「そんなのつまんない、ズル!」
「ズ、ズルかよ、なんで」
「だって、適当に言ってるもん」
 雅之は笑って、小さな頭を抱きよせた。
「いい加減じゃないよ、お兄ちゃん、ずっと麻友の面倒みるって決めたんだ」
「なにーそれ」
「言ったろ、お兄ちゃん、麻友のパパになってあげるって」
「えー、無理」
 と、即座に言われる。
 は、はは……、と、内心ずっこけたい気分だった。
「じゃ、最初はオトモダチから」
「ナルちゃん、ママと結婚すんの?」
 四歳にして、すでにごまかしが通じないとは……。
 雅之はどう言っていいか判らず、困ったまま麻友のつぶらな目を見下ろした。
「そんなの無理だよ、だってナルちゃん、好きな人がいるってゆってたじゃん」
「…………」
「あの写真の女の子、どうなったの」
「……あ、あのさー」
 どう取り繕おうかと思った時だった。
「あら、雅君、来てたんだ」
 凛と、筋の通った、が、柔らかい声がした。
「ママぁ」
 と、雅之の膝を滑り降りた麻友が、ぱたぱたと駆けて行く。
「麻友ちゃぁん、いい子にしてた?」
「うん!」
 雅之は顔をあげて、その人を見上げた。
 最初は、ただの仕事上の知り合いにすぎなかった。
 雅之が出演しているバラエティの構成作家。へぇーこんな綺麗なお姉さんが、構成作家なんてやってんだ、その程度にしか思っていなかった。
 たまたま訪れたここで――偶然、その人の娘を見たりしなければ。
 そして、何もかも上手くいかない環境から逃げたくて、自棄のように、関係を持ったりしなければ………。


                 7


「ほ……本当に、すいません」
 車の助手席に体を入れながら、凪はまだ信じられないでいた。
 運転席でステアリングに手をかけているのが、美波涼二――。
 かつて、日本中を席巻したアイドルで、今でもJ&M事務所の重鎮であるその人本人だなんて。
「いや、いいよ、気にしなくて」
 あっさりと言う、その素っ気無さも、冷たい物言いも変わらない。
 初めて会ったのが三年前。
 J&Mのオーディションの席だった。
「アイドル舐めてここに来た奴は、今すぐ帰れ」
 全国から集まったアイドル希望者全員が、その叱責にまず震え上がった。
 最初は怖い人だと思ったが、すぐにそういう喋り方しかできない人なんだ――と、気がついた。本当は、とても繊細で優しい人、その印象だけが強く残っている。
「芸能界に入る気があるの?」
 エンジンをかけながらその美波が問う。
 凛とした横顔が綺麗だった。指先の爪の形さえ美しい。シックなブラックスーツが、ちょっと見惚れるほど決まっていた。まぁ――それはそうだ。この人は芸能人で、体と顔が資本のようなものなのだから。
「全然」
 と、凪は即答して赤らみ、言い直した。
「い、いえ、ありません、全く」
「綺麗だったけどね」
 美波が小さく呟いて、そのまま車が発進する。
―――え……
 凪は、ちょっとときめいている自分にびっくりした。
「………」
 それ。
 もしかして、さっきの撮影の時のことだろうか。
 ちょっとまて、自分。
 ここは勘違いするとこじゃない、この人は、私より何歳も年上で、私なんててんで子供なんだから。
「だったら、うかつにサインなんてしないことだよ。出演の約束もダメ。一度東邦のタレントとして売り出されて……で、本当に売れ出したら後には引けない」
「そんなことありえないですよ」
「いや、」
 凪がさえぎると、美波は顔色ひとつ変えず、首を振った。
「単に顔の美醜で売れる売れないが決まるわけじゃない、誰にだってチャンスはあるし、誰にだってないと言える」
「………」
 どういう意味だろう。
「運で決まる世界だからさ、運、そしてタイミング」
 見上げた横顔は、わずかも笑ってはいなかった。
「そんな……なんだか、賭けみたい、ですね」
 凪は眉をひそめ、多分、何も考えずにアイドルの世界に飛び込んでいった男のことを思い出していた。
「賭けだね、それ以外に言いようがない」
 美波はあっさりとそう答える。
 そんな、儚くて危ういものに。
 あの――能天気男が。
 そして今は、兄の風汰が飛び込もうとしている。
「日本には、今、四千人近くの自称を含めた芸能人がいる、で、その中で、芸能だけで食っていける奴が、一体何人いると思う」
「………いえ」
「たったの三百人たらず、それが厳しい現実だ」
「…………」
「あとの連中は、仕事、バイト、局の雑用、付き人、ライター、そんなものと兼用しながら、せっせと細かい仕事とって頑張ってる。みんな必死だし、売れるためならディレクターの靴でも舐める。友達も先輩も平気で裏切って叩き落す」
