ONE LITTLE KISS
 ――1――






                                     by 麻生ミカリ
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 10月の空を見上げていると、なんだか懐かしい気持ちになるのはどうしてなんだろうか。
 六本木のJ&M本社、窓際のデスクに腰掛けて、私は初めてこの事務所に来た時のことを思い出していた。
 それまで働いていたイベント企画会社からの中途採用で、まだ22歳になったばかりだった私は、どこか不安な気持ちを隠せぬまま、だけど希望に満ちて事務所に足を踏み入れたっけ。
 芸能界でも屈指の男性アイドルグループを多数抱えている、大手芸能プロダクション、株式会社J&M。
 そんなところで、私なんかがやっていけるんだろうか。
 不安な気持ちは確かにあった。
 けれどその反面、あの時の私は、自分の力を知りたかったんだと思う。
 イベント会社のただのOLで終わりたくなくて。
 自分の能力で、何かを成し遂げたくて。
「ちづちゃーん、そろそろミーティング始まるんじゃないの?」
「はあい」
 ばかね、感傷に浸っている場合じゃないのに。
 わかっていながら、私は空を見上げていた。
 懐かしい気持ち?
 ううん、それだけじゃない。
 本当は寂しくて仕方ないのかもしれない。



 4年前、入社したばかりの私は、デビュー3年目だったアイドルユニット「SAMURAI6」のサブマネージャーに任命された。
 J&Mではジャムキッズと称して売り出している、アイドル予備軍のレッスン生時代から絶大な人気を誇っていた高沢くんと市原くん、そして関西出身の岡村くんら若年チーム。
 そしてリーダーの森本さん、千原さん、松嶋さんらベテランチーム。
 この2つの世代で構成されたSAMURAI6は、今年でデビュー7年目を迎えた。
 バラエティの仕事を多くこなし、平均年齢24歳になる今でも、中高生からの人気を集めている。
 J&Mに入社してから、私はSAMURAI6のサブマネージャー以外の仕事を担当したことがない。
 どこかで、彼らの傍にいることが永遠に続くとでも思ってしまっていたのだろう。
 だからこそ、彼らの成長を傍でずっと応援できるものだと思っていた私にとって、辞令は唐突すぎた。
 来年デビューする関西出身の新しいグループのスタッフとして抜擢されたのだ。
 自分の能力を認められたと喜ぶべきところなのかもしれないが、今の私にはとてもそうは思えない。
 なぜなら抜擢されたというよりは、実際は『はずされた』のだから。
 SAMURAI6とやってきたこの4年間、私なりに頑張ってきたつもりだった。
 何も出来ないながらも、いつだって笑顔を絶やさないよう、メンバーが楽な気持ちで仕事に向かえるよう、気を配ることだけは怠らなかったつもりである。
―経験のあるサブマネが欲しいらしいから、ちづちゃんよろしく頼むよ。
 SAMURAI6には私のほかにも3人のサブマネージャーがいるにも関わらず、メインマネージャーを務める伊澤さんは、そう言って私をはずすことを選んだ。
 今のスタッフの中で、私が1番必要ない人間だと言われたように感じてしまったのは、私の思い違いなのだろうか。
 廊下を歩く足が、次第に遅くなっていく。
 こんなんじゃ、ダメ。
 今日は関西からメンバーがやってきて、初の顔合わせなのだ。
 まだ中学生の子もいるのだし、彼らだって不安はあるはずなのに、スタッフの私がこんな風に落ち込んでいてはいけない。
 私はドアの前で顔を上げて、大きく息を吸い込んだ。
 メンバーのプロフィールは、きちんと頭の中に入っている。
 大丈夫、ちゃんとやれる。
 ドアを開けると、スタッフほぼ全員がそろっていた。
「遅くなりました」
「ちづ、お前そこ座れ。おいトッコ、ちょっとそこつめろ」
