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 試合終了のホイッスル。
 ほとんど味方のゴール前に張り付いていた雅之は、信じられない思いで顔をあげた。
「すげー」
「まじ?」
「やっ、たー……」
 口々に呟き、90分フルで走り続けたメンバーたちが、ばたばたと倒れる。
「すごいじゃないっすか、みなさん腕あげましたね」
「がんばってください、応援してます」
 同じようにぜいぜいと息を切らしつつ、ずっと練習相手を務めてくれている高校生チームがグランドを引き上げていく。
「カット!」
「次、反省会いこっか」
「いや、今日は祝勝会でいいんじゃない?」
 照明が下ろされ、カメラも止まる。フィールド脇に詰めていたスタッフから声が飛ぶ。
「初勝利おめでとう!」
 バラエティ番組の企画「崖っぷちサッカー部」、それが、正真正銘初勝利の瞬間だった。
 後半開始直前に取った、虎の子の一点を守り抜いた勝利。
 しかし、グランドに仰向けに倒れながら、雅之は思っていた。
 今日が最終ゴールならともかく、こんなんじゃ、百年たってもイーグルスには勝てないと。
「やっぱ、すげぇや、神尾さんは」
「あの人一人入っただけで、なんかこう、くっと締まるもんな」
 汗を拭き、痛めた足をひきずりながら部室に戻るメンバーたちが口々に呟いている。
 ようやく起きた雅之は、転がったボールを拾いながら、前を行く男の背中を観た。
 神尾恭介。
 一人だけ際立って長身の男、現役を退いて五年近くたつのに、その滾るような肉体は、何かの熱をもてあましているようにさえ見えた。
―――マジで……やる気あんのかな。
 先日、雅之は、半ば期待しつつ、半ば疑問に思いつつ、再び戦線に復帰した男を受け入れた。
 練習に参加しはじめた神尾と仙波の様子は、実際かなり微妙だった。
 特にふざけている風ではないが、熱心にやっているとも思えない。
 練習には最後までつきあってはいるものの、ゴールキーパーの仙波はともかく――神尾が全力を出し切っているとは、雅之には到底思えなかった。
 正直、今でも雅之は、神尾の態度がよく判らない。
 今日も何度か、パスを預けようとしてできなかった。とはいえ、神尾は、ずっと引き気味でプレイしていて、前線にあがることは殆どなかったのだが。
「雅君、」
 と、肩を並べつつ、おはぎが気遣うような声をかけてきた。
「……信じられないのは判るけど、現実、あの人たちがいないと難しいからさ」
 雅之は、自分の内心を見抜かれていることに、わずかな驚きをもっておはぎを見あげる。
「そやそや、ガチンコ勝負ゆうても、興行やしな、形にならんと絵になれへんし」
 反対側から駆け上がってきたのは、ミラクル中田である。
 雅之の肩くらいまでしか背がない男は、技術で言えばかなりのものを持っている。その身長だけで、名門国実高校のレギュラーから弾かれ続けてきた男。
「私情はフィールドにもちこんだらあかんよ」
 中田は、さばさばした口調で言った。
「わいも経験あるねん、外のごたごた中に持ち込んで、うまいこといった試しはないねん」
「ま、それはそうなんですけど」
「もともと奇跡でもおきん限り、一点だって取れるはずのない試合や。なんか起こせるとしたら、気持ちしかあれへんし」
 そういい差し、中田は、転がっていたボールを、背後のゴールネットめがけて蹴り上げた。
 豪快なシュートが、ネットを揺らして突き刺さる。
「………気持ちええな」
 中田はそう言い、狐にも似た吊り目を細めた。
「こんなに気持ちのええスポーツはないで、それはな、サッカーちゅうのは、どんだけ上手い奴がおっても、一人じゃなにもできんからや」
 おはぎが黙って、優しい微笑を浮かべる。
「雅君は、小学校までだっけ」
「あ、はい」