「………」
 凪は、メイクルームで夏目純に言われた言葉を思い出していた。
「そういう世界だよ、だから、まっとうな神経でいたかったら、入らないことだ」
「……本当に、ありがとうございました」
 凪は、何度も言った言葉を繰り返した。
 あの時、サンテレビのスタジオで。
 いきなり入ってきたのが、この美波涼二だった。
 まさか、と思った。信じられなかった。
 それは、凪を囲んでいた神崎も一文字も同じ気持ちのようだった。
「美、美、美、美波さん、な、な、なんだってこんなところに」
 と、神崎が目を白黒させていたのが今思い出しても爽快である。
「仕事で」
 と、美波はあっさり言い、そして冷ややかな目で凪を見下ろした。
「どうした、こんなところで」
 その瞬間、泣いてしまいそうだった。
 実際凪は、飛び出すようにその傍に駆け寄った。
「この子の兄が、昔うちの事務所にいましてね」
 凪の肩を抱いて引き寄せつつ、美波は、ゆっくりとした口調で言った。
 神崎は、何故か呆けたような顔で、はぁ、とだけ言った。
「この子にも、当時色々事務所の雑用を手伝ってもらっていたもので、で、この子に何か御用ですか」
 有無を言わせない言い方だった。
 というか、もう、持っている人間のオーラが全然違った。
「お兄さんのことは、心配しなくていい」
 ステアリングを切りながら、美波はその時と同じ口調で言った。
「俺の方で、神崎に連絡とって、今日中には連れ戻してやるよ。あの男のことはよく知ってるから、話も早い」
「す……すいません」
 本当に何もかも、頼りっぱなしになってしまった。こんなことで――本当にいいのだろうか。
 というより。
「……何?」
「あ、いえ」
 この人はどうして、あのタイミングで、あのスタジオに現れてくれたんだろう。
 今も、こんなに急いでどこかに向かっているようなのに、何故。
「が、悪いが、今からラジオの仕事が入っててね。体が空くのは夜になるんだが……」
 と、初めて美波は眉をひそめ、腕時計に視線を落とした。
「君をどこへ送っていこう。それともいったん、家に帰るか」
「いえ、私なら、適当に時間つぶして、待ってますから」
「…………」
 少し考えた風になって、美波は再び腕時計を見た。
「仕事用に借りたマンションがある、よかったら、時間までそこにいなさい」
「え、」
 凪は言われた意味がすぐにわからず、隣席の人を見上げた。
「一人にならない方がいいかもしれない。八時には向かえにいく。それから一緒に、お兄さんの所に言ってみよう」
「は……はい」
 い、……いいんだろうか。マジで。
 思わず、首にかけたお守りを握り締める。
 本当に今日は、戸惑うことばかりだった。


                  8


「麻友と何話してたの」
 二人きりになると、女は母親の仮面を捨てて、雅之に腕を回してきた。
「何って……別に」
 呟いた唇がふさがれる。
「あの子に余計なこと言わないで」
「よ……余計なことって」
 甘い。
 甘くて、そして奔放な口付け。
 理性ごと飲み込まれそうになり、雅之は困惑して、その柔らかな身体をおしもどそうとした。
「恭子さん、……ここは、まずいよ」
「何が?」
 が、やんわりと絡んだ腕は、いつもそうなのだが絶対に離れない。
 重みに負けて、雅之は仰向けにベッドに倒れた。その上に、すぐに女が被さってくる。
「あの子、雅君のことが好きなのよ」
「まさか」
「女同士は敏感なの、子供だってそう」
「…………」
「私のことを見る目が、もう女になってるものね」
 ふっと笑う女の目には、残酷な光が滲んでいた。
「ま……」
 さえぎる間もなく、冷えた手が雅之のシャツの下に入り込んでくる。
―――女って、わ、わけわかんねー
 時々、この人の娘に対する態度が、愛なのか憎しみなのか、理解に迷うことがある。
 が、ひとつ言えるのは、愛していなければ、できないような真似まで、平然としていることだ。
「……雅君、」
 じっと見下ろしているまなじりの切れ上がった細い瞳に、ゆらり、と蒼い炎がゆらめいた気がした。
 ぞくぞくっと官能の芯が刺激される。
 自然に、その細い腰に腕を回し、引き寄せていた。抱き合ったまま、狭いベッドの上で体勢が変わる。
「浮気はダメよ」
「し、してないよ」
「私以外の女のこと、考えちゃダメ」
「…………」
 さっきの話を聞いていたのかな、と、雅之は思った。
 この人が入ってくる直前、麻友と話していた会話を。
 いつにない激しさと性急さで、女がシャツを脱がそうとする。
