11


「君は、ウィンストン・チャーチルという人物を知っているか」
 座りたまえ。
 最初にそういわれたものの、美波は立ったまま、ふいにそんなことを話し始めた長身の男を黙って見上げた。
「イギリスの政治家だ、1874年に生まれ、イギリスの内閣首相として第二次大戦、自国に勝利をもたらした英雄」
「…………」
 一体、なんの話だろう。
 美波は眉根を寄せたまま、まだ真新しい匂いがする室内に視線を馳せる。
 J&M事務所本社ビル四階。
 二十畳近くあるこのオフィスに、美波が足を踏み入れたのは初めてのことだった。
 昨年の事務所建替えの際、新しく作られた部屋。が、不思議なことに鍵はいつも閉められたまま、いまだ、一度も使用された形跡がない。
 入院中の真咲真治のために、城之内社長が、贅をこめて作らせたのだろうと噂されているが―――美波がよく知る真咲の気質は、例え退院しても、こんな部屋を望むとは思えなかった。
 応接机を囲む、革張りの五つの肘掛け椅子。
 アンティークな事務机と空っぽの書棚。
 それ以外に、何もない。
 異様なのは、入って正面の壁面に、相当大きなスチール写真が飾ってあることだった。
 白黒の―― 一昔前の、ロックバンドの演奏写真。
 唐沢直人はその前に立ち、ゆったりとした表情で微笑した。
「ウィストン・チャーチル。彼は政治家でもあり、同時に優れた文学家でもあった。そして、数々の名言を残してもいる」
 それがなんだ。
 美波は冷めた目で男を見つめる。
「Never give in― never, never, never, never, in nothing great or small, large or petty, never give in except to convictions of honour and good sense. Never yield to force; never yield to the apparently overwhelming might of the enemy」
「…………」
 また、昔のように自分の学歴や才能をひけらかしたいのか。それにしても、今日の唐沢直人の雄弁ぶりは、腑に落ちない。
 目をすがめる唐沢の表情が、少しだけ和らいだ。
「君は、本当の絶望を知っているか、美波君」
「…………」
 絶望――?
 黙ったままでいると、唐沢はかすかに笑い、視線を窓の向こうに馳せた。
「希望とは、常に絶望の向こうにある。けれどわれわれは、まだその向こう側に立ってはいない」
 暗夜を写し、どこか暗い瞳の色。
 初めて美波は、目の前に立つ男の、普段は決して見せない影の表情を見た気がした。
 直人には直人の哲学がある―― 
 真咲真治の言葉が、ふいに耳元で蘇る。
「かけなさい」
 再度、唐沢はうながしたが、それは、首を振って断った。
 美波が、ここへ来た本題はひとつ。
 契約更新の拒否と、自らの移籍を正式に申し出ること。
 それが判っているはずなのに、唐沢はまだ、一度もその話題に触れようとはしない。
「君の話を聞く前に、僕の話を聞いてほしい、美波君」
 美波の表情の硬さに気づいたのか、唐沢は苦笑して表情を緩めた。
「移籍も、独立も、基本的には君の自由だ。しかし、この事務所が背負っているものだけは、君にも理解してほしいんだ」
「……………」
 沈黙を、勝手に了承と理解したのか、
「……昭和40年代の初め頃だ、あの頃のJ&Mは、まさに絶望の只中にあった」
 見あげるほど上背のある男は、そう言って無人のデスクのチェアに腰掛けた。
「僕はまだ子供だった。が、事務所で経理をしている父親の仕事が、非常に上手くいっていないことだけは理解していた。毎晩アパートに訪ねてきては怒鳴りちらす若い男が怖くてね。僕は、母にしがみついて寝たものだ。それが借金取りだと知ったのは、随分後になってからだが」
「………………」
「……当時、J&Mを支えていた4人は、全員が二十代そこそこ、死屍累々の芸能界で、そもそも上手くいくはずがなかったんだろう」
 4人。
 美波はふと、五つ並んだ、真新しい肘掛け椅子に視線を落としていた。
 城之内慶
 真咲真治
 唐沢省吾
 古尾谷平蔵
 この事務所を設立したと言われている、4人の男。
 椅子は五つ。
 一人――足りない。
「4人が、もともとは東邦プロダクションに所属していたことは、知っているね」
 唐沢の声に、美波は無言で眉を寄せ、その背後にあるスチール写真を見あげる。
