11



「頭、冷えた?」
「冷えた、もう冷えまくり」
 明るい声。
 真白はほっとして、抱き寄せてくれる澪の腕に身体を預けた。
 玄関で、靴さえ脱がないままの抱擁。
 触れあう素肌は、本当に冷たかった。
 夏の終わり、日中は嫌になるほど暑いが、そういえばもう夜は冷える。
「どこにいたの」
「国道沿いのバス停んとこ……もう、バスの通る時間じゃなかったけど」
 見下ろしてくれる澪の表情は明るかった。
 再会して、初めて見るような明るさに、真白の気持ちも晴れやかになっていく。
「ぼけーっと座ってたら、タクシーが何台もスピードゆるめてった……乗っちゃおうか、とも思ったんだけどさ」
 背中に回された腕が心地いい。
「それがさ、さっきのバカップルが車とめて喧嘩してたんだ」
「え……?」
 驚いた真白が顔をあげると、澪がこつん、と額を合わせてきた。
「ほら、さっき、真白さんとこに、わざとらしい女が来たでしょ、そいつと一緒にいた男」
「…………ああ」
 彩菜と……雅人のことだろうか。もしかして。
 真白はさきほどの不愉快さを思い出して、眉をひそめた。
「俺に気付かなかったのかな、ちょっと離れたとこに車とめて、なんか知らないけど大喧嘩。挙句にさ」
 真白の頬に、軽く澪の手のひらが触れる。
「……叩いたの?」
 真白はびっくりして呟いた。
 それは――彩菜は、カンカンになって怒ったことだろう。
「結局女の子が車出て、タクシー拾って帰ってった」
「へぇ……」
「みっともねぇな……って、思ったけど、俺も同じことしようとしてたのかな」
「みっともないどころか、大した男でもないよ」
「…………」
「自信もっていいよ、澪の方が、絶対、何百倍もかっこいいから」
 真白は、澪の胸に額を預けながら言った。
 彩菜が雅人のことをそう思っているように――自分にとっても、澪以上にいい男なんていない。澪がアイドルだろうか、なかろうが。世界中を探しても、どこにも。
 ただ、それでも満足できないのが……芸能人である澪の立場なんだろうけど。
「……もっかい言って」
「何を」
 ぎゅうっと、強く抱きしめられた。
「俺が世界一かっこいいって」
「……いや、そこまで言っないし」
 耳元で、澪がかすかに笑うのが判った。
「じゃ……電話で言ってたやつ」
「………………」
 閉口した唇に、そっと唇が重ねられた。
 今日、三度目になるはずのキスは、初めての時のように、互いの体温が触れるだけで、胸が痺れるほどドキドキした。
「言って」
「ヤダ」
「言えよ」
「忘れたもん」
 くすぐったいようなキス。腰を強く抱かれ、何度もその手のひらがわき腹のあたりを上下する。
「言えって」
「やだってば」
 澪が唇を開く。そしてキスが深くなった。
 冷たくて、少しだけ甘い味。人気のないバス停で、所在無く缶ジュースを飲んでいた澪の姿を想像し、真白はますます、目の前の男が愛しくなった。
 長い睫、間近で見ても一点の沁みさえない綺麗な肌。
 バランスのいい肩に、すんなりと伸びた筋肉質の二の腕。
 わずかに唇を離した澪は、グラビアのように笑ってはいなかった。が、その表情は――絶対に真白にしか見られないはずだった。
 ひたむきに恋をしている、男の眼差し。
「いいよ、許す」
 その唇が、ふいに言った。
―――許す……?
「真白さんの目が、俺のこと好きだって言ってるから」
 かみあわなかったものが、ようやく一つになった気がした。
 澪のいたずらっぽい目を見て、真白は思わず笑っていた。
 澪のキスが、さらに深く、甘い熱を帯びてくる。
「……澪、」
「……黙ってて」
 バランスを崩し、真白は段になった廊下まで後退した。
 澪に押されるままに腰をつく。それに被さるように澪が膝をつき、互いに座ったまま、角度を変えて、何度も何度もキスを続ける。
 澪のスニーカーが、玄関にあがった砂を踏みにじる音がする。
 あとは、互いの吐息だけ。
「……澪……」
「……ん……?」
 心細くなり、真白は澪の背に手を回して抱き締めた。
 切なくなる。キス以上の繋がりが欲しくなる。必死に澪を求める。指を絡め、精一杯澪の情熱を受け止める。
 息苦しくなり、真白は呼吸を求めてあえいだ。が、澪はそれでも、キスをやめてはくれなかった。吐息も、唇も、とうに抑制を欠いているのが判る。判るからいっそう愛しい。
 さらに澪が体重をかけてくる。ぎりぎりまで背を逸らした真白の視界に天井の淡い電球が入ってきた。さすがに恥ずかしくなって、真白は顔を逸らしていた。
「……こ、ここじゃ……やだ」
「うん……わかってる」
 首筋に唇があてられる。真白はほっとして、澪の髪に指をからめて頭を抱く。
 澪の唇が、首から下に降り、そしてシャツ越しに胸に触れた。
 恥ずかしくなって身体を硬くしていると、何度も何度も、いとおしむようにキスを繰り返してくれた。
 髪から澪の匂いがした。懐かしくて愛しい匂い。
 澪がようやく顔を上げる。
 そのまま―――首すじを押し付けあうようにして、きつく、強く抱き締められる。
「俺のもんだって……言ってもいい?」
 囁くような声がした。
「……誰に言うの?」
「さっきの奴」
「もうっ」
 澪の子供っぼさに、半ばあきれながら、真白もまた、明るい笑顔になっていた。


