「ちわー……」
 ひ、一人だと、どうも調子狂うじゃん。
 おずおずと扉を開けた途端、轟音がして、ゆらゆらっと足元が揺れた。
 げっ、激ヤバ。
 成瀬雅之は、ぎょっとして周辺を見回してみる。
 関東大震災でもきたかと思えばそうでもない。外の景色はいつも通りで、電線では雀がさえずってさえいる。
「………………」
 国道沿いのおんぼろビル、その二階にある芸能出版社「冗談社」。
 トラックが通過するだけで揺れるとは聞いていたものの、ここまでひどいとは思わなかった。つか、ここ、震度一でもマジでやばいんじゃないだろうか。
「あれ、雅?」
 扉の中から声がした。
 半開きの扉から、見慣れた童顔がひょい、と、のぞく。
 声だけで判ったが、出てきたのは東條聡。
 紹介するまでもないが、ストームのメンバーの1人である。
「なんだよ、びっくりしたじゃん、連絡もなしに」
「……いや、だって」
 まさか、いるとは。
 現役アイドルが、よりにもよって芸能スクープ誌の出版社に。
―――……つか、こいつ、今日は1日撮影だって言ってなかったっけ?
 雅之の疑惑を察したのか、聡は、あ、やべ、みたいな目になって、慌てて背後を振り返った。
「ミカリさーん、雅が来た」
「あら、そうなの?」
 室内から、艶めいて柔らかな声がした。
 信じられないが東條聡の恋人、この出版社の記者兼カメラマン、阿蘇ミカリの声である。
 ちょっとかすれ気味なところがたまんねー、と、雅之でさえいつも思うセクシーボイス。
 そもそも、出会った最初、鼻血が出たかと思うほど悩殺された超綺麗系のお姉さんだ。
 そのミカリが、カーディガンを羽織りながら、奥の応接室から出てくる。
「どうしたの?一人で来るなんて珍しい」
「いやー、ははは」
 と、わけのわからない誤魔化し笑いを浮かべつつ、雅之は、おずおずと、室内に足を踏み入れた。
 言っては悪いが、いつ来ても汚い部屋。
 いかにも中古な机には、写真やら雑誌やらが山積みで、山の隙間から電話やファックスの断片がのぞいている。付箋だらけの壁に、幾筋も走るやばそうな亀裂も怖い。
 エコ週間。
 その張り紙、確か一ヶ月前にも見た。
 道理で、まだ春めいてもいないのに、暖房の効きが悪いわけだ。
「おい」
 ほとんど綿の抜けたクッションに腰掛けていると、渋い目をした東條聡が、そっと囁きかけてきた。
「お前、なにしに来たんだよ」
「べ、別にいいじゃん、何しにきても」
「憂也から聞いたけど、今日、お前んちに凪ちゃんが来てたんだろ」
「……………」
 あんの、おしゃべり男。
「まさかと思うけど、喧嘩して上手くいかなくなったからって、ミカリさんに乗り換えようっても」
 雅之は無言で、恋にのぼせあがっている男の頭に拳を見舞った。
「なーにやってんのさ、僕ちゃんズ」
 呆れたような声が頭上でしたのは、その時だった。
 その人を待っていた雅之は、慌てて聡を突き飛ばし、居住まいを正す。
「今日は、おたくの事務所絡みで、なんか記者発表があるらしいじゃない。いいのぉ、こんなとこで油売ってて」
 九石ケイ。
 名実ともに、このおんぼろ出版社のボスであり、オーナーである超ガテン系のお姉さま。
 外出から帰ってきたばかりなのか、鞄を机の上に投げ出し、暑そうに上着を脱いでいる。
「だから俺、それをここで観ようと思って来てんだよ」
 と、言い訳がましく、雅之に囁いたのは聡である。
―――ああ、そういえば……。
 雅之も、遅ればせながら、ようやく思い出していた。
 柏葉将と、片瀬りょう。
 2人が出演する、新番組か何かの記者発表が、今日、同時に行なわれるはずなのだ。
 その内容までは雅之も知らないし、驚くことに、当の本人2人も――少なくとも昨日の時点では、何も聞いていないようだった。
 ドッキリ企画好きな、真咲しずくの差し金らしいが、何気に感じる、事務所の冷ややかな対応が、少しだけ気にはなる。
「あ……あのぅ、……ですね」
 が、今は、
 メンバー2人の門出には悪いが、今は、他のことが気になっている雅之だった。
「あのー、九石さんは、長年芸能記者をやってらしてると……お聞きしまして」
 ごそごそと、ショルダーバックから、持参してきた雑誌を出す。
「長年ったって、ささやかなもんよ、なんたって私、去年が成人式だったから」
「は、はぁ、そ、そうっすね」
 笑え、自分!
 凍りつきそうな表情を、あえて、笑顔に転じてみせる。
「じゃ、じゃー、まだ、九石さんが、しょ、小学生だった頃の話ですかね、この人なんですけど」
 雑誌を開く前に、思いっきり頭を殴られていた。
 う……いてぇし。
「相変わらず、つっこめない男ね、あんた、何年バラエティに出てんのよ」
 すいません……。
 しゅん、としょげる雅之の前で、九石ケイは、くだんの雑誌を持ち上げた。
 雅之の、緋川拓海コレクション。
 くるくるパーマが懐かしい、美波涼二率いるキャノン★ボーイズが表紙の雑誌。
「こ、この人なんすけど」
 付箋がついたページ。が、雅之が指差す前に、ケイの顔色が、わずかに変わるのが、傍目にも判った。
「……ああ、」
「知ってんすか」
 結局、これ以外の雑誌で、女性の写真を見つけることはできなかった。
 名前さえも判らない。切れ上がった目と、頬に切り込むように刻まれた笑窪がひどく印象的な女性。
「私、この舞台観にいったからね、……まぁ、知ってるってほどでもないけど」
「この人、」
 口を挟んだのは、全員分のコーヒーを運んできたミカリだった。
「少し、印象が似てません?彼女、……流川凪さんだったっけ」
 否定しようとした雅之は、しかしそれが、決してミカリの思い込みでないことを、すぐに理解した。
 というより、どこかでそれが判って――否定したかったのかもしれない。
「この……女の人、もしかしなくても、……」
 美波さんと、関係ある人ですか。
 言いかけた雅之は、言葉を詰まらせていた。
 流川凪とよく似た女、それがもし、美波さんの恋人だったら――
 今まで、様々な場面で、流川を支え、守ってきた美波涼二。
 正直、どうして、美波のような立場の人が、ここまで流川に肩入れするのか、ずっと理解できなかった。
 もしかして、それは。
「美波君の恋人よ」
 が、ケイは雑誌を放り出し、あっさりと言った。
「正確には、恋人だった人。とうに破局してるわよ、もう何年も前の話だけどね」
「……………」
 破局。
「彼女、どこかで見た顔ですね、……どこだったかしら」
 ミカリが眉をひそめている。
「ま、色々あった時期だからね」
 ケイは、わずかに嘆息して、物憂げに頭をかいた。
「懐かしいなぁ、まだぎりぎり昭和の時期だね、この舞台の後、ヒカルが解散して、ギャラクシーが正式にデビュー、ま、時代の変換期ってやつよね」
「その……写真の女の人、今は何をしてるんですか」
 勇気を振り絞って聞いた雅之だが、ケイは無言で、肩をすくめただけだった。
「二時よ、ひろみ」
 ふいに、意味不明な声がした。
 この出版社の、もう一人の古参社員、高見ゆうり。
 影のオーナーとでも言うのだろうか、実質、この事務所の金の流れを全て掌握している、超アキバ系のお姉さま。
 今日は、お蝶夫人のコスプレで決めている。
 2時――各局の昼のワイドショーにあわせ、記者会見が行なわれる時間。
 まぁ、あまり注目度のないアイドルユニットの記者会見なんて、そもそも放送時間内に取り上げてもらえるかどうかさえ判らないのだが。
「さぁ、今日も二時ワクッ、始まりま〜す」
 賑やかなオープニングが流れ、司会者の笑顔が画面を占める。
 雅之の話は、そこで結局幕切れとなった。




