刹那の恋人
 ――2――






                                     by 鷹宮ゆうり
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                     4


「もう……この部屋はよそうかな」
 帰り支度を済ませた上瀬に、美佳がコーヒーを出した時だった。
 ふいにそう呟いた男の顔を、美佳は声もないままに見下ろした。
 一瞬、頭が真っ白になっていた。そして即座に理解した。
 もう――この人はここにこないのだ。夢のようになんとなく始まった関係は、こうやってなんとなく終ってしまうのだ、と。
「何て顔してるの」
 が、上瀬は逆に驚いたような顔になって、そしてすぐに苦笑した。
「この部屋じゃなくて、場所を変えよう。車でなら、結構遠くにいけるでしょ」
「…………マジで?」
「……?マジで、その方が絶対にいいよ。……美佳も、これから少しは記者を用心した方がいいと思うし」
「本当に?」
「何?そんなにおかしいこと言った?俺」
「…………」
 だって。
 美佳は、自分のコーヒーカップを手にしたまま、ぼんやりと立ったままでいた。
 だって、それじゃあ、ピアノが弾けないじゃない。
 その言葉は、喉に絡まったように出てこない。
「……私のこと……好きなの」
「何をいまさら」
 ちょっと意表を衝かれたような目になり、上瀬はすぐに破顔した。そして、少しだけ真面目な目になった。多分、美佳が表情を変えなかったせいだろう。
「最初はね……ピアノが目的だった……それは、言い訳しない」
 そして、視線を手元のカップに持っていきながら、上瀬は呟いた。
「俺、駆け出しのころ、1ヶ月でショパンのピアノ曲をマスターするって、馬鹿げたバラエティの企画に借り出されてね。……知ってるかな……当時、結構有名だったピアニストがつきっきりでレッスンしてくれたんだけど」
 品川セツ。
 美佳の脳裏に浮かんだのは、白髪の上品気な老婦人だった。
「おばあさん……?」
 美佳がそう聞くと、上瀬は困ったような笑みを浮かべ、そして、美佳の知らない女の人の名前を言った。
「……きれいな人だったよ……もう、結婚してたけど」
「…………」
 美佳は黙って、上瀬の話の続きを待った。
 そして、この部屋にあるピアノと、上瀬の思い出の中にいる女性とは、どう関係しているのかな……と思っていた。
「……不倫?」
 上瀬が黙っているのでおそるおそるそう聞くと、男の横顔が、わずかに苦しげな色を滲ませた気がした。
「あっさり言うね、最近の子には、どうでもいいことなのかな」
「……そんなでも……ないけど」
「……夢中だった……まだ20になる前で、……目茶苦茶なことして、相手も傷つけたし……」
 上瀬は言葉を途切れさせる。うつむいたきりの横顔は、何年も前の恋の瑕がまだ癒えきらない――そんな男の弱さをはっきりと表していた。
 相手を傷つけ、そしてそれ以上に自分も傷ついたのだろう。
 美佳はそっと上瀬の傍に立ち、その腕に自分の手を重ねた。
「ごめん、無神経なこと言った……私」
「いいよ」
 俺の方が、無神経なこと話してるんだよ。
 すぐにそう言って、優しい目になって上瀬は笑った。
「……その時のことが、ずっと自分の中で尾を引いてた……この年までだ、莫迦みたいだろ」
「……そんなこと……ないよ」
「……この部屋で、あの時と同じ曲を何度も弾いて……最近かな、ああ、やっとあの頃の自分が何やってたのか見えてきた」
「…………」
「美佳のおかげだよ」
 稲背が、腰を抱いて引き寄せてくれる。
 そのまま柔らかいキスを交わし、美佳は膝をつき、座ったままの上瀬の膝に身体を預けた。
 聴きたい事は色々あった、ありすぎて、何から口にしていいか判らないほどだった。
 でも、一つだけわかったのは、これで本当に――彼は、私の恋人になってくれたのだ……ということだった。
 それで十分なのに。
 なのに、何故こうももどかしく不安なのだろうか。
 何かがひっかかかっている。何かを――曖昧なまま、私は聞き流そうとしている、でも何を?
「……私のこと……好きになって」
「好きだよ」
「……もっと、もっと、もっと沢山好きになって」
「……無茶言うなぁ」
 優しい手が、そっと髪をなでてくれる。
 美佳は目を閉じ、その言葉の冷たさを噛み締めていた。


