13


 それでも、もう後へは引けない。
 デパートの地下駐車場から車を出しながら、美波はそう思っていた。
 事務所に残るという選択は、もうできないし、したくない。
 しかし同時に、絶対だった古尾谷への信頼も、どこかで揺らぎかけているような気がした。
 どうして彼は、唐沢が言ったことを、教えてはくれなかったのだろうか。
 古尾谷は――藤通と東邦が繋がっているという可能性を、わずかでも疑ったことがあるのだろうか。
「……………」
 今は――今日は、考えるのをやめよう。
 ステアリングを持つ美波は、今日の午後聞いた、恋人の弾むような声を思い出していた。
―――涼ちゃん聞いて、オーディション受かったの、合格したの!
 本当か、それ。
 美波も、公衆電話の前で、思わず声のトーンを高くしていた。
―――うん、映画の端役なんだけど、それでも出番もあるし、セリフもあるんだから。
 出番のない端役なんてあるのか。
 そんな嫌味を返しながら、それでも美波も、浮き立つような喜びを感じていた。
 地味だけど、どこか不思議な魅力をもっている、愛季。
 派手な人気スターにはなれないだろうが、地道に続けていけば、きっといい女優になるはずだ。
―――オーディションに来てた監督さん、シンデレラアドベンチャーの最終公演みたんだって。
 そこだけは、少し複雑な声だった。
 なんだっていいじゃないか。
 美波は即座にそう言った。
 それで顔が売れて受かったんなら、それでいい。今は、どんなツテを使ってでも、チャンスを掴み取る時期なんだよ。
 美波にしても、デビュー前、近道や田丸のバックで踊ったことが、後のチャンスに繋がっている。
―――今日はお祝いするから、来てね。
 俺が買い物して行くよ。
 遠慮する愛季に、美波はそう言い切って電話を切った。そして今、仕事を終え、愛季の部屋に向かっている。車の後部座席には、デパートの地下で買った食材が積んである。
 愛季は――頑張っている。一度決めたことから逃げださずに。
 それに比べて俺はなんだ。何を迷って、ふらふらしている。
 そう思うと苦笑が漏れた。そうだ、あれこれ考えずに、もう一度、古尾谷と腹を割って話してみよう。
「おかえり、涼ちゃん」
 出てきた恋人は、いつも通りの笑顔だったが、それが明らかに精彩を欠いていることを、美波は敏感に察していた。
「あー、こんなに買ってきてくれたんだ……高そうなものばっかり」
 気のせいだろうか。
 目が赤く充血しているような気がする。
「うーん、言い出しにくくなっちゃったなぁ」
 キッチンに食材の袋を運びながら、愛季の背中がそう言った。それは無理に、明るさを取り繕っている風でもあった。
「……ダメだったのか」
「…………………」
 そういうことか。
 美波は無言で、テーブルの前に腰を下ろした。
 そもそも勘違いだったのか、それとも急に変更になったのか。
「ま、色々あるわよ、映画作りって大変な仕事だもんね」
 次、次、次のこと考えなきゃ。
 さばさばとした口調で言う愛季は、それ以上の説明を拒んでいるような気がした。
「……………」
 テーブルの上に、愛季のショルダーバックが投げてある。
 片付け上手な愛季には珍しい。
 バックの下から、薄いパンフレットがのぞいていた。
 美波は、そのタイトルと主催会社、そして連絡先を頭に刻んだ。
 その夜、何度も寝返りを打つ愛季の動向を、眠りに落ちる振りをしながら、美波はずっと意識していた。
「ごめん、今日は朝イチで、事務所の社長に呼ばれてるんだ」
 早朝。
 慌しく支度して出て行った愛季を見送った後、美波は、昨夜愛季が沈うつな目で見つめていたものを、確認すべきかどうか、迷っていた
 結局、ほとんど一睡もしていないはずの愛季が、引き出しからそっと取り出し、険しい横顔でじっと見つめていたもの。
「…………」
 室内に戻った美波は、引き出しを開け、それを取り出す。
 悪いとは思ったが、明らかにおかしい恋人の動向の方が気がかりだった。
 貯金通帳――。
 普段、お金には頓着しない女が、どうして。
 開いた美波は、逆の意味で固まってしまっていた。
 百万という大金が、そこには記帳されていた。振込み日は昨日。
―――どういうことだ……。
 振込み先のカタカナ名を見つめながら、美波は、黒い不安が、ゆっくりと這い上がってくるのを感じていた。



