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8
『確かなのね、それは』
携帯電話の向こうから聞こえる冷たい声。
「明日の9時に、約束しました。その時に、上瀬さんにもきてもらうつもりです」
美佳は……あえて、怯えたような口調で言った。
そして思った。ああ、私、今演技してるじゃない、と。
演技って、こんなに簡単にできてしまうものなんだ、と。
「私は……口実作って出かけます、その時に……大澤さんに連絡、いれますから」
『素直ね、やけに』
どこか探るような声がした。
「私だって、この世界でつぶされるの嫌ですから」
とっさに、挑発的な口調で切り替えしていた。
『……そう、まぁ、賢明な選択ね』
「どういう形で取材してもらってもいいですけど、私の名前だけは出さないでくださいね。部屋のことも含めて」
『それはわかってるわよ』
「でないと、大澤さんに協力する意味ないですから」
美佳は計算高い女を演じた。
計算高くて――安っぽい女を。
『へぇ』
受話器の向こうで、女がかすかに笑う気配がした。
『……あなたも意外に狐だったわけだ、上瀬君も気の毒ね』
その声は、美佳を完全に軽蔑している。
「それを言うなら、女を見る目がないって言ってください」
それだけ言って、美佳は携帯電話を切った。
少しためらってから、電源ごと携帯を切った。
あれから20分。まだ、二人は――いや、3人は部屋の中にいるのだろうか。
マンションの駐車場。美佳は自分の車の中で、ぼんやりと空を見上げた。
見慣れた車内の風景。じわっと……その輪郭が滲んでいく。
「…………莫迦……」
士郎の莫迦。
莫迦、うそつき。
「……あんな顔で笑ってるくせに……」
恋をしていることを隠そうともしない目で、隣に座るピアニストを見つめていた上瀬。
二人のことは、オンエア直後から、ファンの間でちょっとした噂になっていたと――ビデオを貸してくれたテレビ局のスタッフが教えてくれた。
(――だって、すごいでしょ、彼女見る上瀬君の目、もうラブラブって感じでさ。確か、事務所からもクレームついて編集しなおしたんじゃないかなぁ。)
激しい恋の情熱をひめた眼差し。
女との思い出のピアノ。それを見るためだけに――初めて知り合った女性の部屋にまで足を運んだ上瀬。
上瀬は……どんな気持ちで、当時覚えた曲を練習していたのだろうか。
そして、どういう気持ちで、たまたまそのピアノを管理することになった女と、一線を超えてしまったのだろうか。
本当に好きな女が、彼女の夫と過ごした部屋で。
「…………」
思いつくのは残酷な理由ばかりだった。
最初から、一度も、美佳は上瀬に愛されていると感じたことはない。
(―――私のこと、好きになって……)
(―――無茶なこと言うなぁ……)
「……士郎……」
でも。
でも、よかった。
それでも――それで、十分だったんだ……私。
最高に莫迦なことをした。わかってる、でも――美佳には、それだけしか選べなかった。
当時、別れるしかなかった恋。が、今は、互いに望めば手の届く距離にある。
だったら。
だったら、同じ女として。
「…………」
美佳は口を押さえた。
涙と共に、嗚咽がとめどなく溢れてくる。
「……しろ……う……」
好きなのに。
こんなに――私は、こんなに好きになっちゃったのに。
カツカツ、と微かな音がしたのはその時だった。
サイドウィンドウのガラスを指で弾く音。
美佳は驚いて顔をあげた。
鍵はかけていなかった。扉はすぐに開けられた。
「……話、終ったから、部屋に戻ろう」
立っていた上瀬の顔は、怒っているようにも困っているようにも見えた。
「……もう、いいの」
涙を拭い、それでも美佳はつとめて冷静な声で言った。
「帰ったよ、彼女、美佳にありがとうってさ」
「…………」
「行こう」
美佳が黙っていると、初めて上瀬は苛立った声を出した。
つきあいはじめてから、初めて聴くような声だった。
「……なんで……ここにいるって」
腕をつかまれ、車から下されながら、美佳は戸惑って呟いた。多分、マスカラの取れたみっともない顔。それを、まともに見られたくはない。
美佳の手を引きつつ、上瀬は振り返りもせずに歩き出す。
