15


「……な、なんかすげぇな」
 小さく呟いた東條聡を横目で見て、将は無言で唇に指を当てた。
 客席前段の最後尾。
 りょうのことだから、多分、一番目立たず出入りできる席を用意してくれたのだろう。
 スケジュールをやりくりして、東條と2人でやってきた大阪。だが、将が最前列で見かけたのは、心配していた親友の恋人だけではなかった。
 J&Mの取締役兼タレント――美波涼二と、真咲しずく。
 2人が連れ立って、観劇に訪れている。
 あの2人には、今日の舞台、そこに立つアイドルはどんな風に見えているのだろう。
 子供っぽい嫉妬よりも、今日の将の気がかりはそれだけだった。
 お世辞にも、洗練されているとは言えない演技。セリフの言い回しが下手なのは、他の俳優と比較しても明らかだ、でも。
「………………」
 将は、今まで、俺が守ってやらなければと思っていた年下の親友が、自分など想像もできない所へ行こうとしているのではないかと思っていた。
 どこか――手の届かない遠い場所へ。
 上手く言えないが、そんな気がする。
 舞台は、そろそろ佳境にさしかかっていた。
 成功に目がくらんだ女の裏切りにより、政治犯として投獄された夫。
 が、すぐに女はそれを悔い、自らの身体を官吏に売ることによって、夫を死刑台から助け出す。
 しかし、再会の感激から一転、夫は妻を刺し殺すのである。
 裏切りは許せても、不貞は許せなかった。
 その一瞬の、憎悪にまで昇華した愛情が生んだ悲劇。
 取り乱して骸に取りすがる夫を、官吏が再び死刑台へと引き立てていく――。
 暗転。
 再び、灰色の舞台に、二つの棺が照らし出される。
「また、繰り返す、同じ生を、何度も、何度も……」
 運命の声。
 棺が静かに開き、最初と同じ、2人の男女が這い出てくる。
「そこに、意味などないのだ、何も、何も、何も……何ひとつ」
 男も女も、うつろな目のまま、蝋人形のように動かない。
 死者の世界。
 白い面を被った死者の行列が、舞台を横切り、鎮魂歌が流れる。
「人の生に意味などないのだ、ただ、大いなる輪廻を形成するためのひとつの歯車。あちらとこちらを行き来するだけの永久的な機械運動」
 鐘の音が響く。
 死者の行進が続く。
「さぁ、世界を織り成す輪に戻れ、魂たちよ、その中でしか意味をなさない生を、永遠に繰り返すがよい」
 灰色と黒の世界。
 その中で、りょうが演じる男がゆっくりと立ち上がる。
 着ていたベールを払いのける。
 ベールは腰にまとわりつく、あとは、何も身につけてはいない。
 ライトの下に現れたのは、十代最後のアイドルの――見事なまでに綺麗な裸身。