 メインマネージャーとなる森丘さんが、横柄な口調で席についているすらりとした女性に声をかけた。
「あ、すいません」
 私は彼女が空けてくれた席に音を立てないように腰掛ける。
「いえ」
「そんじゃ、全員そろったな。えー、今日はなにわJam,sスタッフメンバー会議、第1回ってことで。俺はマネージャーの森丘輝夫です。知らない奴はいないだろうけど」
 森丘さんは今回の新グループには企画段階から携わっている。
 ヒゲ面のおじさんで、言葉遣いは悪いけれど裏表のない人だ。
 以前はギャラクシーのスタッフを努めていたこともあり、マネージャーとしてもベテランの部類に入る。
「とりあえず、メンバーの自己紹介からやっか。夏樹、お前からな」
「はい」
 あれが、谷口くん。
 私は書面で見たプロフィールを思い出しながら、彼の顔をじっと見つめた。
 顔立ちは目立ってかっこいいわけではないけれど、誠実そうな優しい目をしている。
 黒髪と奥二重の、純和顔という感じ。
「えー、なにわJam,sのリーダーつとめます、谷口夏樹です。Kids入ったのは7年前で、最初は東京にレッスン通ってました。いつか、ギャラクシーさんみたいなすっごいアイドルグループになって、家族を驚かせたいです。これからどうぞよろしくお願いします」
 SAMURAI6のリーダーの森本くんと比べると、まだまだ幼くて、頼りがいがあるとは言えないけれど、それでも彼の雰囲気は確かにリーダーの資質を備えている。
 ギャラクシー、J&Mの中だけではなく、日本国内でトップアイドルと呼ばれる存在を目標にかかげて、谷口くんの瞳はきらきらと輝いていた。
「俺はキャノンボーイズみたくなりたいんやけどなぁ」
 そう言ってどこか遠くを見つめる二重のはっきりした目。
 彼が、立花幸二くんね。
 それから、遠藤くんと久住くんに清泉くん、末席が澤くん。
 澤くんは傍目から見てもわかるくらいに緊張している。
 彼らが、これから私が付き合っていくメンバーになるんだ。


 順番にメンバーの自己紹介が済まされると、次はスタッフの番になった。
 私の隣に座っていた女性は、塚本徳子さん。
 私より少し年上に見えるけれど、マネージャー業務に携わるのは初めてらしい。
 クールでおしゃれな雰囲気をかもし出している。
 元々はメイクスタッフだったとのことだ。
 そしてもう1人のサブマネージャーは海原大将くん。
 今年の春に東大を卒業してJ&Mに入った変わり者として有名人だったので、顔だけは知っていた。
「じゃ、次。ちづ」
 森丘さんに名前を呼ばれて、私は椅子を引いて立ち上がる。
「千塚です。今まではSAMURAI6のサブマネージャーをやってました。よろしくお願いします」
 挨拶してしまうと、自分が本当にもうSAMURAI6のスタッフからはずされてしまったのだということが身にしみる。
 新しいメンバーと、新しいスタッフと。
 これから新しい関係を築いていかなくてはならないというのに、私の気持ちはまだそのスピードについていけないままだった。


 「ちづちゃーん、ほらもっと飲んで飲んで」
 その夜、私のためにSAMURAI6スタッフが開いてくれた慰労会の席で、私は更なる疎外感を感じていた。
 慰労会と言っても、メンバーは急なバラエティの撮りなおしが入ってしまって参加できず、スタッフもほとんどが現場に駆けつけている。
 仕事なのだから仕方ないとは思いつつも、僻みに似た寂しさを押し殺すことも出来ない。
 4年間、一緒にやってきたと言っても、私は使い捨ての人間なんだ。
「4年間、よく頑張ったよねえ。僕はちづちゃんの笑顔にいっつも癒されてたよー」
「いえ、…そんな」
 SAMURAI6のデビュー当時からサブマネージャーを務める中崎さんは、以前から個人的に私を誘ってくれることが多く、それがどういう意味なのかはわかっていたので、2人きりになるのを意識的に避けていた。
 けれどこうして人数の少ない飲み会の場になると、隣に座られてしまえば逃げ場もない。
