2


「………この先かな」
 しずくはもう一度、手元のメモ紙に視線を落す。
 それにしても汚い界隈だ。
 土手の下、多分この川が氾濫すると付近一帯があっという間に水浸しだろう。
 川の向こうには近代的な街並みが広がっている。通りを隔てた向こう側も、再開発の最中なのか、巨大ビル街が建設されているようだった。  そんな中、この一帯だけ、近代化から取り残されたように昭和初期の名残が満ちている。
「暑……」
 しずくは額の汗を拭った。
 まだ夏の初めだというのに、風のない午後、日差しは地面に濃い影を刻んでいる。
 バスを降りてからずっと徒歩だった。住居表示が曖昧で、かれこれ一時間も歩いている。こんなことならバイクで来ればよかった、この狭すぎる幅員では、それはそれで往生していただろうけど。
 妙に油臭い路地の双方に、汚い店がまえが所狭しと並んでいる。見苦しい看板の数々が、そこが風俗界隈であることを告げている。からりと晴れた日ざしの下、ねぼけた顔の中年男が、アスファルトを箒で掃いていた。
 その背後には、煙草屋がある。見る限り、このあたりで開店しているのはここだけのようだ。ラジオでも流しているのか無人の店内から、聞き覚えのあるメロディが流れてきた。
 しずくは足を止めていた。
 ギャラクシーのデビュー曲。いかにも中高生向けの元気な恋愛ソングで、真っ昼間に、こんな場所で聞くと、馬鹿みたいに浮いて聞こえる。
「ギャラクシーね、」
 しずくは苦笑して、再び歩き出した。
 昨年の秋、先輩スター「ヒカル」を押しのけるような形でデビューした新ユニットは、大方の首脳陣が――病床の父でさえ危惧していたように、ヒカルの代替にはほど遠い売れ行きしか見込めていないようだった。
 今の事務所には、いまだ未知の新ユニット「ギャラクシー」と、昨年のミュージカル劇以来俳優として有名になった美波涼二、この二つのコマしかない。
 美波と唐沢が、新人の育成に力を入れ、「キッズ制度」という新たな形態を模索しているようだが、その成功も現時点では未知数である。
「あった!」
 目の前に、探していた建物の看板を見つけ、しずくは思わず声をあげた。
「………………」
 いや、声をあげたことをすぐにしずくは後悔した。
 大人の玩具
 黒字にドピンクの文字が、目の前の看板で踊っている。
 ごほん、と軽く咳払いしてその上を見あげる。しずくの目的は、無論「大人の玩具」などではなく、その上層階に入っている店にある。
 沁みだらけのビルの壁に、小さな電飾看板が突き出ている「calm」。
 ここだ、間違いない。
 大人の玩具の店の横に、この雑居ビルの出入り口があった。さびた郵便ボックスのいくつかからは、ダイレクトメールが溢れている。
 薄暗い階段を上がりながら、しずくは眉をひそめていた。
 住所は間違いない。が、本当にここに――あの人が住んでいるのだろうか。
 写真やレコードジャケットの中で、眩しいほどのオーラを振りまいていたスター。いや、なにより、しずくの印象に強烈に焼きついているあの冬の一日、まるで王子様のように、お姫様を抱いて颯爽と去っていった男が。
 あれは、夢だったのかもしれない。
「それまで、俺のことは誰にも言うなよ」
 思春期を迎えてもなお、しずくの中には、あの日の2人が――自分を見下ろした男の野生的なまなざしが、ずっと消えないままでいた。
 その度に、あれは夢で、現実ではなかったと思い込もうとした。無論、彼の囁きどおりあの日見た光景は、父にも誰にも言ってはいない。
 城之内慶をはじめ他のメンバーが、あたかも祈るような思いで彼を探していると知ってからも、それでも、あの日のことは、一度も口にしていない。 
 口にしてしまえば、夢は、本当にただの夢になってしまいそうな気がして。
「…………こんにちは」
 扉は薄く開いていた。
 もう一度、声をかける、返事はない。
 しずくは再度、手にしたメモの住所を見た。 
 やっぱ、ここだよね。
「こんにちは!」
 やや大きな声で言って、蝶番がはずれたような扉をコンコンと叩く。