                   12


 室内に入ると、もう澪にためらいはないようだった。
 真白の衣服を脱がせながら、何度も何度もキスを重ねる。
 冷房が効き始めた部屋、仰向けになった真白の上に、澪が重なって額を寄せた。
「綺麗だよ」
「そ……そんなこと言わなくていいよ」
 そんな、ドラマのワンシーンみたいなセリフ、絶対に私には似合わないから――。
 真白は普通の一般人だ。スタイルも平凡だし、顔だって普通。かけ離れた世界に住む人にそんな言葉を囁かれても、違和感だけが残ってしまう。
―――澪のまわりには……綺麗な人が、沢山いて……。
 思考は甘く遮られ、真白は絡んだままの澪の指を握り締めた。
 身体をずらした澪が、唇を重ねてくる。
 最初と違うのは、澪にどこか、余裕があるということだった。
 この二年――澪が、何もないままにすごしたとは思わない。信じたいし……信じているけど……でも。
「……真白さん……」
 囁かれる。耳元で。
 真白は澪の肩を掴んだ。額を肩に預け、声を殺した。
「……覚えてる……俺の指が……」
 澪の呼吸が少しだけ乱れている。
 歓喜のような、苦しいような、切ない時間が過ぎた後、吐息にも似た声を出し、真白は澪の腕を抱き締めた。
 ようやく――たまりかねたように半身を起こした澪が、自分のシャツを脱ぎ捨てる。ジーンズのボタンに手をかける。
 が、その手はそこで止まった。
 うつむいて、そして、躊躇うように真白を見下ろす。
「……もってない……よな」
「………………」
 持ってない。
 その言葉の意味に、真白は先ほどの恥ずかしさも忘れ、ぎょっとして澪を見上げた。
「…………俺も……まさかこんなことになるとは……」
 澪は困惑したように髪に手をあてる。
「…………」
「…………」
 だったら――ここまでしなきゃいいのに。
 真白は、半ばあきれ、半ば気の毒に思いながら身体を起こした。
「……ダメだよな」
「……ダ、ダメなんじゃない……?」
 申し訳ないが、それ以外に言いようがない。
 少しだけもの欲しそうな目になった澪は、が、かすかに嘆息して、髪をかきあげながらベッドに腰を下した。
「……いいの?」
 ためらいながら、真白はその隣りに膝をすすめる。
「……うん、いいよ、今夜は」
 歯切れの悪い言い方だったが、澪は真白の肩を抱き寄せ、額に軽くキスしてくれた。
「……マジで……いいの?」
 いいの、と聞きつつ、真白にも、ではどうしたらいいのかは判らなかった。
「いいんだ……俺、相当満足してるから」
「本当?」
「うん」
 白い歯を見せて笑う澪は、本当に嬉しそうだった。
 まるで――飼い犬のような無邪気な笑顔に、真白も自然と笑んでいた。
 が、腕を澪の腰に回そうとすると、それはやんわりと遮られる。
 真白が不審に思って澪を見上げると、綺麗な目が、照れたようにそらされた。
「…………ちょっと、一人に……」
「…………?」
「してもらえると、助かる……」
「……えっ」
 どういう意味?
 色んなことを想像して、真白はぎょっとして身体を離す。
 澪は、慌てて両手を振った。
「み、妙なこと考えなくていいよ、いや、このままだと、た……たてねーっつーか、なんつーか」
「………………」
 アイドルが、こんなに情けないことでいいのだろうか。
 と、思ったが、逆に今日ほど澪が愛しく思えたこともなかった。
 ドラマじゃない、現実の恋愛なんて、こんなものかもしれない。そういえば今日の再会からして、みっともないほどドタバタだった。
「じゃ、私、先にシャワー」
 そう言って真白は立ち上がった。最後に、澪の頬に軽くキスをして。
 それだけはドラマのワンシーンのように、綺麗に決った。