「車の鍵がなかったから」
「……怒ってるの」
「かなり」
「ちょっと、……離して、士郎」
エレベーターホール。
たまたま人の気配はないが、どこで誰が見ているとも限らない。
が、上瀬は、一度も振り返らず、そして手も離さないまま、すぐに開いたエレベータの中に乗り込んだ。
「………」
「………」
互いに何も喋らない。
「……あ、あの人とは……」
「去年会った、向こうで」
上瀬は、乾いた口調でそう言った。美佳ははっと息を引いた。
「……俺が会いに行った。向こうは迷惑そうだった。離婚調停の真っ最中、親権のことで裁判になってたらしくてね」
「え……」
じゃあ。
美佳は、自分の―――子供じみた勘違いと思いこみに、耳まで赤くなっていた。
だとしたら私は、なんて……おせっかいなことを。
うつむいたままの美佳の耳に、上瀬のかすかなため息が聞こえた。
「ご主人も、お嬢さんの親権だけは手放したくなかったんだってさ。自分によく似た、可愛らしい娘さんだから」
「…………」
「……俺の子供じゃないよ……俺も、……疑ってた、でも、会ってみて納得した」
「………………」
「俺の子だったらいいと思ってた……ずっと思ってた……はっきり失恋したって気付いたのは、だからその時」
「…………」
ごめん……。
美佳は囁くような声で呟いた。本当に――莫迦な、余計なことをした。
上瀬にとっては、望んでもいない邂逅だったのだ。
上瀬は、そのまま何も言わなくなった。
エレベータが止まり、それから部屋に戻るまで、どこか気まずいムードのまま、互いに一言も口を聞かないままだった。
9
「……おいで」
気まずいまま黙っていると、先にそう言ってくれたのは上瀬の方だった。
リビングで。上瀬は疲れたようにソファに座り、美佳は立ったままだった。
テーブルの上には何もない。そこには、美佳が用意したティーセットが、布巾を被せたままになっていた。
「ごめん……」
美佳は呟いた。その途端、堪えていた涙が一筋頬を伝った。
「……本当に、ごめんなさい」
「…………」
「……………に…ならないで」
「…………」
「……嫌いに……ならないで……私のこと……」
上瀬が、立ち上がる気配がする。
美佳はうつむき、唇を手で押さえて溢れ出す嗚咽を堪えた。
肩だけが、どうしようもなく震えている。
「……それは、俺が聞きたいよ」
涙で滲んだ視界に、男の影がようやく移った。
美佳は、震えながら顔をあげた。
「……俺が、美佳を子供扱いしてたから……この部屋のことも、ピアノのことも」
「…………」
「どっかで曖昧に流そうとしてた……悪かった」
そっと手を握られる。美香はその手を握り返し、自分の口許にもっていった。
「ごめんね」
「俺が悪いんだ」
「……ごめんね……」
「言い訳はしたくない……でも……今は美佳だけだ……」
うん。
美佳は頷き、上瀬の肩に腕を回した。
「……好きだよ……」
唇が寄せられる。
そのままキスを交わし、上瀬に促されるように、美佳はソファに背を預けた。
―――好きだよ……。
もう一度、耳朶の傍で、痺れるほど甘く囁かれる。
美佳は頷き、上瀬の腰に腕を回して抱き締めた。
上瀬の指が頬に触れる。
美佳はその指を掴み、まだ中指にまきついたままになっているカットバンを引き剥がした。何故そんなことをしたのか判らないまま、――被さってきた唇と、深い口づけを交し合う。
―――好きだよ……。
「士郎……好き……」
それが嘘でも。
それが――ただ、瑕を癒すだけの恋でも。
かまわない。例え、この世界で潰れてひとりぼっちになったとしても、それでも大切にしたいと思った人だから。
「大好き……」
「美佳……」
いつになく余裕のないキスを続けながら、上瀬の手が忙しなく、美佳のニットをたくしあげる。
ベッド以外の場所でここまでされたのは初めてで、美佳は少し驚いていた。
上瀬の膝に体重がかかったのか、小さなソファがわずかに軋む。
「……や………士郎……」
長い指が、零れた乳房を包み込む。
指先で先端をつままれ、美佳は全身が赤らむのを感じた。
照明さえ煌々と灯したままで、それも、士郎との間では初めてのことだ。
「……や……ん」
両方を指で挟まれ、それを弄ぶように回される。強く捻られ、噛み付くように口に含まれる。
