7


 3−0
 そのスコアに、初めて対戦相手の高校生が、がっくりと肩を落とした。
「す、すんげ……」
「マジかよ、ゆ、夢じゃねぇよな、これ」
 雅之は、言葉も出てこなかった。
 九十分、走れるだけ走った。
 練習で繰り返した最終ラインの上げ下げ、何度か乱れはしたものの、ゴール前に攻め込まれたピンチは、常にプロのスィーパーが弾き返した。
「まるで魔法やん」
「すんげー、これがプロの力かよ」
 おはぎも、ミラクル中田も、この結果に唖然としている。
 それは、立てないくらい疲弊している雅之もまた、同じだった。
「これくらいで満足してんなよ」
 ピッチを後にする通りすがり、神尾恭介の声がした。
 背中には汗ひとつかいていない。それは、神尾と共に悠然と去っていくキーパーの仙波も同様だった。
 さすがに雅之は、理解せざるを得なかった。
 元とはいえ、プロで経験を積んだ選手と、アマチュアの底力の差を。
 今日、崖っぷちサッカーチームは、この神尾恭介がたてた戦術の元、ある明確な意図を持って試合に挑んだのである。
「やっぱ、……すげぇよ」
 雅之は天を見上げたまま呟いた。
 マンツーマンディフェンス、そしてラインの上げ下げと中央突破のカウンター攻撃。
 マンツーマンディフェンスとは、相手の選手一人一人に、味方の選手が全てつき、まさにマンツーマンで自陣を守ることである。
 そして、チャンスとみればカウンター攻撃を仕掛けて点を取る。
 それは、何度もやってきた手法だし、特に目新しいものではなかった、が、同時に、今までそれが上手くいったためしもなかった。
 ディフェンスはかわされ、カウンターは弾かれ、ずるずると自陣に引き、結局は大量得点を許すという負け方ばかりだったのである。
 それが――神尾が統制するラインのタイミングひとつで、全く別の結果になる。
(―――これくらいで満足してんなよ。)
 確かにその言葉どおりで、作戦が見事にあたったとはいえ、相手は何度も練習相手を務めてもらった高校生。
 こちらは、元プロを2人含めた社会人チームだ。
 もともと結果を出すのが当たり前で、ここで満足している場合じゃない。しかも、テレビ局の製作意図に逆らった試合をやろうというのだから、なおさらだ。
 メンバー全員の説得で、若いカメラマンの口は塞いだ。
「どうなってもしりませんよ」カメラマンは言ったし、実際、それ以上に綱渡りなのは、雅之たちにしても同じだった。
 が、東京イーグルスとの本試合。絶対に筋書きどおりにはさせない、というのが、今のメンバー全員の悲願なのである。
「……神尾さん、あんなに上手いのに、イーグルス、クビになったって聞いたんやけど……」
 更衣室で着替えながら、モギーが不安そうに呟いた。
「だったら、イーグルスってのは、そもそもどんだけ強いんすかね」
 盛り上がっていた全員が、ふいに静まり返った瞬間だった。
 バタンと、扉が開く音がする。
 更衣室に隣接したシャワー室、出てきたのは、もうとっくに引き上げていたと誰もが思っていた神尾その人だった。
 モギーが真っ青になって腰を抜かす中、神尾は悠然と裸体のままロッカーに歩み寄ってきた。
「だから言ったろ」
 相変わらず何を考えているのか判らない男は、そう言ってたくましい背にバスタオルをかけた。
「イーグルスの強さは半端じゃねぇ、奇跡でも起きなきゃ、得点なんて有り得ねぇよ」
 皮肉な口調。
 しかし、それを憤る雰囲気は、もうどこにも見られなかった。
 もう、全員が知っている。
 今日の勝利のために積み上げた血が滲むほどの努力。その中心に、ずっと神尾が立っていたことを。
「……余計なことかもしれないけど」
 神尾が去り、静かになった室内で、ふいに口を開いたのは、それまでずっと、他のメンバーと一線を引いていたゴールキーパーの仙波だった。
 洗った髪をタオルでこすりながら、仙波は淡々とした口調で続けた。
「恭介は実力がなかったわけじゃない、二年目までは活躍した、実質イーグルスのエースだったし、エースでいるべき実力は持っていた」
「怪我っすか、もしかして」
 ミラクル中田の問いに、仙波は無言で首を横に振る。
「三年目、同じポジションに、相羽って新人が入ってきた。相羽匡史の名前くらい聞いたことがあるだろう」
 一瞬、しんとした室内に、口々に驚きの声が広がった。
 相羽。
 世界の相羽、相羽匡史、日本ではじめて、海外プロリーグで確固たる成功を収めた男。現在、ドイツリーグで活躍している、相羽選手のことである。
