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1
「指、どうしたの」
「火傷」
鍵盤を滑るきれいな指、その中指に肌の色にまぎれてしまいそうなビニルのテープが巻きついている。
「上手いのか下手なのかわかんない」
美佳がそう言うと、真っ直ぐな横顔が少しだけ笑んだ気がした。
つややかなグランドピアノの黒い闇に、その顔の持ち主の姿が溶け込んでいる。
「下手なんだよ」
演奏者―――上瀬士郎はそう言った。火傷したという指は、まだどこかぎこちなく、が、それでも優雅に鍵盤の上で踊っている。
奏でるような声だな、と、その背後に立つ美佳は思っていた。いつ聞いても心地いい声。軽いビブラートがかかった豊かな低音。
「その曲しか弾けないの?」
美佳は聞く、上瀬はすぐに頷いた。が、頷いてから、何かに気づいたような目になった。
「……いや、この曲だけだね」
「ふぅん」
ショパンの別れの曲。
有名すぎる旋律は、クラッシックに興味のない美佳でもよく知っていた。
「この曲さぁ、知ってる?」
美佳は、数ヶ月前から恋人になったばかりの男の肩に、甘えたように腕を絡めた。
「何」
「タッチでかかってた、昔のアニメ」
「何、それ」
「えっとねぇ、双子の弟が死んじゃうとこ」
「知らないなぁ」
また、その横顔がわずかに笑む。
いい匂い……。
美佳は目を閉じ、上瀬の首筋に頬を寄せた。
温かくて、そして規則的な鼓動が直に聞こえてくる。出会ってから今まで、一度も乱れたことのない鼓動の音。
何のフレグランスなのかは知らないが、柔らかな髪からは、いつも清潔で甘い匂いがする。
「士郎、大好き……」
「……くすぐったいよ」
「私のこと、好き?」
「だからここにいるんだろ」
優しいけれど、どこか感情のこもらない声。
「…………そうだね」
美佳は笑んで、そしてそっと男の肩から腕を離した。
―――グランドピアノ……?それが、本当に神田さんの部屋にあるの?
―――ちょっと触ってみたいな……行ってもいいかな、これから。
回想を振り切るような力強さで、美佳は鍵盤を叩く上瀬の指に、自分の手のひらを重ねて置いた。
鈍い不協和音が響き、上瀬は驚いたように手を止める。
「どうしたの……?」
少し不信そうな目を上げる。左右対称に整った綺麗な顔だち。
まるで能面のような冷たさを持った顔。それが、次の瞬間に柔らかくなる。――また美佳の我侭が出たな、そう言いたげな笑みを浮かべてくれる。
実際、9つも年上の恋人の前で、まだ21歳の美佳は甘えてばかりだった。
「ピアノはもうおしまいにして、いっつも同じ曲であきちゃった。コーヒーでもいれよっか」
「サンキュ」
「あまーくしちゃお、飲めないくらい」
「あはは」
笑顔で美佳はその広い――1人で住むには広すぎる2LDKのマンションの、一番大きな部屋を後にした。
普通であれば、そこは寝室とか、子供部屋とか、そう言う用途のためにあるのだろう。が、部屋の二分の一は大きな年代物のグランドピアノに占められている。美佳が越してきた時からずっと。
ピアノごと部屋を借りる。ピアノの管理をする。
美佳はその条件で、都心に近い、立地条件のよい物件を、信じられないような安値で借りることができたのだった。
そして、そのおかげで、信じられない相手との恋も手に入れたことになる。
上瀬士郎。彼はアイドルなのである。
アイドル――その、どこか時代遅れの言葉が、彼ほど――いや、彼が所属している5人組のグループ「Galaxy」ほど、ぴったりと似合う存在はない。
日本中を熱狂させる男性アイドルを次々と輩出している「J&M」芸能事務所。
上瀬士郎は、その事務所が生み出した、日本芸能界史上最強といわれるアイドルユニット「Galaxy」の一員だった。
主要メンバーはすでに30代、が、それでもまだ、彼らの華やかさはアイドルという形容詞がぴったりくる。というより、それ以外の言葉で彼らを表現する方が難しい。
―――ピアノ……か。
背後から、再び、切ないような悲しいメロディが流れてくる。
それを聴きながら、美佳は軽くため息を吐いていた。
彼はいつも、部屋に来ると決ってピアノを最初に触れる。そして同じ曲を繰り返し弾く。
最初冗談みたいに聞こえたメロディは、しだいにきちんとした旋律になってきた。かつて――弾けていたものを、上瀬は今、再度練習によって弾ける様になろうとしているのだろう、そんな気がする。
何のために?
