9


―――遅いな……美波さん、
 ずっと座りっぱなしだったので、いい加減腰が痛い。
 立ち上がった凪は、所在無く、広々とした室内を見回した。
 どこもかしこも、綺麗に片付けられていた。3LDKのシンプルな室内。
 芸能人の部屋というより、真面目なビジネスマンの根城という感じだった。リビングには、書棚とファックスが置かれていて、あまり、生活の匂いがしない。
 ただ、応接机の上には、吸い掛けのタバコが灰皿に置かれたままになっていた。ソファにはガウンのようなものが掛けられている。
 今朝、ここで慌しく支度をして、仕事に出たのかもしれない。
 片付けようかな、とは思ったものの、余計なことをしてかえって迷惑になるかもしれない、と思い直した。
 正直、初めて入った男の人の部屋。あまりうろうろしたくないし、多分されたくもないだろう。
 テレビだけをつけて、極力、このリビングから動かないつもりだった。
 が、八時を大きく回っても、まだ、美波からの連絡はない。
 母には、一応「大丈夫」と伝えたものの、風汰のことが気がかりだった。まさか大手芸能プロが、あんな姑息な手段を使うとは、夢にも思っていなかった。こうなったら、なにがなんでも、風のことはつれて帰らなければならない。
 その時、いきなりベルが鳴った。
「わっっ」
 と、思わず驚くほどの大音量。
 電話ではない、目覚まし時計だ。
「え、ど……どこ?」
 この部屋の中からではない、が、ものすごい音は、そのまま放っておくには忍びないほどだった。しかも、切れない。
「…………」
 少し迷って、凪は立ち上がり、音のする方に足をすすめた。
 短い廊下のつきあたり、扉が閉まっている部屋からそれは聞こえてくる。
「ご、ごめんなさい、失礼します」
 小さな声でそう言って、凪は部屋の扉を開けた。
―――………
 寝室……なんだろう、多分。
 カーテンが締め切ってあるから、真っ暗だ。ほのかに、大きなベッドの輪郭が見える。その中で、青白い光を放つものがあった。それが時計で、今、耳をつんざくほどの大音量を立てているのもそれだ。
「で、電気」
 手で何度か壁をさぐると、ようやく電気のスイッチに手が届いた。
 カチリ、とつける。
 が、豆球しか灯らないのか、部屋は薄く翳っている。
 正直、どうしていいのかさえ判らず、凪はおそるおそる、室内に足を踏み入れた。
―――と、とにかく……この煩いの、なんとかしなきゃ
 急いで、サイドテーブルの上の時計を掴み、なんとかその音を止めることができた。
 それでようやくほっとした時、
 カシャン、と音がして、足元に何かが落ちてきた。
「…………」
 なに?
 写真スタンド……だ。
 薄いガラス製で、高級そうな手触りがした。この繊細さで、壊れなかったのは幸いとしか言いようがない。
 拾い上げた刹那、その中に写っている人が、視界に飛び込んできた。
 女の人。
 悪いと思うことさえ忘れ、凪は目をすがめていた。
 薄暗いからよく見えない、が………雰囲気が、誰かに似てる……ような。
 再び、勢いよく時計のベルが鳴り出したのはその時だった。
「きゃーっ」
 緊張しきっていた凪は、思わず叫んで、ベッドに腰を落としていた。
 と、時計。
 信じられないほど煩い時計が、また鳴り始めたのである。
「ど、どんだけ朝起きれない人なのよ」
 と、呟きつつ、手を伸ばしてアラームを切った時だった、
「……何してる」
 低い声が、ふいに聞こえた。
 凪は驚いて振り返っていた。実際、その刹那、心臓が止まるとさえ思っていた。
 扉の向こうに、昼間別れた男の人が立っていた。同じ服装、が、上着だけは脱いでいる。
「ご、ごめんなさい、あの……時計が」
 凪は声をうわずらせたまま、言い訳がましくそう言っていた。
 その手は、まだ写真を掴んだままだった。それだけは、言い訳しようがないし、立っている――美波の顔が、それ以上言えないほど、怖いオーラを漂わせていた。
「…………」
 ものも言わず歩み寄ってくる。
 凪は立ち上がろうとしたが、できなかった。
 今まで、いろんな怖い面を見てきたが、今日のそれは、全く異質のものだった。怒りというより、むしろ悲壮にすら見える。
 いつの間に帰ってきていたんだろう。時計の音が――ずっと、煩かったから。
 凪の手から、持っていた写真スタンドが奪われた。
 体温が、今は感じられるほど近くにあった。
「あ……あの……」
 薄暗い室内。
 ベッドの上で、凪は立てないままだった。美波がその上に膝をつく。少しだけスプリングが軋み、気がつけば頬を手で抱かれていた。
「…………」
 間近で見ると、怖いほど綺麗な顔をした男の人。
 これ。
 なんだろう。一体なんの――間違いだろう。
 美波のまなざしは、が、凪を見ているようで、見ていないようでもあった。
 影が……濃くなって、そのままキスされていると気づくのに、凪はしばらくの時間を要していた。
「あ……」
 や、やだ。
「い、いや、美波さん」
 首を振って逃げようとしたが、無理だった。両腕を掴まれて、そのままベッドの上に倒されていた。
「ん……」
 何も言わないまま、男が体重をかけてくる。
 唇からは、わずかにタバコの匂いがした。
 し、心臓、爆発する。
 こんなキス、初めて………。
 ふいにその手が、胸元に回る。
 さすがに凪は、瞠目して足をばたつかせた。
「や……いやっ」
 はかない抵抗は、強い力で押し戻された。
 というより、最初から抵抗しがたい雰囲気が、凪にとっての美波にはあったのかもしれない。
 嫌と言いつつ、さほど嫌悪感がないのが不思議だったし、むしろ、抱かれていることが心地よくもあった。そして、それが怖くもあった。
「だめです……お、お願い……」
 天井を見上げながら、凪は力なく呟いた。
 が、身体からは、抵抗する力がほとんど抜けていた。


