21



「美波君」
 車に向かおうとしていた美波は、金属が軋んだような声に、凍りついた気持ちで足を止めた。
「………どうも」
 暗い闇から、その闇よりも黒い男が、鬱蒼と現れる。
 耳塚恭一郎。
 裏の通り名はモンスター。
 いつ見ても、陰気な、そして不安をかきたてる顔。
「ここは、Jの陣地ですよ」
 美波は、多少の非難をこめてそう言った。
「あなたと私が一緒のところを見られたら、私の立場がなくなります」
「ほう」
 耳塚は、表情を変えずに声だけで反応した。
「あなたの立場とは、何なのか、この際、それをお聞きしたいものですな」
「車へ」
 美波は苛立ちながら、男を自身の車に先導する。
 そして、歩きながら胸の底で覚悟を決めていた。
 いい機会かもしれない。
 どのみち、避けては通れない男だ。ここで、はっきり、自分の意思を口にするべきかもしれない。
「真田会長が、どれだけ立腹されているか、想像できると思いますがね」
 美波の車の助手席に座り、死神はゆったりと煙草を口元に持っていった。
「僕は僕の立場で、仕事をしただけです」
「だから」
 耳塚の横顔が、わずかだが笑んだ気がした。
「その、あなたの立場をお聞きしている」
「この事務所の、取締役としての、立場です」
 美波は、強い口調でそう言った。
「………唐沢直人への復讐はどうします、あきらめますか」
 モンスターの声が、不快な感情をかきてたる。
 美波は黙って、煙が充満する車内の一点を見つめ続ける。
「あなたの恋人を卑怯な手でポルノに出演させ、あろうことかそれをネタにあなたの移籍を止めようとした」
「………………」
「彼女はどんな気持ちだったでしょうねぇ、カメラの前で衣服まで剥がされ、ヤクザ同然のスタッフの前で、卑猥な行為を要求された彼女は」
 美波は大きく息を吐く。
 自分が正常でいられるのは、いつも、この辺りが限界だった。
「彼女は何もかも失ったんですよ。未来も、夢も、人生さえも」
「もう、いい」
「それをあなたは、あっさり許してしまうという」
「許さなければどうだ、それで愛季が元に戻るのか!」
「おやおや、誤解されては困る」
 耳塚は、さほど表情を変えずに、確かに笑った。
「彼女を追い込んだのは、誰です、美波さん」
「………………」
「あなたとの結婚を信じていた彼女に、あんな決意をさせたのは誰です、美波さん」
「………………」
「あなたは、絶対に許してはいけない」
「………………」
「あなたはね、絶対に忘れてはいけないんですよ」