                   5


 今夜会おうか。
 ホント?
 どっかで拾って上げるから、場所指定して、行きたい所も決めておくこと。
 今から撮影だから、夕方までにはメールしなさい。

「…………」
 そこまで携帯電話で会話して、美佳はこみ上げる喜びと共に、上瀬から来たメールを何度も読み返した。
 彼のことを疑ったことはないけれど、でも、今まで「恋人」だという実感はもてないままだった。どこか一方通行だった関係。それが今、不思議なくらいあっけなく終ろうとしている。
「美佳ちゃん、どうしたの、今日は妙に上機嫌だね」
「えっ、そ、そうですか」
「なんか、いつもより可愛く見えるなぁ」
 Fテレビのスタジオ。
 ちょうど、ドラマ撮影の合間だった。
 通りすがり、共演者で先輩俳優の1人に声をかけられ、美佳はぱっと赤らんでうつむいた。きさくな人だが、相手は大河ドラマにも主演を果たした大物俳優である。声を掛けられるだけでも、それは大変なことだった。
「唐沢さん、準備できたんでこっちお願いします」
 スタッフの声がスタジオに響く。
「はーい」
 と、軽い返事をして、美佳を見下ろした男は楽しそうに微笑した。
「彼からのメール?だったらもっと慎重に見ないと」
「あ、あの……ち、違いますから、本当に」
 と、美佳が慌てて携帯を閉じた時、
「最近、評判いいよ」
 背後からふいに声を掛けてくれたのは、その日、美佳が撮影に挑んでいたドラマのチーフディレクターだった。
 さすがに美佳は緊張して立ち上がった。
 業界では切れ者と評判の――でも、一見温厚そうな中年の男は、にこやかに笑んで、すっと手を差し出してきた。
「この調子で頑張れば、いい役つくと思うよ、今回は一回きりの出演だったけど、また、一緒に仕事をしましょう」
「は……はい、ありがとうございますっ」
 悪い時は、全部悪い方に転がっていくけど、上手くいくときは一気にいくものだから。
 それは、美佳が事務所に入る時、社長に言われた言葉だった。
―――本当に……そうだな。
 一時間の休憩を告げられ、美佳は携帯を握り締めたまま、スタジオを出た。
 マネージャーは、今、Fテレビの制作室に呼ばれ、打ち合わせのために席を空けている。
(―――Fテレのバラエティーのレギュラー、もしかしてもらえるかもしれないよ。)
 別れ際、興奮まじりに言っていたマネージャーの顔を、美佳は微笑ましい気持ちで思い出していた。
 そして人気のない自動販売機コーナーの前に立ち、携帯を開く。
 返信をするために前のメールを開いた途端、先ほどとは比較にならないほどの笑顔が零れ出ていた。
 いけない、と美佳は頬をぱしん、と打つ。
 これでは、恋をしていると――誰にだって簡単に見抜かれてしまうだろう。やばいくらい顔がにやついてしまっている。
「あなたが神田さん?」
 声を掛けられたのは、その時だった。
 聞き覚えのない女性の声。どこか居丈高な口調に、美佳は少したじろぎながら顔を上げた。
 薄暗い廊下。ほんの数メートルほど先の視界には、肩先までのミディアムストレートの、優しい顔だちの女性が立っていた。
 色白で、とりたてて美人ではないが、目鼻立ちが上品そうで柔らかい。
 聞こえて来た声と、見た目の印象があまりに違うので、美佳は戸惑って女を見つめた。160センチ以上ある美佳から見れば、おそらく150センチ半ばくらいしかない女は、ひどく可愛らしく、フェミニンで華奢な印象がした。
 淡いグレーのスーツ。おおぶりのショルダーバック。のぞいている脚はすらりとしてきれいだった。
「はじめまして、私、週間女性ワイドの大澤、といいます」
 女はかつかつとヒールを響かせて美佳の前に立ち、そして優しげな笑みを浮かべた。
 が、外見の印象を裏切るように、声だけはひどく威圧的だった。
 差し出された名刺には、電話番号、そして大澤絵梨とだけ書かれている。
「ちょっとお話があるんだけど、いいかしら」
「はぁ……」
 美佳は女の背後に視線を向ける。マネージャーは、まだ打ち合わせからまだ戻らない。1人で取材など受けられないし、受けた事もない。
―――週間……女性ワイド……?
 美容院などに必ず置いてある女性週刊誌である。いってみれば、業界では大手の雑誌記者。
―――なんだろ……話って。
 美佳は戸惑って、断りを口にしようとした。少なくともマネージャーの許可なく取材を受けるわけにはいかない。
 が、女はふいにすっと目を細め、こう切り出した。
「あなた、莫迦?」
「えっ……?」
「どうして、もっと不安そうな顔できないかな?仮にもギャラクシーの1人とできてるんでしょ、あなた」
 自分の顔が、みるみる紅潮し、そして血が引いていくのを美佳は感じた。