それは、聴かないし、上瀬も言わない。
ただ判っているのは、20を出たばかりの美佳にはわからない、何かの――思い入れが、上瀬にはあるのだろう、ということだった。
ピアノと、そしてショパンの「別れの曲」に。
2
「カーテン、閉めようか」
「うん」
キスの後、そう言った上瀬は、即座に身体を離して室内のカーテンを隙なく閉めた。
「車、どこ停めたの」
「ちょっと離れたとこ、この辺は、パーキングだけは沢山あるから助かるよ」
傍らのベッドにぽん、とはずみをつけて腰を下ろし、美佳はちょっと意地悪い目で上瀬を見上げた。
「アイドルは大変だね」
「……てか、大変なのは君の方でしょ」
苦笑した上瀬が、美佳の隣りに腰を下す。
「悪いと思ってるよ、こんなに再々君の部屋ばかり利用してる」
そのまま手を繋がれ、上瀬がそれを自身の膝の上に引き寄せてくれた。
「士郎はピアノが弾きたいんだ」
「それもあるよ」
「……なんで?士郎なら、お金いっぱいあるし、自分でピアノ買えばいいじゃん」
それには答えず、上瀬はただ、静かに笑んだ。
「……ま、なんにしろ、考えるよ、これからは少し」
そして、その横顔のままでそう続けた。
「いったんスキャンダルになると、どういう形であれ、ダメージになるのは女の子の方だからね」
「私は平気だよ、てかさ、誰も注目してないよ、私なんて」
美佳はもどかしく思いながら、上瀬の冷えた手を握り締めた。
美佳――神田美佳はデビューして四年目の女優だった。事務所主催のオーディションを経て芸能界入りを果たし、今ではテレビドラマを中心に仕事をしている。まだもらえる役は端役だが、最近ようやく、長いセリフのある役を与えられるようになった。
ただし、美佳自身は演技が苦手で、どうしても自分を女優と思えないままなのだが。
上瀬と関係を結んでも――どうしても、自分が彼の彼女だと思えないままでいるように。
「そう言う問題じゃないよ……まぁ、注目されてないってのもないと思うけど」
上瀬は、独り言のように言い、美佳の手をそっと離してベッドに仰向けに寝転んだ。
「俺は大人で、君は子供だからね、責任を感じてるんだ、これでも」
「……いいよ、そんなの」
そんな言い方をされると、この恋が対等でないもののにように思えてしまう。
まるで芸能界での、美佳と上瀬の立場のように。
美佳の所属する芸能事務所「パスカー」は、中堅以下の弱小事務所だった。
芸能界での成功は事務所の勢力で決るといっても過言ではない――というのが、この世界に入って四年目で美佳が実感したことである。
上瀬の所属する事務所が横綱なら、美佳の所属事務所はようやく幕内に入れたばかり、という危うさだった。
芸能人をランク分けできるとすれば、最高位に立つのが上瀬士郎で、そして、彼の足元さえ見れない底辺をうろついているのが美佳なのだ。
上瀬との交際は、――発覚してしまえば、イメージダウンに繋がるのは明らかに上瀬の方で、そしてイメージアップになりながらも、J&M事務所の出方ひとつによっては、タレント生命を消されかねない立場なのが美佳なのである。
「……最初は、本当にピアノだけ……?」
美佳は、上瀬の胸に身体を預けながら囁いた。
「……ん?」
「私に興味とかなかったの?」
「どうかな……想像にまかせるよ」
「士郎の意地悪」
―――君の部屋にグランドピアノがあるって本当?
