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「もっと大々的に放送しろ、時間は延長しても構わない、プロ野球?そんなものはどうでもいい」
 電話の向こうの声は、いつになく高揚している。
 エフテレビ、報道局。
 1日のラストを締めくくる、ナイト23ニュースの報道スタジオ。
「時間延長」
 電話を切ったアシスタントディレクターの反町は、そう言って手を上げて合図をした。
「いいけど、同じ映像の繰り返しで、いい加減視聴者も飽きてますよ」
 カメラマンの宮原が、肩をすくめながら反町の背後を通り過ぎる。
「んなこと、わかってますよ。しょーがないじゃないっすか」
 反町は、噛み付くように反論した。
 編成部長じきじきの指令である。
 現場に逆らえるはずがない。
 今夜、ジャイアントの清永が、通算二千本安打を達成した。もう世間的にはどうでもいい――というより、午前十一時の判決後からはじまった特番ラッシュで、もう伝えるべきことはこれでもかというくらい伝えた報道済みのニュースより、反町は、そのニュースの方を大々的に取り上げるべきだと思っている。
 すでにスタジオの片隅では、スポーツ担当キャスターとコメンテーターが、苦い顔でコーヒーを口にしている。
―――ま、会社としては、嬉しくてしょうがねぇんだろうな。
 世間を騒がした「株式会社ライブライフ」元社長の有罪判決ニュース。
 エフテレビは、その脇固めの甘さもあって、この――企業買収という手法で大きくなった新参企業に、あやうく経営権の一部を奪われる寸前だったのである。
 大企業に支配され、膠着した日本経済に風穴を開ける、といきまくライブライフ社長を、世論は一様に応援する側に回り、視聴率だけがよりどころのエフテレビは、歯軋りをしつつその要求をのむことになった。
 マスコミ対応向けでは、笑顔を振りまいていた社長が、影で、徹底的にライブライフつぶしに奔走していたことを、反町はよく知っている。
 報道局にも内々で通達が降りていた。どんなささやかなゴシップでもいい、時期を見て流せるだけの情報を拾え、と。
「やりたかったことは、金儲けだったのかもしれないですけどね」
 タイムキーパーの鎌田が、小声でそう囁いた。
「大企業に、個人が戦いを挑んで……、天下のエフが白旗をあげる寸前だった。まぁ、そこそこ面白い見世物だったと思いますけどね」
「俺ら報道にたてついて、勝てると思う方がどうかしてるよ」
 冷めた口調で、アシスタントキーパー高木。
「世論なんて、報道ひとつでいくらでも操作できるんだ、世論どころじゃない、企業のバックには政治家がついている。今回の逮捕だって、検察が政治家に押されて動いたって話だろ」
「お、おいおい、何、怖いこと言ってんだよ」
「出る杭は打たれるんだ。一度権力者が作ったシステムは、民主主義を永久に葬り去る、それが判らずに、日々楽しけりゃいいと思ってる視聴者がバカなのさ」
 反町は嘆息して、パソコン画面を凝視している瓜実ディレクターの方に歩み寄った。
「何か新しい動きはありますか」
「いんや」
 この道一筋、長年報道畑にいた男は、白髪まじりの髪を掻きながら首を横に振った。
「いまのとこ、ライブライフの公式サイトには何の動きもねぇなぁ、新社長のコメントくらいは出てくるかと思ったが」
「ライブライフは、もう終りですね」
「まぁな、すでに大手ネット関連企業からの、買収話が進んでるらしい。ライブライフは買い叩かれ、ずたずたに解体されて……終りだな」
「……………」
 一時は、日本を代表する有名企業にのぼりつめた。
 その結末が、これか。
「………ん?」
 画面をクリックしていた瓜実が、いぶかしげな声をあげた。
「何かありましたか」
「いや……公式コメントとは違うんだが」
 反町は、小さな液晶画面に目をこらす。
 ひどく荒い映像だ。薄暗い部屋、複数の人間が、何か話しあっているような、笑いあっているような、そんな漠然とした映像。それが、少しずつピントがあってくる。
 瓜実が、イヤフォンをパソコンから引き抜いた。
 途端に音が流れ出す。
「………なんすか、これ」
「ライプライフがやってる無料動画配信サイト、ピーテレだよ。今週いっぱいでサービス停止だって話だったけど」
 ギターの音。笑い声。
 写っているのは、ここに座る瓜実と、ほぼ同年代とおぼしき男が――四人。
「誰っすか、彼ら」
 瓜実は応えない。
 ただ、無言の横顔が、じっと画面を見つめている。
「あれ……この曲」
 最初に声を発したのは、女性アシスタントだった。
「奇蹟じゃないですか、ほら、ストームの」
「えーっ、なんで??」
「これって、かなり昔の映像ですよね、八ミリかな、……でも、曲は」
「奇蹟だよー、なんかレトロな感じだけど」
 ストーム? 