 白黒の写真、写っているのは、手にギターを抱えた三人の男。
 ハリケーンズ。
 昭和に、東邦プロからデビューし、以来、数々の記録を塗り替え、未曾有のセールスをたたき出した幻のロックバンド。
 J&Mを作った城之内慶と真咲真治は、そのハリケーンズのメンバーである。
 古尾谷と唐沢直人の父は、そのマネージャーと付き人。
 つまり、全員が、東邦プロ出身なのである。
「独立という道を選んだ元スターたちを、東邦プロは絶対に許さなかった。あの手この手で妨害し、徹底的に潰しにかかった。まだ若い彼らには、力も、そして、なすすべもない」
「…………………」
「甘い理想しかないバカな若者4人は、結局は芸能界という魔窟に、よってたかって食い物にされ、騙され、奪われ、わずかな希望の芽さえ摘み取られた。彼らが当時、背負わされていた借金は、今の物価で換算すると、十億近く、昭和四十年を過ぎた頃には、もう首を括るしかないほどの状況だったろう」
―――十億。
 美波は無言で、息をのんだ。
 アイドル路線が当たるまで。
 J&M事務所が低迷し、非常に困窮していたというのは、噂として聞いてはいる。
 が、自らの苦労話を決して口にしない真咲が、具体的な過去を話すことなど、一度もなかった。
「……自分が一番尊敬していた男が、泥水に顔をうずめるのを見たことがあるか」
 しばらくの沈黙の後、うつむいたままの唐沢は、低い声で呟いた。
「はいつくばい、憎んでも憎み足りない男の靴を舐め、何度も何度も――何度も何度も、汚泥の中に頭を突き入れ、乞食のように物乞いする姿を見たことがあるか」
「………………」
 囁くような声に、深い憎しみが滲んでいる。
「それが僕の父だ」
「…………」
「父は、仇敵でもある東邦プロダクションにはいつくばって土下座して、借金の肩代わりと、資金援助を申し込んだんだよ、美波君」
 わずかに笑い、唐沢は怜悧な眼差しを上げた。
「理想ばかり追う真咲福社長、プライドの無駄に高い城之内社長、口ばかりで実行力のない古尾谷平蔵……歌の上手いだけのキリギリスに、蟻の真似は決してできない。今までも、そしてこれからも」
 まっすぐにぷつけられる視線。
 美波は、思わず目をそらしていた。
 口先ばかりで実行力のない古尾谷――そこだけが、妙に強調されて聞こえる。そんなはずはない。あの人は、ただ、時期を待っているだけじゃないか。
 うつむく美波の耳朶に、机の軋む音が響いた。
 立ち上がった唐沢の背が、今は、窓辺に向かっている。
「破産寸前だったJ&Mは、結局は東邦の支援を得て、かろうじて存続することになった。しかし、それは同時に、大きな負の遺産を次世代に残すことになった」
 束の間見えた横顔に、暗い笑みが滲んでいた。
「ここから先は、決して口外してはならないJ&Mの闇の部分だ。未来永劫、口を噤み続けると誓えるか」
 黙ったまま眉を寄せると、それが答えと理解したのか、唐沢は静かに振り返った。
「借金の肩代わりと引き換えに、東邦プロから背負わされた代償は、J&M事務所を株式化すること、ハリケーンズに係る全ての権利を東邦プロに委譲すること、純利益の三割を、毎年、企画料として上納すること」
 三割。
 近年のJ&M事務所が、毎年稼ぎ出す金額を考えると、それは、信じられない数字になる。
「株式の一部は、当初から東邦プロが押さえている。正確には東邦が全額出資したダミー会社が。この事務所は――美波君」
「……………」
「いつでも、今、この瞬間にでも、東邦プロに乗っ取られる可能性を、常に抱えているんだ」
 動悸が、ゆっくりと高まっていくのを美波は感じた。
 ようやく、納得できていた。今まで事務所に感じていた様々な疑問が、全て。
 田丸俊哉、近道雅彦、悪ガキ隊らを輩出し、アイドルブームの最先端にありながら、決算期前になると、いつも資金繰りに窮していたこと。
 あまりにも安いサラリーに、設備の殆ど揃っていない薄汚れた建物。コンサートの衣装は全て使いまわしだったこと。
 なにより、どんな時でも東邦プロの横槍や嫌がらせに、ずっと屈し続けていたこと――。
「……何故、東邦は、一気にうちをのっとるなり、潰すなりしなかったんでしょうか」
 美波は、表情を固くしたまま、初めて言葉を繋いでいた。
「そんな真似をするほど、出て行ったハリケーンズを恨んでいたなら、何故」
「…………それは、正確な表現ではない」
 唐沢は、わずかに黙ってから、呟いた。
