5
「あれ、もしかして手直し?」
そう声をかけると、熱心にノートに何かを書き込んでいた聡は、ん?といぶかしげに顔を上げた。
「直すの?今から」
憂也は大声で言い、聡の耳からイヤフォンを引き抜いた。
明日はゲネプロ――と呼ばれる最後の仕込みだ。
いわゆる最終リハーサルが、都心からわずかに離れた市民会館を借り切って行なわれる。
そして翌々日が渋谷キュアでのツアー初日。実質、明日は本番さながらの通し稽古だから、スタッフとアーティストにとってのツアーとは、明日のゲネプロから始まると言ってもいい。
六本木。
J&M事務所六階。
ここ半月、事務所専用リハーサル室は、ストームの貸切といっても過言ではなかった。
さすがにゲネプロ前日ともなれば、スタッフは仕込みに追われ、今夜、ここに集まったのは東條聡と、綺堂憂也、それから――
「雅だよ」
聡は親指で、壁にもたれかかるようにして眠りこけている男を指し示した。
「ツアーの中日が例の試合だろ、練習もきついみたいだし、もし、怪我でもしたらと思ってさ」
「ああ、」
振り付けの変更――というより、万が一に備え、二通りのバージョンを用意しておく。
そういうことか。
「にしても、すげぇな、聡君」
憂也はしゃがみこみながら、床に散乱している真っ黒に汚れた振り付け表を見た。
「この振り付け、もはやプロの域はいってっじゃん、いつの間にそんなテク覚えたんだよ」
「憂也に誉められると後が怖いよ」
そういいながらも、珍しくまんざらでもない顔をする聡。
変わったな、こいつも。
と、憂也は少しまぶしくなって、昔ながらの友人から目をそらした。
まぁ、変わったのは、聡だけじゃない。死んだように眠り続けている雅之もまた、まるで別人のような精悍さを身につけている。
将にしても最近は、妙に尖がったところがなくなった。
りょうも、随分落ち着いた。
色々あった。それは、多分今でも続いている。全てを助け、理解することはできないけど、それが――それぞれを確実に成長させているのかもしれない。
「なんてね、実は時々、美波さんにアドバイスしてもらってたんだ」
聡はそう言うと、いびきをたてはじめた雅之に、自分の上着をかけてやった。
「俺、暇な時はずっとここに詰めて振りやってたんだけどさ、美波さん、時々のぞきにきてくれるんだよね。怖い人だけど、実はかなりの心配性なのかもしれない、あの人って」
「かもな」
憂也は、今年に入った初めの頃、ここで一人で踊っていた時、ふいに訪れた美波のことを思い出していた。
あの時も、何も聞かれなかったし、言われなかった。
なのに、何もかも見抜かれていたような気がする。
「俺は、恨みがあるからね、あの人には」
「憂也は根に持つからなぁ」
聡がコーヒーを飲みつつ、苦笑する。
「いっぺん、ぎゅうって言わせないと気がすまない、綺堂、お前の勝ちだって、いっぺんくらい言わせたいね」
「一生無理じゃん」
「いやいや、俺のスケールは大きいよ」
2人で声をたてて笑っていた。
「うーっす、遅くなった」
扉が開いて、ひどいがらがら声がした。
すでに舞台の東京公演が始まっているりょう。いつものことだが、ひどくハードな舞台らしく、今夜もかなり憔悴している。
「将君は?」
「まだ、ほら、例の手配すませて寄るからって」
「ああ」
りょうは、咳払いを繰り返しつつ、レザーの上着を脱いで椅子に背を預ける。
「お前、大丈夫なのかよ」
憂也が聞くと、
「ばっちし、絶好調」
と、しゃがれた声が返ってきた。
「おいおい」
「マジで平気、寝る前にはちみつ舐めて、加湿器つけて寝たら、結構復活するんだ、これが」
疲れているようだが、その綺麗な目には、いつにない輝きがあった。
「つか、今夜寝れるかどうかが問題だよ、目茶苦茶興奮してるから、俺」
「同じセリフ、十分前まで雅も言ってたよ」
聡が言って、三人で吹き出していた。
「みんなそうだけど、将君と雅は、特にきつかったよな」
持参したはちみつレモンの缶を口にしつつ、りょうが呟く。
いや、お前のきつさも相当だろ、と思ったものの、憂也は何も言わなかった。りょうとはそういう奴で、自分の苦労や苦しさは、昔からおくびにもださない。
「雅は、明日の午前いっぱい、練習試合の撮影なんだろ」
うん、と頷きつつ憂也は、少し伸びてきた雅之の髪に触れてみた。
ばーか。