 女――大澤と名乗った女は、バックに手を差し入れ、そして無造作に1枚の写真を取り出した。
 紛れもなく、それは上瀬の横顔だった。美佳の住むマンションの前――それを確認した美佳は、一瞬で蒼白になっていた。
 大澤は満足気な笑みを浮かべ、写真をバックにしまいこんだ。
 そして、立ち尽くしたままの美佳の背をぽん、と叩く。
「そういうこと。あなたね、一体誰と恋愛してると思ってんの?天下のギャラクシー、その上瀬士郎と恋愛してんのよ」
「…………」
 足が、自然に震え出していた。美佳は黙ったままうつむいた。
 女が、かすかに苦笑する気配がする。
「莫迦ねぇ、っていっても、あなた自身のことは大げさに心配しなくていいから。言っとくけど、誰も注目しないこんなゴシップ、どうでもいいのよ、私には」
 傲慢で冷たい声だった。
 美佳は、たまらない嫌悪を感じ、目の前で優しげな笑顔を浮かべている女性を見下ろした。
「誰も……注目、しないですか」
 そして、震える声で切り替えした。
 女は笑顔になって、目の前で片手を振る。
「しないしない、上瀬君の恋愛騒動は今までだって色々あるし、彼はアイドルとしては旬をすぎた大人。で、あなたはまだまだ無名のタレント、まかり間違えばA子さん扱い」
 残酷な現実を無神経に口にする女に、美佳は刹那に怒りさえ感じていた。が、今は、撮られた写真のことで胸がいっぱいだった。
 このことを上瀬が知ったら――いや、これがもし公になったら。
 女は腕を組み、そして、やはり印象だけは優しげに微笑した。
「こっちがスクープしたとしても、J&Mとおたくのパスカーが徒党を組んで否定して、で、熱愛騒動は終わり。同時にあなたのタレント生命も終るでしょうよ、J&Mの圧力で、そして上瀬士郎に棄てられた女っていうダーティなイメージで」
「…………」
 清純派女優の神田さん、と、女は皮肉な声でそう言った。
「何が言いたいんですか」
 美佳は声を震わせた。
「何がしたいんですか、どうしてこんな話、私にするんですか」
「私が狙ってるのはね、もっと大きなスクープなのよ」
 女は声をひそませ、はじめて本性をむき出しにしたような、挑発的な目になった。
「あなたの部屋、もともとは上瀬士郎の恋人が住んでたって知ってる?」
「………………」
 知りません。そう言いたいのに、唇は糊が張り付いたように動かなかった。
 ずっと――心に引っかかっていて、認めたくなかったこと。
 確認したくなかったこと。
「相手は有名な新進ピアニスト、テレビの企画で共演してからの交際。当時、決定的な写真さえとれれば、スクープ間違いなしだった。だって彼女、外交官のだんなさんがいたから……それが十代のアイドルと不倫、すごいでしょ」
「…………それが、なんなんですか」
 もう終ったことだ。
 もう、過去のことだ。
 上瀬も言っていた。もう、過去の整理はついたのだと。
 美佳の目に浮かんだ反発を見抜いたのか、大澤は笑った。まるで、同情でもするような笑い方だった。
「これはね、私も最近掴んだ情報なんだけど」
 そして、探るような目で美佳を見上げ、一気に言った。
「そのピアニストはね、ご主人の後を追って海外に移住したけど、出国して半年で女の子を産んでいるのよ、正確には半年たらずで」
 美佳はよろよろっとあとずさった。
 大澤の同情を秘めた笑みで、口調で、それが何を意味しているのか、即座に理解させられていた。
 聞きたくなかった。
 これ以上聞きたくない。
「その意味わかる……わかるわよね、売り出し中の女優なら。これが、ものすごいスクープで、私があなたに何を求めているか」
「…………わかりません」
「上瀬君とあなたとのスキャンダル、大して価値もないネタだけど、あなたにとっては致命的よね、清純派女優の神田さん。これからいい仕事沢山入るって、マネージャーさん、張り切ってらしたわねぇ」
「…………」
「それともこれは、いずれあなたが大物になった時のために保留しておこうかしら。その時上瀬君にまだ商品価値があったら……、やっぱりあなたは徹底的につぶされるだろうけど」
 最低だ。
 美佳は女をにらみつけた。怒りで、全身が震えるほどだった。
 最低だ――この女。
「この世界は弱肉強食よ、それは私たち芸能記者も同じこと」
 女は冷たい声で言い切った。
「上瀬士郎の元カノ、もうすぐ子連れで帰国するわ。あなたはね、彼と彼女の出会いの場を、唯一セッティングできる立場にあるの。だって彼女、帰国したら、絶対にピアノを引き取りに来ると思うから」
「…………」
「いい、絶対にそれを私に報告しなさい。絶対によ。それがあなたが、この世界で自分を守るためにできる最低限のことだって理解しなさい」


