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 戻ってきた部屋の主は、怒りを越えて、多分呆れさえ通り越し、今は完全に無言だった。
 それでも、食事だけはちゃんと食べてくれている。
「多分、迷惑だろうけど、形見分けだと思ってもらってくれる」
 しずくは、持参してきたタオルやシーツ、食器類のことについて、言い訳がましく説明した。
「全部お歳暮とかの貰いもの、バザーに出すか、捨てるかだから」
 少しずつ整理を始めた家の中の家財は全て、チャリティと、そして父が青春を過ごした施設に寄付することに決めている。
 すでに内心、自身の進退は決めていた。海外で生活する場所も、大学も、今、手続きを進めている。
「…………」
 男は無言で、もくもくと食事を口に運んでいる。
「テレビ、つけてもいい?」
 一応聞いてから――返事はなかったが、しずくは小さなテレビのリモコンを押した。
 辛口トークが売りの、元民放アナウンサーがやっているトーク番組。ゲストはキャノン・ボーイズだった。先週からはじまったミュージカル舞台の番組宣伝も兼ねている。
「うちのアイドル……、知ってる?」
 聞いたが、わずかに眉をあげた静馬の返事はなかった。
 中心に矢吹一哉。右に美波涼二、左に植村尚樹。
 三人の配置はデビュー当時から変わらない。が、売れ方は大きく変わってしまった。デビュー当時、一番人気だったのは甘いマスクの矢吹一哉だが、今、知名度、人気と共に群を抜いているのは明らかに美波である。
 しばらく、司会者の質問に答えるといった感じでトークが続く。よく喋るのは矢吹だが、司会者がしきりに話題を振りたがるのは美波だった。植村は、その時折に口を挟み、持ち前の柔らかなムードで場を優しくみせている。
「この三人、壊れてるな」
 はじめて静馬が呟いた。
 テレビに見入っていたしずくは顔を上げる。
「どういう意味?」
 しずくの目には――いたって普通の三人に見えた。少なくとも、松本崇からあんな話を聞かなければ、なんの気もなく見流していたはずだった。
「バラバラになってるってことだよ」
 静馬はなんでもないように言って、空になった食器を持って立ち上がった。
「…………」
「真ん中の奴は、あとの2人を見ようともしていない。右の男は、一度も目が笑っていない」
「そう……?」
 真ん中は矢吹、右は美波のことだ。
 かなり真剣に観ていたつもりだったが、しずくにはそこまで判らなかった。
「左の奴は、何か負い目でもあるんだろう、さっきから見苦しい愛想笑いばかりだ」
 全然、テレビなんて見てる感じじゃなかったのに――。
「聞いてもいい?」
 しずくは、自分も食器を片付けながら男を見上げた。
「同じユニットの中で、一人だけ人気が出たの。彼は仲間を捨てて独立しようとしてる。そうすれば、残されたメンバーは仕事にあぶれちゃうとして」
 手馴れた手つきで、静馬は食器を洗っている。それを受け取り、しずくは拭いた。
「あなたならどうする?」
「どうもしない」
 返事は、あっけないほど即座だった。
「それはどういう意図で聞いている、仮定の話か、それとも俺自身の経験を聞いてるのか」
「……まぁ、そうなんだけど」
「そういう頼られ方なら、されたくないし、したくもない」
 静馬が東邦を独立しようとした時、彼は、創立時からのメンバー全員を引き連れていたという。しずくはその話を思い出していた。
「あなたは強いかもしれないけど、そうじゃない人もいるでしょ」
 言い差して、しずくは言葉を詰まらせた。
 まだ、先日、松本から聞かされた話が、消化しきれないまま、胸のうちで淀んでいる。
(美波さんの彼女に、AVの会社を紹介したのは、植村さんなんです)
(いってみれば、あれは最初から仕組まれた茶番だったんですよ。最初から唐沢さんは、美波さんを縛るつもりで、彼を罠にかけたんですから)
(美波さんが、古尾谷氏や緋川君、そしてヒカルまでも連れて独立すれば、社内で唐沢さんの立場は失墜する。あれは、彼にとっても、いちかばちか、大げさなようですが、この業界で生きるか死ぬかの大博打だったんです)
