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 「ちょ……待ってください」
 服を脱がされそうになって、ようやく凪は抗議の声をあげた。
 話が違う。
 っていうか、それ以前の問題だ。
「ごめんなさい、時間ないんです」
 疲れきった顔をした女性が、申し訳なさそうに囁いてくれた。が、そう言いつつ、その女の手はすでに凪の上着を奪い去っている。
「あ、あの……」
「東邦の新人なんでしょ、こんなチャンス滅多にないわよ」
 きつい口調でそう言ってくれたのは、メイク道具を広げている中年女性だった。
「違うんです、私」
「いまさら逃げはなしにして、こっちもスケジュールつまってイライラしてんだから」
 有無を言わせない口調だった。
 手早く、シャツを頭から被される。よく判らないけど、着る気にもなれないピンク色の……なんだか胸元のすーすーする大人ちっくな服。
「メイク、お願いします」
「了解、ヘアもちょっといじんなきゃね、向こうから一式持ってきて」
「はい」
 冗談じゃない。
 が、ここまで来て、どう逃げていいのか判らない。
 プロデューサーという人に、有無を言わさず、ろくに説明してももらえずにメイクルームにつれて行かれて、ようやくのっぴきならない事態になっていることに気がついた。
 神崎も一文字も、姿さえ見せてくれない。
 むろん、風の姿なんてどこにもない。
―――やられた……
 と、思っている場合だろうか。
 やはり、誰かに相談くらいするべきだった。子供一人で、芸能プロを尋ねていくなんて、無謀にもほどがあった。
 が、考えようによっては信じられないほど安直なシンデレラストーリー。
 凪自身が芸能界入りを臨んでいたとしたら、超ラッキーな展開、というやつなのだろう。
「ちょっと動かないで」
 判らない。
「睫長いから、マスカラはやめとこっか」
 どうしても腑に落ちない。
 自分にしても風汰にしても、特別他人をひきつけるようなルックスをしていない。なのに何故、神崎は、いつまでもしつこく電話してくるのだろう。
 こんな――だまし討ちみたいな手まで使って。
「あらぁ、さっそくお仕事」
 背後から、どこか嫌味な声がした。
 振り向かなくとも鏡越しに写っている顔だけでわかる。
 夏目純である。
「おかげさまでー」
 むかついた凪は、咄嗟にさらっと答えていた。
 この程度のことでびびったりするもんか。私はあのステージに立ったんだ。何万人もの観衆の期待と、脳天に響くほどの黄色い声に囲まれて――あの時の緊張と興奮に比べたら、こんなもの屁でもない。
「はい、これ読んで頭に一応入れといて、カンペはあるけど、見ないほうが逆に上手くいえるから」
 さっと横から、紙切れが手渡される。
 塩風呂の効能――それを説明するだけの簡単な出番。
 が、テレビに映る。ただそのためだけに、どれだけ沢山の新人タレントが血の滲むような努力をしているか――そう思えば、たった二分の出番でも、宝石よりも貴重なものだ。
 わずかな間に芸能界に籍を置いていた凪にも、それは十分理解できる。
 無言で紙切れに並ぶ文字を睨んでいると、背後からふいに両耳を掴まれた。
「いっ……」
 凪は痛さに驚き、そして次にされたことに驚いて顔を上げた。
「大丈夫?がちがちになってるわよ、あなた」
 からかうような声で、夏目純が見下ろしている。ぱっと凪の耳から手を離して、ふっくらした美貌のグラドルは、にこっと笑った。
「緊張してるかどうかは耳でわかるのよ、強がってもだーめ、自信ないなら、ないって今のウチに泣きいれちゃえばいいのに」
「………」
 凪は無言で、耳に落ちた髪を払った。
「相当事務所が力入れてんのねぇ、なんでか知らないけど。でも、教えてあげるけど、それは最初の何ヶ月かだけだから」
 出番が終わったのか、鏡に映るグラドルは素顔だった。
 それでも抜けるように澄んだ肌は、信じられないほど綺麗だった。ミニスカートから伸びた足が、同姓から見てもまぶしいほどだ。
「ま、そこで上手く売れたら別だけどね」
 そう言って女はくすっと笑った。
「あとはね、先輩蹴落とすくらいのノリで、がんがんにやってくしかないの。媚売って、笑って、おだてて盛り上げて、で、笑顔でばっさり裏切るの。それくらいできなきゃ、あなた程度の子なら、この世界に掃いて捨てるほどいるんだから」
「ありがとうございます」
 凪はそう言って顔を上げた。
 ちくしょうと思っていた。
 こんなところで、二年前掴んだと思ったものを、なくしてたまるかと思っていた。