 中学になって、近所にクラブチームがなかったこともあり、なんとなく部活だけは続けていたが、J&Mに入って、やがてそんな時間もなくなった。
「じゃあ、まだ、本当の意味の醍醐味はわかんないかなぁ」
「そやなぁ」
 おはぎとミラクル中田は、2人にしか判らない何かの感情を共有しているようだった。
「雅君には感謝してるよ、今、僕だって」
 そう言ってゴール目指して駆けたおはぎは、戻ってきたボールを再びゴールに叩き込んだ。
 普段の、のろのろとした動きからは、想像もできないくらい切れ味のあるゴール。
「目茶苦茶充実してるんだ、昔を思い出した、マジで思い出した」
 そのボールを再び駆け込んだ中田が蹴る。
 夕闇が、グランドに濃い影を焼き付けている。
「実業団の監督に、お前みたいなバカにサッカーなんて無理だ、って言われてさ、それで辞めた。なんで辞めたんだろ、ずっと考えてた、なんであれくらいのことが我慢できなかったんだろって」
「そういうもんや」
 中田が腰に手を当てて苦笑する。
「あとになって気づくんや、……なんだってそうや、そういうもんや」
 部室のある方角から、ゴローの呼ぶ声がする。
「戻らんもんは戻らへん、でも、戻せるもんは取り戻したらええだけや」
 風に、桜の香りが交じっていた。
 雅之の目の前を転がっていくボール。それを目で追った途端、黒い影が、ものも言わずに飛び込んできた。
 ごうっと風が突き抜けた感じだった。
 強烈な激しさでゴールネットを揺らしたボールは、戻ってさえ来なかった。回転したまま、地面にとどまり続けている。
 雅之ははじめて、このグランドに、まだ神尾がいたことに気がついた。
「奇跡なんて、千年待ってもおきねぇぜ」
 神尾恭介は、皮肉に満ちた口調で言った。
 この男の前だと、どうにも感情的になる雅之は、咄嗟に反論しようとした、が、それをミラクル中田に抑えられる。
「じゃ、なんで戻ってきはったんですか」
 中田の問いに、強面の男は唇をゆがめて笑った。
 いつの間にか、部員たちがぞろぞろと戻ってきている。
 何か、騒ぎでも起きたのかと思ったのか、ゴローやモギーなど血相を変えている。
 それを横目でちらっと見て、神尾は悠然と言い放った。
「なんで戻ったか?教えてやるよ、恥かかねぇですむと判ったからだ」
 恥をかかなくてすむ……?
 言われている意味がわからなかった。
 雅之は、眉をひそめたまま、一人でリフティングをはじめた神尾を見あげた。
「奇跡が起きない代わりに、筋書きがあるって判ったからだよ、試合は2−1でお前らの負け、ラストの感動的な一点で、涙のフィナーレなんだとさ」
「かっ、かかか、かっっ」
 一緒に駆けつけてきたカメラマンが、口をばくばくさせているのが判った。
 そして、その表情で――雅之だけでなく、そこにいる全員が、神尾の言葉が嘘でないことを知った。
「………ちょっと、待てよ」
「意味わかんねぇし」
「ふざけんなよ、オイ!」
「バカにしてんのかよ、俺たちを!」
 ほとんど逃げ腰のカメラマンを、一瞬唖然とし、それから怒りをみなぎらせた部員たちが取り囲む。
 ははは、と神尾が楽しそうに哄笑した。
「そうだよ、最初から馬鹿にされてんじゃねぇか、つぅか、今頃気づいてんなよ」
「神尾さん!」
 さすがに雅之は、掴みかかる寸前だった。それを、ぐっと中田に腕を掴んで止められる。
「つか、もともと、ばかにされてナンボの仕事やってんじゃねぇか。笑えるよ、何クズが熱くなってんだよ、何ありえねぇ夢みてんだよ」
 飛び出そうとした雅之を遮るように、中田が、その巨体にぶつかっていった。
 あ、
 全員が息を引いたが、簡単にそれは、神尾の腕に振り払われる。
「ボケてんじゃねぇよ、チビ」
「なんだと、こらぁ!」
 お笑いに転進するまで、街でチンピラまがいのことをしていたという中田は、肩のやくざじみたタトゥといい、こうなると凄みのある男になる。
