7
ある程度覚悟はしていたが、自分の隣席に座る男を横目で確認し、しずくはその意外さに、しばらく言葉をなくしていた。
彼は、特段、会社の主要ポストにいる人間ではなかった。予想していたような、ライバル会社の人間でもない。まぁ、すでに引き抜きの予定でもあれば別だが。
「こんばんは」
幕間になり、男ははじめてしずくに向かってそう言った。
「松本……さん、でしたっけ」
顔は強烈に覚えていても、その名前は曖昧だった。
確か、若手のマネージャーをしている男だ。フットワークが軽いのと仕事が速いのとで、父の口からも、何度かその名前が出たこともある。ただし、あだ名で――
剥げねずみ。
でっぱで背が低い男は、その不器量を揶揄されて、そんな呼ばれ方をされていた。
が、彼がやがてJ&Mのマネージャー陣を引っ張っていく存在になることは、しずくでも予想しているほどの切れ者である。
今日の――こんな呼び方しか思いつかないのが申し訳ないが「剥げねずみ」は、暗めのスーツにタイを締めた正装姿、それが子供が無理に背伸びでもしているようで、面白いほど似合っていない。
「父の葬儀の時は、本当にお世話になりました」
内心の驚きを押し隠し、しずくは丁寧にそう言った。この男は、美波と共に、葬儀の采配を取り仕切っていた一人でもある。
「今日のご招待も、ありがとう」
「どうやって来られましたか」
それには答えず、松本は、ひそやかな声でそう言った。
「よかったら僕の車でお送りさせてもらえませんか、あなたに、見ていただきたいものがある」
「…………」
彼は、どういう立場で、自分に接触を試みているんだろう。
唐沢直人の代弁者なのか、それとも、彼の反対者なのか。
しずくは黙ったまま、次の幕が開くのを待った。
8
「彼女が、美波さんの大切にしている人です」
しずくは、黙ったまま、初めてみるような、――子供の頃からよく知っている男の横顔を見つめていた。
川沿いの、小さなアパートの前で、彼女はずっと立っていた。
10分か、20分か、しずくが松本と来た時から、彼女はずっとそこに立っていたから、もしかするともっと前からそうしていたのかもしれない。
アパートから少し離れた路地に、タクシーが止まる。そこから降りた美波は、すぐにその人の傍に駆け寄っていった。
舞台が終わって一時間あまり。仕事を終えた美波が、すぐにここに駆けつけてきたのは明らかだった。
「待ってなくてよかったのに」
「だって」
そんな甘い会話が、離れた場所に立つしずくにも聞こえてくるようだった。
肩を抱き合うようにして、2人が階段を上がっていく。
美波涼二の冷たい美貌が、今は、溶けるほど優しい笑顔になっていた。
―――ほんとに、涼ちゃん?
まだ、しずくには信じられない。
親しくなっても、絶対に自身の殻を破ろうとしなかった男。こんな目で、誰かを見ることができる人だったなんて。
「今は、会社の一部の人間だけが、彼女の存在を知っています。そして、美波さんには判らないところで、彼らをマスコミから守っている」
「………そうなんだ」
昨年のミュージカル「シンデレラアドベンチャー」の騒ぎ以来、美波の人気は思わぬ上昇を続けている。舞台、映画、ドラマと、主演が相次ぎ、その人気はアイドル時代をはるかに大きく上まっている。
確かに今、彼にスキャンダルはご法度だった。認めるにしろ、否定するにしろ、スクープされれば、おそらく相当な騒ぎにはなるだろう。
「唐沢君も、知ってるんだ」
「ええ、そして彼が、今マスコミを抑えている」
「……………」
それは、少し意外な気がした。あの、冷徹なビジネスライクの――悪く言えば商魂の塊のような男が、どうしてそんな特例を認めているのだろう。
「わかりますか」
2人が室内に消え、部屋に暖かな明かりが灯った。
「何が?」
「彼女が美波さんの支えでもあり、同時に彼を縛る鎖でもある」
「……………」
松本にうながされ、しずくは車を止めている方に向かって歩き出した。
「彼女は、女優?」
遠目のくらがりにも、際立った輝きが立っている女を包んでいた。清楚な姿だったが、ただのOLにも見えなかった。
「先月、荻野塾……ご存知でしょうが、俳優の荻野真がやっている俳優養成所に合格を決めました。これから、きっと、大きくなっていくはずの女優でしょう」
「そうなんだ」
その養成所の厳しさも、そして出身女優の成功も折り紙つきだ。信念を持って頑張りさえすれば、確かに彼女の将来は、比較的明るいものだと言えるだろう。
「鎖ってどういうことなの」
相手次第では、スキャンダルはその逆の意味にも作用する。清楚で実力も将来性もある女優は、美波の相手として、受け入れられるような気もした。やり方しだいではあるだろうが。
車のキーを開け、松本はしずくを助手席に促した。
「彼女は、昨年、一度ですがAVに出演してるんです」
「………………」
「その発売を止め、ビデオの版権ごと全て買い取り、関係者の口封じまでしたのが、唐沢さんです」
しずくは言葉が出ないまま、元のシートに腰を下ろす。
運転席に乗り込んだ松本は、しばらくの間無言だった。
彼の滑稽な眼差しは、じっと――坂の上にある、美波が消えたアパートを見あげている。
「わかりますか、美波さんが、今では決して唐沢さんに逆らえない理由が」
「………彼女を、守ってるってこと」
「正確には、守るために、大きな力が必要だと気づいたんです。あの時、彼が頼れるのは、唐沢さんしかいなかった」
いや、
そこで松本は眉を寄せる。
「最初からあれは、唐沢さんにしか止められないスキャンダルだったから」
どういう意味……?