「……生きるか死ぬか」
 しずくは苦い思いで呟いた。
 何も知らない美波の心中を思うと、胸が痛まないわけではない。やり方も許せない。
 しかし、ユニットの解散後、確実に仕事がなくなるであろう植村や、当時、ヒカルの独立騒動で対応に窮していた唐沢直人の気持ちも判らないではない。
「正直、わかんない、――本当に追い込まれた時、人ってどんな行動をとるのかな」
 無言で片付けをしている男は、すでに関心をなくしているのか、何も答えてはくれない。
「自分を捨てるか、他人を見捨てるか、その二者択一を迫られた時」
 植村尚樹は、後者を選び、それで唐沢直人の口車に乗った。
 植村の性格をよく知っているしずくは、多分――彼も、ここまで事態が深刻になるとは思っていなかったのではないかと思う。
 矢吹一哉もまた、ミュージカルの最中から、唐沢直人と気脈を通じ合わせていたのだという。
 植村を説得したのも矢吹だし、千秋楽、舞台を壊す手助けを買って出たのも、唐沢と矢吹が最初から仕組んだ伏線のひとつだった。
 全ては、美波の独立を止めるために。
 いや、それよりももっと貪欲で汚い感情――自身の、芸能界での成功のために。
「行動はそれまでの生き方で自然に決まる」
「…………」
「引きとめようとあがくなら、それまでの関係だし、切り捨てようとするなら、それもそれまでの関係だってことだ」
「じゃ、どうしろっていうの?」
「だから何もしなくていいんだよ」
「……………」
 わかるようで、わからない。
 が、冷ややかな横顔を見せる静馬に、これ以上説明する気はないようだった。
 テレビでは、キャノンボーイズが一年ぶりに出した新曲が流れている。
「この歌、どう?」
「ミリオンには程遠いな」
「……そこそこは売れるの、でもそれだけ」
 再び室内に戻り、しずくは壁に背をあずけて膝を抱いた。
 静馬も何も言わず、ベッドの上に腰掛ける。
「……まぁ、アイドルソングだもんね」
 どこか空虚なラブソング。綺麗なダンスを披露している三人の口は、動いている。が、間違いなく口パクというやつだ。
「それがなんの関係がある」
「だって……、」
 思わぬ横槍に、しずくは驚いて顔を上げた。
 なんの関係、と言われても。
「ヒット曲は、カテゴリーで生まれるものじゃない、歌っているのがアイドルだろうと、黒人シンガーだろうと関係ない」
「ま、そりゃそうなんだけど」
 珍しく、彼の手にはアルコールの小壜がなかった。
「何も感じないもん、聞き流してそれで終りって感じがしない?」
「それは、お前個人の感覚であって、それが全てだと思ったら大間違いだ」
「………まぁ、そうなんだけど」
「この曲は、彼らのファン層である20代の女性を対象に作られている。ターゲット層はこの曲を聴いて、浮き立つほど興奮し、泣くほど感動するかもしれない」
「……………」
「しかし、彼らに関心のない層には、なんら響いてこない歌だ、その意味がわかるか」
「……あまり」
 いつになく饒舌な静馬。
 アルコールが入ってこれなら判らないでもないが、今は、まるで逆なのである。
「音楽というのは」
 静馬は、淡々と乾いた声で続けた。
「言葉の代わりであり、言葉以上の力を持つ。口で話し耳で聞く代わりに、心で訴え心で聞く。それは、人が、言葉にできずに胸の底に閉じ込めていた感情の扉を開く鍵でもある」
「……………」
「その扉は、人なら誰も、おそらくいくつでも持っている。簡単に開くものもあれば、錆付いて開かないものもある。が、人であれば、きっと誰でも無意識に、その扉が開かれる時を待っている」
「誰でも……?」
「そうだ」
 静馬は静かな眼差しで頷いた。
「なぜなら扉の向こうには、人間として生きる意味が、いや、それよりもっと大きな、人間の――生きるということの真実が隠れているからだ。人は無意識に生きる意味を模索している。生きるというのは、暗闇の中を一人で歩いていく作業に等しい、おそろしく退屈で不安なものだ」
 扉。
 しずくは自分の胸元を見ていた。
 私にも――その扉があるんだろうか。
「彼らの歌は、」