                   10


「まぁ、銀河連邦存亡の危機っていってもいいんじゃないかしら」
 唇を指でつつきながらそう言う、真咲しずく――新しくストームのマネージャーになった女は、それでもどこか楽しそうだった。
「……まぁ、そう言ってもいいんでしょうね」
 と、どこか厭きれたように、同じ口調で綺堂憂也が切り返す。
 午前ゼロ時。
 聡は半ば、信じられない気分で、室内にいる面子全員を見回した。
 はっきり言って、こんな時間に事務所に呼びつけられたのは、デビュー以来初めてだ。
 さすがに怒っているのか――というか、元来怒りっぽいから、怒らないはずがないのだが、一番最後に来た柏葉将など、もう対面の女と目さえあわせていない。むっつりと黙り込んでいる。
 憂也はあくびを繰り返し、りょうも、どこか疲れたような目をしている。
 聡自身も眠たかった。しかも、明日は、午前五時から早朝撮影が入っている――。
 が、唐沢社長の言う期限が、今日一日、つまりあと二十四時間で終わるということも、また事実だった。
 雅之にかけた電話は全て拒否された。実家にもいない。撮影先に連絡しても、本人は決して出ない。
 聡にも――正直、どうしていいか判らなかった。実際、ここまで決心を固めた雅之をとめるべきなのかどうかも。
 口火を切ったのは、やはり真咲しずくだった。
「で、どうすんの、ドロイドちゃ……じゃない、坊やたち、このまま黙って解散まで、指折り数えてカウントダウン?」
 初めて会った時もそう思ったが、綺麗な顔をしている癖に、妙な喋り方をする人だ。
 聡は、半ば、首をかしげながら、対面のソファで、綺麗な足を組んでいる女を見上げる。
 その背後には、新しくマネージャーになった片野坂イタジ。色黒で、髪はいまどきねぇだろ、みたいなオールバック。苦虫を噛み潰したような顔で、先ほどから一言も口を聞いていない。
 そして二人の横には、おどおどとうなだれている小泉が所在なく立っている。
「説得させる気なら、なんで雅がここにいねーの」
 口を開いたのは、やはり憂也だった。
「だって、無駄じゃん」
 が、女はあっさりと切り返した。
「本人、あそこまで覚悟決めて辞めますって言ってんのに、いまさら呼び出してもかたくなになるだけっしょ」
「だったらいいでしょ、それで」
 憂也が、珍しく苛立った声で言って立ち上がった。
「帰りまーす、明日、早いんで」
「解散したら、ユーたちを守ってくれるブランドは何もないわよ」
 女の声に、がたん、と席を立ったのは片瀬りょうだった。
「俺、そんなもんのために、雅を引きとめようって思ってるわけじゃねぇから」
「ピンで芸能界やってけると思う?無理、無駄、ユーたち全員、半年後には仕事にあぶれてホストクラブ行き」
 クラブストーム……艶のない名前ねぇ、と真咲しずくはひとりごちている。
 ものも言わず、柏葉将が立ち上がった。
「ユーたち全員の出演番組のブイみたけどね、はっきり言ってサイテー、あはは、唐沢君が、見切りつけたがるのもわかっちゃった、だってみんな、枠の中にきれーーーに埋もれちゃってんだもん」
「帰ろう、東條君」
 憂也の声がした。
 聡は、「お、おう」と頷いて立ち上がった。腹が立つ以前の問題として、今は――わけがわからない。
「上に行く気さえなくて、ただ笑ってそこにいるだけ。事務所のブランドに守られて立ってるだけ、ねぇ、そんなユーたちがさ、本気でピンでやってくつもり?片瀬君、来期の仕事はいってないらしいじゃん」
 将は、すでにさっさと扉に手をかけている。
 りょうの唇が震えているのがわかった。
「貴沢秀俊、帰国して初めて見たけど、彼こそスターね。輝きが全然違う。ああいう子だけがね、許されるのよ、黙って立って、笑ってるだけで、存在感が出せるのよ。そこんとこ、ユーたち、すっごい誤解してんじゃないかなぁ」
 憂也が両手拳を握り締めるのが判った。聡はさすがにひやっとした。
「クズ星がさー、5人集まってやっと輝けたとこなのにね」
 最後にそんな声がした。
 聡は足を止めそうになっていた。
 が、憂也がそれを強引に引っ張って、振り向きざまに扉を叩きつけるように閉めた。