 それでなくとも中崎さんは、お酒が入るとセクハラじみた発言が増えるのだ。
「でもさ、ちづちゃんって、いっつも仕事仕事で、男の影、ぜーんぜん見えないよね」
「…そうですか?」
「うん、なんて言うのかな。色気が足りないって言ったら失礼だけど。最近、ご無沙汰してるんじゃないの、アッチの方」
「そのあたりは、ノーコメントで」
 私は曖昧な笑みを浮かべて、中崎さんから少し身体を離す。
「ダメだよー。ちづちゃん、もう26でしょ。今がいっちばん食べ頃なんだからさ、ちゃーんとおいしい時に食べてもらわないとぉ」
「もう、中崎さん、何言ってるんですか」
 笑ってかわすにもほどがある。
 確かに彼の言う通り、この2年ほど恋人と呼べる相手はいなかったし、それに準じた行為もない日々だった。
 だけど、私にとっては恋をするよりもSAMURAI6と仕事に打ち込むことが何よりだったのだ。
「なんなら、僕が食べちゃおっかなー。ちづちゃん、おいしそうだし」
「冗談やめてくださいよ」
 膝を撫でるように置かれた手を、必死で跳ね除ける。
 笑ってすませられる範囲でなくなる前に止めておかなければ、あとあとしこりが残るのはわかっている。
 中崎さんは、悪い人じゃない。
 これからもJ&Mで顔を合わせることもあるのだから…。
 私は、精一杯の我慢とつくり笑顔で中崎さんを押しとどめていた。
「あれー、中崎さん」
 急に、背後から声がかけられる。
 中崎さんがびくりとして、振り返ったのがわかった。
「森本君に飲み会来てよって言われてたから来たんだけど…、もう終わっちゃった?」
 そこに立っていたのは、J&Mの中でも長きに渡ってトップアイドルの座に立ち続けるギャラクシーの一員、最近はドラマでの活躍が目覚しい、草原篤志さんその人だった。
「く、草原さん!」
 中崎さんは驚いて、椅子から飛び降りる。
 今夜は元々メンバーも来ることを考慮していたけれど、いくらなんでもたかがサブマネージャーの送別兼慰労会に、天下のギャラクシーの草原さんが駆けつけるなんて誰も思っていなかったのだ。
 他の参加していたスタッフも、驚きを隠せない様子で、私も当然困惑していた。
 SAMURAI6のメンバーは、今夜は急な仕事が入ってしまったため、この場にはいない。
 いるのは草原さんとほとんど面識のない者ばかり。
「全然、終わってません。いや、来ていただいて光栄です。実はメンバーは急に『学校へGO!』の撮りなおしが入ってしまって…」
 一応面識のあるらしい中崎さんさえ、いつもとは違ってお酒が入っているにも関わらず、かなり丁寧な応対をしているのがわかる。
 トップアイドル。
 ギャラクシーの存在の特別さは、それまで彼らに関わってこなかった私にもわかる。
 外から見た時の、彼らの存在感も当然大きなものだろうが、J&Mの内部の人間だからこそ、ギャラクシーはより一層特別な存在なのである。
 今のJ&M人気は、ギャラクシーが築き上げたと言っても過言ではないだろう。
「良かったら、ここ座ってください。今夜の主役の隣ですから、ははは」
 中崎さんがさっきまで自分が座っていたスツールを指差す。
 それは、必然的に私の隣の席ということになる。
「ありがとう」
 草原さんはやわらかに微笑んで、私の隣に腰かけた。
 その仕草が、動作が、微笑が。
 まるで、ドラマのワンシーンのように見える。
「それで、君が今日の主役ってことは、どういう飲み会なのかな、これって?」
 私に向けられた、優しげなまなざし。
 J&Mに勤めるようになって4年。
 世間ではそうそうお目にかかれないような美少年・美男子にも見慣れたはずだった。
 けれど草原さんは、どちらかというとかっこいいだけの顔立ちというのではなく、むしろ外見だけだったらどこにでもいそうと言っても過言ではないくらいの凡庸さで。
 それなのに彼のまっすぐなまなざしひとつで、私の心臓はどきんと大きく音を立てていた。