「相羽を使えば恭介が死ぬ、恭介を使えば相羽が生きない。チーム全体の反対を押し切って監督が選んだのは、生意気な高卒ルーキーだった」
 寡黙な男は、とつとつと語り、そしてかすかに嘆息すると、静まり返ったメンバーを見回した。
「まぁ……余計なことだし、所詮は言い訳だ。しかし、恭介が言うほど、イーグルスを恐れる必要もないと思う」
 高校時代から神尾と一緒だったという仙波は、今は、高校サッカー部の雇われ監督をしているという。今回の出演は、神尾恭介への友情だけで受けたのだろう。
「……まぁ、負けたのが、相羽選手なら仕方ないっていうか」
 おはぎが、呆然と呟いた。
 気まずそうに黙っていたミラクル中田が、ため息まじりに口を開く。
「あんな怪物が相手なら、そらま、運が悪かったとしかいいようがないわな」
「違うよ」
 しかし、退室しようとしていた仙波は、その言葉は聞き捨てならなかったのか、少し眉を寄せて足をとめた。
「恭介が負けたのは、イーグルスでも、相羽匡史でもない、俺はそうは思わない。あいつが負けたのは自分自身だ、あいつは、自分に負けたんだ」


                 8


「……神尾さん、」
 煙草かな、と思ったら、意外にもそうではなかった。
 ペットボトルを口にしていた神尾恭介が、眉を寄せて振り返る。
 部室裏のベンチ。
 撮影の合間、ここで、神尾と仙波が煙草を吸っていたことを、雅之はよく知っていた。
 シャワーを浴びた後の衣服のまま、大柄な元Jリーガーは、濡れた髪も乾かさずに一人でベンチに座っていた。
「……今から、ミーティングあって、あの」
 言いにくいなぁ。
 雅之は、もじもじと言いよどんだ。言いにくい、あんな熱血啖呵を切ってしまった手前。
 他のメンバーには理解してもらっているし、テレビ局のスタッフも承知している。が、出戻り組の、神尾と仙波は知らないだろう、多分。
「……俺、今日で、いったん抜けるんで、」
 その、あいさつに。
 と、そこはもごもごと言葉を濁した。
 ほとんど興味なさげに、雅之の言葉を聞いていた神尾は、特になんの感慨もないのか、ああ、とだけ頷く。
「………すいません」
 デビュー当時、よくあったこと。
 仕事が、絶対無理なほどぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、途中、撮影を抜けるたびにスタッフに謝って回った。
 その時、露骨に「これだからアイドルは」みたいな反応をされたこともある。
 しかも今回は普通の撮影じゃない。サッカーの本番試合間際、つなぎあわせの撮影のように帳尻あわせができるわけもなく、実力を積み重ねていく―― 一番大切な時期である。
「コンサートだろ」
 しかし、神尾はあっさりと言った。
「し、知ってんですか」
「知ってるよ、お前、練習の後、毎晩リハに戻ってんじゃねぇか」
「……………」
 え、なんか。
 その口調が、意外に優しいって思うのは、気のせいなのだろうか。
 俺、多分、一番生意気なことやらかしたはずなのに。
「お前もそうだけど、お前の仲間もよくやってるよ、練習終わるの12時で、その後集まってリハーサルだろ」
「………え、は、はぁ」
「俺が現役の頃でも、そこまでひどくはなかったよ、若いってのはすごいよな」
「……………」
 神尾は前を向いたまま、ペットボトルを一口含んだ。
「ま、がんばれや」
「……………」
 あ、やば。
 なんだって俺、こんなことでうるうるきてんだよ。マジで。
「お、俺、ツアー先でも、練習は毎晩するんで」
「…………」
「合間には戻れますし、ちゃんと、みんなについていけるように、がんばりますから、マジで」
 すでに神尾は、雅之への興味をなくしたのか、前を見たまま返事もしない。
 雅之は、軽く一礼し、そのまま背を向けようとした。
「おう、教えろや」
 しかし、背後から声がした。
「え」
「そんなにがんばって何になるんだよ、アイドル」
「…………」
「それで何が残るんだよ、お前は一体何が欲しい、金か、人気か」
 え。
 つ、つか、取り合えずどっちも欲しいし。
 いや、いやいや、今はそういう素の答えをしてる場合じゃなく。
 シンキングポーズをとった雅之を、神尾は呆れたような目で見あげた。
「いや、いい、お前に聞いた俺がバカだった」
「今度の……ツアーのタイトル」
「………は?」
