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「愛季ちゃん、いたよ」
 階段を上がったところだった。ずっと美波を探していたのだろう、植村が、慌てたように駆け寄ってきた。
「今、東邦のスタッフと一緒に舞台観てる、一階席の前の方」
「……そうか」
 美波は力なく呟いた。
 正直、もう、どうでもよかった。
 間近まで来た植村が、眉をひそめるのが判る。
「……どうしたんだよ、なんかもう、この世の終わりってツラしてるけど」
「別に」
 やめるかな。
 美波は、不思議なほど静かな気持ちでそう考えていた。
 もう、ここで、終わりにするべきなのかもしれないな、と。
 自分の中の大切な何かが、本当に壊れてしまう前に。
「……なぁ、涼ちゃん」
 壁に背を預けた植村が、どこか暗い横顔で呟いた。
「俺、思ったけど、愛季ちゃん、もしかして涼ちゃんのために、あんな真似したんじゃないかな」
「…………」
 俺?
「……涼ちゃんのためっつーか、舞台やってるみんなのため」
「……………」
「だから、山勢あいの罪を被ったんだよ、そうとしか思えない」
 俺のため?――……みんなのため?
 言われている意味が、上手く理解できない。
「一から十までむかつく仕事だよ、ったく」
 頭上から、ふいにそんな声がした。
 舞台袖に続く階段。
 上から降りてくるのは、すでに本日、自分の場面は全て終えている――矢吹一哉。カーテンコールに備え、まだ衣装を身につけたまま、西洋人のようないでたちをしている。
 美波は少し驚いて、こんな場所に、こんな時間、続けさまに現れたメンバー2人の顔を、交互に見た。
「初主演、おつかれさま」
 矢吹は軽く手をあげ、それから通り過ぎ様、植村の背を軽く叩いた。
「さっき、唐沢のヤローが楽屋にきたよ」
 唐沢――直人。
 美波は自然に眉を寄せる。
「珍しく上機嫌だ。この舞台、社長も大満足みたいでさ、来年の舞台も俺ら中心で企画してくれるんだとさ、ブロードウェイからスタッフ呼んで」
「…………」
 それが、どれだけすごいことなのか。
 美波は無言で、矢吹と、そして植村の顔を見た。
 超えたくて超えたくて、それでも超えられなくて、あきらめかけていた高い壁。
 今、その夢の一端に、三人は足をかけるチャンスをもらったのだ。
 うつむいた矢吹は、唇をゆがめて苦笑した。
「………俺たち、あの子に感謝しないといけねぇのかな、最初は、クソ生意気な女だと思ってたけど、保坂愛季」
「……だろうね」
 うつむいたままで、植村が頷く。
 ようやく、美波も理解していた。さきほど植村が言った言葉の意味を。
「早川明日香が病院かつぎこまれて、薬飲まされたって騒ぎになったら、間違いなく今日の公演は中止だったね、助けられたのは、俺たちも同じだよ」
「……………」
 それだけ言って植村は黙り、矢吹は、何も言わずに舌打ちをした。
 美波も、何も言えなかった。
 何も、言葉がでてこなかった。
 そんなのは、理想だ。
 ありえない自己犠牲。そんなこと――判っているのに。
「つか、涼二、このままでいいのかよ」
 重たい沈黙を破り、最初に呟いたのは矢吹だった。
「てゆっか、俺の腹のムシがおさまんねぇよ、記者発表といい、ラストの演出といい、最初から最後まで、美味しいとこ東邦に持っていかれっぱなしじゃねぇか、俺たち」
「だな」
 植村が、渋い顔をする。
「僕は、とりあえず、山勢あいに超むかつくね」
「俺は東邦のやり方にヘドが出る、つか、なんだってうちの事務所、あそこの横暴に文句のひとつも言えねーんだよ」
 髪をくしゃくしゃとかきあげて、矢吹は、鋭い目で美波を見あげた。
「ここらで、J&Mのライプ魂、見せてやってもいいんじゃないの?」
「………は……?」
 美波は唖然と――思わぬセリフを吐く矢吹を見る。
「懐かしい、そういや、よくやったよな」
 と、即座に口を挟んだのは植村だった。
「コンサートでよくやるだろ、俺たち得意のアドリブ演出」
 矢吹はにやっと笑って見せた。
「ちょっとしたアイデアがあるんだ。製作発表で、俺らがかかされた恥、倍にして返してやんねぇか」