                   13


「あ……」
 澪が、真白に続いてシャワーを浴びている時だった。
 澪の衣服をハンガーにかけていた真白は、思わず声をあげ、誤って落としてしまった澪の財布を拾い上げた。
―――てか……どういうこと……?
「あー、さすがに眠い、明日さ、早いんだけど」
 タオルで頭をこすりながら澪が出てくる。真白は慌てて、それをもとあった場所に滑り込ませた。
「うん、じゃ、目覚ましセットしとこっか」
「ごめんな、じゃ、5時半くらいでいい?」
「いいよ」
 時刻は、もう深夜を大きく回っている。
 電気を消して、さすがに躊躇いはあったものの、ベッドは一つで布団の予備さえないから、狭いパイプベッドに、結局は二人で滑り込んだ。
「……これ……寝れねーよ」
 澪が天井を見上げつつ、閉口したように呟く。
 まだ湿り気を帯びた髪からは、真白が使っているシャンプーの香りがした。
「どうしよ……私、下で寝ようか」
「ううん、このままがいい」
 澪が腕を伸ばしてくれたから、真白は素直に、その腕に額を預けた。
 密着した身体はなめらかで温かかった。
 時計の音だけが聞こえてくる。
 蒼く翳った澪の横顔は目を閉じていたが、まだ、起きているんだな――というのは、なんとなく感じられた。
「……何……悩んでるの……?」
 真白は、囁くように聞いてしまっていた。
「……ん……?」
 眠たげな声が返ってくる。
「ごめん、眠いよね。……ごめんね」
 少し間があって、澪が薄く目を開けるのが判った。
「……色々……あってさ。上手くいえないけど、……メンバーみんな、同じとこで迷ってるような気がする」
「…………そうなの?」
「Galaxyさんが千八百万、MARIAさんが千五百万、スニーカーズさんも同じくらいで……SAMURAIさんが千二百万」
「なんの話?」
 真白が見上げた澪の横顔は、それでもわずかに笑んでいるように見えた。
「で、俺らが五百万、新曲一曲にかけるプロモの予算の話」
「………………」
「最初から期待されてねーんだ、STORMは、で、そろそろ解散の選択肢をちらつかされてる」
「………………」
「……みんな……将来のこと、色々考えてる。憂也は独立したがってるし、雅は今のままでいいって言う、将君は……別の方向にSTORMを持ってこうとしてるし、東條君は……」
 何考えてんのか、わかんねぇけど。
 そう言って澪は苦笑した。が、その笑い方は、どこかなげやりのようにも見えた。
「今日……本当は将君、俺のこと口実に、みんなでここに来たかったんだと思う。……なんとなく判るんだ。明るくしてても、俺ら、どっかで気持ちがバラバラになりかけてるから」
 真白は、今日、つかの間見せた柏葉将の怒りに、反発を返した成瀬雅之と、嫌に冷めていた綺堂憂也の反応を思い出していた。
「澪はどうなの……?」
「俺?」
「……STORMを……続けたいの?」
 澪は黙り、少しの間、天井を見上げていた。