                 6


「……はい……それは、かまわないです」
 電話がかかってきたのは、大澤という女に会ってから、三日後のことだった。
 電話の相手は「品川セツ」美佳が管理しているピアノの所有者で――そして、美佳が借りている部屋の持ち主でもある。
 大澤の言葉の確かさに、美佳は眩暈さえ感じていた。
「わるいわねぇ、本当、1日だけ、お邪魔させてもらっていいかしら。搬送は業者さんがしてくれるのだけど、その前に一回様子を見ておきたくて」
 国際電話の向こうで、品川セツは申し訳なさそうに繰り返した。
「……娘さんが……来られるんですね」
 美佳は、つとめて冷静な声で念を押した。
「ええ、お恥ずかしい話ですけど、娘が離婚して日本に戻ることになりましてねぇ……お部屋は別に借りるんだけど、ピアノだけは引き取りたいって、いえね、御家賃はそのままで結構ですから」
―――離婚…………。
 しばらくその言葉の意味をかみしめ、美佳はうつろな目でカレンダーを見上げた。
「……ピアノ……品川さんの、娘さんが使ってらしたんですね」
 ほほほ……と、受話器の向こうで恥ずかしそうな笑い声がした。
「ビアノなんて私は全然、ええ、あれは娘の大切にしていたものなんですよ」
「…………」
「そのお部屋もねぇ、娘が別れた主人と住んでいたものを、私が引き継いだのだけど……ごめんなさいね、娘の名前を言うとあなたが気を使うといけないと思って」
 その世界では、確かに名の売れた新鋭ピアニスト。
 初めて名前を聞いた時は全く知らなかった美佳も、今はその言葉の意味が判る。
「…………」
「まぁ……夫婦共に忙しい仕事というのも因果なものねぇ、こういうことになってしまって、本当に残念なのだけど」
 日時だけ確認し、美佳はうつろな気持ちで電話を置いた。
 のろのろとリビングに戻る。
 テレビでは、静止画像――切り取られた映像の中で、まだ若い、少年だった頃の上瀬士郎が笑っていた。
 初めて見るような屈託のない笑い方で、その隣りには、1人の長髪の女性が座っている。
 二人の前にはピアノ――美佳のよく知っているグランドピアノ。
 弾いている曲は、ただしショパンではない。
「僕、こんなのしか弾けないんですよ」
 上瀬がそう言い、弾き出した「猫ふんじゃった」それに、美しいピアニストが伴奏をつけている場面だった。
 スタッフから借りたビデオ――もう何年も前のバラエティ番組。
―――士郎……。
 止まったままの笑顔。
 上瀬の心も、この時のまま、止まっていたのだろうか、もしかして。
「…………」
 美佳は携帯を持ち上げた。
 もう、気持ちは決っていた。
 わずかにためらい、番号ボタンをプッシュして――先日もらったばかりの名刺の番号に繋ぐ。
「もしもし?」
 二度と聴きたくない声がした。
 美佳は唇を一瞬噛み、そして用件を切り出した。


