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草原さんの部屋は、オートロックと受付のある、まるでホテルみたいなマンションの最上階だった。
ワンフロアすべてが、彼の部屋。
玄関で靴を脱ぎ、私はその室内があまりに彼の雰囲気そのもので、なんだかほっとする。
広いリビングは、無駄に豪奢な装飾はなく、シンプルな木目を活かしたテーブルが置かれている。
「何か、飲む?」
「い、いえ」
この段階まで来て、私は少々緊張していた。
自分から誘っておいて変な話だけれど、こんな夢の世界みたいな場所で暮らす人と、ベッドをともにして良いものだろうかと躊躇してしまったのだ。
それが、草原さんにも伝わったのかもしれない。
彼は眉尻を下げて、少し困ったように微笑む。
「じゃあ、どうしよっか」
その仕草が。
まるで知らない男の人みたいに見えるのは、どうしてなのだろう。
「このまま、ベッドに連れ込んでもいいのかな」
そっと私を抱きしめる彼の腕。
私はふるふると首を横に振った。
「だったら、お風呂?」
「あ、あの」
「一緒に、入ろうか」
くすっと笑って、草原さんは私の髪を撫でる。
テレビじゃ見れない表情。
きっとそれが、知らない人に見えてしまう原因なんだろうけれど。
「おいで」
草原さんは、私の戸惑いを感じているだろうに、強引にそれを打ち破ろうとはしない。
ただ、手を差し伸べてくれるだけ。
私はその手に自分の手を重ねる。
このまま、どこまでも。
この人にゆだねてしまいたくなるのは、たった一晩の幻想。
「寂しくさせないから」
私の手をひいてバスルームへ向かう草原さんが、小さな声でそう言った。
洗面所で、草原さんの手がそっと私のブラウスのボタンをはずしていくのを眺めていると、それが鏡に映っているのに気付いて、ひどく恥ずかしくなる。
「あ、あの、草原さん」
「うん?」
「自分で、脱げますから」
私がそう言うと、彼は不思議そうに私を見つめる。
まるで、さっきまでとは違う、私たちの状況。
出来ることなら、今からでも、『やっぱりちょっと、ごめんなさい』と言ってしまいたくなる。
「…じゃあ、お風呂入ってて。俺、飲み物持ってくるから」
彼はそう言って、洗面所を出て行く。
私が脱ぐのを見られたくないのも、わかっているから?
あまりにも気遣われて、申し訳ない気分になってくる。
でも、草原さんが戻ってくる前にバスタブに逃げ込んでしまいたくて、私は慌てて服を脱いだ。
バスルームはやわらかなオフホワイトを基調とした色合いで、バスタブにはたっぷりと透明なお湯が張られている。
24時間風呂、初めて見た…。
私はなんだか感動して、軽くお湯で身体を流してから、そのたっぷりのお湯の中に身体を沈める。
鼻下まで顔を湯の中に沈めて、ぶくぶくと息を吐く。
こんなこと、していていいの?
もしも事務所にばれたら、私はもしかして解雇されてしまうかもしれない。
たとえ草原さんが、J&Mのトップアイドルだとしても、ううん、だからこそもしもばれたら立場が危ういのは私なんだ。
「ちづちゃん、お待たせ」
草原さんが、バスルームのドアを開ける。
私はなんだか気恥ずかしくて、顔を上げることが出来なかった。
「ちょっと、そっちつめてもらっていい?」
「は、い」
広いバスタブは、2人でも十分に入ることが可能だったけれど、それでもなんだかつま先が触れてしまうことさえ、今は緊張して。
「そんなそっちまで行かなくても、俺そこまで身体おっきくないし」
少し笑いながら、草原さんが私と向かい合うようにバスタブに入ってくる。
お湯が溢れていく。
私は両手で膝を抱いて、体を少しでも隠そうとした。
まだ、顔は上げられないままで。
「ワイン、好き?」
「あ、はい…」
「じゃあ、一緒に飲もうか」
え?
