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「すいません、今日、山勢あいちゃん、休演です!」
 第一報が届いたのは、最後のメイクを終えた時だった。
「休演?」
「マジかよ、また例の我侭病?」
 開演直前の楽屋、さすがに驚きを隠しきれず、拓海たち後輩が、ひそひそ声で囁きあっている。
「美波さん、今日は、早川明日香ちゃんが、代役に立ちますから」
 スタッフの声に、美波は、鏡を観ながら肯いた。
 それにしても――千秋楽の今日、ヒロインのまさかの休演。
 「シンデレラアドベンチャー」は、J&Mにとっては、初のミュージカル公演だった。
一番人気のヒカルが出ないということで、関心も注目度も薄かったが、その公演も今日が最終日。客入りも、評価も、マスコミの反応も、予想以上の成功を収めている。
 あの、矢吹でさえ、公演の半ばから、「もう少し出番がほしい」と、言い出したほどだ。
 確かに安易な内容には辟易するが、ダンスシーンと音楽、そして多彩な照明を使った演出は凝りに凝っていて、ちょっとしたコンサートよりは見ごたえのあるショーに仕上がっている。
「今日なんて、目茶苦茶マスコミきてんのに」
「休むかな、こんな日に、あの目立ちたがり屋がさ」
 美波も、それは同感だった。
 公演最終日の今日。
 マスコミと、一部のスタッフにしか知らされていないが、実は、最終公演だけの特別の演出が用意されている。
 奇抜モノ好きな堀江プロデューサーが考えたシークレット企画。「この舞台の主役は美波じゃないのか」と、J&Mサイドは難色を示したが、東邦EМGプロのごり押しに負けて通された企画。
 美波にしてみれば「勘弁してくれよ」だが、サプライズを期待してか、観客席には、相当数の取材陣が陣取っている。
 それに加え、J&Mからは城之内社長、東邦EMGプロからも、同取締役社長が観劇に訪れていた。芸能界屈指の犬猿の仲の2人。マスコミの注目度は、否応なしに高まっている。
 そんな――芸能界の視線が集まっている絶好の最終公演で、山勢あいが休演する?
「なんだって?マジで休み?」
「体調崩したって、風邪じゃねえの」
 スタッフたちも、さすがに慌しく駆け回っている。
 山勢あいの代役に早川明日香が立てば、明日香の代わりに誰かが、その代役にたつことになる。結局は、全ての段取りが少しずつ変わってくるからだ。
「明日香ちゃんは?」
「控え室、もうメイク入ってます」
 そんな声を背後で聞きつつ、準備を終えた美波は舞台袖に向かった。
 相手役が誰になろうと、基本的にはどうでもいい。色々あった舞台だったが、それも今日で、本当に終わりだ。
 いつもステージの前にはそうするように、美波は舞台袖で目を閉じた。背筋を伸ばして深呼吸を繰り返す。意識を、イメージを集中させる。
 美波さん、がんばって。
 そんな声が、幻聴のように聞こえた気がした。
「……………」
 毎日聞いているから、癖のようになってしまった。目を開けた美波は、そこに誰もいないことを確かめて苦笑する。
 今日、山勢あいがいないなら、おそらくそのマネージャーも来てはいないだろう。
 が、
「涼ちゃん、頑張って」
「………………」
 振り返る。
 声だけで判ったが、カーテンの影、西洋貴族の衣装を着た植村が、腰に手をあてて、楽しそうに笑っていた。
「あんなに熱い視線交し合って、いまだに美波さんはないでしょ、涼ちゃん」
「うるせーよ」
「俺が昨日、ちゃんと言っといてあげたからね、これからは涼ちゃんって呼んだらいいよ、愛季ちゃんって」
「うるせーっつってんだよ」
「俺が先に目ぇつけてたんだけどなー、ま、いっか、涼ちゃんになら譲っても」
「………いっぺん、殴っていいか、植」
「あははー、本望っ」
 植村は、本当に楽しそうに喉を鳴らした。
「つきあってんだ」
「そんなんじゃねぇよ」
「あんだけ、ちょいちょい一緒にいて?」
「だから、そんなんじゃないんだよ」
「じゃあ、どんなんだよ」
「……………」
 そう聞かれれば、美波にもよく判らない。
 気持ちさえ確かめたことがない。自分も、相手も。
 ただ、自然と、現場に来るとその姿を探して――で、いれば安心するし、いなければ、何かが物足りない気分になる。
「…………」
 え?