                  7


「車、どこに停めた?」
 玄関で靴を脱ぐ上瀬に、まず美佳はそう言って切り出した。
「……前とは別のとこ、……どうしたの、今日は」
 仕事を終えたばかりの上瀬は、さすがに不機嫌そうだった。
「……ごめん、こないだは……」
 美佳は、先日、約束のメールを送らなかったことを詫びた。
「それはいいよ、……ただ、もう、この部屋では」
「うん、判ってる、ごめんね」
「まぁ、いいけど」
 室内にあがり、いつものように上瀬は浴室の前で手を洗う。
―――几帳面な人だな……と、美佳はどこか、寂しいような暖かな気持ちで、流れる水の音を聞いていた。
 そして壁にかかった時計を見上げた。
「で、どうしたの、今日は、大切な用があるって」
「あ、いけない」
 リビングに入ってきた上瀬の言葉を遮るように、美佳はそう叫んで立ち上がった。
「ちょっと、買い忘れ……大切なもの、買い忘れてた、いい?ちょっと出てきて」
「……いいけど……」
 上瀬は綺麗な眉をひそめる。
 黒のシャツにジーンズ姿の稲背は、普段よりどこか幼げに見えた。
「じゃ、俺も行くよ、今夜は外で食べようか」
「ううんっ、あの……一緒に行くと……恥ずかしいってか」
 美佳は、考えていた言い訳を口にした。途端に上瀬は、戸惑ったように髪に手を当てる。
「ああ……ごめん」
「ううん、すぐ帰ってくる」
「車?」
「……ううん、近くのコンビニだから、歩いてくし」
 バックを掴んで、美佳は、上瀬の横をすり抜けた。すれ違い様、いつも、上瀬の髪から香る匂いがした。
―――士郎……。
―――ごめん。
 靴を履いている時、かすかな音楽が聞こえて来た。稲背が、CDをかけたのだろう。
 彼の好きな、外国の歌手の歌。
「何か、買ってこようか」
 感慨を振り切るように美佳は言った。
「いいから、早く帰ってこいよ」
 リビングから、声だけが返ってくる。
「…………うん」
―――ごめん……。
 ごめん。
 そして。
「……バイバイ」
 美佳は呟いて、そして静かに玄関の扉を閉じた。
 丁度上がってきたエレベーター。
 降りる美佳とすれ違い様、背の高い美貌の女性が、ふっと視線を向けてくる。長いストレートヘア。東洋的な端整な美貌。
 女の背後には、その半分しか背丈のない女の子が立っていた。
 美佳は彼らに会釈して、さっと止まったままのエレベーターに乗り込んだ。
 エントランスの暗証ナンバーは知っているはずの女。部屋のベルが故障しているので、直接上がってくださいと言ったのは美佳だった。
「おかあさん、今の人知り合い?」
 鈴を振るような女の子の声がした。
 耳にしたのはそれが最後で、閉まったエレベーターの中、美佳はただ、目を閉じた。
 目を閉じて――こみ上げる後悔と、必死で戦い続けていた。













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