 奇蹟?
 一瞬意味が判らなかった反町にも、先日の、ビックサイトの騒ぎが思い出された。
 ああ、アイドルの。
 でも、一体、なんだってこんな、面白くもなんともない絵が流れてるんだ?
 パソコンの回りに、1人、2人、と人が集まる。
 喧騒の中、その周囲だけが、水を打ったような静けさに包まれていく。
 椅子に座り、ギターを奏でながら、静かに歌う渋みのある壮年の男。
「………こんな、いい曲でしたっけ、奇蹟」
「なんかこう、泣けてきそう」
「この歌ってるひと、すごくかっこいいですね」
 瓜実が、苦笑して立ち上がる。
「……そりゃそうだ、俺がガキの頃、目茶苦茶憧れた人だったんだ」
 そんなつぶやきが、立っている反町の耳に聞こえてきた。
「こ、この人、よく見りゃフルさんじゃないっすか、ほら、もういないっすけど、昔J&Мにいた、あの、名物マネージャーの」
 老いたカメラマンがそんな声をあげた。
「こっちのは、唐沢さんだよ、今のJ&M社長の親父だ、うひゃー、なんつー若い格好してんだ、別人みたいだ」
 年の頃は、全員が40すぎかそれくらいだろうか。
 おのおのが、少し流行後れのシャツとジーンズ姿、背後には音響装置、貸しスタジオかどこかだろう。
「城之内静馬……まさか、映像が残ってるなんて、夢みてぇだ」
 瓜実が独り言のように呟く。
 城之内静馬。
 どこかで聞いた、しかも最近。その記憶を喚起しようと、反町は画面中央、苦い笑みを浮かべ、それでもどこか楽しそうに、指先でリズムをとっている男を見る。
 それから。
「工藤哲夜だ」
 誰かが呟き、誰?という囁きが若い連中の間に広がった。
 殆ど興奮気味に立ち上がったのは、それまでずっと冷静だったアシスタントキーパーの高木だった。
「工藤だよ、“十七歳の永遠”の工藤哲夜だ、俺の親父が滅茶苦茶好きだったんだ、嘘だろ、なんなんだよ、この映像!」
「なんとまぁ、消えたアーティストが勢ぞろいだ」
 瓜実はそう言って、苦い笑みを浮かべて、パソコン画面を見下ろした。
 ギターをかき鳴らす工藤哲夜、それに歌声を被せ、自身もギターで音を合わせている城之内静馬。キーボードは古尾谷平蔵で、少しぎこちなくドラムを叩いているのは唐沢省吾。
 黒い画面に、白字がゆっくりと浮き出してくる。
 Storm 「奇蹟」
「一体、どういう奇跡が起きたものやら、俺らの世代にとっては、最高に懐かしい面子じゃねぇか」



                 13


「どういうことだ」
 そう言ったきり、唐沢直人は、蒼白な顔を、ただ硬直させていた。
「ピーテレを皮切りに」
 藤堂は、さすがに疲れた声で、そこで一旦嘆息した。
「海外、国内問わず、主要動画投稿サイトに、一斉に同じ映像が配信されています。それが元々同一の発信者なのか、ただの海賊版なのか、すでに判別できない状況です」
 六本木、J&M仮設事務所。
 深夜、急きょ、自宅にいるところを呼び戻された美波は、惨めなほど取り散らかった社長室の有様に目を向けた。
 すでに、事態の収集を放棄したのか、唐沢の目は、もはや怒りさえ浮かんでいない。
「真咲副社長は」
 美波の問いに、藤堂は疲れたように首を振る。
「一時間前から所在が知れません。唐沢さん、あんたの言うとおりでしょうね、今となっては、あの人の目的はこれしかない」
 唐沢は応えない。ただ、うつろな目を、繰りかえし流れる映像に向け続けている。
「うちの会社を、潰すことだ」
「……………………」
「真田会長は、今頃激怒しているでしょう。いや、そんな生易しいものじゃないかもしれないが」
 ストームに。
 美波が、即座に思ったのはそれだった。
 ストームに、その矛先がいっては何にもならない。
 つい先刻、耳塚を通じて指示を受けたばかりの美波は、実際、どうしていいか判らないままでいた。
 J&Mを葬るべきか。
 それとも、守る立場に転じるべきか。
「唐沢さん」
 藤堂の問いかけに、唐沢は答えない。
 ただじっと、映像を――そこで笑っている、若き日の父親の姿に見入っている。
「まいったな」