松本が車を発信させる。
「こんど、また時間をとっていただけますか」
「……ええ」
「もうひとつ、あなたに見せたい場所がある」
振り返ったしずくの視界に、さきほど2人が入っていった部屋が見えた。
部屋に、もう明かりはついていなかった。
9
「こっんにっちはー」
店内には誰もいないようだった。
「じゃなくて、こんばんは?」
しずくは明るく言ってカウンターの奥をのぞきこむ。
無愛想なマスターは、さすがに驚きを隠せない目をしていたが、すぐに素っ気無い表情でウイスキーの小瓶を口に当てた。
「こないだのお礼に来ちゃった」
「二度とくんなっつったろ」
相当不機嫌な声が返ってくる。
「今日はあたしがご飯つくってあげるから」
しずくは、持参した買い物袋を目の高さのまで上げてウインクした。
「つか、ふざけんな」
「仕事終わったら戻ってきて、待ってるね」
「おい!」
抗議の声はとりあえず無視して、しずくは店の隣にある、静馬の自室の扉を開けた。前もそうだが、鍵はかかっていない。
盗るものは何もない――というより、むしろ、置いて帰りたくさえなるような、多分、主が寝るためだけの部屋。
「さてと」
しずくは上着を脱いで、持参したエプロンを身につけた。
閉店までかなりの時間がある。店で手伝うのはこりごりだが、家の仕事なら、いくらしても苦にならない。なにしろ、小学校低学年時から、貧乏のどん底の時も、ずっと主婦をやっていたのである。
「バニーちゃん」
ベランダに出たしずくはしゃがみこみ、檻の中の兎に呼びかけた。
「君の名前、いつかあたしがつけてあげるからね」
主人ではないものの気配を察したのか、兎は不安げに駆け回る。
しずくは、くすっと笑って立ち上がった。
―――さて、今夜は豪勢にいっちゃおう。ステーキにサラダにスープ、デザートも作らなきゃ。
まずは掃除と模様替え。
慌しく掃除機をかけ、積んであるだけの書棚の本を、ラックにきれいにしまいこんだ。欠けた食器はとりあえず包み、新しいものに取り替える。シーツやタオル類も全部そうして、最後に、うすぼけたカーテンを持参したものととり代えた。
淡いブルーの色彩は、父の好んだ色である。
「なんか、十代若返った気分じゃない?」
しずくはひとりごちてつぶやいた。が、大抵の男が、ここまでされると怒り出すことも知っている。多分、主の気質では、百パーセント怒られるだろう。
それでもいいや、と、しずくは内心開き直っている。なにしろ、前の部屋がひどすぎだ。
ゴミ袋を玄関の外に出していると、店の方から、女たちの嬌声が聞こえてきた。
「……………」
客だろうか。前も思ったが、水商売風の女客が多かった。彼女たちは全員が馴染みのようで、しきりにカウンター内の静馬を気にしている風でもあった。
―――もてるんだろうな。
若い頃は、その比じゃなかっただろうけど、今だって十分すぎるほど魅力的だ。
自堕落な生活をしているのが、ほとんど身体のラインに出ていないし、なにより、眼差しが、昔と同様、時折鋭い野生を放ってみるものを射抜く。
無口で、いかにも過去がありそうな容貌も、若い女たちの関心を引いているのかもしれない。
「ま、いいんだけど」
笑い声を聞いている内に、微妙な気分になってきて、しずくは首をかしげながら室内に戻った。
「……………」
別に嫉妬ってわけじゃない。が、なんとなく面白くもないのは何故だろう。
そう、例えていえば、父親に新しい恋人ができそうな時の――あの、微妙な感覚とよく似ている。
でも、別に彼は父親じゃないし。
「……………」
台所に立って、しずくはようやく気がついた。誰かのために腕を振るうなんて久し振りだ。しかもそれが、こんなに浮き立つほど嬉しいものだなんて。
―――やっぱ、私、彼にパパをみてるのかな。
入退院を繰り返していた父が、最後に家にいたのはいつだったろう。
誕生日やお祝いの日、2人で買い物をして、一緒に料理を作って――
なんでもない日々だった。が、今となっては、二度と戻らない幸福な日々だった。
あれが最後になると判っていたら――こんなに早く、人生の別れがくると判っていたら。もっと親孝行すればよかった。もっと、早く、静馬を探してあげればよかった。
切れの悪い包丁をとぎながら、しずくはふと、目の端に何かが滲むのを感じていた。
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