その言葉にはっとして顔を上げる。
彼の手にはコルクを抜いた赤ワインのボトル。
けれど、問いかける暇もないままに、彼は手にしていた赤ワインのボトルをそのまま口に寄せて傾ける。
そしてバスタブのふちにボトルを置くと、私の方にそっと近づいてくる。
さっき取りに行った飲み物って、これだったんだ。
私は頭のどこかが冷静にそんなことを考えているのを感じていた。
「ん、っ」
唇が重なると、反射的に目を閉じて。
私は流れ込んでくる冷たい液体を飲み干す。
「今夜は、飲んでも平気なんだよね」
「や、待って、くさは…」
名前を呼ぶこともままならないままに、次のキスが落ちてくる。
肩をつかまれて、互いの唇で分け合う赤ワイン。
唇の隙間から、それが一筋こぼれていく。
「つめた…ッ」
私はそれを拭おうと手を伸ばしたけれど、その手を草原さんがつかんだ。
そして静かな光を宿した目で、私を見つめる。
心臓が、破裂しそう。
そう思った。
「んッ…、や、あ」
彼はワインのこぼれた筋をたどるように、私ののどもとから胸へと舌を這わせる。
その濡れた感触は、お湯とも違って私をたかぶらせてしまう。
触れられてもいない胸の先が、固く充血していくのがわかるほどに。
「ちづちゃん、かわいいね」
「…く、草原さ」
「もっと飲んで酔ってしまって。そして、さっきみたいに俺を誘ってよ」
彼は何度もワインを自分の口に含み、キスで私の中に流し込む。
繰り返される行為は、まるで聖なる儀式みたいに。
少しずつ、頭の芯がぶれていく。
自分が何をしているのか、わからなくなりそう。
「んっ…は、ぁ」
「もっと?」
彼は唇で、私の唇を軽く噛んで。
溶けてしまいそうな耳の奥のやわらかい官能を刺激してしまう。
「もっと、欲しい?」
「ほ、しい」
「じゃあ、今度はちづちゃんからキスして」
ワインを口に含んだ彼の首に腕をまわして、私は自分から求めるように唇を押し付ける。
胸の中、ほてった身体の内部を、冷たいアルコールが落ちていく。
何度もキスしているうちに、私は草原さんの身体にまたがるような体勢になっている。
彼は右手にワインボトルを持ち、ひじをバスタブのふちにかけていた。
空いている左手は、そっと私の胸に触れている。
「…ん、待って、あ、やッん…」
ごとり、と鈍い音がして。
目を閉じたままでも私には、彼がボトルを床に置いたのがわかる。
その証拠に、今は両手で胸をまさぐられている。
「やわらかいね」
「ん…ッ」
「声、出していいよ」
「や、だ」
「じゃあ、もっと感じさせてあげる」
両脇に手を差し入れられて、身体を半ば持ち上げられる。
私はバランスを崩さないように、彼の肩に手を置いた。
「く、草原さん、あッ…」
彼の唇が、私の胸の先をとらえる。
なぞるようにそのかたちを確認していく舌先。
私はのどをそらし、草原さんの肩をぎゅっとつかんだ。
「ちゃんと、つかまっててね」
私を持ち上げるようにしていた手が、脇から離れていく。
そして右手が、脚の間に入り込む。
「や、待って、待って、本当にッ、んんッ、あ、あッ…ん」
お湯とは違うぬめりの中に、草原さんの指がずぶずぶと入り込んでくる。
「あったかい」
「そ、んなこと、言わないで」
「どうして?ちづちゃんの身体でしょ。俺を、ここで受け入れてくれるんじゃないの?」
「……ッ」
私の中をかきまわす指が、内壁をひっかくように動く。
まるで、感じる部分がどこなのかを探すように。
「やッ…」
「ここ、かな」
「いや、ダメ、やあッん、あ、ああッ、ま、ってぇ」
「だめ、待たないよ」
いつの間にか本数が増やされて、彼の指は私の中でも更に敏感な部分をこすりあげる。
「い、やッ、ダメ、だめぇ、そんなにされたら、や、んんッ」
「どうなっちゃうの?もっと感じちゃう?」
「ちが、うッ、ん、あ、ああッ、あ」
「じゃあ、どうなるの?」
穏やかな口調で、ひどく卑猥な息遣いで。
彼は私を追い詰める。
身体の内側から、その指で。
外側から、その声で。
「いや、いやぁ、そんなにされたら、あッ、ん…ッ、私、イッちゃうぅ…ッ」
「ちゃんと言えたね。じゃあ、いいよ、イッて。ちづちゃんのイク時の顔、見たいから」
リズミカルに動いていた指が、まだ加速する。
もう目を開けていられない。
それだけじゃなく、身体を支えていることさえ、出来ない。