「国実でレギュラーもとれないてめぇが中心か、それでどうやってプロに勝とうってんだよ」
「たった二年かそこらでプロをクビになったてめぇに、言われたかねぇんだよ!」
 跳ね起きた中田が、再び神尾に殴りかかる。
 それを、逆に腕を掴んでねじあげられる。
「奇跡なんて起きねぇんだよ!」
 神尾は、激しい口調でそう言った。
「そんなもんな、この世界のどこにもないんだよ!」
 中田が、後ろ足で砂を蹴り上げる。それは、神尾の顔にかかり、ひるんだ刹那、元ヤンキーは身を翻して拳を固めた。
「まっ……っっ」
 言葉より、身体が出ていた。
「雅君!」
「雅君!!」
 神尾を庇い、中田の拳ごと、背後にぶっ飛んだ雅之は、肩で息をしながら顔を上げた。
―――こ、こえー……。
 痛みより何より、心臓がドキドキしている。
―――生の喧嘩って経験したことねぇけど、こんなかよ。
 そういえば、ああみえてキレやすい憂也が、何度かこんな状況になってたっけ。
 将君とも、ほとんどつかみ合いになりかけてた時もあったし。
―――そうだ。
 雅之は、意を決して顔をあげた。
「か、神尾さん、」
 怒るのは、挑発するのは、憂也も将君もそうだったけど、何かを判って欲しいから。
「………なんだって、そんなこと、わざわざ俺らに言うんですか」
 口にはできない感情を、誰かに判って欲しいからだ。
「そんな話聞いた以上、まともに試合なんてできないじゃないっすか」
 自分からは、絶対折れない人がいる。
 降りることができない人がいる。
 ゆがんだ感情を、怒りとか、そんなものでしか表せない人がいる。
―――俺、ラッキーだな、もともとあんま、プライドないから、いつだって降りていける。
 まぁ、もともと降りれるほど高いトコにいるわけじゃねぇけど。
「戻ってきてください!」
 腕をついて膝を折り、雅之はそのまま頭を下げた。
 全員が、それには唖然としているのが判る。中田などは舌打ちし、露骨にいやな顔をする。
「なんや、ええかっこしいやな」
 そんなんじゃない。
「戻ってください、お願いします!俺らをまともなチームにしてください!」
 雅之は、額が土に触れるまで頭を下げた。
 神尾は何も言わない。横を向いたまま、眉ひとつ動かさない。
 それでも、雅之は思っていた。
(奇跡なんてねぇんだよ!)
(そんなもんな、この世界のどこにもないんだよ!)
 それは、確かに、かつてはそう信じていて、信じて信じて、待ち続けて、そしてそれが絶望に転化してしまった者の、魂の叫びのような気がした。
 なのに、多分まだ信じている。
 どこかでそれを信じている。
 だから、ここに、神尾は今立っている。


                  4


「……すごい数字だな」
 エフテレビ編成局長室。
 ドラマ部からはじまり、バラエティ、社会部を経て順当に局長になった男、新藤庸司は、手渡された報告書を見て、思わず眉をあげていた。
 春の新番組一覧。
 人気タレントを揃えたドラマ、他局の追随を許さない歌番組、すっかり定番と化したレギュラーのバラエティ番組。
 その中にあって、ダントツの一人勝ちは、意外にも、この2月から始まった新バラエティー「いきなり夢伝説」だった。
 J&Mとの共同企画ではじめた番組。年内デビューが内定しているヒデ&誓也を起用したアドリブ企画が中心の番組。
 正直、新アイドルの人気だけが頼りの――まぁ、よくもって、年内かな、と思っていた番組だった。
「視聴率の動向がはっきりしてますね、瞬間最高は、いつも崖っぷちサッカー部のエンディングです」
「ふん……」
 その崖っぷちサッカー部。すでに生放送で、試合中継が決まっているという。
 東京イーグルスは、元はエフテレビがスポンサーとなってたちあげたクラブだ。Jリーグ発足と共に経営からは手を引いたが、今も、大株主であることには変わりない。だから、今回の無理も聞いてもらえたのだ。
