38
「まさか、君の所で育てていたとはね、いや、私もこの目で見るまでは半信半疑だったが」
男は笑って、手にした受話器を持ち直した。
テーブルの上の極上のシガーを、意味もなく指先で弄ぶ。
「まぁいい、しばらくお手並み拝見といこう、そう……君たちのお手並みをな」
そして男は、目をすがめる。
先日観た、闇にほとばしる光のような躍動が、まだ男の胸をざわつかせている。
あの眼差しだ、そう、やっと戻ってきた。私の宝物、私の命。
「多くを手にいれた者ほど、失うことが怖くなる。高く飛んだ鳥ほど、堕ちていく様は美しいものだ」
そう言って男は受話器を置いた。
飛べばいい。
何年もの間、ひよこが大鳥に化けるのを見守ってきてやった。それはすべて、射落とす時の快感のためだ。
それにしても、最後の最後で、こんな驚きが待っているとは思っても見なかったが。
「…………………」
男は手にした紙切れを指先で持ち上げる。
かすかに笑い――愛しさを最大にこめた眼差しで見下ろし、おもむろにライターで火を灯す。
印字された「チーム・ストーム」座席の半券の下に、お孫さんによろしくお伝えください。綺麗な楷書で記されている。
―――やっと、見つけた。
灰皿の中で、それは赤い炎をあげて焼け落ちる。
男は目をすがめたまま、それが、完全に灰になるまで見つめていた。
最後の炎が消えうせる瞬間まで。
「SHIZUMAの……遺伝子」
39
「来ちゃった」
しずくは微笑し、暗い室内で膝をついた。
「……ごめんね、なかなか来れなくて」
返事がないのは判っている。
それでも病床の人が、そっと髪を撫でてくれるのが判った。
「………………」
しずくにとって、もう一人の父親。
この世界で、今となってはただ一人の肉親に近い存在。
しばらく無言で泣いた後、しずくは笑顔で顔を上げ、男の頬に、親愛のキスをした。
「もう少し、待っていて」
「……………」
「もう少しで、何もかも終わるから」
しずくは、男のしわがれた手を握り締める。
この涙は、明日になれば忘れられる。忘れよう、何もかも。今夜起きたことは全て。
自分の中に、青白い炎が見える。
ずっと忘れていた人の声が、あの日の潮騒と共に蘇る。
しずくは涙を拭って顔をあげた。
「奇跡が……起きるから、あと少しで」
40
「お、いたのかよ」
玄関で靴を脱いでいた将は、室内の気配に気がついた。
「おはよ」
「早いじゃん、まさか泊まりじゃねぇだろうな」
ソファで、どこかぼんやりとテレビを観ていたりょうは、少し笑って首を振った。
「掟は守った」
「おうおう、律儀なことで」
「将君こそ、どうしたのさ」
「ま、なんとなくな」
実は夕べ一晩眠れなかった、とは言えやしない。
将は鞄を投げ出し、コンビニで買った缶コーヒーを取り出した。
そして、ふと、愛しい気持ちになっていた。
りょうが、ひどく優しい目をしていたから。
「溶けそうな目してんな、お前」
「はは、」
わずかに笑うりょうの目にも、表情にも、昨夜の陰鬱さは欠片もない。
そっか、上手くいったのか。
どうでもいいけど、二度とこんなごたごたはごめんだぜ。
「将君は……微妙だね」
そんな将を、しばらく見つめていたりょうが呟く。
「………微妙か」
将は、嘆息して、ソファに背を預けて天井を見上げた。
「ま、ぶっちゃけ、よくわかんなくなった、ばっさり振られたことは間違いないんだけどさ」
あんなキスして。
それが挨拶で、それで最後か。
ふざけんなって気もするけど。
「男らしく、きれいさっぱり諦めるか、それとも憂也のヤマカンを信じるか」
「……憂也?」
いぶかしげな目をしたりょうは、将の飲みかけのコーヒーを一口飲んだ。
「じゃ、将君のカンではどうなのさ」
「俺?」
俺の――カン。
「………………いや、マジでわかんねぇ」
大真面目で呟くと、りょうが、せきを切ったように笑い出した。
「冗談だろ、あの将君がどうしたんだよ、まるっきり形無しじゃん」
「うるせぇよ」
ああ――いいよな、余裕だよな、満たされた奴は。
今日、多分、俺の孤独を理解できるのは憂也だけだ。
「つか………マジ苦しい」
りょうの肩によりかかりながら、将は天に向かって嘆息した。
「思い出しただけで、イキそうなんだけど」
「おいおい」
「相手してくれよ」
「俺は無理」
将の冗談を、りょうは、少し真面目に交わした。
「もう首輪がついてるから、ここに」
と、自分の首に指を当てる。
「もってんの、末永さんか」
将が肩をすくめつつ聞くと、
「そう、真白が持ってる」
「………………」
しばらく黙った後、将は息を吐くようにして笑った。
そっか。
もう、本当に大丈夫なんだな、お前らは。
「……本当は、何も変わってないんだけどね、俺も彼女も、……根本なとこは、何も解決してないんだけど」
「いいんじゃねぇの、それで」
将は、親友の肩に自分の背を預けた。
「変わればいいさ、これからな。離れてんじゃなくて、一緒にさ」
「………………」
「先のことは……わかんねーけど」
俺にしても、りょうにしても、みんなにしても。
「一緒にいられる時は、一緒にいろよ。別れる時は何したって別れるんだ」
夏には、あの女はまたどっかにいっちまう。
もしかすると、もう永遠に会えないのかもしれない。
「今しかねぇんだよ、いつだってそうだ」
「…………うん、」
―――将君……
将の温みを背中に感じながら、りょうは、言いかけて言えなかった言葉を胸の中に思い描いていた。
俺、昨日さ。
初めて思ったんだ。自分でもびっくりしたんだけど。
「お前、今日オフ?」
「うん」
「んじゃ、メシでも食いに行こうぜ、下に車停めてっから」
「いいよ」
―――俺、やめてもいいかなって、初めて思った。
先を行く将の背中が、ふいに遠くになった気がした。
りょうは目をすがめたまま、つい先ほど、駅で別れたばかりの恋人の笑顔を思い出す。
―――アイドルやめてもいいかなって、初めて思ったんだ、将君……。
君へ(終)
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