「出て行ったのとも違う、正確にはJ&Mとは、城之内や真咲が東邦を解雇された後に立ち上げた会社だからだ。それでも、東邦は許さなかった、その感情は恨みなどという、生易しいものではない」
「……………」
「言ってしまえば、それは、強烈な愛憎だ」
 愛憎。
 美波は、ただ、眉をひそめる。
「椅子は五つだ」
 唐沢は、振り返り、五つの黒皮のチェアに視線を落とした。
「ひとつ足りない。一人足りない、君は、それを不思議だと思わなかったか」
 1人。
 ここにはいない、最後の1人。
「1960年、日本は空前のロックブームに沸いていた。その中に生まれ、デビューしてわずか半年で、日本中を熱狂させるに至ったグループが存在した」
 そう言いさし、唐沢は、頭上にそびえるスチール写真を見上げる。
 美波もまた、男の視線を追っていた。
 写っているのは三人の男だ。
 ギターを抱えた男が、マイクを持った男と顔を寄せ合うように歌っている。その背後で、キーボードを叩いている長髪の男。
 キーボードは真咲真治
 エレキギターは城乃内慶
 そして、もう1人、マイクを持った男――、ここにはいない、いや、本来ならいるべきだった5人の1人。
「……………」
 どこか無骨な城之内の面影は、若くても今のままだった。
 まるで女性としか思えない真咲真治の美貌には、凄みさえ漂っている。
「そのグループの名はハリケーンズ、東邦プロダクションが総力を挙げて売り出し、至上空前のセールスをあげた、伝説のロックバンド」
 唐沢は、ゆっくりと背後の美波を振り返った。
「万人を狂喜させた彼らの歌う楽曲は、全て一人の天才が手がけていた。その天才に、当時東邦の社員だった一人の男が惚れ込み、盲目的に愛し、育てた。その天才の名は、ハリケーンズのボーカルSHIZUMA、君も知っての通り、城之内社長の、実の弟だ」
 城之内 静馬。
 その、名前だけは知っている。
 美波は黙ったまま、スチール写真の真ん中で、マイクを持っている男を、再度、見上げた。
 特に、際立った美男子というわけではない。
 なのに、一度見たら、二度と忘れられないような、不思議な魅力を持っている。
 涼しげに澄み、なのに射抜くような深い光をたたえた目。それが、怖いようで、美しい。白黒の写真の中で、一人、鮮烈な印象を放っている男。
「ハリケーンズの芸能界での成功は、SHIZUMAの才能、そして、無名時代の彼らを見出し、育て――売り出した、一人の男の献身的な愛があったからこそだ」
 ハリケーンズは。
 美波は眉を寄せ、自分の知識を手繰り寄せた。
 今は、完全に、芸能界の歴史から抹消されている。
 レコードは全て廃盤。その映像が、テレビに流されることも、決してない。
「その愛は、ハリケーンズを怪物バンドに育てると同時に、人気という檻に閉じ込めもした。SHIZUMAは、鎖を切って逃げようとしたんだ。城之内と真咲を連れ、独立しようと試みた。しかし、それは失敗に終わった」
「……何故ですか」
 心臓に、冷たい何かを流し込まれた気がした。まるで自分の未来を、そのまま予言されてでもいるような気分だった。
「独立と同時に、SHIZUMAにスキャンダルが発覚したんだ、それも、ミュージシャンとしては致命的な」
 致命的。
「盗作だよ」
 思いもよらない言葉に、美波は言葉を失っていた。
「まず、事務所が謝罪会見を行い、それを否定したSHIZUMAが、マスコミに噛み付き、結果として徹底的に叩かれた。もちろんそれは、独立封じに東邦がぶちあげた茶番劇だが」
 盗作。
 確かに、作詞作曲を手がけるアーティストとしては、最低な――致命的な醜聞。
「実際、盗作と言っていいなら、その事実は確かにあった。SHIZUMAの天才は常に不安体で、いつも狂気と紙一重だった。東邦は、そんな彼らに、ゴーストの作った歌を歌わせんだ。安定したセールスのために」
「……………」
「あの当時、いや、今も」
 唐沢の目に、初めて険しい嫌悪が浮かんだ。
「ハエみたいなマスコミの連中は、自分たちこそ、芸能界のドンだと思い込んでいた。逆らう者は容赦なく潰し、売れるためなら、どんな嘘でも平気で書く――SHIZUMAの不幸は、その時、全ての芸能マスコミを敵に回してしまったことにもある」
 その目が、苦々しげにすがめられる。
「名誉も仕事も――何もかも失ったSHIZUMAを、正論をたてに、マスコミは容赦なく責め立てた、挙句には彼の恋人を追い回し、そして」
「………」
 美波は、落ち着かない気持ちで、自分の足元に視線を向ける。
 何故か、愛季のことが頭に浮かんだ。
