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「奇蹟ですか、はい、申し訳ありません、入荷待ちでして……すいません、今は、まるで入荷時期が予想できないんです、本当に」
 切った途端にまた電話だ。
 牧本大悟は大慌てで受話器を取り上げ、先ほどと同じ説明を繰り返す。
 静岡県掛川市、レコードショップ牧本。
「これ……異常だろ、マジで」
 レンタルショップでも常に在庫切れ。
 アマゾンのユーズドでも、値段が倍近くまで高騰している。
 これで、第三週か。
 大悟は、受話器を置いた腕に鳥肌が立つのを感じた。
 間違いない、奇跡は、おそらく、ここ数年で最大のヒット作になる。
 こんな現象は、何年もこのショップをやっていた大悟にも、初めてのことだ。
 今週にはいって目立つのは、年配層の異常なまでの増加だった。
 ギャラクシーの「スケール」が、じわじわとヒットしていったのと同じパターン、若年層から広がったものが、全年代に広がっていく。そして、それが社会現象になり、人の心に刻まれた歌になる。
 奇蹟がすごいのは、その現象が、三週という短いスパンで、あたかもドラマを観ているように劇的に起きた、ということだった。
 出た時は、そこまで売れる曲に化けるとは思えなかった。
 一体、どれだけ凄腕のプロデューサーがついていたのだろう。
 音楽業界のパラダイムシフトは、アーベックスの荻野社長によってなされたといわれている。おそらく今回は、それに次ぐ大きな変革だ。
 ふと思いついて、大悟は手元のテレビをつける。
 午後のワイドショー、新聞で見て知ってはいたが、ストームの後楽園イベントの生中継映像が映し出されていた。
 ヘリから映し出した俯瞰映像。スタンドアリーナは満席で、ヒートアップする歓声の中、5人の少年が笑顔で手を振っている。
 流れ出すのは、奇跡ではなく、同時収録曲「ミラクル」のストームVr。
 狂気にも似た大歓声が、メインボーカルの声さえも掻き消している。
「………今週のチャートは、目が離せねぇな」
 大悟は、思わず呟いていた。
 そして思う。
 これは、売れるべくして売れたCDだ。
 ミラクル自体、ユーザーの期待度がかなり高い作品だった。
 ミラクルマンセイバーは、大好評の内に、最終回目前。引っ張るだけひっぱっての、満を持してのCD発売。
 一週目に掟破りの全国ライブ、二週目にゲームソフトとのタイアップと、ジャガーズのREN、三週目に伝説のロックバンドハリケーンズを持ち出してきた「奇蹟」。
 若年層、青年層、壮年層、全て網羅している上に、「セイバー」そして「昼ドラ」で、子供と主婦のハートをがっちり掴んでいるストーム。
 これで、売れない方がどうかしている。
―――こいつは……すごいことになるぞ、マジで。
 異様な高揚が、大悟の胸を包み込む。
 音楽業界の圧力で、絶対に1位をとることしか許されないRITSと、ストームの全面対決。
 業界という不動の壁に、ひとつの小さな楽曲が挑んだ奇跡。
 今の時点で優勢なのは、発売第一週のRITSだが、集計締め切りまであと三日。全く予断は許さない。



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「集計はどうなってる」
「今のところ、まだ大きく離されています。昨日から、急きょRITSのライプツアーがスタートしたので、その影響でしょう」
「売れ、一枚でもいい、集計期限ぎりぎりまで、徹底的に売りまくるんだ!」
 唐沢の声が枯れている。
 普段静かなオフィスは、まるで戦場のような壮絶さだった。
 美波もまた、電話を握り締めたまま、自らの声を枯らしていた。
 ラスト二日で強行的に再度の握手会を行なう。場所は東京スタジアム、崖っぷちサッカー部のメンバーにも協力を仰いで、大掛かりなプロモーションを行なう。
 当日の売り上げだけで、二万枚は見込んでいる。握手欲しさに二度買いするファンもいるだろうが、そこに罪悪を感じている場合ではない。
 相手は世界のRITS、そこまでしても、追いつけるかどうか。
 唐沢だけではない、普段クールな藤堂、そして美波、全員が見えない恐怖を感じ、そしてその恐怖に立ち向かうべく焦燥している。
 勝負に乗った。
 乗ってしまった以上、敗北だけは絶対に許されない。
 走り出した以上、例え血を吐いても、最後まで完走しなければ、そこに待っているのは確実な破滅だ。
 完全勝利だけが、J&Mの、未来を照らす光になる。
 東邦の傘下から、本当の意味で抜け出して、この世界に輝くただ一つの光になるために。
 唐沢も、おそらくそれを肌で感じている。
 ここが、ストームだけではない、この会社にとっても正念場だと。