 人の気配が確かにした。がさっと衣服のこすれる音と、ふわっと甘い――かすめるような香りが、まるで錯覚のようにした。
「だぁれ」
 女の声。
「ちょっと、恋人?どういうこと、もう別れたって言ってたじゃん」
 薄闇の中で聞こえる声が、怒っている。
 子供のような女の声だった。
「なによ、もうっ」
 わけがわからないしずくの前に、足音と声と共に、濃密な香りが近づいてきた。
 がんっと、扉が内側から開かれて、下着かタンクトップか微妙な服の――ずれた肩紐を直しつつ、一人の女が現れた。
「……………」
 ストレートの長い黒髪、化粧はきついが、顔立ちはまずまずだ。
「あんた、彼の恋人ってマジ?」
 じろっとマスカラの滲んだ目で見あげられる。
 実際、身長が百七十を超えるしずくは、同性にそうそう見下ろされることはない。
 しずくの肩先までしか背のない女は、無言で見下ろすしずくに、逆にひるんだようだった。
 ふんっと、鼻息も荒く、かつかつと階段を降りていくハイヒール。
 声は幼いのに、濃い化粧のせいか、年齢がよく判らない女だった。
「悪いな、助かった」
 薄暗い室内から、そんな声がした。
 がた、がた、と物を置きなおす音がそれに被さる。
「集金は、またにしてくれ、金ならないぜ」
「……………」
 しずくは黙ったまま、足元の見えない店内に足を踏み入れた。
 狭い店だ。
 縦長に細い店内に、席はカウンターだけ。客は、10人も入ればいいくらいだろう。
 そのカウンターの前で、一人の男が椅子を持ち上げては、卓上に上げている。
 その後ろ姿を目にした途端、しずくは強い動悸を感じて足を止めてしまっていた。
 彼だ。
 間違いない。
 あの日、施設で、一度だけ会った。
 十年以上も前の、夢の中で聴いた音楽のような曖昧な記憶が、瞬時に現実にリンクする。
 手を止めた男が、いぶかしげに振り返る。
 長く伸びた前髪、鋭い目元がしずくを見て、そして彼の顔から表情が消えた。
「………こん、にちは」
 しずくはぎこちなく言って、片手をあげた。
 男は何も言わず、再びしずくに背を向けて作業の続きをはじめる。
 シャツにジーンズ。細身だが、筋肉のついた体躯。
 城之内慶とは、三つ違いの弟だというから、今は――もう四十も後半のはずだ。
 年齢を刻んだ肌、そこだけ彼の年を物語っている。が、締まった顔も、野性味を残した目許も、かつての片鱗を十分すぎるほど残していた。
 が、掃いたように表情をなくした男の顔は、今は、冷たい蝋より味気なかった。
「開店は、6時だ」
 作業を続けながら、ぶっきらぼうな声だけが返ってくる。
 しずくは、傍らの箒を掴んで、男が椅子を上げた箇所を掃き始めた。
「そんな早くあけて、客なんて来るの?」
「他にすることもないんでね」
 振り返った男が、怖い目で歩み寄ってくる。思わずあとずさったしずくの手から箒を取り上げ、男は、出入り口の方を指し示した。
「どうぞ」
 でてけってことだ。
 って――、どうしよう。
 しずくは曖昧に笑って、軽くしなを作ってみた。
「私も、他にすることがなくて」
「どうぞ」
 と、男は再度、出入り口に手を向ける。
「………アルバイト募集してない?」
「下の店でしてたから、そこでよければ」
 大人の玩具。
「今日一日でいいんだけど」
 もう男はそれに答えず、しずくから奪った箒で床を掃き始める。
「静馬さんでしょ、……ハリケーンズの」
 しずくは思い切ってそう言った。
「探して欲しくないのは知ってたけど、探しちゃった、ごめんなさい」
 男は答えない。
 横顔からは、なんの感情も透けてこない。
「哲夜から聞いて――、彼が教えてくれたの、ここ」
「………………」
 無言のまま、男は狭い店内を綺麗に掃き清め、奥から水の入ったバケツを持って、再び出てきた。
「なんでてめぇが、哲坊を知ってる」
 初めて、彼がみせた会話の糸口。
 しずくは嬉しくなって、その後について店外に出た。
 男は、雑巾で扉を丁寧に拭き始める。
「クラブで、時々歌ってるの、私」
「……………」