「……………」
「やってみねぇか、涼二、この舞台の主役が誰なのか、満場の観客に判らせてやるんだよ」


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「まぁ、ほとぼりが冷めるまでは、大人しくしといてよ」
 そう耳元で囁いたのは、営業部長をしている男だった。
 普段なら、口さえ聞けない――聞いたこともない男。
 愛季は無言で頷いた。
「ホント、まじ、今回は保坂の機転に助けられたよ、ったく、イマドキの若い子ってのは、何をしでかすかわかんないから」
「………別に」
「新しい事務所、うちからも探してあげるからさ、まぁ、これも、チャンスだと思ってさ」
 そうまくしたてる男の右隣に座っているのは、東邦EМGプロダクションの社長、真田孔明。
 周辺席は全て、東邦プロの役員、部長級社員で占められている。
 監視の意味もあるのだろうが――こんな席に座らされていることが、まだ愛季には信じられなかった。
 なにより、東邦EМGプロダクションの社長、真田孔明。
 現場からのたたき上げで、日本一の芸能プロの、その社長までのぼりつめた実力派である。
 その、圧倒的な存在感に、愛季は最初から緊張していた。
 皺が深く刻まれ、頬はたるんでいる。が、太い眉の下、その眼光だけが、異様に鋭い。
 その鷹のような目で、舞台が始まってから終始無言、唇に指をあてたまま、じっとステージを見つめている。
「山勢あいちゃんは、これからきっとスターになるよ、今日保坂にしてもらったこと、一生忘れないと思うからさ」
「本当にもう、」
 営業部長の饒舌を、愛季はそっと遮った。
 そんなことは、本当にもうどうでもいい。
 もうすぐ、最終幕が上がる。
 今は――ただ、観ていたい。大切な人の、大切な舞台を。
 もう、二度と会えなくなるかもしれない人の舞台を。
 暗転した舞台に光が灯る。
―――お母さん……
 流れ始めた音楽。
―――現実は、やっぱ、厳しかったけど。
―――夢はやっぱ、今でも、夢のままだけど。
 スポットライトの下に立つ、西洋貴族の衣装をまとった美貌の男。
 愛季は、自分の視界がうるんでいくのを感じた。
(―――愛季ちゃん、お願い、そのネタ、私に使わせて。)
(―――どうせ愛季ちゃん、年齢的にもオーディション無理じゃん、ヒロインなんて絶対無理、だったらこの話で、舞台もりあげた方が、王子様だって喜ぶじゃん。)
 二年前、所属していたダンスグループのメンバーで、一番年少で頼りなかった少女。
 愛季が、宝物のような思い出を打ち明けたのは、世界でたった2人だけ。母親と――その夜一緒に仕事をして、妹のように可愛がっていた山勢あいだけだった。
 二年後、売れはじめた新人の主張は、そのままいつしか、会社の方針に転化した。企画協賛のジャパンテレビが乗ってきて、もう愛季に、否やと言える権利はなかった。
「………………」

 君は、僕の光
 神様が僕にくれた奇跡。

 美波が歌う。
 綺麗に澄んだ、よく響く歌声で。
 そして、舞台中央に設置された階段を使って、客席に降りてくる。
 今までにない演出に、観客席にざわめきと、抑えた嬌声が広がった。カメラが一斉に首をかしげ、歩き続ける美波を追う。
 愛季は無論、今日の段取りを知っている。
 スポットライトが追っている王子は、歌いながら、客席の間をゆっくりと歩き続ける。
 美波を追う、視線、視線、視線、熱いため息と小さな悲鳴。
 実際、間近で見る美波涼二は、テレビで観るのとは別人のように美しい。その顔も、姿勢も、凛とした眼差しも、存在感そのものも。
―――私の……王子様、
 一時でも目を離したくない、今日のこの人を、自分の胸にやきつけてたい。
 それでも愛季は、胸にこみあげる感情に負けて、目を閉じていた。
―――さよなら……美波さん。
 ガラスの靴は、永久になくしたけど。
 でも、幸せだった。王子さまと、奇跡みたいに会えたから――。
 ざわめきが大きくなる。
「………?」
 ふいに頭上が眩しくなった気がして、愛季は眉をひそめ、閉じた目を開けていた。