「チームストームっつーんですけど、俺、なんつーか、マジで気に入ってて、」
 自分でも何が言いたいのかわからない。
 言葉に迷い、雅之は一人で赤面した。
「今を……なんつーか、とにかく俺、今がすげぇ楽しいんで、なんつーか、ただ後悔したくないっていうか」
「……………」
「やれることは全部したいっつーか、そんな感じです」
「……………」
 しばらく黙っていた神尾は、やや肩をあげながら立ち上がった。
「質問と答えがあってねぇよ」
「えっ」
 え、そうだっけ。つか、そもそも質問ってなんだっけ。
「お前、バカだな、テレビでみたまんまだ、つか、それ以上」
「…………う、」
 反論できない。
 で、でも神尾さん、アイドルが全部バカなんじゃなくて、俺がフツーにバカなだけで。
「自分より、あきらかに才能が上な奴がいてさ、何やっても、何しても、俺の前にはそいつの背中があって、どうしたって追い抜けねぇんだ」
 しかしそのまま立ち去ると思わせた神尾は、静かな口調で言葉を続けた。
「世界にはさ、神から与えられた奇跡みたいな才能を持ってるやつがいる、どのジャンルにも必ずいる。そして自分はそうじゃない、それがわかった時、お前ならどうするよ」
「………………」
「お前ならどうするよ、アイドル、今日が楽しいからそれもヨシか」
「………いや、」
 雅之は言いよどむ。
 それ、シャワー室で聞いた話だ。多分、相羽匡史選手のことだろう。
 で――うちで言えば、貴沢秀俊のことだろうか。
 いや、その前に、
「……俺の一番仲いいやつ、あー、親友っていうか、なんかもうそれ以上って感じの奴がいるんですけど」
 憂也。
 雅之から見れば、貴沢なんか問題にならないほどの才能を持った男。
「一時、けっこう嫉妬してた時期とかあって、……いやー、でもそれ、そんなに深刻なものでもなかったかな?」
「もういいよ」
 神尾が、呆れたように肩をすくめる。
 あー、と雅之は言いよどむ。
 どう言ったらいいんだろう。どう言えば、伝わるかな。
「ツ、ツアー、見にきてもらえませんか」
「はぁ?」
 今度は、さすがに思いっきり怖い目で見下ろされた。
「あ、チケット、もう無理かもです、けど」
「あってもいかねぇよ、バカじゃねぇの、お前」
「そ、そのぅ、見てもらえば、なんか判ると思うんで」
「何をだよ」
「チームストームっていうんですけど、今度のツアー」
「さっきも聞いたよ」
 うっとおしげにベンチに腰掛けた男に、雅之はびびりながら言葉を繋げた。
「メンバーが考えたタイトルで、なんつーか、俺ら、沢山の人に支えられてここまできたから」
「ふぅん」
 すでに神尾は、自分の耳に指をつっこんでかき回している。
「同じメンバーにも支えられてるっつーか、一人じゃできないことが、できるから、5人だと」
「もういいよ、戻れよ」
「サッカーは、十一人だから、もっとすごいことできるんじゃないかと」
「……………」
「どんな天才にも限界があって……なんつーかな、俺的には、そ、そういう答えになるんですけど」
 やべー、もしかしなくても、また、ずれまくってんのかもしんねぇ。
「甘いな」
 しばらく黙った後、神尾はそう呟いた。
「甘い上におめでてぇときてる、俺もお前みたいになりたいよ」
「す、すいません」
 人に、自分が持っている感情を伝えるのって難しい。
 言葉って難しい。
 でも――歌なら、ちょっとはわかってもらえるような気がした。言葉では表せないニュアンスというか、パッションみたいなものが。
 まぁ、そもそも神尾のような人が、コンサート会場にまじっていたら、女の子たちがびびってしまうだろうけど。
「あ、雅君、いたよ」
「どこいったんかと思ったら、あほぅ、探したやないか」
 背後で声がしたのはその時だった。
 どやどやと、部室の階段を降りて、部員たちが駆け寄ってくる。
 彼らの背後に、マネージャー小泉旬の姿を認め、雅之は普通に驚いていた。
「行くんやろ、そろそろ」
「がんばってこいよ、アイドル」
「で、元気に戻って来い!」
 そっか、小泉君が迎えにきてくれたんだ。これから移動だ。で、明日から、憂也いわく「死のロード」が始まる。
「奇跡おこそうで、アイドル」
 ミラクル中田に、ばしっと背中を叩かれた。
「絶対勝とうで、イーグルスに!」
 有りえない奇跡。神尾の言葉を借りなくても、全員がその現実を知っている。
 が、全員バカなのか能天気なのか、うおーっっと、声を張り上げていた。