「……や……っ」
いつもの繊細な愛撫とは、どこか違った感覚だった。獰猛とさえ思えるキス―――美佳は甘く痺れる胸の刺激に全身を震わせた。
ソファに座ったままの美佳、その膝の間に割り込むようにして上瀬が体重を預けてくる。
短めのスカートを穿いていた美佳は、そのまま脚を押し開かれ、殆ど腿まで露わな格好になった。多分、上瀬の位置からは、下着まで見えている。
「硬くなってるよ……美佳」
「い……いわ、ないで」
「可愛いな……」
唇で軽くキスされる。周囲にキスして、そして今度は、先端をゆっくりと唇で包み、優しく舌で含みこまれる。
「やぁ……あ」
電流が走ったように甘く痺れて――恐いほど感じる。
美佳は上瀬の髪に指をさしこんだ。
胸への執拗な愛撫は、まだ終らない。何度もキスされ、強く甘く吸われ、そして優しく歯で噛まれる。
「し……士郎……」
美佳はもどかしく背を震わせた。
開かれた脚の間に、上瀬の胴体が入り込んでいる。開いた手は、何度も美佳の腿を撫で、ぎりぎり付け根の方まで指を当てられる。
「ん……っ」
中途半端で、それでもかすかに触れる刺激。恥ずかしいところから、何かが溢れ出すのを感じる。美佳はたまらなくなって首を振った。
「……熱いよ、美佳」
ビブラートの囁きと共に、初めて指が、下着の上から当てられた。
否応なしに脚を開かされていて、そしてその間に男の身体が入り込んでいるため、逃げ場がない。
きゅっと強く指でおされ、ゆっくりと撫でられる。
「あ……っ、あ、しろ……う」
窪みの間を意地悪く探り、そして指腹で上下に揉みこむ。
「いや……あ、恥ずかしい、や……っ」
薄いショーツが、多分、みっとないほど濡れている。
その証拠に、もう音が聞こえる。
小さな下着からはみ出した部分に指があてられ、くちゅくちゅとかき回される。
「やぁ……もう、いやっ」
口で抗っても、身体にはまるで力が入らなかった。
こんなに恥ずかしいセックスは初めてで、美佳は自分の――浅ましい姿を大好きな人に見られていると思うと、たまらない気持ちになった。
「……美佳……」
ぬるっと指が差し込まれる。
「あ……っ……あ…」
奥まで貫かれ、何度もそこを突き入れられる。
そしてまた胸を唇で包まれて、甘く淫猥に舐められる。美佳はもう、自分が何をされているのかわからなくなり掛けていた。
「……し、……しろ……う……許して……」
「今日は、ちょっと怒ってるから」
声は、本当に意地悪そうに聞こえた。
「美佳が可愛いから……今まで我慢してたけど」
腿を上に持ち上げられ、美佳はますます恥ずかしい格好になった。
そこで初めて下着が抜き取られる。
「丸見えだ……美佳」
「いや……あ、……っいやっ」
美佳は涙を浮かべて首を振った。
床に膝をついた上瀬が、腿に、きわどい場所すれすれに、何度も唇を這わせてくる。
「溢れてる……」
囁くような言葉と共に、舌先が敏感に濡れた場所に滑り込んだ。
「やだぁ、いやっ」
初めての感覚に、美佳は抗って首を振った。こんなことまでしてほしくない、こんなことまで――。
「あ……あん……」
なのに、身体が動かない。美佳は力なくソファに仰向けに倒れ、切ない喘ぎで喉を震わせた。
「いや……あ……んっ」
同時に指が差し込まれる。
淫らな音が、静かな室内に響いている。
舌で舐められて、指で弄ばれる。押し開かれて、敏感な場所を甘く吸われる。
その強烈な刺激に、美佳は半ば、意識を失いそうになっていた。何度も軽い絶頂を与えられ、それでも上瀬の唇は離れなかった。
「……し、士郎……」
苦しくて切なくて、涙がこぼれる。
ようやく上瀬が身体を離し、そして、どこか性急に自らも衣服を脱いだ。
「……こ、こわい……」
腰を抱かれて引き寄せられながら、美佳は声を喘がせ、上瀬の身体にしがみついた。
「…恐い……?」
少し苦しげな声がした。彼が、今、限界を感じているのだと、――美佳は初めて気がついていた。
「壊れそう……これ以上、おかしくなったら」
触れ合う首筋から、上瀬の身体から、どくどくという心臓の音がする。
美佳は上瀬の身体を抱き締めた。嬉しかった。もう恐くはないと、そしてそう思っていた。
「莫迦だな……」
上瀬が囁く。