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「なに、これ?」
「どういうこと?あの子誰?」
 そんなざわめきも、戸惑いの声も、クライマックスに向けたテンポのいい音楽で打ち消される。
 王子が手を引いて立たせ、観客席の中央で見つめ合っているのは、ヒロインの山勢あいではない。
 照明が右往左往している。
 アクシデント。いや――おそらく、意図的な造反。
 客席に座る九石ケイは、ひゅっと口笛を吹いていた。
 やるじゃん、この俳優。
 誰かが手を叩いた。
 それがきっかけとなって、拍手が、やがて轟音のようにホールを包む。
 王子に手を引かれた私服姿のヒロインは、溢れる涙で目を赤く染めている。
 ステージで2人は、一礼して袖に引いた。
 演出だとは思えない。
 元々破天荒なストーリーだったにしても、このラストはあり得ない。
「なんだったの?今の」
「よくわかんないけど、なんかドキドキしたね」
 誰も、何も理解できないまま、不思議な感動だけが場内を包んでいる。
「面白いじゃん」
 九石ケイは、思わず口に出して呟いていた。
 不覚にもときめいてしまった。キャノンボーイズの美波涼二って、こんなにかっこよかったっけ?という感じだ。
 が、それが、とんでもないアクシデントだというのは、客席中央に陣取る東邦スタッフの、蝋人形みたいな顔色で明らかだ。
「仕返しってこと?シンデレラの記者会見の」
 ケイの問いに、隣に座する男は、何も言わなかった。
 見る気もないのに、なんとなく貰ってしまったチケット、正直、本場のミュージカルを見慣れているケイには、物足りないにもほどがある内容だったのだが――
 カーテンコール。
 出てきたのは、美波と、そして本来のヒロインである山勢あいだった。
 2人は、先ほどのアクシデントなどなかったかのように、手をとりあって、観客に深々と一礼している。
「……いい男だろう」
 隣に座る、今日のチケットを無理にくれた大学時代の旧友が、初めてそう囁いた。
「誰だって、直人よりはマシだわよ」
「奴はこれからの事務所に、絶対に必要な人材だ」
 ケイの皮肉を無視して、隣席の男は、長い足を組みかえながらそう続ける。
「どうかしら」
 ケイは、皮肉な目で男を見あげた。
 事務所に、というより、これからの自分のやり方に――だろう、多分。
「彼、誰にも従属しない、獣みたいな目をしてるわよ」 
「今はな」
 男は、綺麗な指を薄い唇に当てて微笑した。
 ケイは、無言で、ばたばたと席を立っていく東邦プロの陣中を見る。
 彼らは今日、想定外の屈辱を味わったのだ。
 最初のオーディションから、J&Mに煮え湯を飲ませ続けてきた大手プロダクションが、最後の最後で、おつりがきてもおかしくないほどの赤恥をかかされたことになる。
 が、
 一人、悠然と座ったまま、舞台を観ている男がいた。
 彼は、絶妙なタイミングで立ち上がり、一歩間違えば舞台そのものが壊れかねない、とんでもないハプニングに、最初に拍手を送った男でもあった。
 東邦EMGプロダクション社長、真田孔明。
―――なにを、考えているのかしらね。
「今は、俺を嫌っている」
 隣席の男が呟いた。
 男の視線は、再び開いた舞台で、二度目のカーテンコールに答えている主演男優に向けられていた。
「……いずれ、俺のものになる」


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「悪いな」
 電話ボックスから出てきた人は、そう言って運転席の扉を開けた。
「仕事の連絡がたてこんでて、せっかくのオフなのに」
「ううん」
「どこに行こうか」
 車のステアリングに手をかけ、背後の車の流れに視線を向ける。夜の国道、車の流れはひっきりなしで、路駐から合流するのは難しそうだった。
 どこでも――と言いかけて、保坂愛季は口ごもった。
 思わず、運転する人の、その横顔に見惚れていた。
 きれいに引き締まった頬から首筋、黒目がちの眼差しと、形のいい唇。
 ステアリングに添えられた指の形まで、完璧に整って、美しい。
 正直、まだ信じられない。