「今夜は彼女、ちづちゃんの送別会みたいなもんなんですよ。彼女、SAMURAIのスタッフからはずされて、新グループの方に移動するもんで」
 中崎さんが背後からそう答える。
『スタッフからはずされて』
 その言葉に、私が傷つくなんてことはきっと気付いてもいないのだろう。
「そうなんだ。ちづちゃん、お疲れさま」
「あ、りがとう、ございます」
 優しく見つめられて、初めて話すのになんだか私は自分が草原さんの特別な人間にでもなってしまったような錯覚に陥ってしまいそうだった。



 草原さんは今年で30歳ぐらいだっただろうか。
 健康的な雰囲気の精悍な体つきをしている。
 おっとりした感じの表情は優しくて、なのにどこかとぼけていて。
 最近は個人活動の増えてきたギャラクシーにおいても、草原さんのドラマでの活躍は目覚しいものがある。
 ダンスや演技に関しては、事務所内でもトップの実力を備えていると言われる彼は、今私の隣でグラスを傾けていた。
「ちづちゃん、そんな飲んで大丈夫?お酒強いのかな」
「…今日は、いいんです」
 私はもう何杯目になるかわからないジントニックを飲み干す。
 人間、頑張っていたらいいこともちょっとはあるのね。
 最後の飲み会で、隣が中崎さんじゃ救われなかったけど、ギャラクシーの草原さんと飲んでるんだもの。
 そんなことを思って、私はなんだか自分がみじめに思えてきた。
「ちづちゃん?」
「私…」
 心配そうに私を覗き込んでくれる草原さんのまなざしを感じながら、私は空になったグラスを手にバーテンダーに声をかけた。
「すいません、ジントニックおかわり!」
「ちょ、ちょっと、そんなに飲んで本当に平気なの」
「平気です!まだまだ全然大丈夫ですッ」
 本当はそんなにお酒は強くない。
 だけど今夜は。
 飲んでいなければ、寂しくてやりきれないから。
「無茶な飲み方するなぁ」
 草原さんは、ほんの少し苦笑する。
「…私なんか、別にいたっていなくたって、かまわないんですから」
 ぼそりと声にだしてそう言ってしまうと、後はもう感情の溢れるのをとめることが出来ない。
「え?」
「私なんか、必要ないんです。だから、SAMURAI6からはずされるんです」
 目の前に、新しいグラスが差し出される。
 私は困惑している草原さんの空気を感じながら、そのグラスをぐっとあおった。
「どうして、私なの」
 それは、何度も胸の中で問い続けた思い。
「やっと自分の仕事をこなせるようになったって自信がもてたのに。ちゃんとやれてるって思えたのに!本当は私なんか、やっぱり必要なかったってこと…?私なんかじゃ、いてもいなくても同じってことなんだ」
 涙は出なかった。
 自分がみじめで、情けなかった。
 私が自信を持っていた仕事は、実際には代わりがすぐに見つかるようなことでしかなかったのだ。
 経験のある誰かをよこしてほしいと言われ、SAMURAI6からはずされることになった私。
 スタッフの中で本当に必要な人間は、はずされるはずがない。
 つまり、不必要な人間は、私だったんだ。
「ちづちゃん、それは違うと思うよ」
 草原さんは、そっと私の背中に手を置いた。
 あたたかな手のひら。
 その温度が、服を通して伝わってくるみたい。
「ちづちゃんがちゃんとやれるからこそ、新しいグループでその能力を発揮してほしいってことなんじゃないかな。少なくとも僕はそう思う。そんな風に自分を卑下するなんて、よくないよ」
「草原さんには、わからないんです」
 トップアイドルの座に君臨し続け、誰からも認められる彼に、何がわかると言うのか。
 その時の私には、彼に対して失礼すぎるということさえ、もう考えられなかった。
 押さえつけていた感情は、堰を失い暴走していた。
「うん、そうかもしれない。俺はちづちゃんのこと、なんにも知らない。でもこうして一緒に飲んでてさ、ちょっとでも話してわかったことだってあるよ。俺だったらちづちゃんみたいなマネージャーに傍にいてもらいたいな」
 私みたいな、マネージャーに?