 静馬の視線は、再びテレビのキャノンボーイズに向けられていた。
「全てではないにしろ、ある特定の層の心の扉を開くものだ。それはそれで成功だし、それは単に楽曲の良し悪しで決まるものじゃない。口パクはいただけないが、総合プロデュースという観点でみれば、理解できない演出でもない。なぜなら歌は、」
 乾いた口調は、不思議な熱を帯びていた。
 しずくはただ、不思議に静かな気持ちのまま、その心地よい声を聞いていた。
「肉声だけが全てではないし、曲だけが全てではないからだ」
「歌声にはソウルがあるわ」
 さすがにそれには反論していた。
「肉声の美しさは、それだけで人の魂を揺さぶるわ。生の声は、生の感情をリアルに伝えるものじゃないの?」
 音楽という世界における自分の限界。
 それをしずくは、嫌と言うほど実感している。
「それもひとつだ、が、それも所詮、パーツのひとつにすぎないと俺は言っている」
「…………」
「同じ理由で、アイドルの容姿の美しさも、洗練されたスタイルも、人の魂を揺さぶるパーツの一つだ。さっきお前はアイドルソングと、どこか嘆かわしい口調で言った。何故だ?彼らは人にない武器を持っている、それは、プラスであり、決してマイナスではないはずだ」
「………………」
 プラスであり、マイナスではない。
「でも、」
 頭で理解できても、心が追いつかない。しずくは、珍しくむきになっている自分を感じていた。
「彼らのやっていることは、所詮、売れるためだけなのよ、同じような楽曲を、きれいな子に歌わせて儲けているだけ」
「それもまた、一面であり商業社会の現実だ。夢でもそれを売る以上、きれいなだけの現実なんて有り得ない。しかしそれも、ただのパーツであり、聴くものにしてみればどうでもいい側面だ」
「でも」
「じゃあお前は、レコード会社の業績や売り出しの方法まで見て、自分の聴く曲を選ぶのか」
「…………」
「どうでもいいんだ、そんなもの、クソくらえだ」
 しずくは言葉を失って黙った。が、それでもしばらく迷ってから口を開いた。
「聴くものにとってはそうでも、歌う者にとっては、大切なことなんじゃないの?」
 しずくがそう言うと、初めて静馬は、かすかに笑った。
 それは、はっとするくらい、どこかいたずらめいた――まるで、昔の父を髣髴とさせるほどの、若々しい笑み方だった。
「音に鎖なんてつけられないぜ」
「…………」
「会社のやり方に縛られて、つぶれちまうようなら、所詮、そこまでの才能ってことだ」
「……………」
「つぶれた俺が言うようなセリフでもないけどよ」
 テレビは、再びキャノンボーイズのトークに移っている。
 しずくは無言でテレビを切った。
「帰れよ、今日は泊まりはなしだ」
「今日はバイクだから」
 もう一度、静馬を見上げた。
 正面から見つめると、わずかに目をすがめ、男は視線を横に逸らす。
「もう少し、今の話を聞きたいんだけど」
「何の話だよ」
「そもそも、パーツって、何を作るためのものなの」
「音楽だ」
 煩そうに静馬は答え、そのままごろっと横になった。
「それじゃ答えになってないわ」
「下世話な言い方をすれば売れる曲だ、そもそもミリオンを叩き足すほどのヒット曲には、ある特定の法則がある」
「法則?」
「そうだ、売れる曲には理由があるし、法則がある」
「そんなの、じゃあ、判ってれば、誰だってミリオンスターじゃない」
「頭で分析できても、実際に作るのは天才しかできない。音にはな、人間の耳に心地よく響く域がある。逆に、不快に感じられる音もある。ガキの頃、黒板をつめでひっかいたこことがあるだろう」
「私はないけど」
 ギギギ、と聴いた瞬間鳥肌が立つような音。思い出しただけで、しずくはかすかに肩をすくめていた。
「あれが、人間の最も嫌う音域だ、そして、その逆というのもある」
 静馬の指が、動いている。
 それはまるで、見えないギターの弦を弾いてでもいるかのようだった。
「音を組み合わせ、緩急をつけ、そして物語を刻むようにクライマックスにもっていく。そこに意外性を演出し、言葉ではないドラマを生み出し、聴くものの魂を揺さぶるんだ。それは、言ってみればひとつのテクニックだ。この曲を知っているか」