「新しい事務所、決まったんだろ」
 どこへ――とも決めていないのに、運転席に座る美波涼二は、そのまま車をスタートさせた。
「うん、小さいとこだけど、前のマネージャーさんの紹介で、とんとん拍子って感じで」
 答えながら愛季は、視線のもって行き場に困ってうつむいた。
 まだ、信じられない。
 まだ――舞台の続き、夢の世界にいるような気がする。
 けれど、今夜、愛季を誘ってくれたのは、間違いなく運転席に座る人だった。特に用事も理由もなく、ただ、「会わないか、」と。
「どこ?」
「え?」
「事務所、」
 愛季がその名を言うと、美波の形いい眉が、ほんのわずか、翳った気がした。
「どんな感じ?」
「……………」
 何か、心配ごとでもあるのだろうか。
 確かに事務所の格としては、東邦の足元には及ばないほど弱小で、仕事も、あまりいいものは回ってはこないだろうが。
「社長さんいい人だし、なんか、雰囲気がアットホームで、居心地いい所だよ」
 愛季は、明るく言って、隣に座る美波を見あげた。
「それに私、これからは、舞台のオーディション中心で……がんばってみようと思うから、ほら、荻谷塾ってあるじゃない」
 俳優の荻谷舜一が主催している、本格的な劇団。オーディションが厳しく、入団は至難の業だというが、塾生はのきなみ、日本映画に名を残す名優に育っている。
「仕事しながら、あそこ、受けようかと思ってる。すっごい挑戦だけど、……舞台、本当にやってみたくなったから」
「そうか」
 ようやく美波の横顔に、安堵したような色が浮かんだ。
「美波さんは、大丈夫?」
「何が」
「……あれから……」
 愛季は、言葉を詰まらせた。あの日から二週間あまり、ずっとそのことが、気がかりだった。
 大切な舞台の最終公演。
 あんな、目茶苦茶なことをやった。
 旬を過ぎたとは言え、アイドル美波涼二の初めてのゴシップ。事務所やマスコミが騒がないはずはない。
「ファンサービスの一環だって、事務所から正式にコメントがあっただろ」
 そう言い差し、美波はわずかに苦笑した。
 観客席の中から、無作為に選んだ一人をステージに上げただけだと。
 全ての女性はプリンセスです、僕らにとって。
 と、美波自らが、記者の質問にそう答えている。
「無理ありすぎだけど、それで押し通したうちの事務所もすごいとこだよ、ま、久し振りに三人揃って怒られた」
「植村さんと矢吹さんも?」
「そもそもあれ、矢吹がやろうって言い出したことだから」
 愛季は、何か言いかけたが、美波の横顔が、あまりに楽しそうだったので、そのまま口をつぐんでいた。
「デビューしたての頃は、コンサートでよくやったんだ。こんな歌、歌ってらんねーよって、まず矢吹がキレて、植がすぐそれに乗る、演出無視して、アカペラでジャズやったり、ロックやったり」
 この人って、
 こんなに――やさしい目で、笑う人だったっけ。
「で、一番に怒られるのはいつも俺だ」
 ぶっと、思わず吹き出すと、
「そこは、笑うところか」
 即座に不機嫌そうな声。
「だって、」
 器用そうに見えて、不器用な、美波さんらしい話だと思うから。 
 車が停まる。
「……ちょっと、歩こうか」
「あ……うん、」
 もたもたとシートベルトを外していると、そっと手が添えられた。ロックが外れた刹那、視線があって、お互いにぎこちなくそれを逸らす。
 まだ、互いの距離のとり方が判らない。
 それでも、淡い星が瞬く夜の下、愛季は、先立つ美波の後について、歩き出した。


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「謝ろうと思ってさ」
「………」
 河川敷。
 真っ暗な川面から、初夏の匂いが運ばれてくる。風がゆるゆかに、2人の髪を舞い上げていた。
「俺、知ってたんだ、最初から」
 愛季はただ、黙っていた。
「あのハンカチ、本当はお前が持ってたんだろ」
「………………」
 そんな予感はあったし、それでも、まさかと思っていた。
 だって。
 2年も前の地下駐車場。そもそも覚えているはずはないと思っていたし、絶対に、顔は見られていないという自信があったから。