臆病なくせに、柄にもなく、張り切りやがって。
お前に置いていかれたら、俺が寂しくなるじゃないか。
「………寝かせといてやろうぜ、今夜は」
「どうせ起きてても、ろくなことしゃべんないし」
「つか、このまま置いて帰っちゃおうよ」
「いや、それダメ、社長が残ってっから、餌食になる」
「ぶほっ」
「ありかよ、それ」
背後でがらっと扉が開く。
「うーっす」
伸びた髪をかきあげながら、最後のメンバーが入ってきた。柏葉将。
「おつかれー、無事終わった?」
「おう、明日会場に届けてもらうことになったから」
今日一日、スタッフと共に会場を回った将は、さすがに疲れているのか、すぐに椅子に腰を下ろした。
「んじゃ、打ち合わせって……つか、寝てるじゃん、すでに」
「こいつならいいよ、どうせ今話しても、五分で忘れる男だから」
憂也が言うと、将が表情を緩めて破顔した。
「ま、確かに今更だな」
なんとなく――全員がリラックスしている。
実質明日からツアーが始まるその夜に。
憂也は立ち上がり、締め切ってあった窓を開けた。
入ってきた夜風は穏やかで、どこか暖かい香りがする。
そういや、もう4月だったな。
今年に入って、随分たった期がするけど、まだ4月だ。年度でいえば始まったばかり。
「ツアーはこれからなんだけど」
将が、どこか遠くを見るような目で呟いた。
「よくやったよ、みんなマジでよくやった。俺……自分で言い出しといてなんだけど」
機材やら書類やら差し入れやらで、散らかし放題のリハーサル室。さすがの将も、この極限状態の中、片付けまで頭が回らないようだった。
「ぶっちゃけ、途中で何度もやばいと思ったよ。時間、ぜんっぜんなかったし、やることはうんざりするほど沢山あったし」
短いようで、永遠のように長かったこの半月。
それでも、そんな顔、てめぇは全然してなかったぜ。
そう思いつつ、憂也は将の頭を軽く小突いた。
「おいおい、死のロードはこれからじゃん」
「つか、俺、いっぺん死んだからなー」
冗談めかして言った将だが、そのニュースが伝わった時、真面目に全員が震撼した。今、将が倒れたら、本当に何もかもが水泡に帰してしまうからだ。
「将君さー、その死の淵で、なんかいい夢でも見たんじゃない?」
と、りょう。
「え、なんだよ、いい夢って」
聡が即座にそれに食いつく。
りょうは片手で頬を支えつつ、ちょっと意味深な目で将を見上げた。
「なんかさ、妙にその前後で、将君の雰囲気が違うんだよね、俺の気のせいかもしれないけど」
「気のせいだろ」
将の声はそっけなかったが、目が微妙に動揺していることを、憂也は即座に見抜いていた。
「将君とこは、ウサギが飼い主に恋してっからなー」
憂也の突っ込みに、将の持っていたペットボトルがばきっと音をたてる。
「おおかた、人参でももらったんだろ、それは甘い蜜の味」
ペットボトルが、憂也の頭めがけて飛んでくる。
「うおっ、暴力反対」
「てめぇがくだらないこと言ってっからだよ!」
「その飼い主って、もしかしなくても、真咲さんだろ」
けっこう冷ややかにりょう。嫉妬まじってる?と思うくらいに。
「え?なに?じゃあ、ウサギって将君のこと?」
無神経な東條聡の最後のとどめ。
退路を断たれたのか、うがーーっっと将が吠える。
「おっもしれー、将君、やられっぱじゃん」
最初に手を叩いて笑い出したのはりょうだった。
「俺たちのスーパーキングが形無しだよ」
「決めちゃえ決めちゃえ、ツアーの間に」
「つか、どこまでいってんの?」
「青大将が、ほっぺにちゅっ、止まりじゃねぇよなぁ、まさか」
「勝手に言ってろ!」
怒ってんのか、笑ってんのか、なんだか、やたら楽しそうな喧騒。
これ……夢かなぁ。
雅之は、心地よい感覚に、朦朧としたまま意識を預ける。
将君がいる、聡君もいる、りょうもいて憂也もいる。
みんなが楽しそうに笑っている。くだらない話を延々と続けている。
おいおい、ツアーは明日じゃん、
そんな余裕でいいのかよ、みんな。
ま、いっか。
そういうのが、上手くいえないけど、俺たちらしいって言うんだよな。
なぁ、将君。
俺、今なんだか、超幸せでさ。
憂也。
こんなに幸せでいいのかって思うくらい、毎日が楽しくてさ。
りょう。
俺、辞めなくてよかったよ、マジで。
聡君。
今さ、俺たちって最高にいかしたチームじゃねぇ?