「教えてあげても、よかったんじゃないですか」
 背後から聞こえた声は、高見ゆうりのものだった。
 ケイは苦笑して、煙草に火をつけ、唇に当てた。
「まだあの子には、重すぎるような気がしてね」
 ミカリは、東條聡を送るために出て行った。雅之も、それに同乗している。
「………ま、過去と喧嘩しても、勝ち目ってのはまずないからね」
 ケイは、かつて金屏風の前で、幸福に輝いていた美波の笑顔を思い出していた。
 けれど、運命の変転は、ひどく残酷に、小さな幸せを引き裂いた。あまりにも――むごい形で。
「…………」
 わずかに目をすがめ、ケイは、無言で、煙草の煙を吸い込んだ。
 あの事件で。
 美波涼二という、美しい――あたかも綺羅星のような才能は死んだ。
 どうして直人は、それに気づかないのかと、いつも思う。
 直人は、昔から、美波涼二に不思議な執着を抱いていた。彼のことになると、理解できないくらい、どこか盲目的になる。
「なんにしても、ストームはしばらく大変かもしれないですね」
 珍しく、感情のこもった声でゆうりが呟く。
 先ほどの――放送終了時間ぎりぎりになって、おまけのようにオンエアされた記者発表のことを言っているのだろう。
 ケイは苦笑して、煙草を灰皿に押し付けた。
「ま、いい試練よ、どっちにしても、あの子たちは、常にがけっぷちなんだから」
 さすがのケイも顎を落すほど、ちょっとあり得ない記者発表だった。
 直人は、さぞかし怒ったことだろう。それを思うと、おかしくさえある。真咲しずくに、内心喝采を送りたい気分だ。
 が、ひどくショックを受けていた雅之と聡のことは、少しだけ気がかりだった。
 ほとんど無表情で、記者発表に挑んでいた柏葉将のことも。
「……成瀬君は、もっと大人にならなきゃねぇ」
 ケイは、鼻の頭を掻きつつ呟いた。
 その子供っぽさが、彼の魅力なのだろうけど。
 このままでは、間違いなく、美波涼二の幻影に、大切な恋人を取られるだろう。
 少なくとも流川凪は、封印された男の過去に、すでに足を踏み入れかけている。
 ケイの感覚では、美波涼二という男は、恋人を失ったと同時に死んだ。
 あの日から、彼の心には、別の何かが棲みついている――。














君は僕の、光(後編)




       

                    
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