「早川さんは、なんで気づいた?」
「…………え、」
 愛季が返事に窮していると、美波は髪に手をあてて嘆息した。
「彼女、それで山勢あいと取引したんだろ?もういいよ、お互い隠すのはなしにしよう」
「……うちの……実家で、色々聞き出したみたいで」
 愛季は言葉を選びながら、それだけを答えた。
 もともと、疑っていたのだろう。だから、実家にまで友人を装って行ったのだ。
 その明日香に、母親がうっかり見せた手紙。それを元に、山勢あいに、最終公演のヒロイン交代を迫り、あんな事件が起きた。
「二人とも、一生懸命だったから……」
「そういう問題でも、ないと思うけどな」
「ただ、そういうのって、いつか、自分で気づく時がくると思うんだ」
 愛季がそう言うと、美波はわずかに嘆息して口をつぐんだ。
「……今っていうのは、本当に、今しかないじゃない?」
「……………」
「確かに方向は間違ってたけど、あの子たちなりに一生懸命やってるなら、やっぱ、応援してあげたいかな」
「………ま、俺にはどうでもいいことだけど」
 再度嘆息した美波の目が、多分「お人よしだな」と呆れている。
「じゃ、今度は美波さんの番」
 愛季は、腕組みして美波を見あげた。
「なんで、私って知ってたの?」
「あー……、あの時……サンテレビの、地下駐で、」
 美波は初めて、いいにくそうに視線を下げた。
「見られたくなかったろうけど、実は見えてた。……車が、停まってたろ」
―――あ、
 愛季はようやく、合点がいった。
 どうして気づかなかったんだろう。私自身も、それで相手が誰か、知っていたのに。
「……バックミラー」
「正解」
―――最低。
 後で鏡を見たら、目茶苦茶な顔になっていた。メイクが剥げて目の下は真っ黒。鼻を噛みすぎて鼻梁は真っ赤。
「衣装で、どの番組に出てるかも、後でわかった。……まぁ、それきり、忘れてたし、会って初めて思い出したんだが」
「…………怒ってたね、美波さん」
 愛季は、最初の記者発表の日に、もう、その予感を感じていた。
 自分を見る美波の目は、明らかに怒っていた。――それで、察した。
 この人は、相手が山勢あいでないことを知っている。そして、綺麗な思い出さえ売り出しに使おうとする、そのやり方に怒っている――と。
 誤解は悲しくはあったが、それでも、嬉しさの方が勝っていた。
 例え、私の顔は記憶になくても。
 王子さまが、少なくとも――あの夜の出来事だけでも、忘れずに記憶してくれていたことが。
「怒んないのか」
「何を?」
「黙ってたこと」
「何で?」
「…………」
 わずかに笑った美波が、視線を、真っ暗な川面に向けた。
「……俺にも打算があった、結局はそうだから」
「それでいいよ」
「…………」
「それで、いいんだよ、美波さん」
 あなたは、光だから。
 上に、上に、天の高みに昇っていく人だから。
 その光は、沢山の人に希望を与えるためにある。そのために授かった天賦の才能。
 死ぬために生まれたような妹が、どれだけその光に救われたか、愛季はよく知っている。
「家まで送るよ」
 土手をあがって車まで戻りながら、先に歩く美波がそう言ってくれた。
「いい、すごく汚いから」
「中まで見ない」
 むっとした声が返ってくる。
 そういうところが、意外に子供だなぁ、と、愛季は思わず笑っていた。
「中は綺麗です、見た目がぼろいの」
 急傾斜、先に上りきった美波が、手を引いてくれる。
 車の手前でその手を解こうとしたら、少し強く引き寄せられた。
「……………」
「……………」
 笑おうとして笑えない距離。
 というより、そんな目で見つめられたら、どこに視線を逃がしていいのか判らなくなる。
「……同情?」
「違うよ」
「あ、わかった、罪悪感」
「随分、悲観的なんだな」
「だって、ありえないよ、信じられない」
「あのさ、」
「それに、こういう展開、慣れてないっていうか、なんていうか」
 するっと腕から逃げたつもりが、逆に、車に押し付けられていた。
 え、
 け、けっこう、意外に乱暴っていうか。
「………少し、黙ってろ」
 うわ、と目を閉じる。
 キス――?