 舌打ちした藤堂が、唐沢のデスクに腰掛ける。
「今は、情報を集めないと話にならない。美波さん、至急、唐沢元監査役に連絡をとってもらえますか」
「わかりました」
 そう応えつつ、美波もまた動けないままでいた。
 この会社を潰すこと。
 本当に、彼女の目的はそれなのだろうか。
 十年――沈黙して、そして、そのためだけに、わざわざ日本に戻ってきたのだろうか。
 彼女が唐沢直人に要求したのは、ストームの東京ドーム単独コンサートという、ある意味、場違いで、突拍子のないものだった。
 それには、なんの意味もないのだろうか。
 電話が鳴る。取ったのは、パソコンを操作していた藤堂だった。
「はい、社長室、ええ、……いや、私が代わりに聞きましょう」
 美波は眉をひそめながら、考え続けていた。
 今、J&Mは、かつてないほど多額の負債を抱えている。それは――無論、真田の打った布石によるものだが、唐沢自身が、この業績の伸びに、さらなる飛躍を期待しての投資だったといってもいい。
 何故今なのか――それは、唐沢が今、心の底から痛恨していることだろう。
 唐沢のビジネスマンとしてのスキルは、実際大したものだ。
 が、決定的に、かけているものがある。
 それが、取引であり、根回しだ。
 勝っている内はいい、誰もが追従して甘い汁を吸い、そしてわけてもくれる。が、いったん翳りが見え始めると、おそらく味方は誰もいなくなる。
「………唐沢社長」
 電話を切った藤堂は、唐沢の背中に声をかけた。
「東邦の営業部からです。今すぐ、ストームのプロモーション一切を中止し、このたびの映像発信者を特定して」
 唐沢が、ゆっくりとその藤堂に視線を向ける。
「法的措置を講じるべきできないかと。奇跡はストームの楽曲ですが、今回の映像は、ストームの名で、別の人間がそれを歌っています。著作権の侵害行為に当たるだろうとのことですが」 
「…………わかった」
 唐沢が、力ない声で呟いた。
 美波は、多少の失望をもって、その横顔を見下ろした。
 最早、戦う意欲さえ喪失した男。こんな男に、今まで、俺は――。
「あの女の狙いは、………一週でも、二週でも、なかったんだ」
 しかし、空洞のような目を、一点で止めていた唐沢は、予想外の言葉を口にした。
 美波も藤堂も、動きを止めて、ボスの顔を振り返る。
「最初から今週だった、ただRITSだけが、あの女の最初からの標的だった」
「………?」
 椅子を蹴るように、ふいに唐沢は立ち上がった。
「著作権違反では有り得ない、なぜならハリケーンズは、元々ストームという名称だったからだ」
 美波ははっとして顔をあげる。
 唐沢も知っていた――おそらく、父親から聞いていたのだろう。その因縁の名前を。
 わかった。
 それで、ST ft Takeshiか。
「しかも、この曲は」
 唐沢の目が輝いている。
「静馬が単独で作った曲でさえない、工藤哲夜、東邦が闇に葬った天才シンガーと2人で作り上げた曲だ、このセッション映像が、それを全て証明している」
 S、そしてT。それが本当の意味だった。
 美波もようやく理解した。東邦の切り札が、この映像でもって崩されたことに。
 しかし、一体いつ、誰が、今を見越したように、こんな映像を残したのか。
「ライブライフの有罪判決で、日本中が、ライブライフのコンテンツに注目している。この映像は、あたる。戦略としては最高だ、社会現象に乗せたプロモーション。大企業に戦いを挑んで敗れたライブライフ社長の悲劇は、そのまま、東邦に潰された静馬の悲劇でもある。かつてのハリケーンズファンが、こぞって奇蹟を買いに走るだろう」
 まるで衝かれたように一気にまくしたて、拳を握る唐沢の横顔。
「奇蹟とは、とある言葉や事象で、集団の意思をある方向に動かすことだ。どうやらあの女は、本気で奇蹟を起こすつもりらしい」
 どうするつもりだ。
 買えば、敗北が見えている勝負。
 乗るか、それとも降りるのか。
「悪魔か……それとも救世主か」
 笑うような声で呟いたのは、パソコンを見ていた藤堂だった。