「…………」
 マジかよ、俺。
「……?……何、いまさら、赤らんでんの?」
「うっせーよ、黙ってろ!」
 振り上げた拳は、あえなくひょい、と交わされた。
 植村は、くっくっと笑い出す。
「なんか、変わったね、涼ちゃん」
「涼ちゃんはやめろ」
「俺的にはさ」
 植村は、それでもまだ、嬉しそうに続けた。
「けっこうキャノンボーイズって好きなわけ、しょうもない歌ばっか歌ってきたけど、それでお客さんが喜んでくれるなら、それなりに幸せだったし、なんだかんだ言っても楽しいことばっかだったし」
「…………」
 こいつと、
 こいつと、あの女は、似てるのかもしれないな。
 そんなことを考えつつ、美波が黙っていると、植村は、初めて、照れたように苦笑した。
「涼ちゃんがさ、なんか最近、やっとキャノンボーイズ好きになってくれたような気がするんだよね。で、俺的には、それがすごく嬉しいわけ」
「……………」
 多分これが――ユニットを組んで七年、初めて聴くメンバーの本音のような気がした。
 ある意味、美波以上に本心を見せない男の。
「へんなヤツ」
「あ、もっと言って」
 互いに笑って、拳を付き合わせた時だった。
「すいません、遅れました!」
 美波は、少し驚いて顔を上げた。
 自然に――表情が和らいでいくのがわかる。
 が、美波の傍をすり抜けた保坂愛季の横顔には、不自然なほど、表情がなかった。
「ごめんなさい、早川明日香が急病で、今日の舞台は無理です」
 その声は、舞台の奥に立つ監督に向けられているようだった。
 美波と植村は、思わず顔を見合わせる。
 病気――なのは、山勢あいのはずだ。
「おい、タイヘンだ、今度は明日香ちゃんが倒れたって」
「今、救急車呼んでるって。マジかよ、一体どうなってんだよ」
 背後で、そんな声がした。
 美波は、咄嗟に、前に立つ愛季を見ていた。
「山勢あいが、今、着替えています。体調は万全ではないですけど、舞台には立てます。よろしくお願いします」
 ひどく他人行儀な声でそう言い、そのまま――美波と一度も視線を合わせず、愛季は楽屋の方に向かって駆けていった。



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「明日香ちゃん、大丈夫?」
「今、控え室で休んでる、軽い食あたりじゃないかって」
 ひそひそという囁き声。
 救急車の代わりに大慌てで駆けつけて来たのは、東邦EMGプロのスタッフだった。
 結局早川明日香は、楽屋の一室を借り切って、そこで医師の手当てを受けている。
 その代わり、当初体調不良で休演予定だった山勢あいが、急遽、逆戻りで舞台に立った。
 どこが不良だったのか、まったく判らないはつらつさで。
「マジで食あたり?」
「明日香ちゃん、山勢あいに何か飲まされたって、言ってるらしいけど」
 そんな舞台裏の騒ぎとは裏腹に、舞台は開幕し、予定どおりちゃくちゃくと進行している。
 が、美波は、開演の初めから、いつもの定位置に、いつも立っているはずの女の姿が見えないことに気づいていた。
 保坂愛季がいない。
 ステージでは、山勢あいが歌っているのに。
 いつもなら舞台袖で、山勢の様子をじっと見守っているのに。
「植、」
 一幕目の終盤。
 舞台から降りた美波は、二幕目からが出番の植村を、舞台袖で呼び止めた。
 一幕の間、ずっと楽屋にいた植村は、美波より事情に詳しいはずだ。
「どうなってる」
 美波の意図を察したのか、植村は、少し難しい目になってうつむいた。
「……明日香ちゃんなら、簡単に言うと下痢、腹痛がひどくて、トイレと楽屋を行ったりきたりだって」
「………で」
「明日香ちゃんがさ、山勢にやられたって言い張ってるの、聞いただろ」
「…………」
 美波は無言で眉を寄せた。
 急病だったはずの山勢あいは、当然のように現場に来ていた。まるで、早川明日香が倒れるのを知っていたかのようなタイミングで。
 しかし、合点のいかないことも多い。当然のように疑われるのはもちろんのこと、そんなにまでして渡したくないヒロインなら、どうして最初、休演するなどと言い出したのか。
「実際、何飲まされたかわかんないし、危険だから病院行こうかって話にもなったんだけど……その時に、犯人が自首だよ」
―――え?