               22



「……東條さん」
 聡は、はっとして顔をあげた。
 なんだろう、今、何やってたっけ、俺。
 イベントの打ち上げ。
 さっきまで、ずっと取材スタッフに囲まれていた。ずっと笑っていたような気がする。なんの意味もないことを喋りながら。
「すごく疲れてますけど……大丈夫ですか」
「あ、うん、最近、あんま寝てないから」
 心配そうに見上げているのは、共演女優の遠藤諒子。
 まとめた髪と、清楚な青いドレス姿が、別人のように女を美しくみせている。
 ミラクルマンセイバーの中では、聡の恋人役で、映画版では、結婚式が予定されている相手。
 プリンスホテル飛天の間。
 ここで、大々的な映画のプレミアム会見と、後楽園のイベントの打ち上げを兼ねたパーティが取り行われている。
「お水か何かもってきましょうか」
 まだ不安げな目で、諒子が見上げている。
「ああ……じゃあ」
 その視線に、むしろプレッシャーを感じ、聡はさほど欲しくもない水を頼んだ。
 つか、早く家に帰りたい。
 何も考えずに、眠りたい。
「……東條君」
 背後からそっと肘をつつかれる。
 立っていたのは、新しく聡の専属マネーャーになった、中原英雄という太りじしの中年男だった。中年といっても、年は、多分、片野坂イタジと同じくらい。が、口ひげと落ち着いた物腰から、イタジよりは十も年長に見える。
「水頼んだだけですよ」
 遠藤諒子との会話で釘を刺されると思った聡は、即座にそう反論した。
 温厚で礼儀正しい男だが、聡的には、あまりこの男が好きになれない。私生活まで監視され、携帯も取り上げられた。共演者と交わすちょっとした軽口までチェックが入る。
 いや、それ以前に愛が感じられないからかもしれない。慇懃だが、妙に他人行儀で、どうしても親しみがわいてこない。
「疲れてるんなら、上に部屋をとっているから、休みなさい」
 が、中原は、意外に優しい声でそう言ってくれた。
「いいんですか」
 疲れているなんてものじゃない。
 昨日今日と、睡眠時間は合わせても二時間もなかった。身体全体に、重い石が詰め込まれたような、そんな倦怠感が全身を包んでいる上に、スポンサー会社社長の勧めで、一杯だけ口にしたアルコールが、頭の中まで淀ませている。
 それも、いったん断ったものを、中原の勧めで口にしたものだ。
「この後、2時に雑誌の撮影が入っているから。移動を含めたら、三時間は眠れると思う」
「……………」
 2時。
 無論、昼のことではない。深夜2時のことである。
 仕方ない。当然、聡に断る選択肢など有り得ない。会社が契約した以上、それを守るのは所属タレントの義務である。
 聡は、部屋のキーを中原から受け取り、自分を探す遠藤諒子を尻目に、逃げるようにホールを出た。
 疲れた。
 何故だろう、ハードなのは、ライブツアーの時も同じだったのに。
 あの時心地よかった疲れが、今はただ、無意味に辛い。
 休みたいし、忘れたい。
―――休み……いつだっけ。
 ベッドに倒れこみ、うとうとと目を閉じながら、聡はこれからのスケジュールを反芻する。
 ああ、休みなんてなかったんだ。これから夏まで。
 みんな、どうしているだろう。連絡もできないし、携帯……ああ、今は仕事中じゃないし、返してもらえばよかったな。
 俺さ、今、何しても虚しくてさ。
 なんだろうね、こんなにストーム売れて、冗談みたいに人気者になっちゃったのに、俺ら。
「…………………」
 まだ納得できないけど、ミカリさんいなくなって、正解だったんだ、多分。
 あの人は、こうなることが判ってたんだ、最初から。
 今、ミカリさんが俺の傍にいたとしたら、あの嫌味なマネージャーが、色んな手を尽くして別れさせようとするだろうしさ。
 そうなったら……辛いしさ、俺も。
 りょうは大丈夫かな、雅は、どうだろう。
 俺ら……これから、どこに行っちゃうのかな、マジで。
 ひそやかな足音がした。
 ぼんやりと天井を見上げていた聡は、影に覆われるまで、この部屋に、誰かが侵入したことに気づかないままでいた。
「………東條さん」
―――誰……?
 ライトの影で顔が見えない。
 甘い声。
 被さってくる柔らかな弾力。
「大丈夫、誰にも、見つかってないから」
「………………」
「寂しいの……?私が、慰めてあげるから……」
「………………」
 冷たい手が、衣服の下に入り込んでくる。
 聡は空を見つめたままだった。
 あー……困ったな。
 意識だけが、妙に散漫になっているのに、身体の一点だけが、それに反して反応をはじめている。
 聡は、うつろな気持ちのまま、目を閉じた。
 どうでもいいけど、重いし、だるい。
 女の匂いって、こんなに気持ち悪いもんだったっけ。
 ま、……どうでもいいけどさ。




「そう、布石は全部耳塚が打っている、あとはそれを追っていけばいいだけだ」
 真田は、ゆったりとソファに背を預けながら、受話器を持ち直した。
「あっけないほど簡単だ。すでに耳塚が動いている。簡単な罠だが、もう堕ちた者もいる」
 将。
 君を私のものにする時が、ついに来たようだよ、私の小鳥。
 君が輝けば輝くほど、私はそれを壊したくなる。
 私1人のものにしたくなる。
「ターゲットは、柏葉将をのぞくストーム全員だ」
 ゆっくりと追い詰めていこう。ゆっくりと、ただし、時には性急に。
「潰せ」
 徹底的に。
「二度と光の下に立つ気が失せるよう、容赦なく、潰せ」
 