「悪い……、でも、もう無理だ」
「うん……」
ソファが軋む。
膝をかけた上瀬の身体が、美佳の中に入ってくる。
「あ……っ」
切なくて苦しい圧迫感が、やがて滑らかな陶酔に変わっていく。
「あん……あっ、……ん」
「美佳……いつもより……熱いよ、」
「や……あ……」
「俺……が、おかしく……なる」
痛いほど胸をつかまれる。
噛むように口付けられる。
それはもう、愛撫というより、情熱の迸りのような行為だった。
そして、美佳がずっと欲しかったのもそれだった。
今は、見下ろす男の表情の、その目も、汗も、何もかもが愛おしい。
「……や……、だめぇ……あっ」
突き上げられる快感と、とろけるような官能に、美佳は甘い泣き声をあげ、男の背に回した腕に力をこめた。
「み……か」
最後に上瀬がかすれた声で囁く。
そして、かすかなため息のような吐息と共に、上瀬の腕にも力がこもった。
10
「……ふぅん……」
美佳の話を聞き終えた上瀬は、思案顔で、コーヒーカップに唇をつけた。
「大澤さんね……まぁ、知ってるよ、色んな意味で有名な人だから」
そして、遠くを見るような眼で呟いた。
「……多分、彼女、決定的な証拠は掴んでないんじゃないかなぁ」
「えっ」
美佳は驚き、自分も飲もうと手にしたコーヒーカップを取り落としていた。
カチャンと音がして、お皿の上に褐色の液体が零れる。
「ああいうやり方をよくする人なんだ、まぁ、心配しなくてもいいと思うよ。このマンション、美佳以外にも芸能関係の人いるし」
「えっ、……そ、そうなの」
「うん……ま、言い訳は色々できる。もう単独では会わないことだね。あの人とは」
それだけ言うと、上瀬は腕時計に視線を落とした。
その仕草と表情で判る。ああ――これで、今日は帰ってしまうのだと。
「……ごめんね…これからは……気をつけるから」
「うん」
上瀬はあっさりと言うと、立ち上がった。
さっさと上着を手にする背中を見て、美佳は、また寂しさをかきてたられる自分を感じた。
ほんの――十数分前、あんなにひとつになって、あんなに愛されていると感じたのに――。
男の人ってこういうものなのだろうか。それとも、上瀬が特別なのだろうか。
「……士郎……」
未練がましい女だと思われる――。それが判っていても、玄関で、美佳は上瀬の腰に腕を回し、その肩に頬を預けた。
「……美佳……ごめん、時間ないんだ」
うん、わかってる。
伸びてきた上瀬の指。少し白くなった中指、その第二関節のなかほどあたりに、涙の粒ほどの薄い褐色の沁みが滲んでいた。
「……気にしてたって、これ……?」
「うん、でももう気にならない……美佳が外してくれた」
「………私……?」
「自分じゃ外せなかった……そういう性格なんだ、俺」
可愛い人だなぁ、美佳はそう思い、ますます上瀬を愛しく思った。
大人なのに、こんなに繊細で――傷つきやすい。
何年も前の恋の瑕も、きっとこんな風に隠したまま生きてきたのだろう。覆い隠したものをはがせないままに。
それを私が外したのだろうか。
美佳はふと思っていた。どうしても理解できないままでいた――上瀬が、自分のことを、好きになってくれた理由のことを。
「また会おう……今度は、外で」
上瀬が囁く。
「うん……」
いつ、自分の部屋で、と言ってくれるのかな……。
寂しさを噛み締めつつ、美佳は思わず呟いた。
「私のこと、好きになって……」
「…………美佳」
前と同じで、苦笑まじりの上瀬が、「好きだよ」と言ってくれそうな気がした。
美佳は首をふり、さらに強く男の身体を抱き締めた。
「もっと、もっと、もっといっぱい好きになって」
「……無茶だよ、美佳」
その答えも前と同じ。
しかし次の瞬間、美佳は、あまりに強い抱擁に、一時呼吸さえできなくなっていた。
「これ以上、どうやって好きになればいいんだよ……」
―――士郎……。
今はまだ刹那の恋人。
この恋が永遠に終らないことを願い、美佳は、彼の頬に祈りを込めたキスをした。
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end
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