「…口、お上手ですね」
「お世辞じゃないよ。最初、店に入った時から見てたから。中崎さんに絡まれてたでしょ。あの時だって、彼の立場とか考えて、周囲にすぐわかるようなつっぱね方しないように、気遣ってた」
「……そ、れは」
「俺たちみたいな仕事はさ、やっぱりどこかで甘えちゃう部分ってあるよ。マネージャーがちづちゃんみたいな子だったら、きっと俺、つらい時とか相談出来る。君みたいな子だったら、信用できるって思うから」
 何もわかってなんかいないはずなのに。
 草原さんは、優しげなまなざしのままで、私を見つめている。
 わかるはずない。
 私がどんな気持ちで、いつもいつも笑っていたのかなんて。
 わかるはずないのに…。
「ちづちゃん?」
 私は、思わず彼の隣の席から立って、店を走り出た。
 誰も気付いてくれなかった。
 ずっと、本当はわかってほしかった。
 認めてもらいたかったんだ。
 店の入り口を出たところで、後ろから右手首をつかまれた。
「どこ行くの。怒ったの?」
「や、ちがう…」
 私は泣き出してしまいそうな自分を感じながら、草原さんの手を振り払おうとした。
「待って。そんな状態で逃げないでよ」
「わからないくせに!」
 私は彼の立場も何も考えず、大きな声でそう言った。
 まだ23時をまわったばかりで、周囲には人がたくさん歩いている。
 ギャラクシーの、草原篤志。
 彼の立場を、J&Mでマネージャーを務める私が理解できないなんてわかれば、いくら優しい草原さんだって、こんな女をマネージャーに欲しいだなんて言えるはずない。
「…こっち、来てください」
 私は彼につかまれた腕を、逆につかみ返した。
「え、ちょっと」
 彼は困惑しながらも、私に引かれるままについてきてくれる。
 店の脇の路地。
 ちょうどその一角が、かなり暗くなっている。
 私はそこに草原さんを連れ込んで、彼の目を下から覗き込んだ。
「ちづちゃん?」
「…何もわからないくせに、いい人ぶるの上手ですね。私にマネージャーとして傍にいてほしいなんて、実際そんなこと思ってないくせに」
「違うよ、俺は」
「こんな女でも、マネージャーに欲しいなんて言えますか?」
 彼の唇。
 強引にそれをふさぐように、キスをする。
 もう相手が誰なのかなんてことさえ、考えられない。
 ギャラクシーの草原さんに、こんなことしているなんて、しらふでは想像も出来ないのに。
「んっ…」
 何か言おうとして、それを唇でふさがれて。
 草原さんは、小さく声をあげた。
 重なった唇は、あたたかい。
 彼の優しさそのものみたいに、あたたかいから。
「…っ、く」
 キスしたままで、私の目からは大粒の涙がこぼれ始めていた。
「ちづ、ちゃん」
「ねえ、こんな女でもマネージャーに欲しいって言うんですか?言わないでしょう!私なんか、私なんか結局、なんにも出来ないんです。SAMURAI6のメンバーだって、仕事が急に入ったから仕方ないかもしれないけど、遅くまで待ったって誰も来てくれない。私なんて、その程度の存在なんですっ」
 私は両手で草原さんの胸にしがみついた。
 そっと、宝物を包むように、彼の腕が私にまわされる。
 シャツに顔を押し付けると、涙はとめどなく溢れてきた。
 哀しくて。
 悔しくて。
 寂しくて。
 どうしようもないほどに、自分が嫌だった。
「ちづちゃん、ごめんね」
 草原さんは、私の背を撫ぜながら、小さな声で囁いた。
 どうして、あなたが謝るの。
 何も悪くないでしょう。
 私がやつあたりしているだけなのに。
「傷ついてるの、わかってたのに、ごめん。ちづちゃんは、本当にSAMURAI6のみんなと一生懸命にやってきたんだね。俺なんかが簡単に口出しできるようなことじゃないよね…」
 その優しさが痛すぎて。
 私は身体を押し付けるようにして、草原さんにすがりついた。
 こんな風に、誰かの体温を感じることさえ、あまりに久しぶりだということを、その時初めて思い出した。
「草原さん、あんまり優しくしないでください」
「俺、優しくしてる?」
「はい、すごく」
 ぴったりと彼の身体に寄り添っていると、互いの心臓の音がどちらのものなのかわからなくなってしまいそうだった。
 まるで、最初からこうして抱き合うためにつくられているかのように、私の身体は草原さんの身体に馴染む。
 あるいはそれは、私の思い込みなのかもしれないけれど。
「そんな風に優しくされると、つらいです」
「ご、ごめん」
 どうして、そこで謝るんだろう。
 元々草原さんはJ&Mの中でも評判がいい。
 誰にでも優しくて、マジメな性格。
 それはブラウン管の中でだけのことではなくて、普段から面倒見が良いと聞いていた。
