4


 手渡されたのは、ミネラルウォーターの壜だった。
「料金は、後で請求するからな」
「………どうも」
 片付いてはいたが、何もない部屋だった。
 広さは四重半程度だろう。小さなベッドと円卓だけ。
 男はキッチンの方へ戻っていく。
「真公は用心深いやつだったが、娘のお前は無用心だな」
 静馬はそう言って、自分もウィスキーの小瓶を持って戻ってきた。
 むっつりとしたまま、部屋の窓を開けて、ベッドの端に腰を下ろす。
「まだ飲むの?」
 しずくの前の机には、自家製のサンドイッチ。
 店に出る前にももらったものだが、黒パンにサラミとコンビーフが挟み込んであって、中々の美味だった。
「飲んでる間はまともなんだ、少なくとも、目の前の女が真公のガキだって自制が効く」
「………………」
 じゃ、本当にアル中なんだ。
 哲夜もそうだった。精神的に弱く躁鬱が激しい、アルコールとドラッグが手放せない男だった。その繊細な神経とひきかえに、彼は神の音を手にしている。残酷で皮肉な運命。
「本当に警察に届けなくていいのか」
 しずくは肩をすくめて首を振った。
「面倒だもの、それに大して入ってなかったし」
 奪われたのは財布だけだった。それも、その場で口にしていたら、きっと静馬が取り戻してくれていただろう。
 が、しずくはあえてそうしなかった。この奇禍をどう利用するか、無意識に計算した。財布もなくし、東京に帰る術がないしずくは、今夜、ここに泊まるしかない。
「風呂は勝手に使え、朝は適当に出てってくれ」
「……ありがとう」
 とはいえ、入浴するほど無邪気にはなれない。相手は、父と同年代の男だと知ってはいるけれど、さすがのしずくも、先ほどの体験だけは、驚天動地の心持である。
「でも、意外に強いからビックリしちゃった」
 というより、そもそも静馬が降りてきてくれたことに吃驚した。
 ほとんどレイプされる寸前、しずくは男の指に噛み付いて、あらん限りの声をあげた。絶望的な期待だったが、意外にも、すぐに静馬は、階段を駆け下りてきた。
「相手が弱いだけだ」
「そうなの?」
 相手は間違いなくやくざ――夜の世界に住む男だ、しかも犯罪の真っ最中。が、静馬は、その修羅場にあって、不思議なほど落ち着き払っていた。
「本当にやったことのない人間はすぐに判る、ホンモノってのは、匂いで判るもんなんだ」
 そう言い切り、静馬はアルコールの壜を一口煽った。
「……………」
 ああ、そうか。
 しずくは不思議な気持ちで、受け取った壜に口をつけた。
 彼は、かつて人を刺している。かろうじて命を保ちえた相手は、一時、危篤にまで陥った。殺人と紙一重の行為を、彼は実際に経験しているのである。
「でも、強さって、本当の経験がなくても、鍛えることでも身につくんじゃないの?」
 しずくは、先ほど全く役にたたなかった空手の稽古を思い出してそう言った。高校まで習っていて、そこそこ使えるはずなのに、――結局は、技のひとつも出すことはできなかった。
「技や知識だけでは、役にたたない、それは、どんな世界でも同じことだ」
 静馬は眉を上げ、うるさげに前髪を払った。
「お前も覚えとけ、ケンカも人生も、しょせんはったりだ、そこに勝ち負けがあるとしたら、はったりを、態度で貫き通せるかどうかだ」
 窓から、生ぬるい風と共に、繁華街の喧騒が聞こえてきた。
 しずくはようやく思い出していた。それと同じことを、昔、父にも言われたことがある。
―――はったりだ、しずく。嘘でもいいから笑ってろ。血を吐くほど辛くても、笑ってりゃなんとかなるもんだ。
「……パパ、用心深かったんだ」
「……?」
「さっき、そう言ってたじゃない」
「ああ、べっぴんだったからな」
「男でも?」
「芸能界ってのは、意外にそのスジが多いんだ、真公はいつも格好のターゲットだった」
「ふぅん」
 あのパパが――外見を大きく裏切って、なまなかの男より男らしいパパが、そんな目で見られてたなんて笑ってしまうけど。