 静馬が、掠れた声で口ずさんだのは、昨年ミリオンヒットをたたき出した新人アーティストのデビュー曲だった。
「このサビに至るまでの音階に、この曲を描いた奴の天才性がみえる。イントロから続く、静かな、ささやくような、同じ音調のリフレイン、次の章も同じリズムでくると思わせておいて、一気にサビの伏線ともいえる情緒的な高音にもっていく」
 静馬の歌声は、決して上手くはなかったが、いつまでも聴いていたいような不思議な気持ちにさせられる。
「ここだ、この変調は、天才にしか思いつかない。そして、次で一気に、この曲のサビに入る。この意外性と音楽のドラマ性に、聴く人は心を奪われ、酔いしれる」
 しずくも、それには素直に頷いた。
 何度聴いても、ぐっと胸に響く旋律。初めて聴いた時から、歌詞の意味もわからない内から、心引かれてしまった曲。
「この新人のデモテープを聞いた会社は、思わず膝を叩いたろう。つまり、売れる曲とは、比較的大多数が好む音階の組み合わせを言い、それは、ある域に達した天才なら、頭で考えてできる作業だ」
 しずくが頭に思い描いたのは、すでに自身のための曲を書かなくなって久しい、工藤哲夜のことだった。
「しかし、それも、所詮はパーツだ」
 静馬は、そう繰り返した。
 また、パーツか。
 しずくは黙って静馬を見上げる。
「世の中には、ヒット曲の常識を超えて、奇跡みたいに売れる曲というのがある、ダブルミリオン、そんなものよりもっと売れる曲というのがある。では、何故売れるのか」
「…………」
「そこにも、法則というのがあるからだ」
 しずくは、思わず息を呑んでいた。
「そもそも曲には、音があり、歌詞があり、歌っている奴があり、その歌が流れる時代というものがある」
「…………」
「その時代、その背景に、最も求められる曲に、アーティストの生き様や人生観がマッチした時、それらがドラマみたいに万民の心を打った時、それはひとつの現象になり、流行になり、ミリオンを超えたヒットは生まれる」
 わかるか、静馬は熱っぽく繰り返した。
「その中で、歌っている奴の生き様、背景、容姿も含め、全てはパーツだ。部品にすぎない。そう、そこでアイドルというカテゴリーが初めて意味を持つし、カテゴリーの意味は、しょせんそこにしか見出せない。音楽をジャンルで卑下するのは間違っているし、何の意味もない、大いなる偏見だ」
「……………」
「ただ、俺に言わせりゃ、ミリオンもダブルミリオンも、音楽にはなんの意味もない」
 静馬は苦く笑んで、天井を見上げた。
「国道沿いで、音楽を聴くと」
 静馬の話に、時折ついていけなくなる。
 が、しずくは、今はその話を、一言でも聞き逃したくない気持ちで耳をこらしていた。
「騒音が煩くて、よく聞き取れない。どんな名曲も意味もなく流れていく。そんな経験をしたことはないか」
「ウォークマンで?」
「が、好きな曲というのは、どんな騒音の中でもはっきりと聞きとれる。実際は聞こえてないんだ。が、確かに聴いている。耳ではない、それは心で聞いているから聞こえるんだ」
「……………」
「音楽は、表面的に音を聞くものでなければ、歌詞を聴くことでもない。最初に言ったな、それは、心の扉を開く鍵だと」
「………鍵」
「鍵の形は、人によってさまざまだ。奥に行けば行くほど、扉は錆びて、貝みたいに固く閉じている。そこを開ければ、昨日とは違う自分がいる。なのに、人は、絶対にその扉を開けたがらない。存在すら認めちゃいない。何故なら、人は変化を求めているくせに、実は変化が怖くてたまらない生き物だからだ。変化とは、昨日までの自分の死であり、再生でもある。誰だって死ぬのは怖い、所詮それも、ひとつの変化にすぎないのに」
「……………」
「が、それを、奇跡みたいに一つの鍵があけちまうことがある」
「……………」 
「それが、俺の言う音楽であり、全ては、それを作るためのパーツにすぎない」
「…………」







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