 一人肩をすくめる神尾の傍に、仙波が歩みより、何か言葉をかけている。
 いいチームじゃん。
 雅之は、軽く目を潤ませながら、何度も拳をつきあげた。
 つか、最高じゃん、このチーム。
 ここで見つけた感動を、早く――早くあいつらにも伝えたい。


                  9


「あ」
「あ、」
 同時に声を出していた。
 ほとんど仕込みの終わった薄暗い場内。
 照明がついているのは、ステージと前方のスタッフシートだけで、そのステージでは、音響担当の最後のチェックが始まっている。
「チェ、チェッ、チェッ」
「あー、あー、」
 とか言う、どこか間の抜けた音の中、照明器具を抱えた凪と、女連れの海堂碧人は、呆けたように互いの顔を見合わせていた。
「もしかして……こういうバイトもしてたわけ?」
 最初に我にかえったのは、碧人の方だった。
「まぁ、そんな……とこですけど」
 凪はまだ納得できないまま、レザーのジャケット、高価そうなジーンズに身を包んだ男をまじまじと見つめた。隣立つ着飾ったスレンダー美人は、大学生風でもあるし、水商売風でもある。
 碧人の背後からは、スタッフの慌しい足音と怒声が響いている。リハーサルまであとわずか。ホールはまさに戦場さながらの修羅場だった。
 てゆっか、そんな中に、なんだってこんな奴らが紛れこんでいるんだろう。
「あー、俺、見学」
 凪の疑問を察したのか、碧人はかすかな笑みを浮かべた。
「彼女が、ストームみたいっていうからさ、言ったろ、親類がここで働いてるって」
「………ああ」
 なるほどね。
「ねぇー、つまんない。それよか将はどこいるの」
 碧人の隣の女が、甘えたように鼻を鳴らした。
 将?
 凪は、ちょっとびっくりしてスレンダー美人を見上げた。
 もしかして、柏葉将のこと?
「ああ、会ってみる?」
 と、平然と碧人。こころなしかその口調は、凪を挑発しているようでもある。
「俺が頼んだらなんとかなるしー、いってみよっか、あいつらの楽屋」
「きゃあ、うれしいっ」
「……………」
 女の肩を抱き、碧人は「じゃ」と、凪に片手を挙げた。
 会う?今から?この状況で?
「………いいかげんにしなさいよ」
 一瞬唖然とした凪は、思わずそう呟いていた。
 今がどんな時で、
 周りがどんな状況か。
 このバカには、そんなこともわかんないんだろうか。
 ぐいっと、背後から碧人の腕を掴んで歩き出す。「おい!」抗議されても、有無を言わさず、ぐいぐい引っ張る。女の金切り声は取り合えず無視しておいた。
 ロビーに出ると、碧人は凪の腕を振りほどいた。
「なんだよ、離せよ、何考えてんだよ」
「相手、大学の人ですか?」
 憤然として場内に戻ろうとした男を、凪は手を広げて遮った。
「え?」
「彼女には、お父さんはお医者さんってことで通してるんですか。聞いたから、ミサちゃんから」
「……………」
「海堂さんのお父さん、世間体気にして、名前を別性でとおしてるって。レインボウの前原さん、それが海堂さんのお父さんなんですよね」
 ものも言わず、碧人は、凪をにらみつけた。
 カットされた細い眉が、神経質そうにぴくぴくしている。
「……何が言いたいんだよ、お前」
「別に」
 カツカツと苛立ったヒールの音。
 凪と翠人の背後から、同伴していた彼女が怖い目をして近づいてくる。
 凪はそれを認め、かすかに笑って男を見上げた。
「テニス部かぁ、なんか楽しそうですね、スクールライフも」
「……………」
「はいっちゃおうかな。海堂先輩とは、家族ぐるみのおつきあいだしー」
「……………」
 わずかに眉をひくつかせた男は、すぐに状況を理解したのか、苦い顔で肩をすくめた。
「ちょっと碧人、なんなのよ、こいつ」
 不満顔の女を脇に押しのけ、碧人は、凪の耳元に口を寄せる。
「で?君の要求はなに、大好きなストームの邪魔をするなってこと?」
 バカにしたような声だった。
「それもありますけど」
 凪は少し考えてから、ある閃きを口にした。
「はぁ??」
 男の顎が、がくっと落ちる。
「ミサちゃんから聞きましたけど」
「ふ、ふざけんな、なんだって俺が」
「東欧の付属あがりの人たちって、親が医者かどうかがすごいステイタスになるんですってね。いいのかな、今さら、そんな嘘がばれちゃっても」













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