 少し身体を起こし、雅之はそれを、自身で脱ぎ捨て、再び女の身体を抱きしめた。
「け、結婚……しようっていったじゃん」
「それ、本気?」
 耳元で聞こえる声は、笑っていた。
「本気……じゃなきゃ、言えない」
 頬を抱かれ、顔を離される。額だけをおしつけあって、何度も激しいキスを交わした。
「無理でしょ、アイドル君が結婚なんて」 
 唇を離し、女は笑った。からかうような笑い方だった。雅之は首を振り、そこだけ、相手の目を見ないままで言った。
「事務所は辞める……もう、それ、上に言ったから」
「…………」
 女の目が、出会って初めて、驚きに見開かれた。
「マジで?」
「マジで」
「……本当に?」
「うん」
「…………」
 その刹那の沈黙が、喜びなのか失望なのか、判らない。
 いや、判るのが怖くて、雅之は乱暴に女を求めた。
「どう……するの、これから」
 耳元で響く呼吸が、少し乱れ始めている。
「仕事探す。まず免許取ってからだけど」
「……芸能界、辞めるの」
「……まぁ、そうなるとは思うけど」
「すごい騒ぎになるわね」
「…………」
 それだけは少し考えてから「そうでもないよ」とだけ言った。
 実際、過去、事務所を辞めたアイドルは、刹那に騒がれて、刹那に忘れられていった。代わりならいくらでもいる。まぁ、その程度の扱いにしかならないだろう。
「未練ないの」
「ない、向いてないってのがよく判ったから」
「………それで、最近、携帯に出ないんだ」
「関係ないよ」
 互いに、半ば服をまとったままの忙しない結合。女のいつにない昂ぶりに、雅之も我を忘れてのめりこんでいく。
「じゃ、生計のめども立たない内にプロポーズ?」
 少し、笑いを含んだ声だった。
「立つまで待ってて、俺、頑張るし」
「いいけど、何年も待つのはごめんよ」
 微笑して、満足気な背中を見せ、女はすっと立ち上がった。
「シャワー使う?」
「後でいいよ」
 そう、と短く答え、女の背中が浴室に消える。
「…………」
 携帯。
 鞄の中に入れっぱなしのそれは、ずっとマナーモードにしてある。
 仕事の時間だけは、忘れないように動いているつもりだった。マネージャーにはこちらから連絡している。今はもう、それが精一杯だった。
 中には、事務所からの連絡もあるだろうから、今頃上の連中は、相当怒っているはずだ。
―――もう、戻れねーよな
 天井を見上げながら、雅之はぼんやりとそう思った。
 そのために、したことだし、していることだ。
 契約の終了を待たず、クビを宣告されるのは時間の問題だろう。
 違約金なんて払えないから、会社側から切られるのを、待つしかない。
 六時。
 時計をふと見上げた雅之は、少しためらってから起き上がり、ベッドサイドに設置してあるCDデッキのスイッチをオンにした。
 ラジオに切り替え、チューナーを合わせる。
―――今日……誰だっけ。
 この時間になると、いつも無意識にラジオをつけてしまう。
『STORM BEAT』
 初めての看板がラジオかよ、って、でも憂也と二人で、ジュースで乾杯したっけ、初めての収録の後。
 デビューしたての頃。
 大変だったけど、楽しいことばかりだった。お前は何も考えてないからいいよな、とは、将に何度も言われたセリフだが、本当に何も考えてなかった。
 いつから、俺だけ取り残されてったんだっけ……
 まだラジオは、その前の番組を流している。
 雅之は両腕を頭の後ろに回し、再びベッドに仰向けに倒れた。
 りょうと憂也が、すぐに売れ出した。その頃から、事務所は、5人全員で取る仕事から、個別の仕事にシフトさせていった。
 その頃から、なんとなく、5人でいることに、妙な気まずさを感じるようになってしまったのかもしれない。それまでべったりだった将とりょうが、少し距離を開け始めたのも同じ頃だ。
 雅之も同じくして、憂也と距離を置くようになってしまった。
―――俺……憂也に嫉妬してたのかな
 今思えば、そんな感情に取り付かれていたのかもしれない。
 昨日まで、共に愚痴っていた友人は、今は、巨大スクリーンの中にいて「次代の日本映画を担う若手」とまで褒めちぎられるようになっていた。
 いや、もともと才能のある奴だから、差がつくのは当然だとも思った、だから、俺も俺で頑張ろうと。――もう、憂也を頼らずに頑張ろうと思ったんだ。
 そして二年目で得たバラエティのレギュラー。
 ストームでは初めてのことで、あの時は雅之も嬉しかったし、憂也にも即座に電話して、あれこれ語り合ったのをよく覚えている。
 が、
「つかえねーのが来たよなぁ」
「会話の空気が読めてねーの、最近のアイドルは、そこそこトークができるっていうから期待したけど、今回は大ハズレだね」