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「はは……ははは」
 乾いた笑いが、室内に響く。
 東京、赤坂。
 東邦EMG本社十六階。
 会長職につく真田のために作られた専用オフィス。
 5月27日深夜。
 オリコン株式会社から、6月3日付けのウィークリーオリコンチャートが、音楽業界に名を連ねる各社あてに、一斉送信された。
「………ありえない」
 真田は、笑みを目許にはりつけたまま、呟いた。


 2位 RITS「真夜中のセレナーデ」(東邦EMG)
 推定売上 234577枚


「こんなことが、あるはずがない……!」


 1位 ストーム「奇蹟」(J&M)
 推定売上 269349枚



「うおーーーーっっっ」
「やったーーーっっ」
「やりました、勝ちましたよ、社長!!」
 歓声、そして一斉に書類が空を舞う。
 唐沢直人は、ネクタイを緩めたシャツをはだけたまま、ただ呆けたように天井を見上げていた。
 開いたオフィスの扉。
 この瞬間を待って隣室に待機していた、ギャラクシーの緋川、天野、賀沢、そしてマリアのメンバー数人の歓声も聞こえる。
「アイドルを舐めんなよ!」
「俺たちが本気になれば、こんなもんだっつーの!」
 賑やかな喧騒と笑い声。
 無精髭を生やした美波と、そして藤堂が、笑顔で握手を交わしている。
 その背後では、同席していた片野坂イタジが、男泣きに泣いていた。
―――勝った。
 唐沢は、まだ現実感のないまま、手元の集計表を見る。
 何度見直しても、文句のつけようのない完全勝利。
 しかも、第一週からの売り上げを累計すると、今年最大のヒット曲になることはほぼ、間違いない。
 俺は……あの男に、勝ったのか。
 どれだけあがいても手が届かないと思っていた男に。
 デスクの電話が鳴っている。
 唐沢は、はっと現実に立ち戻り、姿勢を正して受話器を持ち上げた。
「………直人か」
 親父。
「…………」
 何か言いたかった。何かが、なのに、言葉が何もでてこない。
 俺は、
 ずっと大切なものを見失っていた。
 それはなんだったんだろう。今でもよく判らない、でも、あの映像で、親父の笑顔を見ている内に、何かが……わかりかけたような気がする。
「よくやったな」
「…………………」
「しかし、これからが正念場だ、気を緩めるんじゃないぞ、直人」
「…………………」
「それだけだ、忙しいのに、すまなかった」
 親父。
 俺は、
「今度、」
 殆ど、受話器が置かれる直前だった。電話の向こうからは、戸惑ったような沈黙が返ってくる。
「……おふくろの、墓参りに……行こう」
「………………」
「また、連絡する」
 呟いた自分の瞼から、一筋の涙が前触れもなく零れた。
 何を……やってるんだ、俺は。
 苦笑して、その有り得ないものを手の甲で拭い去る。
 受話器を置くまでもなく、今度は携帯電話が鳴った。
「はーい、わ、た、し」
「切るぞ」
「ちょっとちょっと、せっかくお祝いしてあげようと思ったのに」
 学生時代から奇妙な腐れ縁が続いている男みたいな女からの電話。
「祝いなら、電話じゃなくて直接しろ」
「じゃ、finで待ってよっか?」
「俺の部屋に来いよ」
「…………………」
「冗談だ、今夜は仕事で戻れない」
 唐沢は、笑いながら電話を切った。