                  11


「なんなんだ………あいつ」
 いつになく憂也が苛立っている。
 それを怖くも、不思議にも思いながら、聡は――エレベーターに乗り込んだ、残りのメンバーを見回した。
 りょうは唇をかんで、じっと足元を見たままだった。
 柏葉将は、むっつりと黙ったままだが、その額には青筋さえ浮いて見える。
 聡は――
 何故か、そんなに腹を立てていない自分に気づいた。
 わからない。
 なんなんだろう、結構――むかつくことを言われたはずなのに。
 誰も何も喋らないまま、エレベーターが一階につく。
 扉が開いて、ばらばらと全員が降りる。
「………あ、そっか」
 聡は思わず呟いていた。
 ちょっと場違いな声に、初めて全員が足を止めた。
 その背後でエレベーターの扉が閉まる。
「……なんだよ」
 いかにも怒りを堪えた目で、憂也がじっと聡を見る。正直、蛇に睨まれたカエルな気分だった。
「あ、い、いやー、その、……俺、なんつーか、あまり腹たたなくて、それが自分でも不思議だったんだけど」
 聡は、おどおどと口ごもりつつ言った。
「今、言われたようなこと、そ、そのさ、セイバーの監督や、鏑谷の会長さんや、おたくの脚本家から、なんつーか、もう、さんざん言われてたから、俺」
「だからなんだよ」
 憂也の声には、余裕がまるでない。
「……いや……別に」
 聡は戸惑ってうつむいた。
「いいよ、どうせ俺らは貴沢君にはかなわない、それは最初からわかってたことだし」
 掃き捨てるようにそう言うと、憂也はポケットに手をつっこんで歩き出した。
 表口は当然締まっているから、全員、所在なく夜間出入り口に向かって歩く。
「…………」
 聡も黙って後に続いた。
 そういうことかな、と、思っていた。が、そういうことでもないような気がする。
 何か今、言わなくちゃ……いけないような気がする。
 が、それがなんなのか、判らない。
「……かなったじゃん」
 ふいに低い呟きが聞こえた。
 将だった。
 それまでずっと黙っていた将の声は、意外にも静かだった。
「……一回だけ、俺ら、貴沢を押さえて上に行ったことあるじゃん、つい、こないだ」
「…………」
「………」
 全員が黙った。
 そして全員が、おそらく同時に、あの夜の――高揚を思い出しているはずだった。
 どうしようもないほどくだらないけど、最高に楽しかった夜。
「………一人じゃ、無理だ」
 天才。
 その存在だけで、今後のJを背負えるといっていいほどのカリスマアイドル貴沢秀俊。
 デビュー前から今でも、ずっと越えられない大きな壁。
「でも、5人だから、できたんじゃないのか」







    

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