「あいつが、早々に結婚を決めたのはそのせいだ、真咲はゲイだって、当時はもう定説みたいになってたしな」
「今も言われてるよ、うちの事務所、男ばかりのホモ事務所って噂があるの」
「アイドル事務所か」
 初めて静馬の肩頬に、あるかなきかの笑みが生まれた。
 しずくはそれを、軽侮の笑みだと受け取った。
 静馬はそのままベッドに仰向けに寝転んだ。
 公言どおり、そこをしずくに使わせる気はさらさらないらしい。まぁ、そもそも無理に泊まると言い張ったのはしずくだから、贅沢も言えないが。
「真公は、いつから、病んでた」
「………もう、5年も前かな。最初の手術は上手くいったんだけど、五年もすぎてから再発ってやつ」
「そうか」
「五年前もあっさりしてたけど、余命を宣告されたときも、相当あっさりしてたんだ。……私は泣いちゃったけどね、かなり泣いた、あと半年も生きられないって聞いた時は」
「真冶らしいよ」
「……………」
 当時のことを思い出し、しずくは膝を抱えていた。
 ショックというより、ただ心細かった。父の口から病名を聞いたとき、背後で流れていたテレビの音とか、空が妙なほど晴れていたこととか、そんな場面が、今でも鮮明に思い出せる。
 ああ、一人になるんだ、とその時思った。
 この広い世界で、自分はいずれ、たった一人ぼっちになってしまうのだと。
「なんとかなるって……どっかで奇跡みたいな展開信じてたけど、現実なんてこんなものよね。半年より長くは生きたけど、奇跡は起きなかったから」
「………………」
 しばらく無言のまま天井を見上げていた静馬が、ふいにがばっと起き上がった。
 それがあまりに急だったから、しずくは驚いて身をすくめる。
「心配しなくても、お前なんか襲いやしない」
 むっとした声でそういい捨て、男はガラッと道路側に突き出している出窓を開けた。
 かすかな、鼻息にも似た息遣いがする。そして、なにかが忙しく草をかき分ける音。
「………ウサギ?」
 しずくは、振り返った男が手にしている籠を見て、思わず唖然と呟いていた。
「飼ってるの?」
「悪いか」
 憮然と答える顔が、妙に可愛く見える。しずくは笑いをかみ殺しつつ、しゃがみこんだ男の傍に膝で寄った。
「かわいいっ、なんて種類?」
「知るか、可愛いも何も、もう死にかけのヨボヨボだ」
 狭い檻の中で、白と薄茶色のまじった毛並みを持つ小さな兎が、耳を垂らして駆け回っている。まるでそれは、主人に見つけてもらえたことを喜んでいるかのようだった。
「いくつくらい?」
「もう八年かな……寿命が十年っていうから、かなりの高齢だ」
「そうなんだ」
 檻の中、つぶらな瞳で見上げる小動物は、ただ、意味もなく可愛くて、そんなに年寄りには見えない。
「なんて名前」
「つけてない」
「そうなの?なんで?八年も飼ってるのに?」
「…………」
「なんて呼ぶの?なんて呼べばいいの?」
「……………あのさ」
 檻の中から、水の入ったケースを取り出しつつ、男は心からあきれた声を出した。
「うるさい、お前」
「だって、かわいそう、名前がないなんて」
「畜生に、そんな感傷いらねぇんだよ」
 はき捨てるような声だったが、綺麗に手入れされた毛並みといい、清潔な檻といい、静馬が、相当丁寧に兎の世話をしていることだけは間違いないようだった。
「可愛い、」
 しずくはつぶやき、檻の隙間から指を差し入れた。
「チッ、チッ、チッ」
 唇で謡うように誘ってみる。不思議そうにしずくをみあげたものの、兎は再び関心をなくしたように檻の中を駆け回り始めた。
「チチ、チ、ほら、やっぱり名前がないと鳴かないじゃない」
「ばーか、兎は鳴かないんだ」
 水を持った静馬が戻ってくる。
「名前がないからよ」
「鳴かないんだよ、そもそも」
「だから、名前がないからなの」
「八年も買ってる俺が言うんだ、兎は鳴かない、名前があろうとなかろうと、だ」
「うそ、信じないもん」
 水と餌を取り替えた静馬が、肩をすくめながら立ち上がった。
「頑固なところは、真公にそっくりだ」
 その口調は、どこか柔らかかった。