「今、とんでもないニュースが配信されましたよ、これがあの人の、最後の仕上げだとしたら、もう脱帽するしかないでしょうが」
「言ってみろ」
 振り返って、唐沢。
「ニンセンドーの社長と、真咲しずく氏が、6月に挙式するそうです。ニンセンドーの御影氏は、経団連会長と繋がりが深い、うちにとっては、最高の後ろ盾が出来たわけです」



                  14


 
「どうにもならないだと?ふざけるな!」
 真田は怒鳴りつけ、電話を叩ききった。
「耳塚!」
 苛立ちまじりに、腹心の名前を呼ぶ。
 すでに待機していたのか、白皙のモンスターは、無表情で現れた。
「奇蹟の売り上げは」
「伸びています、この二日の推計で、十五万に届く勢いです」
「RITSは!」
「二十万は確実でしょう、しかし無論、安心はできません」
「購買員を使え、金はいくらかけてもかまわん」
「そうは思いましたが」
 耳塚の眉に、あるかなきかの翳りが浮かぶ。
「サンライズが、昼のワイドショーで購買員システムを取り上げるという情報が入っています。これは、おそらく荻野社長の差し金でしょうな」
「荻野め!」
 真田はうめいて、テーブルを叩いた。
 新参会社に、あれだけ便宜をはかってやったものを――。
 何を今更の正義面だ、そして、何故、J&Mに肩入れする。
「今、動くのはむしろ危険ですな。通常のプロモーションを強化し、J自らの自粛を促すのが得策でしょう」
「そんなことは判っている!」
 RITSのトップだけは、何が何でも譲れない。
 世界に誇る記録である。連続チャート1位記録は、東邦が業界トップだという現れであり、最高のステイタスである。
 そして――静馬だ。
 あの映像は、すでにテレビでも何度もオンエアされている。
 ハリケーンズの名前も、静馬の名前も。
 さしものモンスターでも、収集がつかないほど、ネットでその噂が出回り始めている。
―――許さない……
 私の静馬を、あんな低俗な形で世に出すとは。
 ぎりぎりと、真田は奥歯をかみ締める。
「君がいる世界はどうなっている、あれは静馬の作品だ、うちのものだ」
「それも……実はようやく、掴みましてね、RENにあの曲を売った人間を」
「真咲の娘だろう」
 真田の問いに、耳塚は冷徹な目で首を横に振った。
「都内に在住している、民間人です。難病で、もはや歩行も発声も困難な状態とのこと。彼女が結婚したのを機に、静馬があの曲をプレゼントしたらしい」
「同じ施設の出身者か」
「ご明察の通りです」
 そんな話を、そういえば静馬自身の口から聞いたことがある。
 いい曲だと、周りの連中がいくら言っても、静馬自身が、絶対に歌おうとしなかった曲。あれは、もう、俺のものじゃないんだと。
「くそ……っ」
 真田は再度、机を叩いた。
 隙だらけだと思っていたものが、意外に頑強な壁に守られている。
 よりによって難病か、下手にこの話を持ち出せば、お涙頂戴話にマスコミが飛びついて、また奇蹟の人気に火がつくおそれがある。
「工藤はどうした」
 工藤哲夜、よもや裏切るはずのない、薬中のゴーストライター。
 飼い主を裏切ればどうなるか、あの男ならよく判っていたはずだ。
「横浜国立病院です」
 耳塚の声は冷静だった。
「あともって、三ヶ月だそうですな」
「………………」
 どこかで、飲んだくれの老人が、声をあげて笑っているのが聞こえた気がした。
 真田は、奥歯をかみ締めて両拳を握りしめる。
 奇蹟を作ったのが、静馬と工藤で。
 ハリケーンズのもう一つのユニット名がストームだと?そんな話は聞いたこともない。
 そしてあの映像だ。
 紛れもなく死のわずか前の静馬の姿。一体、いつ、誰が、なんのためにあんなものを残したのだ――あたかも、今日の日を予測するかのように。
 しかし、今は、そんなことに拘っている場合ではなかった。
「真咲の小娘と、御影の御曹司の結婚は本当か」
「今日の二時から2人の会見があるそうです。まぁ、これで、多少は手ごわくなりましたな、あの会社も」
「……………」
「以前ほど、簡単には」
「判っている!」
 だから、Jは拒否したのだ。