                14


「AVですよ、その会社」
「……………」
 やっぱり、そうか。
 受話器を持ちながら、美波は片手で額を押さえた。
 なんてことだ。
―――あの……バカ!
 一体、どうして、そんなものに。
 いや、それよりバイトの話を聞いた時、わずかに感じた影のような不安、それをもっと、真剣に考えてやるべきだったのだ。
「オーデイションの合格が、急きょ取り消されたのも、それが理由ですね。正確には匿名の電話があったそうなんですが」
「……電話、か」
「まだ作品は、市場に出回ってないですからね。誰が、どういう意図でした密告なのか……これは僕の推測ですが」
 電話の相手、松本崇は、そこでそっと声をひそめた。
「彼女は、東邦プロ出身でしょう。そして、……こんな言い方をしたら、美波さんには悪いですが」
「…………」
「最後の舞台で、彼女と美波さんは、東邦プロに恥をかかせた。その報復という線も、考えていいかもしれません」
 俺の―― 
 俺の、したことで。
 足元が揺れていく気分だった。美波は片手で自分を支え、かろうじて受話器を持ちなおした。
「あの子には可愛そうですけど、詐欺にひっかかったようなものですね。お金はすぐに返金して、解約を申し入れたそうですが、すでに撮られたものの版権まではどうにもならない」
「……………」
「出演って言っても……ほとんど別撮を合成したもので、あの子にはそれがAVだって、認識さえなかったんじゃないですか。それでも出演の事実は残る、永久的に――残酷なようですが」
「どうにも……ならないのか」
「残念ですが」
 松本は声を落とした。
「……あの子が、そんなものに出るようになった経緯に、そもそも東邦プロが絡んでいるなら――どうにもならない。それ以上の力を持ってでしか、ビデオの市場流出は止められません」



                  15


「あのー、もしかして、キャノンボーイズの美波さんじゃありません?」
 誰の声だろう、美波はグラスを置いて顔をあげる。
「うそー、本物」
「よかったら、同席させていただけませんか」
「………よ」
 綺麗に着飾った女性二人連れ。年齢は愛季ぐらいだ。世間知らずの裕福さが、その呑気な顔にも衣服にもにじみ出ている。
「え?」
 美波が発した言葉に、女2人が戸惑っている。
「うるせぇっつってんだよ、俺の前に気安く立つな!」
 振り上げた腕が、グラスに当たって弾け飛んだ。
「きゃーっ、」
「何、この人、最低」
 店員が飛んでくる。
 都心の高給ホテル。その最上階にある、会員制のクラブ。
 仕事がら、ここで飲むことはよくあったが、一人で来たのは初めてだった。
「美波さん、困りますよ」
「別室をご用意しますから」
「うるせぇ!」
 両肩を抱いて支えられながら、美波はただ、感情のままに声荒げた。
 あまり強くないはずのアルコール。
 なのに、いくら飲んでもまるで酔えない。気持ちだけが、どんどん深みに沈んでいく。
―――俺のせいだ、
 かわいそうですが、一度、ああいうものに出ると、まともな仕事は絶対に回ってはきませんね。
―――俺が、愛季を、
 所属事務所も、解雇する方針を固めたそうです、……気の毒な話ですが。
―――俺がまきこんだ、俺が愛季の、愛季の夢をダメにした……
「しっかりしろ、お前は自分の立場を理解していないのか!」
 いつの間にか、誰かに腕を引かれていた。
―――誰だ……
 強い力だ、逆らえない。もう、その気力さえ萎えかけている。
 ホテルの階下、暗い室内のベッドの上に、美波はそのまま投げ出された。
「ここで今夜は頭を冷やせ」
 逆光になった長身。見下ろしている冷ややかな眼差し。
 ベッドを軋ませて、男が身体を近づけてきた。
 美波はただ、それを見あげた。
「君の屈辱は俺の屈辱だ、君への挑戦は、俺への挑戦だ」
 囁きは力強かった。
―――唐沢……
「彼女を潰したバックに東邦がついているなら、それに対抗できるのは、J&Mしかない」
「…………」
「これから新会社の看板になる君に、スキャンダルはタブーだ。東邦は、君と彼女を別れさせたかったんだろう。……SHIZUMAの時と同じように」
 俺と――愛季。
「そして、この鎖でもって、君を永遠に縛るために」
 美波はうつろなまま、空を見つめた。
 俺のせいか。
 俺のせいで、愛季は。
「力には力で対抗するしかない」
 唐沢の手が美波のシャツの襟を掴み、美波はそのまま引き寄せられた。
「力だ、美波」
―――力。
「力だ、力だ、力が全てだ!」
「…………」
「それだけが、大切なものを守る唯一のものだ」
 大切なものを、守る。
 唯一のもの。
「俺に従え、俺のものになれ」
「…………」
 見下ろす瞳に滾るものは、希望なのか、絶望なのか。
 美波はただ、見つめることしか出来なかった。自分の視野の全てを覆い隠しているものを。
「あの男のいる場所に立つんだ、――2人で」