私は両腕で草原さんの首にしがみついて、はしたなく自分から腰を揺らす。
快楽だけが、私の身体を支配していく。
脳細胞のひとつひとつまで、今はもうただ、この快楽のために存在しているんじゃないだろうか。
「んっ…、あ、く、さはら、さッ…ん、あ、あッ…、あ、あ、ああッ…――」
てっぺんまで昇りつめてしまうと、がくりと身体の力が抜けてしまい、私はへたるように草原さんの上に身体を預ける。
「ちづちゃん…」
耳元で呼ばれた自分の名前は、愛情で満たされているみたいに感じられる。
大丈夫、酔っていてもわかる。
これは一晩だけの、幻の夜の出来事。
朝になれば、すべて消えてしまうのだから、今はただ貪ればいい。
彼の温度で。
彼の身体で。
彼の、優しさで。
すべての快楽を、思い知ればいいだけなんだ。
それから数分経っても力の入らない私の身体を、草原さんは抱き上げてバスルームから連れ出してくれた。
「身体、拭きたいんだけど、立てる?」
私はワインのまわった頭を左右に小さく振った。
「…ごめん、大丈夫?気持ち悪くない?」
さっきまでの草原さんとはまるで違う人みたい。
もしかして、ベッドの中では変わっちゃうタイプ?
そんなことを思いながら、私はくすくす笑った。
「ちづちゃん?」
「草原さん、変ですよぉ。気持ち悪いことなんかしてないのに。気持ちよかったのにい」
呂律の回らない私の言葉に、草原さんもちょっと照れたみたいに微笑む。
その笑顔、好きだなぁ。
私はそっと彼の頬に手で触れてみる。
「今夜はもう、このまま眠ろうか」
「ダメぇ、そんなの。だって、草原さん、まだ満足してないもん」
とろりとぬるい思考のまま、私は彼の身体にぎゅっと抱きついた。
おへその辺りに、まだ勢いのあるままの彼の情熱があたる。
「ね、私のこと、ほしいでしょ?」
「それは、そうだけど」
「じゃあ、ベッドに行こう?」
自分が何を言っているのか、うまく認識できない。
あるいは言っていることはわかるのだけれど、それがどんな意味を持つことなのか、理解できていない。
私が考える前に、私の唇は素直な欲望を言葉にしてしまう。
「でもちづちゃん、かなりお酒まわっちゃってるでしょう?」
「平気。ね、早く。もっとしたいの」
「うーん…」
そこで、まだ考え込む彼に。
その腕の中から、そっと抜け出して、私はしゃがみこむ。
「ちづちゃん?」
「んん?」
もごもごと唇で彼をはみ、私は上目遣いに草原さんを見上げる。
舌の上で、草原さんの熱を感じる。
「うわ、ちょっと待って。いいよ、そんなことしてくれなくて!」
「んー、んんん、んん?」
「わ、わかんない。何言ってるのか、うっ、ちょ、待って、っぅ」
優しく吸い上げると、彼は大きく息を吐く。
それは、切なげに。
その表情が色っぽくて、どこかかわいくて。
私は音を立てて唇を動かす。
唾液で濡れたそれは、ますます硬さを増していく。
「わ、わかったから!」
「?」
「ちづちゃんの言う通りにしよう。だから、ここでそんなこと、しないで」
さっきまであんないやらしいことしていたのに、草原さんは顔を真っ赤にして私の肩をつかんでいる。
そして腰を引いて、私の口の中から自身を引き抜く。
「気持ちよくないですかぁ?」
「そんなわけないでしょ。気持ちいい。すごくいいよ。でも、その、ね?」
「うん?」
「いい、わかった。うん、ベッド行こう、ベッド」
タオルで拭く必要もなく、お互いの身体は既に乾き始めていた。
私がさっきまでしゃぶっていた部分を除いて。
「おいで、ちづちゃん」
草原さんが両手を広げてくれる。
私はその腕の中に抱き上げられて、なんだかとってもふわふわした幸せな気持ちで、ベッドまで運ばれていった。
まるで、お姫様みたいに扱われて。
ベッドに入ると、もうお互いに言葉は必要なかった。
草原さんは私の唾液で濡れそぼった欲望の証に、ベッドサイドから取り出した避妊具をつける。
それを待ちきれなくて、私は彼の唇に自分の唇を押し付けた。
舌を絡めあい、毛布を頭までかぶって。
抱きしめあった身体は、まるで宇宙をさまようみたいに浮遊感を感じている。
「ん…」
「ちづちゃん、かわいいよ」
「や、ん」
目を閉じたまま、何度もキスを繰り返す。
さっき達したばかりの身体は、すぐにでも彼を求めていた。
脚、開いて?