                23


 無視されるだろうと思っていた。
 こんな時間だし。相手は多分、想像もできないくらい忙しい人だし。
「コーヒー」
 が、対面席についた男は、当たり前のようにオーダーを済ませて、少し疲れをにじませた目で凪を見下ろした。
 少しだけ、凪は驚く。
 美波涼二。
 色白の締まった肌に、今は、薄く髭が浮き出ている。
 凪は、こんな時間にこんな相手を呼び出してしまったことを改めて後悔しつつ、謝罪の意味もこめて視線を下げた。
 深夜近く。
 周辺の客は、おそらく殆どが芸能関係者で、一様に疲れた目している。
「感心しないな、まだ未成年だろう」
「………すいません」
 黒のジャケット、インナーは生成りのシャツ。下手すれば二十代にも見える、玲瓏とした美貌の持ち主。
 ここは、六本木、元の事務所近くにある二十四時間経営のコーヒーショップである。
 以前聞いていた携帯の番号に、門前払いを食らわされると覚悟していたが、結局今、美波は指定どおりの時間に来てくれている。
「仕事のことか」
「はい」
「海堂さんから伝えてもらったはずだ、もう、来なくていい」
「……………」
「割りのいいバイトを探しているなら、紹介してやってもいいが」
「そんなんじゃないです」
 思わず、膝の上で手を握り締める。
「どうしてクビですか」
 あの夜。
 海沿いの駐車場で、凪の姿をみた時の美波の目が、まだ心のどこかに突き刺さっている。
 ひどく冷たい、氷のような眼差しだった。
 まるで、空気か何かのように、美波は凪を完全に黙殺したまま、そのまま病棟に向けて通り過ぎていった。
 声さえもかけられなかった。その時の男の背中は、完全に凪を、――というか他人の干渉を、拒絶していたように思えたからだ。
 その翌日には、海堂倫の口から、解雇の旨が伝えられた。理由は、前の人が戻ってきたから、というものだったが、しかしそれが、口実であることは、前夜の美波の表情から察しがついた。
「君が俺の知り合いだからだ」
 美波は即座に言うと、胸元から煙草のケースを取り出した。
 凪にふと視線を向け、すぐにそれを元通りにしまう。
「知り合いだと、まずいんですか」
「……………」
「私、仕事はちゃんとやっているつもりですけど」
「……………」
 わずかに視線を下げたままの、美波の表情は変わらない。
「悪いが、あまり時間がないんだ」
 コーヒーが運ばれてくる。
 美波の綺麗な指が、カップをソーサから持ち上げた。
「話がそれだけなら、もう俺に言うことは何もない」
「…………………」
 とりつくしまのない言葉。
 凪は、何か言おうとして、口が強張ったように固まるのを感じた。
 今まで、色んな美波を見てきた。
 厳しい人だと知っていたし、冷たい人だとも知っていた。
 でも、凪が――ここまで拒絶され、冷たくされたのは、本当に初めてのような気がする。
 私、何がしたかったんだろう。
 レシートを2人分、何も言わずに掴みあげて席を立つ美波の気配を感じながら、凪はうつむいた顔をあげられなかった。
 どこかでうぬぼれていたんだろうか。
 自分が、この人の、……ほんの少しだけ特別だって。
 いつも、窮地に立たされた時、王子様みたいに助けてくれて、困った時、いつも傍にいて、何気ない風に手を伸ばしてくれた人だから。
 今度は私がって、そんなバカな、有り得ないことを考えてしまったのかもしれない。
 私に、何ができるわけでもないのに。
「来い」
「……?」
 腕を引いて立たされる。
 その相手が、席を立ったものだとばかり思っていた美波だと気づき、凪は無様なほど狼狽していた。
「あの、」
「未成年を1人残しておけないだろう」
「だ、大丈夫です、バイクなんで」
 店を出て、車の行き交う国道沿い、ようやく美波が腕を放してくれた。
「バイクって、お前が、か」
「は、はい」
 見下ろされると、動悸がする。
 凪は、ますます判らなくなる。
 本当に、よく判らない。
 私にとって、この人って一体なんだろう。
 成瀬といる時とは違う、求めているものも違う、大人と子供と言ってもいいほど、お互いの立場も年も違う、なのに、どうしてこんなに、気になってしまうのだろう。
「誰にも干渉されたくない、知り合いなら、なおさらだ」
 呟くような声が聞こえた。
「……すいません」
 凪はうつむいたまま、謝罪した。
「謝ることはない」
「……いえ、……すいませんでした」
「事前に、俺が確認すればよかったんだ、お前が謝ることじゃない」
「………………」
 それでも、干渉したいと思ったのは。
 あ、やば。
 凪は慌てて、瞬きを繰り返す。
 信じらんない、ここで泣く?普通。
 超かっこ悪いことしてるよ、私。
「……流川、」
 少しの間、無言だった美波の腕が、少し優しく凪の肩を叩いた。
「今月いっぱいで、俺は、この事務所を辞めることになった」
「え?」
「もう、お前とは会うこともないだろう」
「……………」
「これは、最後の、俺からの気持ちだと思って聞いてくれ」
 暖かな手が離れる。
 凪は咄嗟に顔を上げていた。
 もう会えない。
 今日が最後。
「当分、成瀬には会うな、若いうちは辛いと思うが、少なくとも年内は、絶対に2人きりで会ったりするな」
「………………」
 声が、ひどく遠く聞こえた。
 凪は、わずかに揺れる視界で、美波を見上げる。
「他の連中のことはよく知らない、しかし、立場は成瀬と同じだ。一年は仕事に集中して、絶対にマスコミに隙を見せるな」
「………………」
「今が正念場だ、光になるか、闇に堕ちるか」
「………………」
「そう、伝えてやってくれ」













※この物語は全てフィクションです。

光と影(後)終わり


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