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「片野坂さん」
 何度も手で鼻をこすっている男に、美波は自身のハンカチを差し出した。
「あ、そんな、も、もったいない」
 とか言いつつ、イタジはそのハンカチで思いっきり鼻を噛む。
「これ……」
「さしあげます」
 美波は、苦笑してそう答えた。
「泣いている場合じゃないですよ、東邦の反撃を考えたら、正念場はこれからですし」
 涙が止まらないほど嬉しいのは判る。
 ほとんど解散間際だったストームをここまで大きくした片野坂にとって、ストームは、格別思いいれのあるユニットだろう。
「……そんなんで、泣いてるんじゃないんです」
 が、イタジの声は、思いの他静かだった。
 美波は、笑顔を消して、その顔を見つめる。
「今日、この場所に……なんであいつらがいないのかなって思ったら」
「………………」
「真咲さんがいないのかなって思ったら、それが、……なんか可哀想になってきて」
「…………………」
 ストームは、今、この瞬間にも仕事に追われている。
 今日から始まった、全国ネットのラジオ放送の収録。今日だけではない、明日も、明後日も、すでに仕事は半年先まで、秒刻みで埋まっている。
 片瀬はドラマ。
 東條はバラエティのレギュラー。
 成瀬は舞台。
 柏葉は映画。
 綺堂は映画、ドラマのダブル主演。
 そして、ストームの看板番組が8月からエフテレでスタートする。ヒデ&誓也のいきなり夢伝説の後番組。
 7月半ばには、全国規模のコンサートツアーも予定されている。まだ公表されていないが、8月のオーラスは東京ドーム。
 Jでは、ギャラクシーと貴沢、そしてスニーカーズしか立ったことのない大舞台。
 奇蹟のヒットで、おそらく年末はあらゆる音楽賞を総なめすることになるだろう。紅白さえも視野に入れて、スケジュール調整する必要がある。
「ストームは、今、楽曲の人気だけが先行している、タレントとしても、ユニットとしても、まだまだなんです」
 美波は、静かな声で言った。
 それは理解しているのか、片野坂も頷く。
「人気がある内に、それを実力にまで昇華させなければならない。でなければ、ストームは簡単につぶれてしまいます」
「それは……わかってるんですけど」
 それでも何か言いたいのか、イタジは口を開きかけ、力なくそれを閉じる。
「奇蹟もいずれ飽きられる、ヒットとは、しょせん貯金のようなものなんです」
 美波は続けた。
 曲のヒットは永遠ではない。
 むしろ、大ヒットをたたき出したアーティストほど、潰れやすいというデータもある。
「貯金のある内が勝負です、そのために目いっぱい詰め込んだ仕事です。彼らは、これから、業界中の注目を集める存在になる。しかも、今後東邦がターゲットにしてくるのは、まず間違いなく、ストームです」
「…………………」
「私生活まで縛るのは残酷なようですが……彼らが芸能人として独り立ちできる日まで、人気が不動のものになるまで、それもいたしかたないと思っています」
「…………………」
 何かを振り切るように、イタジは苦笑して、頷いた。
「わかっています。あいつらを、よろしくお願いします」
 それでも、寂しそうな目をしていた。
 多分、ストームにとっても、この男が戦列を離れたことは、相当のショックだったに違いない。この男と、そして真咲しずくが。
「真咲さんは……ご結婚の準備に入られたと聞いていますが」
「さぁ、プライベートなことまで、僕は」
 イタジは、それには、やや戸惑ったように視線をそらす。
 その表情で、美波は、ここに立つ男が、内心、真咲しずくの退陣に不満を持っていることを察した。
「じゃ、そろそろ失礼します、向こうに仕事残してますんで」
 イタジは丁寧に一礼してから退室した。
「………………」
 美波は、手元の集計表に目を落としたまま、先日、地下に向かうエレベーターの中で、片野坂イタジが言っていた言葉を思い出していた。
(あの人は……多分、救いにきたんじゃないでしょうか、この会社を、会社というか、あの人の父親が創り上げた場所を)
「………………」
(本当は彼女は、唐沢社長にしても、美波さんにしても、その……好きだったんじゃないかと思いますよ。あ、好きっていうのとは違うかな、……最初から信頼してたんじゃないかって、そう思うんです、俺)
 最後まで、わけわかんない人でしたけど。
 その真咲しずくは、すでに副社長辞任の意向を文書で提出している。マンションも引き払い、すでに御影氏の邸宅に、居をかまえているという。
 これが、あの人の引き際か。
 疑問が残るのは、美波もまた同じだった。
 彼女らしい引き際のようでもあり、一点、どう考えても彼女らしからぬ決断のような気もする。
 会社のために誰かと結婚するような女でもないし、ああいった温厚なセレブ紳士を、本気で好きになる女とも思えない。
 ポケットに入れていた携帯が震える。
「…………」
 わずかな動悸を感じてそれを取り上げた美波は、着信の名前を観て、自然に眉根を寄せていた。