そんな言葉が聞こえたような気がしたけれど、それさえも現実なのかどうか、わからなくて。
ただよう感情と、欲する身体だけが、今の私のリアル。
ゆっくりと、身体が開かれていく。
「…っあ、あ、んん、草原さ、んッ」
「嘘みたいに、き、ついね」
奥深くまでつながって、互いの腰が密着する。
草原さんは毛布を跳ね除けて、私の腰を両手でつかんだ。
「動いても、平気?」
「ん…、動いて、ください」
「うん」
腰にあてられた手に力がこもる。
草原さんは、私の腰をぐっと持ち上げた。
お尻が浮いた状態になって、私はつま先に力を込める。
ひどく不安定な体勢で、そのせいなのか内側からの圧迫がおかしいくらいに強く感じられる。
「ちづちゃん…ッ」
「あっ、や、ああッ、ん」
ゆっくりと私の中を抉る草原さんの温度が、内側から私を溶かしていく。
ダメ。
もっと、もっとして。
私の腰をつかむ彼の腕を、両手で必死につかむ。
「やだ、もっとして。もっと速くいっぱいして、こんな、ゆっくりされたら…、
んッ、や、お、かしくなるッ……」
今にも泣き出してしまいそうなほどに、身体が彼を欲しがっている。
欲しいものは、与えられているはずなのに。
それだけでは足りないと。
もっともっと、私を貫いて、何も見えなくなるまで、感じさせて、と。
「そんな、急がないで。俺、ちづちゃんのこと、ゆっくり感じたいよ」
「あッ、ん、やだ、そんな、こと、言っちゃやぁッ、…あ、ああ、あッ」
じれったいほどの動きは、それまでに感じたことのない官能を引き出していく。
ゆっくりだから、逆に彼をすべて感じてしまう。
その質量も、かたちも、温度も。
つま先を突っ張らせて、私はびくびくと腰を震わせる。
これだけで、達してしまいそうになる。
まだ、ほんの少し動かされただけなのに。
私の中を、数回往復しただけなのに?
「ダメッ、ほんとにダメ、そんな、やッ…ん、あ、あっ、んぅ…だ、めぇ、ふ、
ああ」
「ちづちゃん、そんな締めないで、…っく、つらい、よ」
「やだ、違うッ。やあ、あ、んッ……―――」
奥まで、ゆっくりと彼が入り込んできた瞬間、私は2度目の絶頂を迎えてしまう。
意識、とんじゃいそう…。
あまりの快感に、そう思った時だった。
「え、あ、草原さッ…ん」
「ごめん、俺も限界。セーブできない…。ちづちゃんのこと、気遣う余裕、ないかも」
彼は私の上にのしかかるようにして、私の顔の横に手をつく。
それまでのゆっくりな動きではなくて、内部をぐるりとグラインドさせながら、腰を打ち付けてくる。
「あッ…、や、ダメ、イッたばっかりなのに、そんなにしちゃやあッ」
「すごい…、やばいよ、もう。ちづちゃんの中、くっ、すっごい、俺のこと締めつけてる」
今まで私を抱いた誰よりも、力強く。
草原さんが奥深くまで入り込んでくる。
そのスピードが、どんどん加速してしまうから、私はもう自分の身体に歯止めがかけられない。
声が、のどから押し上げられてこぼれていく。
「んッ、あ、ああ、やッん、あッ」
「ふ、うッ…」
「くさは、らさ…ッ、や、ダメ、あ、んぅ、んんッ」
擦れているのは、切なく濡れた身体なのに。
まるで心を擦り上げられているみたいに、胸の奥がきゅうっと痛い。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
気持ちよくてたまらないのに、それと同じくらいに息も出来ないほど苦しい。
「ちづちゃん…、ああっ、ちづちゃん、俺、もうやばそうッ」
「わ、たしも、も、ダメ、また、…んッ」
「優しくなくて、ごめんね。でも、一緒にイこう?」
ふ、っと草原さんが微笑んだ。
額に張り付いた前髪。
汗が私の胸元に滴り落ちる。
その目は今、私だけを映してくれているから。
優しくなくなんか、ない。
草原さんはすごくすごく、優しいよ……。
「あっ、あ、やッ…んん、ダメ、もお、アッ、ん、ふうッ…、う、や、あッ、あ
