31
「よう」
そう声をかけると、タオルで額を押さえていた女は、薔薇色に染まった顔を上げた。
「いい年した大人が、何熱くなってんだよ」
そう続けて、将は、真咲しずくの隣に立つ。
フェンスに背を預けるようにして休息をとっていた女は、わずかに向けた視線を、そのまま元のグランドに戻した。
「いい年した大人だから熱くなるのよ」
「へぇ」
グランドでは、雅之と凪が、なかなか息のあったコンビネーションで、敵陣に攻撃を仕掛けているところだった。先ほどまで真咲しずくと死闘を繰り広げていた九石ケイは、まだその中でがんばっている。
「熱くなれる時なんてね、人生でいくらでもあるようで、そんなにはないのよ」
将が黙っていると、しずくは続けた。
「いい年になってからそれが判るものよ。あの時、ああしていればって思っても、時も若さも健康も、もう絶対に戻らない」
「………………」
「で、何か用?」
「……………ライブがしたい」
ゴムで髪を括ろうとしていたしずくは、さほど驚きもせずに、わずかに眉だけを上げてみせた。
「無理ね」
「……………」
「はっきり教えてあげるけど、ユーたちのスケジュール、今年の八月以降は絶対に入れちゃいけないことになってるの。その意味がわかるかしら」
「なんとなく」
しずくはうつむいたまま、長い髪をひとつにまとめる。
昔と何ひとつ変わらない、人形のように小さくて完璧な目鼻立ち。
が、将は、再会して初めて、その頬にも、首筋にも、――玲瓏とした美貌が増した分、かつての、少女らしいふくよかさと、みなぎるような若さが消えているのに気がついた。
「これから七月まで、主要都市の大きなハコは全部公演で埋まってるわ。常識的に考えて、この時期からのライブは無理よ」
「無理じゃねぇだろ」
将は、視線をグランドに戻しながら呟いた。
「日本全国、どのライブ会場も埋まってんのかよ。俺、何も横アリや大阪城とか、そのへんのこと言ってんじゃないんだぜ」
「……地方の文化センターか小さなハウス、そんなことろで天下のアイドルがコンサートでもするつもり?ヒデと誓也が、アジアツアーの最中に?」
「…………………」
「また、唐沢君に怒られるわね」
しずくはそれきり、黙ったままフェンスに背を預ける。
けれど、その横顔に、わずかな笑みが浮かんだのを、将は、確かに見たような気がした。
「…………つかさ」
「何?」
「別に」
言おうとして、言えなかった。
あんた、一体なんのために、俺らのマネージャーになったんだよ。
不思議に照れくさい気持ちのまま、将は、自分より目線が下になった女の隣に立ち続けていた。
32
「お前、料理の腕あげたな」
将がそう言って空になった皿を置くと、携帯をいじっていたりょうは、少し嬉しそうな目になった。
「ミカリさんに手伝ってもらったしね、いい奥さんになるよ、あの人」
「どう考えても聡にはもったいねぇよな」
グランドのあちこちに、持ち込んだキャンプ用のテーブルを広げての、焼肉ならぬカレーパーティ。
さすがに雅之が焦ってエフテレビに許可を取っていたようだが、なんだかもう、やりたい放題である。
「将来、ストームでカレー屋でも開くか。元アイドルが厨房に立ってます」
将がそう言うと、りょうは、子供のように楽しげに笑った。
「無理、俺、食堂に婿入りすることが決まってるから」
「……………」
笑いを消して、将は自分の髪をかきあげる。
「つか、そういうことは、本人の前で言ってやれよ」
「……………」
黙ってしまったりょうの隣に座り、将は嘆息して夜空を見上げた。
「今日のこと、連絡くらいはしたんだろ」
「……先約があるからって、友達と映画なんだってさ」
「ふぅん」
年末に揃っていたメンバーの、一人が今、欠けている。
もしかして、もう――戻っては来ないのかもしれない。
「今のメール、末永さんに?」
「………………」
明らかにメールを送信していたりょうは、わずかに眉をひそめて、携帯を閉じた。
「………将君、」
「なに」
「甘えたこと言ってもいい?」
「………………」
隣のテーブルでは、雅之と凪、それからミカリと聡が楽しげに盛り上がっている。まぁ、九石さんがその隣にでんと控えているから、それはそれで大丈夫なんだろう。
「前にも言ったけど」
自分の声が周辺に聞こえないことを確認して、将は静かな口調で続けた。
「俺さ、自分がもらい子だってわかった時、実はかなりやばい気分だった」
「………………」
「どっかでお袋の態度とか、視線とか……特に、俺がモモと一緒にいる時、神経とんがってんなーって思ってたから、余計にさ」
モモ。
将にとっては血の繋がらない三歳年下の妹、萌々。
「モモはまだガキで、恋に恋してるっつーか……、りょうにも、迷惑かけたよな、あん時は」
「……俺は、別に」
りょうはわずかに肩をすくめる。
「なんにしても、あの頃は、」
曖昧な動機で入った事務所が、自分の、たったひとつの居場所だった。
「……最初は、ぶっちゃけ、俺の後ばっかついてくるうぜー奴、くらいにしか思ってなかったけどさ、お前のおせっかいに救われたよ」
「そんなんじゃないよ」
「だから、いくらでも甘えていいんだ、俺には」
「………………」
わずかにうつむき、りょうは軽く唇を噛む仕草をした。
「そんなこと言って、肝心な時は突き放すくせに」
「それは、お前が大事だからだよ」
「………………」
少しの間黙っていたりょうは、携帯をテーブルに置くと、顔を上げた。