「一応歌手志望。って、そこまで本気にもなれないんだけど、どっちかというと、歌うより聞くのが好きで」
「……………」
「あ、ごめん、哲夜の話だったっけ」
「……………」
「てっちゃん、……じゃない、工藤さんとはよく行くクラブで知り合って、向こうは、私の素性を知って話しかけてくれたみたいだけど」
 工藤哲夜。
 たまに、行き着けのクラブにふらりと来ては騒ぎを起こす札付きの不良中年だが、かつては、一斉を風靡したシンガーソングライターだった。が、その声にも面差しにも、昔の繊細で鋭利な面影はひとかけらもない。
「去年の暮れ、この辺りで偶然会ったって聞いたんだけど」
 しずくの言葉を無視して、男は再び店内に入り、今度はカウンターを拭き始めた。
「悪いと思ったけど、興信所でしらみつぶしにこの界隈の店を調べさせたの。それは哲夜じゃなくて私が勝手にしたことなんだけど」
 それは、奇跡に等しい邂逅だった。
 もう何年もの間、ずっと消息を途絶えさせていたかつてのスターは、自分の居所を示すてがかりを何ひとつ残さず、送らず、かつての仲間たちの成功を知っているだろうに、頑ななまでに沈黙を守り続けていたかのだから。
 父の死期が迫っていた。当時のしずくは、なんとしてでも彼に、病床の父を見舞って欲しかった。藁にもすがる思いで興信所に依頼し、が、待っていた回答は、父の死後に送られてきた。
「間に合わなかった……残念だけど」
 しずくが黙ると、男ははじめて顔を上げてしずくを見下ろした。
 黒目がちの涼しげな眼差し。厚みのある唇。若さを失った肌は衰えていたが、それでも、不思議なほどその双眸には魅力があった。が、その魅力を、男は鉄仮面のような無愛想さで台無しにしている。多分それが、彼を年齢以上に老けさせて見せている。
「で、俺に何の用だ」
「…………」
「香典でも集めにきたなら、悪いが金は一銭もねぇよ」
 その目も、口調も、ひるむほど冷たい。
 しずくが一目で、彼をわかったように、彼もまた、一目でしずくがかつての親友の娘だと、わかってくれていたようだった。
 そして、その親友が、今はこの世の人ではないということも。
「用が……あってきたわけじゃないけど」
 しずくは、即座に言葉が返せない自分に、戸惑いながらそう続けた。
「パパの代わりに、別れの挨拶聞いとこうかなって」
「もう、縁の切れた人間だよ」
 男はそっけない声でいい、バケツの水を階段に流した。
「帰れ」
「…………」
「それから、二度と来るな」
 どう言葉を繋いでいいか判らないしずくを、男は軽く押して、扉の外に押しやる。
「ま、」
 目の前で締まる扉に、しずくは思わず言っていた。
 というより、足を扉の間に押し入れていた。
「待って、お願い」
 扉からのぞく男の目があきれている。
「押し売りか、お前」
「きょ、今日だけ、ここにいたいんだけど」
 男の目、そこだけ綺麗な目が、訝しげにすがまった。
「今日一日だけ、一緒にいさせて、そしたら、あなたのことは誰にも言わないし、私も、絶対に忘れるし」
「……意味、わかんねぇんだけど」
「私も、……まぁ、わかんないんだけど」
 人生の決断ってやつを、これからしなければならない、多分。
 一つの選択肢として、しずくは、遺産の全てを処分し、海外に移住するつもりでいる。父が死に、親しかった人も離れていき、残ったのは失望だけ。国内に、思い残すことはあまりないし、本場で音楽の勉強もしてみたい。
 が――その決断を、過去の、ある場面が鈍らせている。
 城之内静馬。
 初恋だったのかもしれないが、彼との邂逅を望んだのは、そんな、センチメンタルな動機とも違うような気がした。
 あの過去の一場面の中で得た曖昧な感情。しずくは何かを確かめたいのだ。が、その何かが、実はよく判らないままでいる。



                   3


 うちは、客すじがよくないぜ。
 事前に静馬から聞いた情報はそれだけだったし、それは、実に的確だった。
 夜になると判った、この界隈は風俗店が殆どで、小さな電飾看板だけが頼りのうらぶれた店に来る客は、大抵――ファッションヘルス店の関係者のようである。派手な化粧をした女か、もしくは妙に目つきの暗い男。