あ、あ、あッ、ん、ああァッ、あ、あああ……ッッ」
「くッ……」
びくん、と彼が私の中で跳ねたのがわかった。
だけど記憶はもうそこまで。
それから先は、ただ落ちていく感覚だけ。
ううん、落ちていくとはちょっと違うのかもしれない。
ふわふわと、羽根が空から降ってくるみたいに。
まるで私が、その白い羽根になってしまったみたいに、ベッドへ沈み込んでいく。
ふわふわ、ふわふわ。
「……おやすみ」
どこか遠くから、声が聞こえた気がした。
それは、誰の声だったの?
わからないよ。
私が、遠ざかってい、く…………。
光がゆっくりと私を照らす。
まぶしくて目を開けると、私は広いベッドにひとり横たわっていた。
あれ…、ここ、どこ?
身体を起こすと、下半身がひどく重い。
「草原、さん?」
昨夜は彼の部屋に来たはずだ。
そして彼に、抱かれた。
けれど今、寝室のどこにも彼の姿は見当たらない。
「…そ、っか。そうだよね」
冷静にならなくては。
一晩だけの遊びでいいと言ったのは、私だったはずだ。
だとしたら、朝になって顔を合わせるのは気まずいに決まっている。
草原さんはそれがわかって、どこかへ出かけたのだろう。
壁にかけられた時計を見ると、既に時刻は午前9時に近い。
私は重い身体を引きずるようにベッドから降りた。
近くに置かれたソファの上に、きちんとたたまれた私の服が置かれている。
手にすると、それは洗濯してあるのがすぐにわかった。
丁寧なたたみ方。
それがなんだか、草原さんらしい…なんて。
私は鼻の奥がツンとして、泣き出してしまいそうな気持ちになった。
だけど今は泣いている場合じゃない。
さっさと服を着て、仕事に行かなくては。
今日は新しいデスクが入る。
SAMURAI6のサブマネージャーは昨日まで。
今日からは、なにわJam,sのサブマネージャーとして、新しい仕事が待ってるんだ。
『マネージャーがちづちゃんみたいな子だったら、きっと俺、つらい時とか相談出来る。君みたいな子だったら、信用できるって思うから』
草原さんの昨夜の言葉を思い出す。
それだけで、なんだか心に力がわいてくるのを感じる。
もし本心ではなかったのだとしても、私には草原さんのその言葉が嬉しかった。
大丈夫、頑張れる。
急いで服を着ると、私は広いリビングを通って玄関へ向かう。
オートロックって、こういう時便利だ。
鍵を渡されていなくても、この部屋から出るだけできちんと施錠されるんだから。
そんなことを思って、もうきっと二度とくることのない部屋を後にする。
後ろは振り返らない。
もし振り返ったら、そこに草原さんがいないことに、寂しさを感じてしまうかもしれないから。
新しい空。
新しい光。
街はいつもと変わらなくても、それは毎日純度の活性化を繰り返して。
新しい雲。
新しい風。
どこまでも、続いていく。
新しいデスクに荷物を移動させたら、なにわのみんなのレッスンを覗きにいってみよう。
きっと美波さんにしごかれてる。
きつくて吐いちゃう子もいるかもしれない。
何か、飲み物も準備しておかなくちゃ。
新しい出会い。
新しい時間。
私たちは、いつだって繰り返してる。
きらきら光る、心の活性化を。
「千塚さん、おはようございます」
以前使っていたデスクから荷物をダンボールに詰めて、新しい部屋に移動すると、海原くんが声をかけてくれた。
「おはようございます」
会社についてすぐに化粧はしたし、服もロッカーに置いていた予備に着替えた。
業務上、家に帰る暇もないことが多いから、常に着替えを備えてあるのだけれど、こういう時はそれが便利だ。
「これから、よろしくね」
私は海原くんに軽く会釈して自分の机にダンボールを置いた。
「…これ、って」
机の上には、花束と大きな色紙が置かれている。