                  5


「若い頃のパパのこと、教えて」
 外のネオンが、暗い部屋を赤く瞬かせている。
「目茶苦茶な野郎だったよ」
「それ、パパも同じこと言ってた」
 ベッドは、結局は譲ってもらった。
 しずくの感覚で言えば、床と代わらない感触だが、それでも床に寝ることを思えばありがたい。
 静馬はテーブルひとつ隔てた部屋の隅で、腕枕をして横になっているようだった。
「そもそもあいつ、俺より四つも年上なんだ、なのに、しょっぱなから、本気で殴ってきやがった」
 多分それ、小学校の時の馴れ初めだ。
「どっちが勝ったの?」
「俺だ」
「本当に?」
「最も真二も、自分が勝ったと思い込んでいる」
「……………」
 それ、お互いに似たもの同士の意地っ張りってことじゃない。
「ほかのメンバーとはそうでもなかったのに、あいつとは不思議とケンカばかりだった。最も、一度も負けたことはないが」
「へぇ」
 しずくは少しおかしくなる。
 父親と、この部屋にいる男、2人の子供じみた意地の張り合いが、目に浮かぶようだった。
「……ひとつだけ、そういえば負けた」
 黙っていた静馬が、ふいに呟いた。
「そうなの?」
「グループ名をつける時だ、俺が最初に決めたものを、奴があとからひっくり返しやがった。あれだけは、今思い出しても腹が立つ」
「なんてつけてたの?」
「忘れたよ」
 腹がたつといった割りには、あっさりとそう言うと、男が背を向ける気配がした。
「……もう、戻らないの?」
「どこにだ」
「みんなのところ」
「………戻ってどうする、前科持のお荷物が、物乞いでもして憐れを誘うか」
「もう歌は歌わないの?」
「見てのとおりだよ」
 部屋に中には、元の彼を彷彿とさせるものは何もなかった。何一つ――不自然なほどの簡素さで、生活に必要なもの以外、なにもない。
「……奥さん、いないの?」
「いるように見えるか」
 じゃあ、あの時の女性とは別れたのだろうか。
 子供は――、といいかけて、しずくは口をつぐんでいた。
 いるはずがない。いたとしても、それはおそらく、彼の関知しない所にだろう。
 彼には、今、何もないのだ。
 人生を楽しむよすがを何も持たないまま、ただ――日々を生活している。ただ、黙々と生きているだけ。多分、抜け出そうとする意欲さえない。
―――そういう生き方をする人も、いるんだ。
 まだ若いしずくには想像も及ばない。まだ――自分の未来には、様々な、夢のような可能性が開けていると信じている。極端な言い方をすれば、彼のような境遇で、自分は一人、夢も未来も閉ざされたまま、生き続けることができるだろうか。
「夢がなくても、人は生きられると思う?」
「傲慢だな、そんな輩は、この世界にいくらでもいる」
「どこかで希望を持ってるわ」
「希望なんてもてる奴は、それだけで幸せな境遇にいる、それが判らないお前は能天気なほど幸せってことだ」
「…………」
 もう曲は作らないの?
 少しだけ眠かった。しずくは最後に聞いていた。
 夜行性の、兎の足音だけが響いている。返ってくる返事はなかった。



                   6



「こちらが、会社で用意した株の引き取り先です」
 しずくは無言で、差し出された書類に目を落す。
 対面に座っているのは、株式会社J&Mが顧問契約している弁護士である。
 榊青磁。
 すっきりとした長身の優男。歌舞伎俳優にでもしたら似合いそうな男は、かつて、事務所に所属したこともあるアイドル候補生の一人だった。
 結局は芸能への道より法曹の道を選んだ男は、しかし、世話になった真咲や城之内への恩顧を忘れがたく、自ら志願して顧問弁護士を買ってでた変わり者である。
「んー、よくわかんないから、任せちゃおうかな」
「またまた、そういう適当さは、あなたの悪い癖ですねぇ」
 くすくすと笑って、榊は長い腕を組んだ。
 基本、外部の人間のせいか、彼は事務所の派閥に一切関与していない。いつでも中立で、面倒な話には絶対に乗らない。逆にそれが油断ならない所以でもある。
「青磁君」
「はいはい」
「少し考えてもいいかな」
「どうぞ、ごゆるりと」
 にっこりと笑って、榊は書類を全て、しずくの手元に差し出した。
「不安があれば、他の弁護士を頼んでもかまいませんよ」
「ないけど、頼んじゃうかもしれないなー」
「内部同士のいざこざなら、僕はどっちにもつきませんしね」
 あっさり言って、榊はコーヒーを口に当てた。
「今日はどこかへおでかけですか」
「うん、デートに誘われてるの」
 しずくは机の上の書類をまとめながら立ち上がった。
 珍しくドレスアップした衣服を見てそう思われたのだろう。榊は用もないのに、時々青山の自宅に遊びに来るが、いつもしずくは、ジーンズにシャツというスタイルで出迎えている。
「うらやましいな、あなたみたいな美人の心を射止めたのは、どんな男でしょう」
 へらっとした表情のせいか、何を言ってもうそ臭いのが、このできすぎた秀才の欠点かもしれない。
「キャノンボーイズの舞台の初日、どういう気まぐれか、私あてにチケットが届いたのよね」
「お一人で?」
「届いたのは、一枚きりよ」
「……………」
 榊は、わずかに黙り、端整な顔に、あるかなきかの翳りを浮かべた。
「どなたからでしょう?さしつかえなければ」
「それが知りたいから、出かけるのよ」
 多分、しずくが投げた謎かけに気づいたのだろう。
 彼は、退室間際、珍しく余計なことを口にした。
「来月の臨時取締役会で、次期副社長を内定するそうですがご存知ですか」
「いいえ」
「もしかすると、そこで、思わぬクーデターがあるかもしれない。まぁ、余計な話ですが」
「…………」
「あなたがお持ちの株の譲渡を、ひどく急がせようとしている人がいます。逆に、止めようとする者もいる。あなたに接触したい輩は、多分、唐沢さんだけではないでしょう」
 しずくは無言で、榊を見あげる。
「行動には必ず理由がある、私は城之内さんと真咲さんには、ひとかたならぬ世話になっていますからね」
 それだけ言うと、失礼します――と、一礼して、榊は室内を後にした。










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