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8
玄関の扉を開けた真白は驚いた。
ドアの向こうから聞こえた声は、宮原彩菜のものだったが、そこに立っていたのは、彩菜だけではない。
「お前さ、体育館の鍵、そのまま持って帰ってない?」
篠原雅人は、不機嫌そうに眉をあげ、よく通る声でそう言った。
「先輩の携帯に、学校から連絡あって、さっきから真白さんの携帯にも、ずっとかけてたんですけどぉ」
と、その背後に立つ彩菜が、場違いに楽しそうに言う。実際、このアクシデントを楽しんでいるのだろう。
アクシデント、というより、こうして二人で真白の部屋まで押しかけてきた事そのものを。
二人とも、今日、学校で別れたそのままの服を着ている。
「……鍵……」
いきなりの訪問には驚いたものの、真白はすぐに、あっとなった。
そう言えばそうだ。学校の事務室には誰もいなくて――日誌は返して、鍵の返却記録も書いたけど、鍵自体は、ポケットに入れっぱなし……だったのかもしれない。
「ちょっと待って、すぐに見てくるから」
真白は慌ててきびすを返した。
申し訳程度の長さしかない廊下を抜けて、リビングに出ると、澪が、いぶかしむような視線をぶつけてくる。
すぐに終るから。
真白は小さく囁いて、澪の前を通り過ぎ、上着を掛けていた洋服棚を探った。
今日着ていた薄い夏用パーカー。そのポケットに、確かに体育館の鍵が納まっていた。
「ごめん、あった、どうしよ、私が学校に連絡しよっか」
そう言いながら玄関に駆け戻る。
「いいよ、俺が連絡しとくから」
来た時よりも、さらに憮然となっている雅人。けげんに思いながら真白が鍵を渡した時、
「ね、真白さん、もしかして、今、彼氏とか来てるんですか」
彩菜がふいにそう言った。
「……は?」
まさか、室内をのぞいたんだろうか。そう思った真白が、一瞬顔を強張らせてしまうと。
「これ、男ものですよね」
彩菜は、にやにやしながら、玄関に置いたままの、澪のスニーカーを指差した。
―――しまった……。
自分の迂闊さに舌打ちしたくなりながら、真白は曖昧に頷いた。
「もうっ、隅におけないなぁ、真白さんってば、彼氏なんていないって、ずっと言ってたのに」
「……えーと、それは」
「紹介してもらえません?すっごく興味あるんですよ、真白さんの彼、相当かっこいい人なんでしょうね」
「…………」
雅人はうんざりしきった顔で、そっぽを向いている。
彩菜は目をきらきらさせていた。実際、彩菜は、ここにいる雅人より価値の高い男がいるなど、想像してもいないのだろう。それを自分の眼で確認したいだけなのだ。
「ごめん、これって、泥棒よけなんだ」
真白は、咄嗟に言っていた。
「彼なんていないの。ほら、靴置いとけば、宅配の人だって、女の一人暮らしとかって思わないだろうし」
「えー、そうかな、でも、ここってどう見ても一人暮らしの学生用アパートですけど」
「用心深いから、私」
それで押し切ろうとした真白だったが、彩菜はけろっとした顔で言った。
「トイレ、貸してもらえません」
「……トイレ……?」
真白は唖然とした、わざとらしいにもほどがある。が、彩菜は全く悪びれる気配もない。
「もう、ずっと我慢してたんですよー、真白さんのおかげで、今夜はあちこち出歩きっぱなしなんです、ちょっと、借りまぁす」
そして、真白が何か言う前に、さっさと靴を脱ぎ始める。
「ちょ……待って」
真白は、本気で慌てていた。
トイレは、リビングと密接している。というより、狭い部屋だから、この小さな廊下を抜けてしまえば、室内の全ては丸見えだ。隠れる場所さえない。
「そ、掃除……してなくて」
「いいですよ、そんなの」
「ほ、ほんっと……ごめん!」
真白は覚悟を決めて、彩菜の肩を押し戻した。
「…い、いるんだけど……その……あまり、人に見られたくないんだ」
「へぇ」
彩菜が、ようやく足を止める。
「ま、まだ子供だし、全然いけてないの、……は、恥ずかしいから、マジで」
「ふぅん」
勝ち誇ったような声だった。
「確かに、靴からして子供って感じですよね」
わずかに赤らみ、それでも真白は事が収まりそうでほっとしていた。
が、
「何、お客さん?」
なんとなく、澪の気性なら、そうするような気もした。
背後にすっと立った澪の気配を感じ、真白は息を呑んで目を閉じる。