                 16



「ちょっとすごくない?」
「ショックだった、観るんじゃなかったって感じ」
「綺麗だったねー、りょうの裸」
「話、全然わからへんかった」
「最後のシーンって、舞台であそこまで見せてええの?」
 ざわめきと共に、興奮気味の囁きが遠ざかる。
 ようやく静かになったロビーを抜けて、将は、階下の楽屋に続く扉を開けた。
 階段を降りる――通路はスタッフでごったがえしていたが、目指す人の姿はすぐに見つかった。
「りょう」
 将は、大声で親友の名前を呼んだ。
 舞台終了直後の控え室。
 わずかな休憩を挟み、二時間後には次の公演を控えているせいか、閉幕後という雰囲気はまるでない。
「衣装、直して、大至急」
「音響さんに、ここチェックしてもらって」
 コンサートでも同じだが、本番で、初めて判るハグというのもかなりある。その細かな修正は、全て休憩時間でやらなければならない。
 他の出演者はばたばたと忙しそうだったが、そんな中、りょうは、一人でベンチに座り、呆けたように足元を見つめていた。
 そこだけ、ぽっかりと周囲から浮いているような、不思議な佇まい。
 まだ着替えさえしていない。半裸のまま、タオルを首にかけている。広げた膝で腕を支え、前かがみの姿勢で、肩だけがゆるやかに上下している。
 人ごみをかきわけるようにして歩み寄った将は、そこで思わず足を止めていた。
 カーテンコールで笑っていたはずのりょうは、あれから十分以上たつというのに、まだ、異常なほど疲労困ぱいしていた。目はうつろで、呼吸さえ苦しげだった。髪の先まで、汗が滴っている。
「……おつかれ、」
 そう言って軽く頭を叩く。ようやくりょうは顔を上げた。
 立ったままの将を見あげる、確かに観ているのに、まるで生気が戻らない目。
―――りょう……?
 まるで――見知らぬ他人でも見るような、関心のない眼差し。
「…………将君?」
 が、ふいにりょうは呟いた。
 別人のようにかすれた、ひどい声で。
「って、オイ、何、東條みたいにボケてんだよ」
 内心の杞憂を誤魔化すように将は笑ったが、りょうはそれでも、不思議そうに瞬きを繰り返すだけだった。
「そっか……終わってんだ、もう」
 それでも少しずつ、今の状況が飲み込めてきたのか、周辺を見回す目に、はっきりとりょうらしいものが戻ってくる。
「将君、来てくれてたんだ」
 ひどい声のままそう呟き、りょうは、ようやく傍らのペットボトルを取り上げた。
「忙しいから無理だと思ってたよ、東條君は?」
「撮影が押してるからって、終わったらすぐに、小泉ちゃんと」
 将はようやくほっとして、りょうの傍らに腰掛けた。
「すごかったよ、感動した、マジでお前はすげぇよ、りょう」
 そう言うと、綺麗な横顔が苦笑を浮かべる。
 本当はもっと、いい言葉で今の感動を伝えたいとも思ったが、それが悔しくなるくらい、先ほど観た舞台の印象は強烈だった。舞台――というより、りょう一人が放つ存在感が。
「ま、話はまるでわかんなかったんだけどさ」
「……つか、やってる俺が、そもそも意味わかってねーし」
「オイオイ、マジかよ」
 それはいくらなんでもないだろう。
「ほんと……マジ、わかってねーんだ、いつも、頭ん中、真っ白でさ」
 が、りょうは、かすれた声でぼそぼそと続けた。
「気がつくと始まって……気がつくと終わってんだ、そんな感じ」
「………りょう、お前ちょっと休めよ」
 声がひどい。
 将は眉をひそめていた。
 まだ今日は初回だ。これから1日二回、正味四十回近い公演をこなさなければならない。高音が不安定なりょうは、もともと発声が強い方じゃない、最後までもてばいいのだが――。