 さすがに美波は、一瞬唖然としていた。
 犯人が。
 自首?
 それは、間違っても、今舞台で踊っている山勢あいではないだろう。
「愛季ちゃんだよ」
「……………………」
「差し入れのジュースに下剤まぜたんだってさ。お腹は1日ピーピーだけど、命に別状あるわけじゃない、――それで、一件落着」
「ちょっと待て、」
 思わず、植村の手をつかんで遮った。
 意味がわからない。
「あいつが――?有り得ない、どうしてそんなことになってるんだ」
 さぁ、と、植村は、大げさに肩をすくめる。
「なんにしても、スタッフも東邦さんも、それでひと安心したみたいでさ。あとは必死で、明日香ちゃんの方を説得したんじゃない?今日のことは黙っとくようにって」
「…………」
「判るだろ、今、そんな騒ぎが外に漏れたら、マスコミの格好の餌食じゃない」
 植村は苦い顔であごをしゃくる。
 観客席にひしめていてるカメラクルー。
 確かにそうだ、売り出し中の新人タレント、こんなスキャンダルが表に出れば、公演どころの騒ぎではない。
「なんで……」
 なんであの女は、そんなバカげたことを。
「最後の最後になって、舞台を降りた我侭な新人に、活を入れたかったんだってさ」
「…………」
「どうしても、山勢あいに、今日の舞台に出てほしかったんだってさ……泣かせるねえ、マネージャーの鏡じゃん」
 以前と同じセリフ。が、植村の声は、冷め切っていた。
 違う。
 美波は、ひらめくような確信と共に唇を噛んだ。
 ヒロインの病欠に続く、代役の病欠。
 今朝から続いた不可解な展開、その裏にあるものが、ようやく理解できた気がした。
 が、その根底に流れる感情が、どうしても納得できない。
―――なんで……そこまで、
「理解も納得もできないよ」
 美波に変わって、腹立たしげにそう呟いたのは植村だった。
「でも、愛季ちゃんが、自分で告白して、謝罪したんだ、それは間違いない」
 舞台の上では、シンデレラ役の山勢あいが、ソロで歌を歌っている。高らかに――のびのびと。
 そして舞台袖で、いつも彼女を待ち受けていた保坂愛季の姿はない。
「……言っとくけど、愛季ちゃん、ソッコーで事務所首だよ。それどころじゃない、下手したら、警察に事情聞かれる騒ぎになるかもしれない、やったことは、立派な傷害罪だからね」
「………………」
「そこまで、庇う価値のあるタレントでもないじゃない、妹みたいに可愛かったって……馬鹿じゃねぇ?女同士って、マジ、理解できないね」
 最後にそういい捨て、植村は怒った目のまま、舞台に出て行った。
 


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「いけるね、あいちゃん」
「あい、頑張ります、愛季ちゃんのためにも」
 真剣な顔で、頷いている山勢あい。
 最終場面、土壇場になって決められた最後のシークレット演出。
 最終確認のために駆けつけた堀江プロデューサーは、美波と山勢あいの前で、ガッツポーズを作って見せた。
「実際、よくやったよ、二人とも。こっちも、イベンターとして、色々姑息な宣伝をさせてもらったけど」
 堀江は、青黒い顔をほころばせた。
「舞台は大成功だ。J&Mさんは、これから毎年、ミュージカルを定期的にやっていくつもりらしい。これが、芸能界の新しい産業として根付けば、本当にすごいことだよ」
 あいが、感涙で目を潤ませている。
 周辺のスタッフから、ぱらぱらと拍手があがった。
「2人は、新しい分野のパイオニアだ、最後までがんばれよ」
 この舞台の成功で、一躍局内での立場が急上昇した堀江は、喜びを隠しきれない顔で出て行った。
「よっしゃ、行くか」
「ラストラスト、気合入れていくぞーっ」
 スタッフの喧騒の中、美波だけが、喜びを上手く表せないでいた。
 あまりにも平然としている相手役の笑顔に、感情を上手く隠すことさえできなくなりかけていた。
 植村の話が本当なら、保坂愛季はもう終わりだ。
 その代わりに、あいは今、芸能界で括弧たるポジションを得つつある。
「保坂さんは、帰ったのか」
「さぁ……うちの会社の人と一緒に、どっか行っちゃったから」
 それだけ言って、あいは、壁にかかった鏡の前で、髪型を直し始める。
 最終幕がもうすぐ開く。
 山勢あい最後の出演場面は、舞台の上ではなかった。