彩菜は、一瞬目をすがめ、それから、あっとでも言うように眉を上げた。
「こんにちはー、俺、真白さんの彼氏で、高校時代の後輩」
澪の声は楽しげだった。
「トイレなら、俺が掃除したから、どうぞどうぞ」
というより、澪じゃない別の人のような陽気さである。
「あ……いえー」
彩菜の声が戸惑っている。そして、ちょっといぶかしむような目で、澪と真白を交互に見る。
真白は澪を見た。どうするつもり、と言ってやりたかった。
が、澪は余裕の笑みを浮かべたまま、ジーンズのポケットに両手をつっこんだ。
「俺、タクヤ、STORMの片瀬に似てるってよく言われまーす、はじめましてー」
9
真白の心配をよそに、それだけ言うと澪は引っ込んだし、彩菜も、トイレを借りたいとは言わなかった。
心臓が爆発するほど驚かされた一瞬だったが、玄関の照明は暗く、澪は髪型を変えたばかりだった。そしてテレビで映る顔とは……やはり、どこか印象が違う。演技なのかもしれないが、雰囲気も喋り方も別人のようだ。
「なぁんか、真白さんの趣味ってわからなくなりましたよ」
帰り際、それでも彩菜は嫌味を言うのを忘れなかった。
が、それもどこか悔しげに聞こえる。
「まぁ……タ、タクヤとは昔からの腐れ縁で」
言い訳しつつ、真白は初めて、彩菜に対して胸がすっとするような優越感を感じていた。
かっこいい彼氏を持つとは、まぁ、こういう利点もあるわけだ。
「まだ、高校生だろ」
そこで初めて、それまで無言だった雅人が口を挟んだ。
真白は彼を見上げた。彩菜とは対照的に、男の目には、余裕の笑みが浮かんでいた。
「……高校……」
真白は口ごもる。高校生、というわけでもない。
「まさか、中退とかじゃないよな、この時期、大阪まで来てるってことは、学生でもないか」
雅人は独り言のように続ける。
「ふらふらしてるっぽいヤローだけど、遊びじゃないなら、ちゃんとした奴とつきあった方がいいぜ、末永」
明らかに、中に聞こえることを意識した声音だった。
雅人は、彩菜とは別の目で澪を観て、自分が男して勝っていることを、逆に確信したようだった。身長も体格も、年齢も――そして、学歴なども含め、おそらく全てで。
「……澪……」
今の言葉くらいで、澪が怒るとも思えなかったが、気分がよくなることもないだろう。
真白は、ため息をつきながら玄関の鍵を閉め、室内に戻った。
なんだって今夜に限って、こうも色んなことが起こるんだろう、と思いつつ。
澪は、さきほどと同じ姿勢のまま、消えてしまったテレビの方を見つめていた。
指を唇に当て、どこか虚ろな目をしている。
玄関で爽を演じた反動なのか、ひどく憂鬱そうな、動くのもおっくうそうな雰囲気だった。
「……澪、ごめんね」
戻って来る返事はない。
「………」
真白は本当に、今夜の澪が判らなくなりかけていた。
テーブルの上に置いた冷茶のグラスをトレーに載せて、真白はシンクに向かった。
「とにかく、お風呂入りなよ、着替え……サイズ小さいけど、私のシャツとかでよければ」
「真白さん」
暗い影に、ふいに覆われたような感覚だった。
「りょ…、」
振り返った真白は、シンクに背をあずけたまま、乱暴なまでの澪の口づけを受けた。
ひねった蛇口から、水が盛大に溢れている。
―――水……。
キスを受けながら、真白の意識は、何故か水流にいってしまっていた。
「……澪……」
顔をそらし、やんわりと逃げようとする。
が、澪の手に躊躇はなかった。
シャツの下から滑り込んだ手が、簡単に真白の胸を掴む。包むというより、それは文字通り掴むといった方が正確だった。
「いた……い、澪」
シンクに押し付けられた肘が、水流にあたる。水がはじけ、それが澪と真白のシャツを濡らした。
忙しなく澪が腕を伸ばし、蛇口を閉める。
そうしながら、噛み付くようなキスをやめようとしない。
腰が、シンクの縁に痛いほど押し付けられている。
「いや……澪」
その腰に澪の両手が回り、そのまま穿いていたズボンを脱がそうとする。
「やだっ……いやっ」
真白は首を振り、逃れようとした。
が、澪はひるまない、むしろ凶暴な力で、なし崩しに押し倒そうとする。
真白は、咄嗟にトレーを掴んでいた。
プラスチック製の、ごく軽いものだったが、それで反射的に、澪の頭を叩いていた。
小さくうめいた澪が、驚いた目で身体を離す。
「…………」
「…………」