 よほど疲労しているのか、目さえまだ、どこか覇気がなくうつろなままだ。しかし、りょうはただ首を振るだけだった。
「……稽古の後は……いつも、こうだから、心配しないで、」
 空になったペットボトル、それにさえ気づかないのか、口をつけている。
「……だったらいいけどさ、なんか買ってこようか」
「真白さん、来てた?」
 立ち上がりかけていた将は、そのまま動きを止めていた。
「……………」
 来てたって?
 最前列のど真ん中だ。気づかないわけがない。
「来てた?」
 が、将を見上げるりょうの目は真剣だった。
「……いたよ、女の子と一緒に来てた」
「そっか、」
 ようやくその目に、ゆっくりと安堵が浮かぶ。
 将は無言で、そんなりょうから視線をそらした。
 気づかなかったのか。
 そんなことさえ、目に入らないものなのか。
「電話してやれよ、でないと後が怖いんじゃねぇ?」
 冗談めかして言った言葉だが、りょうは黙って首を横に振った。
「……電話くらいできるだろ、つか、それくらいフォローしないと」
「……フォロー?なんの?」
「なんのって、……」
―――マジでわかんねーのかよ。
 将は口ごもって、りょうの顔を見る。
 というより、りょうの反応はどこかおかしい。いつものりょうのようで、りょうじゃないような気がする……。
「片瀬くん、早く着替えて食事とらないと次がもたないわよ」
 そのりょうの頭上で、素っ気無い女性の声がした。
 将も、パンフレットで名前を知っている。この劇団のトップ女優、織出佳世。今日の舞台で、りょう相手に熱烈なラブシーンを演じきった美貌の女。
 演じた――というより。
「うん、今いく」
 ばっと顔を上げたりょうは、まるで子供のような声でそれに答えた。
 ふいに、その瞳に、生き生きとした光が戻った気がするのは、考えすぎなのだろうか。
「………………」
―――演じた、というより。
 将の目からみても、それは、本当に恋しあっているとしか思えないリアルさだった。
 恥じらい方、目の合わせ方、キスの後の表情――全部。
「あのさー、普通に考えて、彼女なら多少は傷つくんじゃねぇかな」
 こんな陳腐な役回りをするつもりではなかった。
 が、さすがに将は、少し腹立たしいものを感じていた。他の女の声に、嬉々として顔をあげたりょうの態度に。
 ようやく意味が判ったのか、りょうの眉がわずかに翳る。
 が、それはすぐに、あるかなきかの苦笑に変わった。
「真白さんなら、大丈夫だよ」
「……スゲー自信」
「仕事だし、あの人には関係ない、言い訳する気もないし、することでもないだろ」
 淡々とした口調。
「……………」
「今は……悪いけど、舞台以外のことは考えたくないんだ、俺」
 りょうが、どれだけ今回の芝居に入れ込んでいるか。
 それは、考えるまでもない。この、初日の舞台で魅せた演技が、全てを雄弁に語っている。
 将が黙っていると、りょうは軽く咳き込んで立ち上がった。
「俺、もう行くよ、将君、もし真白さんに会うなら」
「会わねーし、言わねー」
「…………」
「言いたいことあるなら、自分で言えよ。つか、はっきり言うけど、あれで怒んなかったら彼女じゃねぇと思うな、俺」
 将は、髪をかきあげながら立ち上がった。
 それを追うりょうの目がかすかに翳る。
「……上手く言えねぇけど、なんか末永さんから逃げてねぇ、お前?」
 思いつきで言った言葉だが、意外にも、それが核心のような気もした。
 りょうは黙ったまま、視線を下げる。
「お前の人生、今日の舞台が全部じゃないんだぜ、りょう」
「………………」
「自分のセリフ、他人に言わせる役者はいねぇだろ、そういう甘えられ方は、悪いけどお断りだね」