 じゃない。
 そっと、頬が押し当てられただけ。
 触れ合った首筋から、鼓動の音が聞こえてくる。
 愛季はほっとして、全身の力を抜いていた。
「……人肌って、あったかいね」
「莫迦、冬山じゃないんだ」
 額を合わせた男の目が、少しだけ照れていた。
 それから――
 初めてのキスは、心臓がつぶれてしまいそうなほど胸が痛くて、嬉しいというり、苦しかった。地面がふわふわして、まるで、雲の上に立っているように心もとない。
 一度離れた唇が、もう一度重ねられる。今度は少し、長くて深い。
「……美、波……さん、」
 ちょっと、怖い。
 こんなの、初めて――。
 ぼうっとしている身体を、そのまま力強く抱きしめられた。
 ドキドキする。足がまだ震えている。
 想像と全然違う、キスって……こんなもんだったんだ。
 そっと髪をなでられる。まだ胸の中では、熱い感情が鼓動を高めさせている。それをなだめてくれるように、何度も何度も撫でられる。
 美波の肩に頬を預けながら、愛季は初めて、幸福の向こうにある怖さを感じていた。
 この行為の意味を考えてしまうのが怖い。これ以上好きになって。
「…………」
 この先に待っている感情が、怖い。
 ひと時と分かっている幸せでも、失ってしまうのが――怖くなりそうで。
「私、あの歌が好きなんだ」
 美波の身体を押し戻した愛季は、内心の感情を誤魔化すように、笑顔で言った。
「歌……?」
「うん、」
 美波の腕をすり抜けて、くるっとターンをしてみせる。
「ミュージカルのクライマックスで……美波さんが歌うやつ、ほら」
「ああ、あれね」
 美波は渋い顔をする。
 思いっきりベタな作詞だったから、思い出すのも恥ずかしいんだろう。
「歌って」
「やだね」
「歌ってよ」
「お断りだ」
 言い合いながら、自然に腰に手を回して、抱き合っていた。
 触れる体温の心地よさ、それだけで、気持ちが溶けそうになるのが不思議だ。
 さっき初めて知ったのに、きっと、永遠に忘れられない感覚。
 けれど、そっと見あげた美波の顔には、かすかだが、先ほどにはなかった影が浮かんでいた。
「……事務所……」
「え?」
「やめようかと思う、今年いっぱいで」
「…………」
 丁度月光が雲から差し、男の顔を闇で覆った。
 やめる……?
 J&M事務所を?
 抱いている女の不安を察したのか、腕を離した美波は身体の向きを変え、自分の車に背を預けた。
「今回のことでわかった、俺……キャノンボーイズ、結構好きだったんだって」
 その口元に、車で話していた時と同じ、どこか優しい笑みが浮かぶ。
「そう思った途端、なんか肩から力抜けた。これは逃げるんじゃなくて、挑戦だって思えたから」
「…………」
「やっと腹が決まったよ、自分の好きなことをやってみる。だから舞台でも、あんなバカがやれたんだ」
「事務所の人たちは……」
「すぐには言わない……気になることも残ってるし」
「…………」
 同じように夜空見上げながら、愛季は、美波の前途というより、むしろ、J&M事務所の反応の方に、わずかな不安を感じていた。
 美波が口にした「気になること」とは、愛季でも知っている、J&M事務所の内紛のことだろう。
 ヒカルの移籍問題さえ、まだ解決してはいない。
 そして、愛季が見るところ、美波涼二の、タレントとしての価値は、決して安いものではない。わずかな間とは言え、事務所側の人間として働いていた愛季には判る。J&Mは、決して美波を離しはしないだろう。
 東邦プロと、J&M事務所、芸能界最大手同士の対立が絡んでいる時期だけに、下手に動けば徹底的に潰されかねない。
「あんまり、背負い込まないで」
「心配しなくていいよ」
 言いかけた美波が、そこで少し口をつぐんだ。
「いや、やっぱり、心配くらいはしててくれ」
「………なんで?」
「なんでって、」
 と、やや憮然とした美波は、
「それくらい察しろ」
 とだけ、素っ気無く言った。
「……………」
 神様。
「……どうした?」
「ううん」
 実はたった一つ、愛季は、美波に――隠しておこうと決めていたことがある。
 言葉にはできない代わりに、ただ、目を閉じる。
 神様、どうか、この人を守ってください。
 そして、願わくば。
 私が……この人の未来にとっての、重たい足枷になりませんように。
「ハンカチ……もう一回、もらっていい?」
「どうすんだ、そんなもん」
「あれがないと、美波さんに見つけてもらえないから」
「ばーか」
 手をつなぎ、そっと額を、胸に預ける。
 髪に、唇が寄せられる。幸せで胸が詰まる。息ができないほど。
 今が、永遠になればいい。
 これが、永遠に続く幸せでないと、判っているから―――












                              ac1 終(後編に続きます)
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