36


「いいコンサートだったわね」
 公約どおりしばらく寝ていた女は、今はすっかり目が覚めているようだった。
 真咲しずく。
 助手席のシートを起こし、先ほどまで酔いつぶれていたとは思えない冷静さで、夜の公道を見つめている。
「うん、……まぁな」
 将は言葉を濁し、少し込み合った交差点を抜けた。
 寝顔に時々見惚れてました。
 とは、一生言いたくないけれど、まぁ、これだけは言っておこう。
「………色々、今回は」
「ん?」
「ありがとう」
 礼くらいは、言わないといけないだろう。人間として。
 最初から最後まで、なんだかんだ言って尽力させてしまった。無理を言って、それを曲げずに、結局は上に掛け合ってもらった。特にスケジュール面の調整は、相当難航したはずだ。
「おかしな子ね、ビジネスよ、全部」
「まぁ、そうなんだけど」
 まぁ――そうなんだけどさ。
 なんとなく、それだけでもないような気がして。
 つか、俺、そもそもあんたが何考えてるのか、いつもさっぱりなんだけど。
「ずっと、マネージャーやってるつもり?」
「それはないわね」
 返事は、むかつくほどあっさりしていた。
「ま、夏にはもういないわよ」
「また、どっか行くのか」
「退屈だからね、日本の夏はキンチョウの夏」
「…………」
 ふざけてんなよ。
 と、思いつつ、もしかしたら、そんなにはないのかもしれないな、と将はふと思っていた。
 こんな風に、2人きりでいられる時間は。
「あのさ……」
「ん?あ、途中でコンビニ寄ってくれる?朝ごはん買って帰るから」
「………あのさ」
 将は、辛抱強く繰り返した。
「大昔のことなんだけど、」
「うん?」
 ずっと心に刺さっていたでっかい棘。さすがに、その続きを言うのは勇気が必要だった。
「………あんた、覚えてるかどうかしんないけど、いつだったか、……夏だったと思うけど」
「…………」
「しらねーおっさんと、三人で、海いったことあったじゃん」
 助手席で、しずくが眉をひそめるのが判った。
「………あったかな、そんなこと」
「ありました、あったんだよ、思い出せ!」
 つか、忘れてんなよ!
 わずかに肩をすくめた女が、将を見上げる。
「で?」
「あのおっさん、………誰?」
「誰だと思う?」
 あったかな、と言ったくせに、女の切り替えしは即座だった。
「………もしかして、」
 もしかして、俺の――。
 なんの根拠もないカンだけど。
 あの日、車の後部座席で、何度も頭を撫でてくれた暖かな手。
 将――
 ずっと、そんな声を夢の中で聞いていたような気がする。
「話してもいいけど、重いわよ」
 しずくはそう言い、長い足を組みなおした。
「……いや、なんとなくそれは、覚悟してる」
 将は、わずかに強くなる動悸を感じた。
 母親も、父親も、頑なに将の出生に関しては口を閉ざしている。
 特に母親のそれには、あきらかな嫌悪がまじっている。
 何かあったんだろう、きっと。それだけは覚悟している。
「………じゃ、できてないのは私の方か」
 意外にも、かすかにため息を吐いて、しずくは思案するような横顔を見せた。
「………もう少し、待ってくれる?」
「もう少し、か」
「もうじき、何もかも話せると思う……もう少しでね」
「…………」
 何か、意味を含んだ言い方のような気もした。
 聞きたいような気もするし、それが怖いような気もする。
「ま、いっけどさ」
 こうして自分で決めてしまったことを、絶対に覆さない女の性格をよく知っている将は、わずかに頷いて、前に向き直った。
「んじゃ、もういっこいい?」
「まだあるの?」
 つか、こっちの方が、今の俺にはむしろ重いのかもしんねーけど。
「……その人、あんたの、恋人?」
「………なんで?」
 誤魔化すというより、あきらかに意外そうな声だった。
「………キ、」
「キ?」
 スマートに言うつもりが、思いっきりどもってしまっている。
「キ、キスしてたじゃん、あの時」
「……………」
 うおっ、言った。
 言っちまった。
「…………してたっけ」
「してただろ!」
 つか、覚えてねーのかよ。
「………してたかなぁ、してたのかもねぇ……で、それで?」
 で、それで?
「それでって……」
「……………」
「……………」
「………まさかと思うけど」
 助手席の女が、まじまじと顔をのぞきこんでくる気配がした。
「それ、ずっと気にしてたわけ?」
「う、うるせーよ」
 爆笑。
 将は、いっそのことハンドルをきって、そのあたりに激突したい気分だった。
「ばかだなぁ、可愛すぎ、バニーちゃん!そんなものねぇ、あいさつあいさつ」
 よほど可笑しいのか、女の笑いはしばらく収まりそうもなかった。
「そこで停めるから、降りろ、お前」
「キスくらい、バニーちゃんにも何回もしてるじゃん」
「してねぇよ!つかそれ、おでことかほっぺだろ!」
「………?一緒でしょ」
「一緒じゃねぇよ!ぜんっぜん違うだろ!」
 ああ、俺のトラウマが。
 ハンドルを握りながら、将は軽い眩暈を感じていた。
 雅のこと笑ってる場合じゃなかった。なんつー、ばかばかしいことで、何年も悩んでたんだ、俺。
「違うって言われてもねぇ」
「もういいよ」
 聞いた俺がバカだった。
 話した私がバカでした、てか。
 わずかな沈黙。まだくっくっと笑っていた女が、やがて小さなあくびをするのが見えた。
 もうすぐ、この女のマンションに着く。
「コンビニいいや、もう眠いし」
「あっそ」
 寄ってやる気なんてなかったけど。
 まだ微妙に不愉快な気分を抱えたままの車線変更、ハンドルを切りながら、将はふと、大阪公演で特別に用意させた席が、結局は空席だったことを思い出していた。
―――あの、じいさん。
 