「さっき、SAMURAI6のメンバーがみんな揃って来てましたよ。千塚さんいないの知って、がっかりしてたみたいです」
「……やだ、何よ、もう」
私は、花束をそっと抱きしめる。
そして色紙を手にとった。
『人生何事も前進あるのみ。別れは寂しいけど、ちづちゃんのこれからをいつまでも応援しています。森本征之』
『ちづちゃーん、あんまり無理すんなよー。でも頑張ってるちづちゃんを見ると、俺も頑張らなきゃって思ってた。これからも笑顔を大切にね。ダンディ千原』
『ちづちゃんの笑顔が見られなくなるのが残念だけど、きっとまた一緒に仕事しよう!俺たちはずっと仲間だ。From.松嶋』
『ちづブー、負けんな、ファイト。(いじめられたらいつでも戻ってこい)By.GO』
『いつもちづちゃんがいてくれて、ほんま助かってました。いなくなるなんて思ってもみなかったから、今はごっつう寂しいわ。お互いがんばろな。またな。準より』
『つらい時、ちづちゃんの笑顔を見ると元気になれたのに、いなくなっちゃうなんて本当に寂しいよ。俺のお気に入りの靴下なくした時、一緒に探してくれてありがとう。あの時のちづちゃんの優しい笑顔、絶対忘れない。賢』
「なによ…、こんなの、こんなの書かれたら、余計寂しいじゃないのよぅ」
今までの私は、無駄じゃなかったって、SAMURAI6のみんなが教えてくれる。
いつも、一緒に成長してきたんだ。
ずっと傍で見守っていられるって思ってた。
だけどこうして離れてみて、私は彼らのことを本当に大好きだったってことが実感できる。
別れは、新しい未来への可能性を広げるんだ。
前進あるのみ、だよね、森本くん。
「いいっすね、そんな風にお互い信頼しあえる関係って。俺もちゃんとマネージャーやってけるのかなぁ」
海原くんが、小さくつぶやくようにそう言った。
「大丈夫だよ。一生懸命頑張ろうね」
未来は、きっと明るいから。
今はそう信じられる。
「はい!俺、マジで頑張ります!」
「うんうん、その意気だよ。じゃあ、メンバーの様子でも見にいきましょうか?きっと、しごかれてるから」
「ういっす」
そして、私がなにわJam,sの正式スタッフになって2週間が過ぎた。
メンバーは毎日レッスンに追われている。
デビューは来年の7月。
それまでに身体を作って、ハードスケジュールにも耐えられる精神も養っておかなくてはならない。
今日は、六本木のスタジオでSAMURAI6がKidsと公開レッスンを行っているため、なにわは本社から離れた調布のスタジオで自主レッスンを行っていた。
調布にはF・テレビの撮影所もあるので、以前から何度か SAMURAI6の付き添いで来ていたけれど、白い壁と周囲の木々に囲まれているせいか、どこか別世界みたいに思える時がある。
敷地は広く、元々撮影所の建物の一部だったものを、10年ほど前にJ&Mが買い取ったと聞いている。
2階建ての1階部分はスタジオで、2階には合宿用の設備も揃っており、デビュー前の直前合宿では東京を遠く離れることも出来ないので、このスタジオが使われることもあるらしかった。
なにわJam,sのメンバーとは、少しずつ打ち解けてきた。
特にコージくんと鷹都くんは、人懐っこくてすぐに楽しく話せるようになった。
それぞれの個性もだんだん見えてきた。
リーダーの夏樹くんは、いつもみんなを励まして、誰よりも一生懸命レッスンに取り組む努力家。
だけどちょっと抜けてるところもあって、そこがみんなに親近感を感じさせているみたい。
コージくんは、場を盛り上げるのがすごく上手。
特に哲太くんをネタにツッコミを入れては、最終的にはなぜか哲太くんのボケに翻弄されてる。
その哲太くんはと言えば、ダンスに関してはすごくきれいな動きを見せるけれど、それ以外ではたいていぼんやりしていて、いつもマイペース。
鷹都くんは、コージくん同様場を盛り上げるのが得意みたい。
誰かが話していると、すぐにそこにやってきて、楽しそうに笑っている。