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「カット、オッケー」
 四回目のテイク。
 実際その声を聞いたとき、凪は涙が滲みそうになっていた。
 どう考えても、最悪の出来。
 声は上ずったし、視線はどうしてもカメラの方を追ってしまう。
 むしろ、四回でオッケーが出たのが、不思議なくらいだ。
「いいよ、凪ちゃん、すごくよかった」
 ぱんぱんと手を叩きながら、先ほどまで、どこを探しても出てこなかった神崎が恵比須顔でやってくる。
 凪はそれを冷やかに無視して、一礼してから、カメラの前に背を向けた。
「いやー、初めてだとは思えなかったよ、それにカメラ写りが最高、声も可愛いし、よく通るし」
 着替えたい。
 凪はきょろきょろと周囲を見回した。で、どこから出ればいいんだろう。
「お疲れ様、なかなかいいじゃない」
 と、最初、ディレクターのなんたら…と名乗ったおじさんが歩み寄ってくる。
 今日の撮影はそこで終わりなのか、周囲は片付けの体勢に入っているようだった。スタッフジャンバーを着た人たちが、機材を運び出そうとしている。
「次から、いけますか」
 神崎がディレクターにそう聞いている。
「いいよ、スポンサーさんも来てたけど、オッケーってことで、来週からこの子にお願いすることになった」
「いやー、よかったよかった」
「ま、うちも東邦さんにはお世話になってるから」
―――………なんの話?
 凪はさすがに不安を感じて足を止めた。
「すごいね、凪ちゃん、いきなりテレビの準レギュラーなんて、滅多にないことだよ」
 背後から、一文字が感心したような声でそう言った。
 冗談じゃない!
「ちょっと待ってください、私、そんなつもりじゃ」
 抗議の声は、「まぁまぁ」と、背後から肩を抱かれてなだめられた。
 というか凪は、いきなり両肩に男の人の手が掛かったことに、普通に身震いを感じていた。
「じゃあどうして最初に嫌って言わなかったの。こっちは、構成作家のヤナセさんにまで紹介して、向こうもそのつもりで見ててくれたのに」
 一文字の声は優しかったが、どこか有無を言わせないものがあった。
「…………」
 だって。
 凪は唖然として、抗議の言葉さえ忘れていた。
「いまさら断ったら、すごく沢山の人に迷惑かかるよ、それでもいいの」
 いいのって。
 って、それ、そもそも私の責任?
「無理です……私、大学受験が」
「だから」
 小声で言った抗議も、あっさりと神崎にさえぎられた。
 すでにディレクターという人は「じゃ、後はよろしく」とあっさりと背を向けている。
「実質撮影は二週に一回、上手くいけば一時間程度で終わることだから」
「…………」
「大学いきながら、芸能活動してる子いっぱいいるよ?ストームの柏葉君だって早稲田の英文でしょ。大丈夫大丈夫、バイトだと思って気楽にやってれば」
―――バイト………
 バイトは、いずれしないといけないとは思っていた。
 仮に合格すれば、医学部はお金がかかる。しなくても、浪人するならするでお金がかかる。
「お給料は歩合になるから、そんなにはあげられないけど、コンビニのバイトなんかよりずっといいよ。あ、そうだ、今日、振込み用紙にサインしてもらえないかな」
「………」
「ほら、今日のお給料、どっかに振り込まなきゃいけないでしょ」
 凪は迷いながら周辺を見回した。
 誰も、凪に注目している人はいない。忙しなくスタジオの片付けが進められている。
「風汰君のこともさ」
 凪の肩を抱くようにして、神崎は耳に口を近づけてきた。
 強い嫌悪を感じたものの、凪は黙ってうつむいたままでいた。
 実際、今、どうやってこの場を切り抜けていいのか判らない。着ていた服も、お財布の入ったバックさえも、どこにあるか判らない。母の――お守りも。
「本当は、芸能界向きじゃないって思ってんでしょ、それ、僕らも同感。つーか、僕らが本当に欲しいのは君だから」
「…………」
「たった二週に一回の仕事だよ。それ受けてくれたらさ、風汰君のことは、責任もって僕が諦めさせる、説得する。それは真面目に約束するから」
「…………」
 凪は迷いながら顔を上げた。
 こんなに狡猾な誘い文句が、まさか自分を待っているとは思ってもみなかった。
 風汰なら――あの考えなしの単純男なら、ころっと騙されてしまうだろう。いや、これを騙されるといっていいかどうかは判らないが。
 だったら――
 これで、風汰が、神崎の誘惑から開放されるのなら。
「本当に、二週に一回だけですか」
 凪は小さな声で聞いた。
「それは本当、約束する」
 神崎は大きく頷く。
「じゃあ……」
 凪が、頷こうとした時だった。
「ああ、これは神崎さんじゃないですか」
 突然、
 かつて聞いて――忘れられなかった男の人の声がした。





    

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