「……この世界で食ってきたい。ここでダメになったら、俺、ただの高校中退したプーだから」
「…………」
「何も残らない……それだけは、嫌だ」
「………残るよ」
「そうかな」
 真白は、澪の手を握り締めた。さらさらとした感触の手のひら。
 こちらに向き直った澪の眼が優しくなる。
 わかっている、今の言葉こそがなぐさめだ――が、これは、澪が一人で解決していくしかないことでもある。
「残るよ、うちの食堂で働くってのはどう?」
「なにそれ、逆プロポーズ?」
「あ、なんか想像しちゃった、エプロンつけて包丁持ってるの、似合ってるよ、澪」
「へい、らっしゃい」
「あはは」
 そのまま引き寄せられて、抱き締められる。
 自分の首すじに顔を埋めた澪の髪を、真白は何度も撫でてやった。
―――不安なんだ……。
 それだけは、苦しいほど理解できた。
 十代で、親元を離れ、社会のレールから外れ、賭けのような仕事についた。未来が見えない――誰の未来だって見ることはできないけど、澪はまだ……二十歳にもなっていないのに。
「……やべ……」
 顔をあげた澪が、ちょっと唇を寄せてきて――途中でそれを止め、嘆息しながら天井を見上げた。
「やっぱ、俺、下で寝るわ、寝れそうもない、むしろ拷問」
「………………」
 むくっと半身を起こした澪の背中。真白は自分も起き上がり、言おうか言うまいか、ずっと迷っていたことを口にした。
「…………あったよ」
「え?」
「ふ、普通気付かない?財布の中。へんな落書きがしてあったけど」
「………………」
「た、多分、メンバーの人たちがいれたんじゃないの?ちょっと……読んじゃったけど……悪いと思ったけど」
 澪は立ち上がり、ちょっと慌てたような仕草で、真白が壁にかけておいたジーンズの傍に歩み寄った。
 真白も起きて、室内の電気をつけてやる。
 ごそごそとしゃがみこんだ、澪の背が動かなくなった。 
「……澪は……一人じゃないよ」
 その背に、真白は手のひらをあてた。
「……大丈夫……絶対に、乗り越えられる壁だから」
「…………」
「……大丈夫」
 うん。
 と、澪が頷いた気がした。
 うん、判ったよ……と。
 でもその思いは、今は真白ではなく、すでに東京に帰った仲間たちに向けられているのだろう。
「……さて、四回か」
「は……?」
「時間あるかなー、つか、体力持つかな」
「ど、どっちもないし、ちょっと待って、明日……早い……」
 閉口しつつ、振り返った澪と、額をあわせてキスをする。
 澪の顔が、本当に楽しそうだったので、真白には何も言えなくなる。
 おせっかいでやっかいな友人たち。
 でも今は――素直に、それに感謝しようと思っていた。
 





「男のエチケットと友情の証、忘れんなよ  憂也」
「倍にして返せバカ  雅」
「僕はさ、やめとこうって言ったんだけど……  聡」
「俺の方が愛してるぜ  将」








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