 奈落へ続く階段で2人は別れ、あいだけが、舞台花道の下でスタンバイ。最終幕の舞踏会、シンデレラを探す王子は、ステージを降り、観客席の間を歩きながら、歌う。
 スポットライトが客席のシンデレラを照らし出し、ようやく再会した二人は、手をとりあって舞台へ――
 それが、今夜だけのシークレット企画だった。
 うがった見方をすれば、ほとんど存在感のなかったヒロインが、より目立つ演出になっている。
「美波さんには、本当に感謝してます」
 にっこり笑い、あいは、鏡ごしに美波を見あげた。
「……俺は別に、」
「だって、あいがここにいるのは、全部美波さんのおかげじゃないですか」
「…………」
 俺の……。
 言われている言葉に、それ以上の意味がこめられているような気がする。
 美波は目をすがめ、鏡に映る女に視線を向けた。
「なのに、どうしてそんな目であいを見るのかな」
 そう続ける女の表情は、どこか楽しそうだった。
「愛季ちゃんのことなら、何も美波さんが怒ることじゃないのに」
 さすがに、こみあげた怒りを抑えられなかった。
 美波は、眉にはっきりとした感情を刻んだまま、視線を逸らした。
「でも、君がやったことだろう」
 鏡の中の女優は、ただ、首だけを、わずかにかしげる。
「……今朝、君が休演予定だったのは、体調のせいでも気分のせいでもない。最初から、早川明日香と取引していたからじゃないのか」
 先日、喫茶店で会った時の、粘りついたような明日香の目。それは、絶対にあきらめない、と、無言で美波に訴えていたから。
 多分、「シンデレラ」の正体の件だ。
 明日香は、何かを掴んだのだ。あいが、言い逃れできない何かを。
 黙秘の条件が、最終公演でのヒロインの交代。
 が、山勢あいは、絶対にそれを、ライバルに渡したくなかったに違いない。なにしろ今日は、東邦プロの社長まで来ているのである。
「やだなぁ」
 あいは、楽しげにくすくす笑った。
「美波さん、まるで探偵ドラマの探偵さんみたい」
(―――それからです。どんな仕事も楽しくできるようになりました。それが、他人を支える、影みたいな仕事でも)
 そんなのは。
(―――その先に、誰かの笑顔があって、誰かの絶望が希望に変わるなら、それでいいじゃないですか。)
 そんなのは綺麗ごとだ。
 何の意味ない、自己犠牲だ。
 こみあげる感情を、美波は手を握ることでやりすごした。
「保坂愛季は、君を庇って事務所を辞めた、君はそれを、なんとも思わないのか」
「別に?だって愛季ちゃんが勝手にやったことだもん」
「それは違う」
 それだけは断言できる、絶対に――違う。
「愛季ちゃんがやったんだもん、愛季ちゃんがそれでいいって言うなら、もういいじゃないですか」
「……………」
 さすがに、我慢が限界まで達していた。
 あらためて問うまでもなかった。
 保坂愛季は、このバカなタレントの愚行を庇って事務所を辞めた。それは、なんと愚かな選択だったのだろうか。
「てゆっか、なんで今更、美波さんが怒るのかなぁ」
 あいの声は、変わらず無邪気なままだった。
「失礼する、呼び止めて悪かったよ」
「最初から知ってたじゃないですか、美波さんだって」
「……………」
 歩きかけていた美波は、足をとめ、振り返った。
「判ってたんですよね。あんな冴えない人がシンデレラじゃ、なんの話題にもならないって。だから、美波さん、黙っててくれたんですよね」
「……………」
「言ったじゃないですか、あいがここにいるのは、全部美波さんのおかげだって」
 鏡の中で視線がかち合う。
「美波さんだって、この世界で負け犬にはなりたくないでしょう?それでいいじゃないですか、ミュージカルは予想以上の大成功、ほかに、何がいるっていうんですか」
「君に、謝らないといけないな」
 しばらく黙っていた美波は、冷ややかな笑みを相手役に贈った。
「せいぜいもって二年だと思っていた。君は成功するだろう、それだけの信念をもっているなら」
「同じ人種でしょ、私とあなたは」
 初めて聞くような、大人びた声。
 あいの目もまた、冷ややかに美波を見あげていた。
「ここで成功するためなら、なんだってできる人」
 美波はそれには答えず、そのまま静かにきびすを返した。












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