半年前、美佳が出ていたドラマに、一回切りのゲスト出演をした上瀬が、いきなり声をかけてきた第一声がそれだった。
―――部屋の持ち主のピアノなんだって、その人、ひょっとして俺の知り合いかもしれない。
スタッフに聞いたのかな、そう思いながら、美佳は緊張しつつ頷いた。
部屋の持ち主――美佳が借りている部屋の所有者で、かつピアノの所有者でもある人物は、一度挨拶を交わしただけだが、品川セツ、という名の温厚そうな老婦人だった。
音楽教室をたたみ、パリに家族で移住するという。
いつか日本に戻って来るつもりだが、それまでピアノの面倒をみてもらえないでしょうか。そんなことを柔らかな口調で頼まれたことを思い出し、そう上瀬に答えると、上瀬はすぐに感嘆したような眼差しになった。
―――それ、俺にとっても思いいれのあるものなんだ、一回見せてもらえないかな。
さすがに半信半疑だったが、その時交わした携帯電話の番号に、翌週電話が入ってきて、そして都合のいい日に――という約束をした。
優しい、まるで兄のような気さくさで接してくれる上瀬に、美佳はすぐに好意を抱き、親しく口を聞くようになり、彼はやがて、毎週にように部屋を訪れ、ピアノを弾くようになった。
男と女の関係になったのは、ごく最近、本当になんとなく……という感じで、今でも美佳にはいまひとつ実感がわかないままなのである。
頬に添えられる上瀬の手。
その指には、ピアノ演奏の時に気付いたカットバンが巻きついている。
美佳は、その指に口づけた。
部屋に来て、ピアノを弾いて、食事して……またピアノを弾いて、ようやくこれから、自分に触れてくれるはずの指。
その指に巻きついた異物を唇でなぞり、美佳はそっと上瀬を見上げた。
「とっちゃいなよ、皮膚が白くなっちゃうよ」
「瑕が沁みになってるから」
「まだ痛いの?」
「もう治ってる、沁み痕が気になるだけだよ」
「…………」
おかしなこと気にするんだね。
苦笑と共に言おうとしたその言葉は、被さってきたキスで、口にすることはできなかった。
3
「あ……いや……」
キャミソールの重ね着がたくしあげられ、外気にさらされた肌に、上瀬の手が何度も触れる。
腹部をなでて、そして胸のふくらみへ。
あお向けになったままの美佳は顔をそらし、思わず指を唇に当てた。
何度身体をつなげても、この――序曲のような愛撫が一番ドキドキして、緊張する。
両方の胸を同時にてのひらで包まれて、優しく揉まれながら、親指で乳首をなでられる。
時々弾かれて、そして、また甘く、優しく。
「やん……士郎……」
ぴん、とつつかれる度に、美佳は痺れて思わず甘い声をあげる。
「いい声だね」
「…………」
からかうような声に、美佳はふと、眉をくもらせた。
この人は、今でもピアノを弾いているのかもしれないと、そんな場違いなことを思ってしまっていた。
そして私の身体は、彼の思い通りの音を奏でているのだと。
そんなことを考えた途端、彼の思うままに翻弄されるのが悔しくなった。
この恋愛関係と同じで、どこか一方的なセックスに、少しだけ不安を覚えてしまっていた。
指の愛撫が唇に変わる。
胸の先端を生暖かなものに包まれた途端、刹那に感じた思いも虚しく、美佳はわずかに背をそらした。
「美佳の身体……感じやすくなったね」
「そ、そんなこと……ない」
「そうかな」
ビブラートな声を耳にするだけで、もう、脳髄が痺れてしまっている。
何度も唇で挟まれ、焦らすように周辺を舐められる。片方の手は、まだ残る一方の乳房をなで続けている。軽く歯をあてられ、美佳は思わず、声のかわりに上瀬の髪に指をからめていた。