一瞬、目があった。相変わらず――感情の読めない眼差し。
澪の動きが止まる、まるで、スイッチが切れたように、唐突に。
「……ごめん……」
囁くような声で、澪は詫びた。
そして落ちたトレーを拾い上げ、それを丁寧にシンクに置いた。
「……ちょい、頭……冷やしてくる……」
真白は、その場に立ち尽くしたままだった。出て行こうとしている恋人に、かけるべき言葉さえ見つけることができなかった。
玄関で靴を履く音。扉が軋んで開く音。
それらを聞きながら、真白はただ、うつむいていた。悲しいのとも、怒っているのとも違う。
なんでこんなに――かみ合わないんだろう、何もかもが。
それがただ、寂しかった。
10
11時少し前。
机の上で肘をついていた真白は、掛け時計を見上げ、そしてほうっと、嘆息した。
澪は戻らない。ひょっとして、もう戻る気がないのかもしれない。
身一つのようだったが、財布くらいは持っているのだろう。昔から旅なれた澪のことだから、駅前のホテルにでも泊まるのかもしれないし。
「…………」
待つのも疲れた。
真白は立ち上がり、電灯を消してからパイプベッドの上に腰を下した。
―――やっぱ……無理だったかな……。
そのまま仰向けに倒れながら、そんなことを思ってしまった。
雅人の挑発めいた嫌味――たったそれだけのことで、澪が焦燥を感じたのだとしたら、あまりにも子供すぎる。
言っては悪いが、恋愛に関して、常に分が悪いのは真白なのだ。澪は、日本中の、何千ともつかない少女たちを夢中にさせているアイドルで、周辺には人間離れした美貌を持つ、女優やタレントがひしめいている。
で、真白はただの一般人。むしろそっちを意識してもらいたい。
「……やめた」
真白は思考を遮って立ち上がった。考えると暗くなるばかりだ。
いっそのこと、今夜はあのまま別れておけばよかったのかもしれない。そうすれば――メールして、少しは気持ちの隙間を言葉で埋めあえたかもしれないのに。
「澪のバカ」
そして、ちょっと声を強めて言ってみた。
棚の上には、慌てて隠したSTORMの写真集。それを手にとり、すました横顔を見せている男を指で弾く。
「バカ、お子様、意地っ張り、トンチンカン、なにさ、かっこつけちゃって」
本当は、会いたかったくせに……
本当は……嬉しかったくせに……。
「…………ばか……」
ばたん、と本を置き、真白は両手を目の上に当てた。
わかっている。
会いたかったのも。
嬉しかったのも。
意地っ張りなのも。
奇跡のような再会に、素直に喜びを表せなかったのは――澪じゃない、自分だ。
―――勇気……。
(――こいつ、かなり勇気だして電話したんだ、……末永さんからかかってくるの、ずっと待ってたの、よく判ったから、俺。)
今も、澪は待っているのだろうか。
どこかで、じっと待っているのだろうか、私からの電話を――もしかして。
真白は携帯に手を伸ばした。それでも、少しためらってから、登録してあった番号を選択してコールした。
一回、二回、三回。
「…………」
発信音を聞きながら、真白は、自分の心拍数が上がっていくのを感じていた。
四回、五回。
澪は出ない。
もしかして―――出ては、もらえないのかもしれない。
息苦しくなる。電話したことさえ、後悔しそうになる。
その時だった。
「もしもし」
唐突にコールがやみ、すぐに聞きなれた声がした。
「澪……?」
心臓がドキドキしている。
こんなに緊張しまくった電話は、はじめてだ。そして、もう二度としたくない。
真白はようやく、澪が、あまりにそっけないメッセージだけ入れて切った理由が判ったような気がしていた。
「……うん、俺……」
「………………」
「…………さっきは……ゴメン」
電話のせいかもしれない。頼りない声だった。
真白は黙り、そして澪から伝わる沈黙を噛み締めていた。
繋がった――それだけで、さきほど感じた不安も焦りも、どこかに行ってしまったような気がする。
道路脇にでもいるのだろうか。背後からは、ひっきりなしに通る車の音が聞こえてくる。
「………澪が……好きなんだ、私……」
そして、真白は呟いた。
せいいっぱいの勇気をこめて。
「…もうちょっと、……話そうよ、私たち」
「…………」
「……戻ってきて……待ってる……」
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