ああ、やっぱり柏葉さんだ、ようやくお会いできた
 今回のライブツアー、チケットを一枚、どうか私にわけてもらえないでしょうか。 

 片野坂イタジを通じて用意してもらった席、チケットを、名刺の住所に送付したのは将だった。
 忙しくて確認を後回しにしていたが、どこかで見た名前かな、とは思った。
 確か、真田――昔のアクションスターと、三国志を足したような名前。
 あの日のジーンズのポケットに、まだ名刺が残っている。
 マンション下の駐車場に車を滑り込ませ、将は助手席を振り返った。
「あのさ、」
 自分の唇に触れたものが、将にはなんなのか判らなかった。
 その正体に思い至った時には、しずくは元の姿勢に戻っていた。
「あいさつ、送ってもらったお礼」
「……………」
「じゃ、寄り道しないで帰るのよ」
 ふざけた目で笑い、そのままバッグを持ち上げ、しずくは扉に手をかける。
 将は、その腕を掴んでいた。
 掴んで引き寄せ、両腕で押さえるようにして唇を重ねた。
 時間も感覚も、その刹那途切れたように白くなる。
「…………」
「…………」
 唇を離し、腕を掴んだまま額をあわせた。
「これでも、挨拶かよ」
「……どうかな」
 もう一度唇を重ねた。
 今度は、ためらいもなく深く。
 自分の中の、
 何かの箍が外れている。
 溶けるほど甘い口づけに、自分が我を忘れている。
 腕を掴んだ手を離し、そのまま背中に回そうとした。それを、下から女の手が掴む。
「…………」
 強い力は、将の両腕を捕らえ、それ以上動くことを頑なに拒否しているようだった。
 吐く息をかすかに乱したまま、将は女を見下ろした。
「……だめってこと?」
「…………」
 表情が読めない眼差し。
 けれど、相当の力を込めて掴まれた腕はびくともしない。
―――わかんねぇし。
 だったらなんで、こんなキスまで。
「………挨拶だから」
 しずくは、静かな声で囁いた。
「言ったでしょ、男は鑑賞するためにある。一生恋人もいらないし、結婚もしないの、私」
「……………」
「今日だけよ」
 残酷なほど冷たい声は、将にとって最後通告のような気がした。
「これが最後で、この先はない。二度とそんな目で私を見ないで」
「……………」
 腕を掴む力は緩まない。
 将は軽く息を吐き、自分の気持ちが収まるのを待った。
 そうかよ。
 まぁ――最初からわかってたけどよ。
「じゃあ、今日はいいんだな」
「いいわよ、挨拶くらいなら」
 少しためらった後、もう一度口づけた。
 これが最後だと思ったら、もう、何も考えられなくなっていた。
 自分の呼吸と、それから、焦がれるほど恋しい女の息遣い。
 初めて見せてくれる表情。
 もっと、知りたい。
 もっと見たい。
 苦しいくらい――好きだから。
 唇を離し、耳元に持っていく。その刹那、わずかに女の身体が震えた気がした。
 しっかりと掴まれた腕に、痛いほど力がこもる。
「………離して、手」
 将は、囁いた。
「………絶対に、これ以上しないから」
「…………」
 込められた力が緩やかに解けていく。
「俺のこと抱いてて」
 ためらったように、背中に腕が回される。
 うん、そう――
 ようやく開放された腕で、将はしずくを抱きしめた。
 抱いてて……
 今だけ。
 今だけ、嘘でも恋人でいさせて――。