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「……何やってんの」
「あんたもね」
 扉を開けたきり、女の顔が固まっている。
 将は、部屋の奥に視線をめぐらせた。
「入っても、いい」
「……あー、と」
 真咲しずくは、少し躊躇したように唇に指を当てる。
「あんま、よくないと思うけど」
 将は嘆息して、玄関脇の壁に背を預けた。
「あんたが結婚するから?それそも俺が、超売れっ子アイドルだから?」
「ま、両方」
「じゃ、ここで話すけど、いい」
「………うーん、それも」
「んじゃ、下の車で待ってるから」
「あのね」
 初めてしずくの唇から、疲れたようなため息が漏れた。
「自分の立場、全然わかってないでしょ、パニーちゃん」
「判ってるよ、超売れっ子アイドルの俺」
「何やけになってんのよ」
 扉が、少し開かれる。
 将は、わずかにためらってから、その中に足を踏み入れた。
 入るのは初めてじゃない。
 女が、学生時代から使っていたマンションである。将は小学生の時、何度もこの部屋に遊びに来ている。
「相変わらず、男みたいな部屋だね」
「そう?ま、座って」
「いいよ、ここで話すから」
 玄関。
 人目にさえ触れなければ、場所なんてどうでもよかった。
「………何」
 いったんリビングに消えた女が、静かな表情で戻ってくる。
 無造作に流した長い髪。
 膝までの薄手のニットと、ジーンズ姿。
 最後に会ったのは、温泉旅行の夜。
 たった十分きりの、恋人だった女。
「引越しでもしてるかと思ったら、何も片付いてないじゃん、ここ」
「思い出詰まってるからね、もう少し残しとこうかなって、で、何?」
「結婚するんだ」
「うん、……するんだね」
 どこか、人事のような口調だった。
 将は無言で息を吐く。
 ニュースを聞いた最初の衝撃も、テレビで観た時の衝撃も、まだ、何ひとつ癒えていなかった。
「冗談だと思ってたら、マジなんだ、イタちゃんも小泉君も辞めちゃうしさ、あんたは結婚退職だし、どうなってんだよ、ストームマネージャー陣は」
「代わりにすごいのがついてるでしょ、どうやって抜けてきたの、今夜は」
「ま、色々、ちょろいよ、そんなの」
「ちょろいでしょうけど、後が大変よ」
 楽しそうな口調に、将は、抑えに抑えてきた苛立ちが爆発しそうになるのを感じていた。
「ストーム全員が、ばらばらのマンションに閉じ込められて、いかついマネージャーと半同棲状態。1人になれんのは、風呂とトイレくらいでさ。つか、いつの間に俺ら、そんなビップ待遇されるようになったんだよ」
「それが、望んでた場所じゃないの?」
 淡い照明が、しずくの顔を翳らせている。
 少し痩せたな、将は、はじめて、その頬が、鋭角さをましているのに気がついた。
「何ひとつ代償のない成功なんてね、そんなものがあると思ったら大間違いよ、バニーちゃん」
「………………」
「私、言ったわよね。プロモの前に」
 しずくはそう言い、壁に背を預けて天井をみあげた。
「一ヵ月後の自分を想像してみなさいって、一ヶ月後にどうなっているか、それを考えてみなさいって。どう?今の君は、想像どおりの場所にいない?」
「………それは」
 あの時願ったのは。
 ストームを残したい、それだけだった。
 ただ、それだけ。
「私にも私の理想があって、そして私のできることは、全部全力でやったつもり。ただ、それ、悪いけど、君のためにしたことじゃないけどね」
「…………俺の、親父のためかよ」
 将は、苦く呟いて視線を下げた。
 あんたは一体。
 奇蹟を売りたかったのかよ、それとも、ハリケーンズをもう一度この世に出したかっただけなのかよ。
「後は、君しだい、君たちしだい」
 しずくの声は優しかった。
「想像しなさい、一生懸命、心の底から」
「……………」
「一ヵ月後、一年後、五年後、十年後、自分がどうなっているか、どうなりたいか、一生懸命悩みなさい、悩んで、悩んで、考え抜いて、そして、前に進みなさい」
「…………………」
「掴み取りなさい、あなたの人生よ、誰に頼るのでもない、あなたの手で、あなたの一番欲しいものを掴み取りなさい」
「………………」
 俺の。
 俺の、一番欲しいもの。
「私に言えるのは……もうそれだけ」
 俺が欲しいのは。