                16


「正直に言えば、私にはまだ信じられない」
 椅子を軋ませた男は、そう言ってゆっくりと立ち上がった。
 男の背後には、かつて、一斉を風靡したロックバンドのスチール写真が飾ってある。
 ギターを手にした無骨な顔と、今、美波の前に立つ、初老の男が重なった。
 J&M株式会社代表取締役社長 城之内慶。
 男はピンストライプのシャツを着て、グレーのタイを閉めていた。半分白く染まった髪は、これだけは若い頃と変わらないまま、軽いウェーブがかかっている。
 美波はただ、無言のまま立っていた。
 自分が何故、どうしてここにいるのか、不思議なくらい現実感が欠落している。
「この部屋はな、美波」
 城之内は、男にしては、やや甲高い掠れ声でそう続けた。
「たった一人の男のためだけに作らせたものだ。私、真治、平蔵、章吾、我々4人が、この事務所を立ち上げたのは、その男を、いつかもう一度ステージに立たせたかったからにほかならない」
 城之内 静馬。
 スチール写真の中央で、兄の慶とセッションをしている野生味を帯びた男。
「……もう、ついえた夢だ、……おそらく、永遠に」
 かすかに嘆息し、城之内は、椅子のひとつを愛しげに撫でた。
「我々4人は同士であり、同胞でもある、苦しみも悲しみも同じレベルで乗り越えてきた。何があろうと、裏切ることも、裏切られることもないと信じてきた……昨日までは」
 そして城之内は、静かな眼差しで美波を見あげた。
「言ってもらおう、美波、古尾谷は、本当に私を裏切るつもりだったのか」
「…………」
「言うんだ、美波、古尾谷について、この事務所を出ようと思った者全ての名を」
「…………」
 言えません。
 美波はただ、空を見たまま、無意識に答えた。
 拓海の笑顔が、ゆらめくように脳裏によぎって消えていく。
「勘違いするな、美波」
 背後から、冷ややかな声がした。
 この部屋に、美波を導いた男――唐沢直人。
「社長はすべてをご存知だ。その上で、君の口から、真実を聞きたいとおっしゃっておられるのだ」
「……………」
 それは。
「君の誠意と忠義を示せ」
「…………」
 これから事務所を襲う激変の、その裏切りのシンボルに、美波自身がなれ、ということなのだろう。
 ユダとして、新しい事務所で生きろと。
「………ひとつ」
 拓海。
(―――俺、……マジで、尊敬してますから。)
「ひとつだけ、条件が、あります」
(―――マジで、美波さんに、ついていきますから。)
 拓海。
 俺には、何もできなかったよ。
 俺にできることは――しょせん、これくらいだ。
 全てが終わり、最後に城之内は満足気に立ち上がった。









       

                    
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