「とにかく視聴者からの激励や問い合わせが殺到してます。試合観戦チケットも、当初の予想をはるかに上回るペースで観覧希望者が殺到しまして――このまま終わらせるのも惜しいので、製作側としても、もう少し引っ張ろうかという話になりました」
「それで?」
 広報部長の説明に、新藤は眉ひとつあげずに先を促す。
 試合に先駆けて、ヒデ&誓也がミニライブをやることになっている。客は、それが目当てなのか、それとも――
「試合終了後、未公開映像を編集して、5月いっぱい、数回にわたって放送します。Jさんにも、そこの了承は得たんですが」
「ふん」
「サッカー部のエンディングなんですがね、実は、そこに、5月からストームの新曲を入れてもらえないかと、副社長の真咲氏を通じて話があったんですよ」
「………新曲か」
 新藤はふと、顔を上げた。そんな話は聞いていない。
 というより、ストームは、ジャパンテレビとの確執もあり、CDは今後出さない方針だと聞いている。
「断る理由もないので、まぁ、了承しようかと思ったんですが、今度は、社長の」
「唐沢君か」
「はい、唐沢氏から依頼が入りました。別ルートで、番組のエンディングに、ヒデ&誓也の新曲を入れて欲しいと」
「………時期は」
「全く同じです、5月の第一週。何かの間違いでしょうが、新曲発表がかぶるのかとも思いました」
「…………」
 それは、今までの常識からいって、いや、芸能界の掟として、絶対に有り得ない。
 同じ事務所で、同じ時期にCDを発売するとは。
 しかも、ヒデ&誓也は、これからJが、総力をあげて売り出そうというユニットである。
 ギャラクシーに以前の勢いがなくなっている今、これからのJは、貴沢頼み一本になる。過去に例のないほどのセールスをたたき出し、ヒデ&誓也の威力を、日本芸能界に見せ付けたいはずだ。
「………少し、調べてみろ、J&Mは、昔から取締役間のいざこざが耐えなかった。今の唐沢社長と真咲氏も、犬猿の仲だと聞いている」
「わかりました」
 切れ者の広報マンは頷き、それからふと視線をあげた。
「以前もお話しましたが、嵐の十字架の件ですが」
「ああ、あれか」
 新藤は眉を寄せた。
 柏葉将が主演している、昼枠のドラマ。
「基本的には、真咲氏の要求通りでかまわない。あれも不思議な戦略だが、Jの現役をあれだけの予算で使えるんだ、文句も言えまい」
 一人になり、新藤は再び眉をしかめた。
 長年芸能界を見てきた男にわかるのは、また――新たな火種が、日本を代表する、今や追随する者さえ許さない巨大事務所に、生まれつつあるということだけだった。
―――Jには世話になった。
 が、共倒れはごめんだ。
 Jは大きくなりすぎた。キャスティングはおろか、番組編成にまで平気で口を出し、都合が悪い報道には、タレントを引き上げることで対抗される。
 それを、苦々しい思いで見ているのは、おそらく新藤だけではない。
 今まで散々煮え湯を飲まされ続けてきた、各局全ての首脳陣が、同様な憤慨を抱いているはずだろう。
 が、同様に、前例のないほどの大金を運んでくるのも、また、Jのアイドルたちなのである。
 緋川を代表するギャラクシーの時代が終わろうとしている。
 次世代を担うアイドルがここで失敗すれば、J&Mは、おそらく滑稽なほど惨めに急降下していくだろう。
 かつて、人気全盛の最中にJ&M事務所を独立、直後の不用意な発言でマスコミ全体を敵に回し、干されて消えた、田丸俊哉のように。
 大衆――それを誘導する力を持つマスコミというのは、さほどに恐ろしい怪物なのだ。
 今は全員が静観している、が、それが反撃に転じる時が、万に一つでも訪れたら。
「ま、お手並み拝見だな」
 新藤は低く呟き、手元の書類をばたん、と閉じた。












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