「でも、ちょっと、その」
 なんだかバツが悪そうな顔で、草原さんは天を仰ぐ。
「えーと、ちょっとさすがにこうしてあんまりくっついてると、俺の方も楽ではないというか、なんといいますか」
「…?」
 彼の言った意味を数秒考えて。
 そして、腹部に違和感を覚える。
 さっきまで、しっくりと寄り添っていた互いの身体の間に、何か硬い存在があるのがわかる。
「あ、その、ごめん!」
 ちょっと顔を赤くして、草原さんは私を覗き込む。
 こんな時にまで相手の目を見て話さなくてもいいのに。
 むしろ、そんなこと言われたら私の方が照れてしまう。
 普段だったならば、間違いなく私はその場で身体を離しただろう。
 いや、普段ならこんな状態にはそうそう陥らないに決まっているのだけど、せめてきちんとした思考能力がある時だったならば。
「…草原さん」
「そういうつもりじゃないんだよ、ほんと。ちづちゃんが泣いてるの見て、変な気分になったとかじゃ全然ない。だって俺、そういうおかしな趣味とかないし。女の子泣かせたいわけじゃないし」
 必死になって言い訳する彼は、年上だとわかっているのになんだかかわいくて。
 そして存在を主張する、彼の意思の届かない部分に、私はそっと指を伸ばした。
「ち、ちづちゃん!?」
「なんかかわいい、草原さん」
「え…、それはちょっと、嬉しくないかも。だって俺、たぶんちづちゃんよりずっと年上だよ」
「そうかもしれないけど、なんか…」
 ゆっくりとジーンズの上から撫でると、それは生きているように脈を打つ。
 優しくて、あたたかな草原さんの……。
「あの、いや、ちょっと待って。ほんと、そういうつもりじゃなくて、俺」
「いやですか?」
 私は彼を見上げた。
 拒絶しないで。
 今、私は寂しくて消えてしまいそうだから。
 たとえ一晩の遊びでも構わない。
 ほんの少しだけ、傍にいさせてほしかった。
 ううん、違う。
 私が、草原さんに傍にいてほしいんだ。
「いやって言うか、ね、ほら、こんな場所だし」
 うろたえる彼がかわいくて。
 私は手の中にあるあたたかなかたまりをやんわりと握る。
「でも、寂しいから」
「え…」
「私なんかじゃ、ダメですか?やっぱり草原さんみたいな人からしたら、私なんて一晩遊ぶにも値しない女ですか…?」
 突き放さないでほしい。
 そんなすがりつく思いと同時に、私なんかに必死で優しくしてくれるこの人を、傷つけてしまいたい気持ちもあった。
 彼は、アイドル。
 しかも天下一品のギャラクシーの一員。
 そんなこと、もうどうでもよくなっていた。
「そんなこと、言っちゃダメだよ」
 草原さんの手が、私の手首をつかむ。
「遊びだなんて、そんな風に言わないで。もっと、自分を大切にしなきゃ」
 マジメな草原さん。
 優しい草原さん。
 だけど、今の私にはそれだけじゃ物足りないのが、わからないんですか。
 理想論で生きていけるなら、誰も傷ついたりしない。
 私が欲しいのは、そんなものじゃない。
「そう言って、うまく逃げちゃうつもりなんですね。本当は私なんかじゃ役者不足なんだって言えばいいのに。いい人ぶるのって、気持ちいいですか。それってセックスより快感なんですか?」
「…!」
 さすがに、その言葉に草原さんは息を呑んだ。
 やつあたりにも程がある。
 何一つ悪くない彼に、しかも今日初めて口を聞いた相手に、私は何を言っているのだろうか。
「…わかった」
 彼はぼそりとそう言って、私の肩を抱いた。
 そして歩き出す。
 ネオンの明るい夜の街へと。
 怒らせてしまったのだろうか。
 草原さんは怒ると怖いというのが定説だった。
 確かに普段穏やかな分、怒った時には怖そうだ。
 私は草原さんの顔を見上げることが出来なくて、少しうつむいて彼の腕に肩を抱かれたまま歩く。
「…いいんだね」
 どこか切なそうな声で、草原さんは足を止めることなく私に囁く。
「今ならまだ無事に帰してあげられるんだけど…。本当にいいんだよね?」
 その言葉に、私は顔を上げた。
 夜の帳の中。
 草原さんはドラマの中と同じように、真摯なまなざしで私を見つめている。
 私だけを。
「……今夜は、ひとりになりたくないんです」


 夜は始まったばかりで。
 私たちは互いのことなんて何も知らないに等しくて。
 タクシーに乗り込んで、手をつないだまま。
 どこまで行けるの。
 どこへ行けばいいの。
 そんな不安もかきけして、車は走り出す。
 どこへ、行くの………。

















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