でも、こうやって5人で一緒にいられる時間って、あとどんだけあるんだろう。
5人で、バカやれる時間がさ、あと、どれだけあるんだろう。
なぁ、みんな。
今日が、こんな時間が、これからも永遠に続けばいいよな。
絶対に無理だけど、そう思うよ、俺――
6
「凪ちゃん」
ようやく見つけた、見慣れた立ち姿。
手を振ってくれる阿蘇ミカリの傍に、凪は急いで駆け寄った。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「いいのいいの、手伝ってもらうのはこっちなんだから」
「でも」
東京郊外にある、四谷市民会館。
キャパが1000人足らずの小ホールだが、そこで、ストーム春のツアー「チームストーム」の最終リハーサルが行なわれる。
マスコミにも、むろんファンにも極秘で行なわれるリハーサル。そこで、唯一取材を許されているのが、冗談社のようだった。
「機材運びと照明なんだけど、頼んでいい?」
昨日、電話でそう言ってきてくれたミカリの真意が、単純に手伝いのためだけではないと、なんとなく判る。判るから、この優しい女性の気持ちが心にしみる。
「真白ちゃんにも頼んだんだけどな」
待ち合わせの駅の前、時計を見ながらミカリが呟いた。
その言い方は、多分、来ないと、――真白さん自身がそう言って断ってきたんだろうと、凪にも判った。
「……末永さんたち、上手くいってないって、人づてに聞いたんですけど」
「んー、そうね」
かるく頬に指をあてる年上の人は、同姓の凪が見ても、ちょっと見とれるくらい綺麗だった。
恋人との関係が充実していることが、その眼差しにも、表情にも見て取れる。
「でも、男と女のことは、そう簡単に白黒つくような問題でもないから」
「そういうものですか」
「そうよ、距離をあけることが、時には必要な時期もあるし……まだ、結論が出たわけじゃないと思うしね」
「…………」
その曖昧さは、まだ凪には判らない。
すごく好きになって。
嫉妬するほど好きになったら、もう距離を置くとかそんなこと、そもそも考えられないんじゃないだろうか。
まだ、そんな気持ちは判らないし、ちょっと判りたくもない気がするけど。
「大学、どう?」
「あ、まだぎりぎり春休みなんです。入学式、明後日だから」
「いいわね、懐かしい、その響き」
たわいもないことを話しながら、徒歩何分かの会場につく。
外観は、何ら変化はない、小さな、ごく一般的な市民ホール。
が、裏口に回るといくつものトラックが横付けに並んでいて、小規模のツアーとはいえ、そのものものしさに、凪は少し緊張した。
「コンサートは、キッズで1回経験済みよね」
「あ、あのときは、風と入れ替わったり、振り付け覚えるのに必死で、何がなんだか」
ミカリから渡された取材許可書を胸にぶらさげ、裏口から会場内に入る。
ロビーいっぱいに機材やらコードやらが山積していて、スタッフが慌しく駆け回っていた。ちょっとびびるほど鬼気迫る表情で。
「まだ、仕込みだから、今からね」
「すごいですね、こんなに早くから」
「ツアーは本当に大変なの、アーティストはもちろんだけど、スタッフもそう。わずかな手違いが、コンサートそのものを潰しかねないミスにつながるし、人の命さえ預かる現場だからね、みんな真剣だし、こわいくらい必死よ」
じゃあ、まだストームは来ていないのだろうか。
別に――それが目的じゃないけど、と思いつつ、凪は、周囲を見回してみる。
会場内、半ばできあがったステージと花道。
駆け回っているのは、ジーンズにトレーナー姿の若い男の人ばかりで、ストームの姿はどこにもない。
「もう来てるわよ」
ステージで、スタッフの一人と話していたミカリが、いたずらめいた笑みを浮かべながら戻ってきた。
「今、控え室で打ち合わせしてるんだって、雅之君だけは、午後から合流するらしいけど」
「そ、そうですか」
見抜かれている。
凪は真っ赤になって、慌てて機材を両手で持ち上げた。
それから、ふと思い出していた。
そういえば、ここにもう一人知り合いがいる。
あれから、電車で会うこともなくなったあの人も、今――ここにいるはずなのだ。
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