「ま、テレビ局はあそこの事務所には頭あがんねーから、しょーがないっしょ」
 スタッフの会話。
 それはすぐに、自分のことを言われているのだと理解した。
 彼らの言いたいことは、それまでの撮りで、雅之にも身を持って判っていた。
 喋れない……。
 最初に思ったのがそれだった。
 周囲は、売れっ子お笑いタレントばかりである。司会者もベテラン芸人。
 彼らのテンポのよい会話のどこに、どう口を挟んでいいか、まるでわからない。
 擦り切れるまで読んで覚えた段取りも台本も、あっさりと無視される。
 雅之が言うはずのセリフも、あっという間に他のタレントのセリフでカバーされたり、言い換えられたり、奪われたりする。
 当初持っていたコーナーも、いつの間にか若手芸人に奪われていた。
 正直、どうしていいか判らないし、どう振舞っていいかも判らなかった。
 それでも、毎週一回、撮影に行き、ただ座って、作り笑いだけを浮かべる。
 ディレクターが、すでに雅之を構想から無視しているのは明らかだったし、他の芸人も、カメラが回っている時は「雅君」と笑顔を向けても、撮影が終われば、あっさりと雅之の存在を無視した。
 強烈な自己嫌悪と失望感だけが募っていった一年。
 辞めたくて、気が狂いそうだった。が、それを誰かに打ち明けることさえできなかった。
「雅君、毎週ビデオ撮ってるからね」
 母からの電話で、初めて泣いた。
 家に帰りてーと思った。もう、元の生活に戻りたいと思った。
 麻友に会って――そして、梁瀬恭子と関係を持ってしまったのは、そんな最中のことだ。
 ふいにラジオから、ストームのデビュー曲、そのサビ部分をアレンジしたテーマ曲が流れ出す。
 雅之は、ぼんやりとした気持ちのまま、そのメロディを聞いていた。
『いぇーいっ、ストームの綺堂憂也です、今日も十五分だけど、最後までつきあってくれよなー』
 ファンキーで、どこかふざけた憂也の声がする。
 このテンションを即座に作れるのが、憂也のすごいとこだよなぁ、と、いつも思う。どんなに不機嫌でも寝ぼけていても、憂也のテンションは、いつも同レベルで固定されているから……。
 が、だから憂也の本音は、ブラウン管では決して出てこない。
 今も憂也は――何を考えているんだろう。
『最近、俺、東條君のセイバーにはまってんだよね。特別に出させてもらえねーかなぁって、今、事務所に頼んでるとこなんだけどさ。群集でもいいの、ちらっとでもいい、できたら空指差して「あっ、ミラクルマンセイバーだっ」て、叫ぶ役やりてーんだけど』
 セイバーの話題は避けるようにといわれているのに、さらりと出す。
 それが、憂也の、仲間を応援する気持ちの現われだというのは、よく判っている。
『だって俺、セリフ覚えんのダメだもん。これマジな話ね、いつも相当苦労するよ。ストームでそれが超得意なのは、りょうだよね、将君もすごいんだろうけど、りょうはすぐに覚えてるもん。で、俺以下でダメなのが、雅なんだけどさ』
 いきなり自分の名前が出て、雅之は思わず眉を上げていた。
『あいつさー、どうしてると思う?いっつも定期入れみたいなケースん中に、カンペ入れて持ち歩いてんの、すんげー怖い顔して見てっからさ、ナニナニ、何見てんのってのぞいてみて笑ったよ』
 息苦しさを感じて、雅之は起き上がっていた。
 今、憂也は、どんな顔で、どんな感情で、こんなことを喋っているのだろう。
『今日はいい天気ですねー、西高東低って天気番組でやってましたけど、どういう意味なんですかって、それだけ、つーか、それだけなら、カンペいれて持ち歩くなっつー話じゃん、そう突っ込んだらさ、どうしても、西高東低が、別の意味に聞こえて笑うから、笑わないように練習してんだって、どんだけバカだって話だろ、え?どういう意味に聞こえるか?うーん、アイドルの立場上、言えねぇなぁ、トに点つけて読んでみて、俺が言えるのはそれだけ。じゃ、綺堂憂也でした』
「………………」
 一番苦しかった時。
 雅之は、片手で目元を覆っていた。
 一番辛くて、辞めることばかり考えていた時。
 どうしてこいつに、一言相談することができなかったんだろう。
 どうして仲間に、一言助けを求めることができなかったんだろう………。
 が、それは、今となっては取り戻せない人生の一コマに過ぎなかった。
 今、自分にできるのは、大切な人たちを守ることしかない。
「雅君、シャワー浴びて?」
 女の優しい声が聞こえる。
 雅之は答えられないまま、ただ、目を覆い続けていた。






    

 >>next >>back