「元々精神状態が不安定なSHIZUMAを、影でずっと支えていたのが、幼馴染の彼女だったそうだ。恋人を失った時、SHIZUMAを正常に保っていたものも消えたんだろう。……昭和39年の夏、SHIZUMAは逮捕された、それで全てが終りだ」
 美波は、眉をきつく寄せていた。
「何故、ですか」
「罪状は殺人未遂」
「……………」
「SHIZUMAに殺されかけた男こそ、ハリケーンズを見出し、育て、同時に、完膚なきまでに叩き潰した男だ。彼ほど、深くSHIZUMAを愛し、……それ以上に憎んだ男はいない」
唐沢は、そこで少し言葉を切った。
「それが真田孔明、今の東邦の社長だ」



              12


―――真田が今も望んでいるのは、犬のように這いつくばるJ&Mだ。
「美波さん?」
 ぼんやりと床を見つめていた美波は、はっとして顔を上げた。
「びっくりした、何やってんすか、こんな暗いとこで」
 レッスン室がある方角から現れたのは、緋川拓海だった。
「お前こそなんだ、こんな時間に」
 もう、時刻は十時を大きく回っている。
 事務所の五階に新しく作られたレッスン室は、土日、時間外でも出入りは自由だが、まだ現役高校生の拓海が、こんな時刻まで残っているとは驚きだった。
「……興奮してるのかな」
 綺麗な肌に薄く汗を浮かせたまま、拓海は笑った。
「最近、あまり眠れないんです、……自分でも吃驚してる、俺、こんなにデビューに飢えてたんだって、初めて判った」
「………………」
「ずっと人のケツ見て踊ってきたけど、今度はお客さんの顔見れるって、なんかそれだけで、信じられないほど嬉しいんですよね」
 そうか、頑張れよ。
 美波は今、自分がどんな顔で拓海に声をかけたのか判らなかった。
(―――真田は、J&Mというシズマの遺伝子が、東邦の植民地から独立することを、未来永劫、絶対に許さない。)
(―――君たちキャノンボーイズの成功、そしてヒカルの成功。今、あらゆる面で、J&Mの業績は東邦をはるかに上回っている。いずれうちは、必ず業界トップに立つ。東邦は、それを妨害しようとしているのだ。)
「……美波さん、まだ、藤通さんと、契約交わしてないって聞きましたけど」
「…………」
 背を向けかけた後輩が、ふと振り返ってそう言った。
「立場が自由なお前と違って、J&Mとの契約が残ってるんだ、そこがクリアにならない内に、サインなんてできないよ」
 美波が何でもないように言うと、拓海の表情に、わずかな安堵が浮いた気がした。
「じゃ、また」
「おう」
(―――古尾谷は、もともとは東邦プロの所属社員。真田にとっては絶対に許せない裏切り者の一人だ。その古尾谷が主催する芸能事務所を、真田が本気で支援すると思うか。)
(―――真田の狙いは、J&Mを分裂させ、最終的に共倒れさせることなんだ。君たちは、そのコマにすぎない。)
 去っていく後輩の足音を聞きながら、美波はただ、足元を睨んでいた。
 唐沢の言い分を、全て信じたわけではない。
 仮にそれが真実だとしても、彼の予測を、全て鵜呑みにしたわけではなかった。事務所が例え分裂しても、共に生残る方法はあるはずだ。
 共倒れになるか、ならないかは、あなた次第ではないんですか。
 美波はそう言い返した。
 唐沢は、即座に皮肉な笑みを浮かべた。
「仲良く手を結べと?大切なスタッフと、大切なタレントの大半を引き抜かれて?」
 肩をすくめ、莫迦にしたような目で美波を見る。
「共存など、この世界では不可能だ、あり得ない」
「仲間の信頼は……裏切れない」
 自分を信じきっている拓海、そしてフルさん。
「信頼?仲間?そんなものに何の意味がある。かえって、君の翼をもぎ取るだけじゃないか」
 唐沢は、おかしそうに唇をゆがめた。
「よく考えてみたまえ、美波君、君はまだ現実を知らない。芸能界を取り巻く影の、本当の怖さを知らない」
 確信をたたえた目に、美波は、何も言い返すことができなかった。
「君の言う、仲間の信頼とやらを守るために、君がすべきことはなんなのか。もう一度考えてみることだ。壊すのも、守るのも、君次第だ」
 力だ。
 最後に、唐沢は繰り返した。
 それだけが、自分を守り、大切な人を守ることができる。
 力だ、力だ、力こそ、全てだ。








       

                    
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