   
                  17



「よ、あんたが来てくれるとは思わなかったよ」
 ふいに、背後から声がかけられる。
 傾けたグラスにビールを注いでもらっていた真咲しずくは、振り返って顔を上げた。
「掃き溜めにツルだねぇ、あんたがただの会社勤めってのは、うちの女優に対する冒涜だよ」
「女優より、タフでスリリングな仕事ですよ」
 真咲しずくは、そう言ってから丁寧に一礼した。
 相手は――今日、千秋楽を迎えたばかりの舞台を演出した、演劇界の隠れた鬼才、海老原マリである。
「にぎやかな打ち上げですね」
「うちは基本、バカばっかだらね、やる時はもう、とことんさ」
 市内の居酒屋、そこの二階を借り切って行なわれている、舞台「W/M」の打ち上げ。
 集まった「臨界ラビッシュ」の団員と劇場スタッフ、それから幾人かの関係者たちは、すでに完全に出来上がっている。
 しずくの隣で壁に背をあずけると、マリは取り出した煙草に火をつけた。
「おやじさんは、あんたに歌手になって欲しかったみたいだけどね」
「けなげな努力はしてみたんですけど」
 海老原マリは、かつて、しずくの父と恋人関係にあった女でもある。
 しずくにしてみれば、この世で二人、頭が上がらない相手の一人。
「で、なんで、戻ってきたんだい」
 細い目が、探るようにしずくを見あげている。
「こっちが面白そうだから」
「へぇ……」
 何か言いたげだったが、マリは、少し黙ってから肩をすくめた。
「ま、あたしの杞憂ならいいんだよ。本題にいってもいいかい」
「どうぞ」
 目の前では、若い団員たちが、頭にビールをかけあっている。声のトーンを高くしないと、会話さえままならない騒音だ。
 煙草の煙を吐き出して、マリは初めて笑みを浮かべた。
「すごかったろ」
「ええ、いいもの見せてもらいました」
 しずくはいたずらっぽく笑って、持っていたグラスをテーブルに置いた。
「初日翌日のスポーツ新聞の見出しがすごかったですね。アイドル片瀬、舞台で脱ぐ、18禁ポルノ演劇」
 豪快な演出家は、かかか、と声をたてて笑った。
「死の世界を生に変えるエロス、ラストのラブシーンはリアルだったろ」
「見ごたえはありました、ただ、評価はされないでしょうけど」
「日本だからね、それはとっくに諦めてるさ」
「……………」
 日本では――まともな演劇評論家がいない日本では、「W/M」のような難解な劇は、まず、その演出の真意まで汲んで評価されることは絶対にない。
 マリは、ふっと煙を吐いた。
「………観客はアイドル見たさの女の子だらけ、大量販売システムの弊害だね、チケットは電話回線に偶然アクセスできた人間に買い占められて、そこで終わり、評判を聞いてふらりと小屋に入ろうにも、すでに完売してる有様だ」
「……………」
「欧米やアジアじゃこうはいかない。舞台の幕があがる、翌日の新聞で、批評家がいっせいに評価をくだす。チケットの売れ行きはそこで決まるんだ。舞台が打ち切られるか、ロングランになるか――だから、役者も必死になる」
 マリは遠い目で、かつて自分が長く生活してきた国のことを思い出しているようだった。
「日本はいつから、こんなつまんねー国になっちまったのかね」
「そのつまらない国で、あなたが最も嫌う商業演劇をあえておやりになったのは」
 しずくはグラスを持ち直し、所在なげに煙草を弄ぶ老婦人の横顔を見た。
「この興行収入で、海外公演を計画しているからじゃないんですか」
「だから、あんたの、くだらない企画にも乗ってやったんじゃないか」
 マリは、いたずらめいた目で、わずかに笑う。
「乗った以上は任せるけどね、ま、間違いなく仲間うちじゃ総スカンだ」
「感謝してます」
 目だけで笑みを交わし、2人は初めてグラスを合わせた。
「片瀬も連れて行きたいところだけど」
 ふいに呟いたマリは、口元に苦い笑いを浮かべた。
「それはあんたらが許さないだろうね。舞台人目指すなら、いくら積んでも買えない経験にはなるけど、行けば半年は戻れない」
「………海外ですか」
「あの子はアイドルだからね、ま、日本で楽しくやってるあたりがお似合いだ」
「……………」
 しずくは黙って、一口飲んだビールをテーブルに戻した。
 そういえば、さきほどからずっと片瀬りょうの姿が見えない。
 ついさっきまで、女性スタッフに囲まれて、何か楽しげに話していたのに。
「あなたの目からみて」
 しずくは、自分も壁に背をあずけ、マリの近くに顔を寄せた。
「……実際、片瀬はどうでした」
「難しいね」
 マリの返事は即座だった。
「新聞で散々酷評されたとおり、演技にかけちゃ素人だ、けど、感情のリアルさにかけては突き抜けてる」
 しずくを振り返り、にっと笑った顔は、いたずらを報告する子供のようだった。
「うちのお堅い天才肌の女優が、なにせ、半分本気で恋したくらいだ、そういう意味では感謝してるよ」
「それは、うち的にはまずいですね」
 しずくは笑って、再度、室内にいるはずの片瀬の姿を目で探す。
 が、やはり片瀬りょうはどこにもいなかった。その――マリが言う天才肌の女優の姿も。
―――ま、いっけどね。
 唐沢君に怒られるかなーと、思いつつ、しずくはマリに視線を戻す。
「去年の夏コンサートを観てから、片瀬に興味を持たれたと言われてましたね」
「不安定、情緒が突然変化する速度、躁と欝、静と動、正直、目が離せなかった。あの存在の不確かさは、ちょっとした驚きだったね」
 マリは目をすがめ、煙草を空いた缶にねじこんだ。
「使ってみたい素材だとは思ったけどね、まさか、あんたから逆オファーがくるなんて、思ってもみなかった」
 そして、しばらく無言で、目の前の喧騒に視線を移す。
「………卵だね」
 マリの呟きが、一瞬周囲の騒ぎに紛れる。
―――卵?
 しずくは眉をひそめていた。
「たくさんの感情を、殻で固く覆っている卵。その殻が全部壊れたら、多分、とてつもない役者になるよ、片瀬は」
「…………」
「ただ、」
 マリの横顔から、緊張感がふっと消えた。そして、苦笑しつつ肩をすくめる。
「それが全部壊れたら、今の片瀬じゃもたないね。間違いなく、精神的につぶれちまう」
 しずくは無言で、天井を見上げる。
「あの子は、それを無意識に判ってんだ。わかっているから頑なに殻を壊そうとしない。今回……そこに、無理やりヒビを入れたのはアタシだけどさ、実際はヒヤヒヤもんだったよ」
 マリは、よいしょ、と立ち上がった。
 しずくもまた、立ち上がっていた。
「片瀬を海外に連れて行けない、本当の理由はそれですか」
 それには答えず、マリはわずかに眉を上げる。
「この舞台の間中、ずーっと片瀬は恐かったと思うね。役の感情に飲み込まれ、自分が自分でなくなる恐怖、まぁ、経験してない者にはわかんない感覚だろうけど」
「……………」
「深淵の怪物を見下ろす心境さ、で、よく見りゃその怪物は自分なんだ」
 マリは、がりがりと頭を掻いた。
「真の役者なら、それを跳ね返してねじ伏せるものだけどね。片瀬の才能がものになるかならないかは、本人の精神力しだいだろうよ」















       
                              
                    



  >next >back