不思議なことに鷹都くんといると、みんな楽しい気持ちになる。
こういうのって、人徳なのかな。
それから直人くんは、ちょっと最初とっつきにくい感じがしたけれど、話してみるとクールなだけじゃなくて、すごく熱い部分を持ってる。
たぶん、実はすごく負けず嫌いなんじゃないかって思うけど、実際どうなのかはまだわからない。
幹王くんは、やっぱり1番弟分って感じで、みんなからかわいがられてる。
鷹都くんなんかは、幹王くんをかまうのが楽しくてたまらないみたい。
でも幹王くん自身は、かわいいキャラって思われるより、かっこいい男になりたいなんて言っていて、まだまだ成長の過程を楽しく見守らせてもらえそう。
「ちづちゃーん、オレのミネラルウォーター知らん?」
レッスンの休憩中に、鷹都くんがタオルで顔を拭きながら私に話しかけてくる。
「あれ、そこにまとめておいてなかった?」
「ないんや、オレのんだけ」
「じゃあちょっと買ってくる。ごめんね、鷹都くん」
「ちづちゃんのせいやないやん。誰かまちごうて飲んだんかもしれんし」
「待ってて、すぐ戻るから」
私は財布を手に、スタジオを出た。
撮影所の前に自動販売機があったはずだ。
前にもSAMURAI6の撮影でここに来た時、やっぱりミネラルウォーターを探していて、近くの自販機に置いてあってほっとしたのを覚えている。
あそこなら、ミネラルウォーターだけでなく、清涼飲料水もあったと思う。
私は急いで自販機に向かう。
そして、そこで信じられない人の姿を、目にしてしまった。
ううん、でも彼ならば、そこにいてもおかしくない。
映画やドラマの仕事が、最近はかなり増えているんだもの。
F・テレビの撮影所に彼がいても、不思議はないのかもしれない。
「あれ、ちづちゃん」
彼――草原篤志さんは、私を見かけるとにっこりと笑って手を振ってくれた。
あの夜のことなんて、まるでなかったことみたいに。
私は、鷹都くんに頼まれたミネラルウォーターを買うのも忘れて、とっさに草原さんに背を向けて駆け出していた。
今会っても、うまく笑えない。
あの夜のことが、まだ私の中ではきちんと整理できていないのだ。
思い出さないように、考えないように、新しい環境に適応することで、気持ちを押さえつけてきた。
だって、どうしようもないこと。
あの人を好きになったとしても、それはかなわない恋でしかないんだから。
「ちづちゃん、待ってよ!」
背後から聞こえる声に振り返れば、草原さんが私を追いかけて走ってくる。
「なんで追いかけてくるんですかぁ!」
「だって、ちづちゃんが逃げるからだよ!」
必死で走っても、草原さんの脚にかなうはずがない。
それがわかっていても、私は逃げずにいられなかった。
「追いかけられたら逃げるに決まってるじゃないですか」
「俺が追いかけるのやめたら、ちづちゃん、話してくれないだろッ」
レッスンスタジオの駐車場を抜けて、ちょっと人目につかない場所へ来た時、私は後ろから草原さんに腕をつかまれた。
「やッ!」
抵抗しようとしたけれど、壁に背をつけた状態で、両側を草原さんの腕にふさがれてしまった。
「…あの夜と逆だね」
息を切らしながら、草原さんが微笑む。
その笑顔がまぶしくて、私は目をそらした。
「あの日のことは、…忘れてください。私、普段はあんな風じゃないんです。簡単に男の人の部屋についていったりしないし、自分から誘うようなまねだって、したことなんかないんです。あの時は酔ってて、だから、本当の私は違うんです」
忘れられないのは、私の方なのに。
そんなことを言って、防波堤を作ろうとしている。
もし、ただ身体を求められて、また部屋においでよなんて言われたら、きっと苦しくてたまらないから。
「待ってよ、俺は別に」
「なので、先日は本当にすみませんでした。それと、ありがとうございました。ちゃんと元気になりました。もう平気です。ご心配おかけしてすみませんでしたっ!」