 昔から、一番最初に、ここに連れてきてもらった時から。
 ずっと、ひとつだけだったよ。
「……こないだ、君がいる世界の曲、親父からもらったって人に会いにいったよ」
「……そう」
 少し驚いたようにしずく。
「進行形の筋ジスで、もうしゃべることも歩くことも出来なくなってて、……それでも、俺が静馬の子供だって紹介されたら、顔くしゃくしゃにして泣いてんだ。なぁ、歌ってなんだよ、一体」
「………なんだと思う?」
「どうして、たかだか十二かそこらの音符の配列が、人の心を揺さぶって人生さえも変えちまうのかな、なんで世の中には、その たかだか人の作り出した機械音を、奇蹟のメロディに変えることができる才能があるのかな」
「その才能が、神様からの、贈り物だからよ」
「……………」
「君のお父さんはそう言っていた。……聞きたいなら、話すけど、全部」
「………………」
 しばらく考えてから、将は静かに首を横に振った。
「いい……ガキだと思われるかもしんねーけど、これ以上落ち込みたくねぇから」
「………………」
「今日聞きたいの、いっこだけで、それ聞いたら、帰るから」
 本題。
 それを切り出すのは、ドーム五万の観衆の前に立つ以上の勇気が必要だった。
「御影さんのこと?」
「……………」
 マジで好きなら。
 男らしく、祝福のひとつでも言って、――でも、そうじゃなかったら。
「あんた、一生、恋愛も結婚もしないっつってたじゃん」
「………真面目に話しても、いい?」
 淡く翳る照明。しずくの表情は、初めてみるような寂しげなものになっていた。
「俺はいつだって真面目なんだけど」
「私にとっては恋愛感情じゃなくて、ピジネス上の契約」
「…………………」
「っていったら君は怒るかもしれないけどね。……ただ、私、基本ファザコンなのかな」
 しずくは将を見上げて、わずかに笑った。
「あれくらいの年代の人が、一緒にいて、本当に落ち着くし気楽なんだ。すごく素直に甘えられるし。だからね、プロポーズされた時、困ったなとは思ったけど……そんなには迷わなかった」
「………………」
「ちょっと……最近、疲れたかなって思ってたから、色んなことに」
 そっか。
 じゃ、よかったじゃん。
 つか、ここで年持ち出されたら、俺なんてもう、どうにもなんねぇし。
「……じゃ、ずっと専業主婦でもしてるつもり?」
 どうかな、そう言ってしずくはかすかに笑った。
「しばらくは日本にいるけど、夏にはフランスに戻るしね、基本、向こうで生活するつもりだから」
「へぇ……」
「彼も向こうに家持ってるし、ま、セレブを満喫するかな、しばらくは」
「………………」
 ふぅん。
 初めて知ったよ、あんたって、そんなつまんない女だったんだ。
 ま、いいけどさ。
 じゃ、これで、マジで終りなんだな、この、どうにもならない片思いも。
「ま……何も言うことはねぇけど」
「そうね」
「幸せになって」
「ありがとう」
「…………………」
「…………………」
 十分だけ。
 こいつは俺のものだった。
 あのわずかな時間で、苦しいほど好きだって伝えたし、こいつも俺のことが好きなんだって、すごく感じたような気がする。
 それも、全部錯覚だったのかもしれないけど。
「じゃ……」
「もう、会えないと思うけど」
 背後から声がした。
 明るいけど、妙に寂しい声だった。
「もう、二度と、君には会えないと思うけど」
「………………」
「最後に、……本当のこと、言わせて」
「………………」
「どこにいても、君の幸せを願ってる、君が、いつか、綺麗で可愛い恋人を見つけて」
 もういいよ。
「君が、いつか、夢を掴んで、素敵な人と結婚して、幸せになるのを」
 もう、いいよ、もう何も聞きたくない。
「本当に……本当に、願ってるから」
「……………」
「出会えて、嬉しかった」
「……………」
「ありがとう……さよなら」













※この物語は全てフィクションです。



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感想、お待ちしています。♪内容によってはサイト内で掲載することもあります。
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