                  37



「痛くない?」
「ううん、……平気」
 本当はかなり痛かった。
 平手で頬を叩かれたみたい。
「一ヶ月で取れるよ」
 ベッドに座る真白の傍らに膝をつき、耳朶を消毒しながら澪が囁く。
「ファーストピアス、買っといてよかったな」
「………ありがと」
 両耳の感覚が、まだしびれて戻らない。
 罰だな、と、真白は、間近で揺れる澪の睫を見ながら思っていた。
 この痛みは、罰――澪を信じられずに、逃げようとしていた自分への。
「ごめんね、なかなかふんぎりつかなくて」
「いいよ」
 身体に傷をつけるのが、怖かったからじゃなくて、やっぱりそれは、澪からもらった物を身につけることへの、無意識な迷いがそうさせたのかもしれない。
 大阪の自室にしまったままのシルバーのピアス。
 一ヵ月後には、それを耳に飾って、最初に澪に見せに行こう。
「痛い……?」
 腰に腕を回しながら、澪が顔を近づけてきた。
「ううん」
「すぐに感じなくなるよ」
「………うん」
 うなじを抱かれ、そのまま背後に倒される。
 背中に触れる布団が冷たい。
 久々に訪れた恋人の住処は、片付いてはいるものの、寂しいくらい生活の匂いがしなかった。
 真白は手を伸ばし、間近に近づいた澪の頬に触れた。
「もう、別れるなんて言わないで」
 それ、澪が言ったくせに。
「俺、マジで泣くかと思った。もう二度と、こんなのはやだ」
 子供みたい……。
 傷ついた耳を避けるように、首筋にそっとキスされる。
「今夜はもう痛まないよ」
 耳元で囁かれる。いつもの、澪らしい声だった。
「俺が、忘れさせてやるから」






 荒い呼吸。
 余裕のない眼差し。
 愛しい、愛しくて、この気持だけで死んでしまいそうになる。
 半身を起こし、服を脱ぎ捨てた澪がもう一度被さってくる。
「もってないけど、いい」
 少し怖かったけど、澪を信じて頷いた。
 澪の口から、少し苦しげな吐息が漏れる。
 わずかな痛みは、すぐに胸がしめつけられるような感覚に取って代わる。
―――私……
 澪の肩にすがりながら、真白は唇を噛んで、こみあげる感情に耐えた。
 どうして忘れられると思ったんだろう。
 どうして、忘れようと思ったんだろう。
 こんなに好きなのに。
 好きで好きで、今でも苦しいくらいなのに。
 やがてわずかな吐息と共に、澪が満足気な表情で額を寄せてきた。
「澪……好き、」
「俺の方が好きだよ」
「…………」
「賭けてもいいけど、俺の方が好き」
 それには、少しだけ笑っていた。
 満たされたキスを交わして、それから、もう一度抱きしめあう。
「呼んでもいい?」
「え?」
 熱を帯びた黒い瞳が見下ろしている。
「……真白」
―――澪………。
 もう一度キスをした。深くて甘くて優しいキス。
 唇を離して抱き合う耳元で、少し照れたような声がした。
「もう、さんなんて、つけねーぞ」
「………うん」
 幸せ――
 首筋から、澪の鼓動を聞きながら、真白は目を閉じていた。
 この幸せがいつもなら怖いのに、今日は全然怖くないよ、澪。
 嘘みたいに信じられる。
 澪は、私のものだって。





 














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