私は叫ぶようにそう言って、草原さんの腕を払って歩き出す。
その時、身体を強引に引き寄せられて。
次の瞬間には、私は草原さんの腕の中に抱きすくめられていた。
「く、草原さんッ」
「俺、頭良くないし、そんな勢いで言われたら、なんて説明すればちづちゃんがわかってくれるかわかんないよ。だけどちづちゃんのこと、そんな風に軽い子だって思ったわけじゃないし、ましてただ寝るための相手が欲しいわけじゃないよ。あんな風にいきなり身体の関係から始まったけど、俺はちづちゃんのこと、もっと知りたい。あれで終わりなんかじゃ嫌だ」
「そ、そ、んなこと、言われても…」
心臓が早鐘を打つ。
「あの日、朝さ、ドラマの撮りで早く出なきゃなんなくて、リビングのテーブルにメッセージ残しておいたのに、ちづちゃん電話くれなかったよね。俺、待ってた。でもちづちゃん、新しいグループのサブマネになるって言ってたし、忙しいんだと思って我慢してたんだ」
「え…」
私は、そんなこと知らない。
リビングのテーブルの上にメッセージが残されていただなんて、私は気付いてもいなかった。
あの朝、草原さんがいなかったのは、単に私と顔を合わせたくなかったからなんだって思っていたのに。
「俺、ちづちゃんの名前だって知らないんだよ」
草原さんは、寂しそうな声でそう言った。
世紀のトップアイドル、ギャラクシー。
その一員である草原さんが、今こうしてここにいて、私を抱きしめてくれていて。
その彼と、ほかのグループのスタッフであるとは言え、同じ事務所のマネージャーである私が付き合っていくことはあまりに危険すぎる。
だけど、草原さんの真摯な瞳が、私をとらえて離さない。
傍にいたいと思うのは、ただの熱情でしかなくて、恋かどうかだってわからない。
だけど、この人といられたら…。
「…千塚、萱子です」
「かやこちゃん?」
私の名前を呼ぶその声は、まるで10月の青空みたいに、どこまでも澄み切って優しくて。
「俺は草原篤志です。ギャラクシーのメンバーだけど、いつも地味だって言われてます。アイドルっぽくないとかもよく言われます。友達からはじめませんか。君に興味があります」
少し緊張しているのがわかる、彼の言葉。
ダメだってわかってるのに、どうしてもNOと言えない。
こんな風に、まっすぐな人を私は他に知らない。
マジメな言葉に、優しさに満ちた瞳に、どこまでも惹かれてしまう。
そんな目で見るのは、ずるいと思う。
だって私は、この目に絶対に抗えない。
「…絶対、内緒にしてください」
「うん」
「こんな風に追いかけてきたりとか、もうしちゃダメです」
「うん」
「それと会うときは、室内のみです」
「うん」
「あと、この間のことは…、忘れてください」
「どうして?」
「…恥ずかしいからです!」
「じゃあ、忘れるように努力する。ちづちゃんが恥ずかしいって言うなら、そうする。だから」
草原さんは私の耳元で小さくつぶやいた。
ねえ、キスしてもいい?
本格的な恋が始まるのは、まだきっと先のこと。
だけど、唇はあなたをもう欲しがっているから。
誰も見ていないのを確認したら、そっと触れるだけのキスをして。
「…忘れるどころか、今すぐちづちゃんのことが欲しくなりそう」
「くっ、草原さん!?」
「かわいい、ちづちゃん」
「あっ、ちょっと!ちょっと待って、あの、私、仕事戻らないと!鷹都くんのミネラルウォーターがっ……」
ONE LITTLE KISS.
それは、はじまりの合図。
可能性の未来を信じて、私たちの秘密の恋がはじまる―――。
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end
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