「し……士郎……」
「……ん……?」
顔があがり、優しい目が見上げてくれる。
その冷静な笑顔を見た時、自分一人が声を喘がせていることに、美佳はたまらない恥ずかしさを感じていた。
「キスして……」
上瀬は、すぐに身体の位置をずらしてくれる。
そして唇を合わせてキス。互いに口を開いて、深く、甘くさぐりあう。最初は一方的にされるがままだった大人のキスも、今は美佳にもやり方が判る。
角度を変えて何度も、何度も、舌をからませ、求め合う。
このときだけは対等だな、と甘みに落ちていく意識の中で美佳は思った。男が、美佳を求めているのが恐いほど切実に感じられる。
ちゅ、と、最後に軽く口角にキスをして、上瀬はなれた手で美佳の衣服を脱がせはじめた。
美佳がショーツだけになった時、上瀬もようやく着ていたシャツを脱ぎ捨てる。
「何……?」
美佳を見下ろす左右対称の目が、わずかに笑んだような気がした。
「え、な、何って」
美佳は恥ずかしさから、胸元を隠して顔をそむける。
「じっと見てるから……何かついてるのかな、と思って」
「べ、別に……見てないよ」
本当は、見惚れていた。
実際、何度見ても見惚れてしまう。
なめらかに締まった綺麗な肌。
一等星のように輝く芸能人は、どこもかしこも完璧な容姿を備えていた。肌さえ、まるで女性のそれのようにきめ細かく、沁みひとつない。
「美佳……」
そっと腰に腕が回され、抱き寄せられる。
美佳は目を閉じ、感覚だけで男の全てを感じ取ろうとした。
触れ合う素肌は温かい。この時だけ、抱いている男が一人の、ただの、肉体を持った男なのだと実感できる。
再びキスを続けながら、上瀬の指が、腿をなでる。そして下着の縁にそっと触れる。美佳は身体を緊張させた。
すうっと指が滑り込んでくる、優しく上部のふくらみを撫でられる。
「や…………」
多分、もう十分潤っているはずの箇所。
美佳は恥ずかしくなって身体をよじった。
同時に、ぬるっと指が美佳の中に入り込む。
「あ……ふ……」
美佳は人差し指を折り曲げて口に当てた。
声が、恥ずかしい声が、とめどなく溢れ出してしまいそうだ。
「美佳……もっと、声」
指が、淫らにくちゅくちゅとかき回す。
押し広げ、確かめるように膨らみを撫で回す。
「あ……あ……」
美佳は背筋をそらせ、こみあげる官能に無駄だだと判って抗った。
片腿を抱かれ、下着が足から引き抜かれる。
男の思うように広げられた中心に、再び指が何本かあてられた。
リズミカルに撫で、そして淫猥にこねまわす。ぬるぬると、指が触れるたび、動くたびに、美佳の中から新しい蜜が溢れては滴るようだった。
それでいて、指は決して欲しい場所には触れてくれない。
強烈な刺激を与えてはくれない。
「い……や」
美佳は涙を滲ませたまま唇を噛んだ。
「すごく、濡れてるよ」
意地悪な声がした。
そして、閉口する間もなくキスされる。
それは、美佳が咥えた指ごと舐めるような口づけだった。
「……し、士郎……やだ」
「声……聴きたい……聞かせて」
「あ……あたし、……違う」
「………ん……?」
私、ピアノじゃない……。
深みに指が入り込んだのはその時だった。
「あ……んっ」
力強く、そして激しく繰り返される抜差し。
静かな部屋に、淫らな音だけが響いている。
「や……はぁ、いやぁ、し、士郎……」
「美佳……」
たがが外れたように甘い声が溢れ出す。
肩を震わせて、美佳が脱力した時、上瀬はようやく指を抜き取り、ズボンのベルトに手を掛けた。
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