 ストームのプロモーションの中止要請を。
「Jへの報復は後回しだ」
―――唐沢の小倅め……
 覚えていろ。
 真田はうめくように言って顔をあげた。
「今週、何がなんでも、RITSの1位を死守しろ、どれだけ金をかけてもかまわん、プロモーションを徹底的に強化しろ!」



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「全ての歌謡番組に、ストームを入れろ、多少強引でもかまわない、うちのタレントが出ている全ての番組で、奇蹟を流せ、テレビでもラジオでもコンサートでも、だ。徹底的に宣伝するんだ」
 電話を切った唐沢は振り返る。
「ストームは」
「今日は後楽園で、セイバーのイベントです」
 即座に答える藤堂戒。今は、ただの取締役ではない。
 正式なストームのチーフマネージャーである。
「全員、昨夜から事務所が所有するマンションに移しました。個別につけたマネージャーが隣室で監視しています。今は、自由にさせていい時期ではないので」
「女関係は」
「片瀬と成瀬、早急に清算させます」
 唐沢と藤堂の声を聞きながら、美波は社長室を後にした。
 すでに会社に出てこない真咲しずくに代わり、ストームにはJが誇る精鋭スタッフがついた。
 この急激な配置換えに、一番ショックを受けているのは、当のストームだけではないだろう。
「……美波さん」
 エレベーターホール前、疲れた顔を上げたのは、元ストームのマネージャー片野坂イタジだった。
「今から、武道館ですか」
「はい、いきなりなもんで、戸惑ってばかりですが」
 苦笑して、片野坂は延びた髪に手をあてる。
「まぁ……がんばりますよ」
 その口調には、悲しいほど覇気がなかった。
 それに、自分でも気づいたのか、イタジは慌てて言い添える。
「なにしろ、ギャラクシーのマネージャーは、昔からの、僕の憧れだったんで」
「緋川は我侭ですから、今回も嫌な顔をしたでしょう」
 美波は、いたわりをこめて言ってやった。
 ストームをここまで大きくしたのは、間違いなく、ここに立つ男の情熱だ。
 しかし、これから、ストームを襲う激震を考えると、その周りを固めるスタッフに、わずかな甘さも許されない。こと、私生活に関しても、一秒も目を離さない体制で監視する必要がある。
 そういう意味では、ストームと親しくなりすぎた片野坂イタジも、小泉旬も、気の毒だが現場から外すしかなかった。
「いえ、緋川君は、二つ返事で奇蹟を歌うといってくれました。いい曲だし……なんか、燃えてるみたいですよ、みなさん」
 エレベーターに乗り込み、片野坂は淡々とした声で続けた。
「東邦には、緋川君自身も、今まで煮え湯を飲まされてきたからかな、ギャラクシーだけじゃなく、今回は、みんなで奇蹟を売ろうって雰囲気になってますしね」
 マリアも、サムライも、自身の持つレギュラー番組で、快く奇蹟を使うことを快諾した。
「なんか会社がひとつになるってこういうことかなって……少し、嬉しくなりました、この会社に入ってはじめて、こんな気持ちになりましたよ」
「そうですね」
 美波は頷き、それから少し話をしてから、地下の駐車場で片野坂と別れた。
―――なんか会社がひとつになるってこういうことかなって……
 確かにそうだ。今、J&Mは、事務所の総力をあげて、奇蹟を売り出そうとしている。
 アイドルの底力を、長年負け続けてきた東邦に、おそらく初めてぶつけようとしている。
 が、そんな、きれいごとばかりが通る世界ではない。
 光があれば、影ができる。
 ストームの成功の影で、血が滲むほどの屈辱を味わった者もいる。
 青春の全てを犠牲にして、この世界に賭けてきた1人の男が。
―――それが芸能界の現実なら。
 美波は、暗い目で、暮れて行く空を見上げた。
 一体、どこに。
 どこに、俺は救いを求めたらいいんだろう。











※この物語は全てフィクションです。



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