整いすぎた顔からは、なんの感情も読み取れなかったが、ある種の覚悟が透けて見えるような気が、将にはした。
「………怖かったんだ、俺」
そう呟いた途端、綺麗な目が、わずかにすがまる。
「怖かった、舞台の間中、本当はずっと怖かった。怖くて、不安で、夜も眠れなくて、東京に帰りたくて、気が狂いそうだった」
「………………」
「……失敗したらどうだとか、そんな怖さならいくらでも克服できるし、してきたよ。……そんなんじゃない、今回はそんな感じじゃ全然なかった」
りょうはもどかしげに首を振った。
「自分が自分じゃなくなるんだ、……よく判らない、上手く言えない、こんなに長い間、ひとつの役ばかりやっていたのが初めてだったからかもしれない、………役の感情が、舞台が終わってもなくならないんだ、俺に戻ってくれないんだ、将君」
その敏感すぎる感受性が。
りょうの持つ、宝石のような武器だと思う。
が、それは、一面ひどく脆弱で、もろく壊れやすい危険を常にはらんでいる。
「……はっきり言えば、舞台の間、俺は真白さんじゃない、他の人に恋してた。その時の感情を、正直、どう言い訳していいか……わからない」
「………………」
「わかってくれとも言えないし、言いたくない……というよりそんな自分を認めたくなかったんだ、俺」
だから、最前列のチケットか。
将は額を押さえて嘆息した。
「………つーか、一直線すぎるんだよ、お前は」
「ずっと悩んでた、……ずっと迷ってたけど、でも、決めたよ」
けれどりょうは、不思議なほどすっきりした目で将を見上げた。
「ラビッシュの東京公演、引き続き出ることにした」
「……………」
「出る、出ないは自分で決めろって、イタジさんに言われてたんだ。このまま忘れる方が楽だっていうのは判ってる。でも、これは」
真っ直ぐな目は、いつもそうだが、誰がなんと言っても、自身の結論を翻さないことを意味している。
「俺がこの仕事を続けてく以上、いつか、絶対に乗り越えなきゃならない壁だから」
「……そうだな」
手指を組んで頷きながら、将は、――自分だけが知っていると思っていた親友の本質に、去年帰国したばかりの女が、どうして気づいたのだろうと思っていた。
りょうは舞台をやるべきだ、それは、将自身もずっと思っていたことだから。
「……憂也が言ってたろ」
りょうは、静かな声で続けた。
その憂也は、ギターを片手に、鏑谷プロの連中に囲まれている。どうもあれ以来、結構な人気者になったらしい。
「アイドルやってる以上、恋愛はしないし、するくらないら辞めるって、……雅や聡君は反発してたけど、俺は………正直、びっくりしてた」
あの時、確かりょうだけは、何も言わないままだった。
将は、わずかに眉をひそめる。
りょうは顔をあげ、どこか寂しげな微笑を浮かべた。
「憂也があんなに優しいとは思わなかったら」
「……優しい?」
「アイドルやってる以上、俺の全部で彼女を愛してあげることなんてできないだろ?いつだって、半分の愛なんだ、その時は全てでも、ステージに立てば、一番大切なのは、俺のことを好きでいてくれるファンになる。俺は真白さんの恋人だけど、同時に、沢山の女の子の夢をかなえる存在でもあるじゃないか」
「…………」
「……どっちにしても、百パーセントの幸せなんてあげられない。時には傷つけるし、我慢させてばかりの関係だ、スキャンダルに巻き込まれる危険だってある。憂也はそこを言ってるんだ、我慢させるような愛し方しかできないなら、恋愛なんてしない。するんなら」
「…………」
「そもそも恋愛できないアイドルなんて――きっぱり辞めるって言ってるんだ」
そこまで一気に言いきり、りょうは、初めて憂鬱なため息をついた。
「……俺は……やめられないし、やめる気もない」
「…………………」
「決めるのは真白さんであって、俺じゃない。メールしたのは、東京公演に出るからって、……しばらくは会えないって、それを伝えただけ」
「別れるつもりか」
将にはそれしか言えなかった。
「その方が、いいんだろうね」
大阪で、不思議なほど明るかった真白の様子は聞いてはいたが、今のりょうの返事もまた、不思議なほど淡々としていた。
「…………五里霧中だな、」
将は、嘆息して呟いた。
「どういう意味?」
「恋愛も、仕事も、なーんも先が見えねーってこと、俺らはさ」
「そうかもね」
りょうが、ようやく表情を緩めて笑う。
「でも、見えてくることもあるんじゃない」
わっと歓声が聞こえたのはその時だった。
将は顔を上げていた。
向こうのテーブルで、人だかりができている。
その中央で、照れたように頭に手を当てているのは、
「……あの人、おはぎさんって人だろ、崖っぷちサッカー部の」
りょうは、優しい目になってそう続けた。
「まだまだ、未来は真っ暗だけど、ちょっとずつ進んでいけば、」
「……そうだな」
見えてくるものも、あるかもしれない。
「よーしっ、後半戦、いくわよ」
と、九石ケイの声がした。
まばゆい照明が、星さえかき消してしまう夜。
「ったく、いい年した連中にはかなわないよな」
将は、苦笑して立ち上がる。
負けられねーじゃないか、何が何でも。
上になったのは、目線だけなんて思われたくねーし、絶対に思わせない。
ふいに頬を撫でた暖かな風は、本格的な春の到来を予感させるような気がした。
(恋するアイドル end)
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