「ねぇちゃん、どこの店で働いてる」
 開店して間もなく訪れ、カウンターで、ずっと、舐めるようにブランデーを飲んでいた男が、何度か目のセリフをしずくに向けて囁いた。
「この店で」
 と、しずくも同じ答えをする。
「今日一日、見習いなの」
 肝心の店長は、カウンターの隅のスツールに腰掛けたまま、無言で煙草を唇に挟んでいる。手元にはウィスキーの小さな小瓶。それを時々口に含み、視線はどこも見ていない。
「アル中のマスターなんて、とっとと見限っちまいな」
 男はかすれた声で言った。
 五部刈りで目つきの暗い、黒い背広に紫のタイ。
 癖なのか、百円ライターを意味もなく手元でくるくると回している。
「アル中なんだ」
 しずくが、横目で静馬を見ながら聞くと、
「いつ来たって、飲んでるよ」
 五部刈りの男は、口元に笑いを浮かべながらそう言った。
―――ふぅん……
 この店の奥に住んでいる静馬が、どういう暮らしをしているかまで、しずくは知らない。
―――あの人は……どこにいったのかな。
 過去の記憶。
 彼が連れ去った女の人。
 さすがにそこまで――彼の私生活のことまで、興信所に調べてもらう気にはなれなかった。が、今、陰鬱な目でアルコールを舐めている男が、単身生活を送っているということだけは、なんとなく判った気がした。
「さて、時間かな」
 殆ど深夜になって、五部刈り男がのっそりと立ち上がる。彼が最後の客で、――というより、今夜の客は、彼を含め、ほんの数人だった。
 ほとんど一方的に男が喋った内容をつなぎあわせると、彼は街金の取立て屋で、今夜は、借財のかたにヘルスをさせている女を待つために時間を潰していたらしい。
「ねぇちゃん、あんたは高く売れるぜ」
 男は最後にそう言った。
 多少の薄気味悪さを感じつつ、しずくは営業スマイルで男を送り出す。
「アルバイトってはじめてだけど、結構疲れるものなのね」
 ようやく静馬を振り返る。特に何をしたわけでもないのに、首と肩が重たかった。
 それから――胃が痛むほど空腹だ。六時前にサンドイッチを口にして、それから何も食べていない。
「お腹すかない?」
 返事のないまま、静馬が立ち上がる。
「どっかご飯食べにいかない?あ、材料あるなら、私作ってもいいけど」
「気がすんだら、とっとと帰れ」
「だって、何も話してないじゃない」
「帰れ」
 少しきつい声だった。
 カウンターに手をついて歩く、その足元が、わずかにおぼつかない。どこかうつろな目は、何も見ていないようだった。
「………知りたくない?うちのパパやお兄さんの話しとか」
「帰れっつってんだろ」
「……………」
 昼間、それでも感じられた何かの感情の欠片が、今はわずかも見えなかった。
 しずくはしばらく黙った後、カウンターの下に入れておいた自分のバックを取り上げた。
 城之内静馬という人が、何ゆえ表舞台から消えたのか、その表向きの理由をしずくはもう知っている。 
 所属事務所のマネジメント担当者に対する殺人未遂容疑。
 どんな確執がそこにあったのかは知りようがないが、被害者でもある静馬の元マネージャーは、現在、東邦EMGプロダクションの社長である。
 東邦EMGプロダクション。
 J&Mが、その最盛期でもってしても頭があがらなかった芸能業界最大手。彼らが本気で潰しにかかったのだとすれば、一アーティストが二度と日の目を見られなかったのも頷ける。
 が、酒が入ると、工藤哲夜はいつもこう言っていた。
(どこにいようが、何をしてようが関係ねぇな)
(静馬は天才だ、才能はな、誰にも奪えないし、殺せやしねぇ、あいつは、絶対にもう一度出てくるさ、光の当たる場所ってやつに)
「………………」
 東邦プロでコーストライターをしている哲夜は、静馬同様、二度と表舞台に立てなくなった才能の一人だ。
 あるいはそれは、同じく日の当たる場所から転落した、一人の天才シンガーの、祈るような希望だったのかもしれない。
 静馬は絶対に戻ってくる。
 しずくから見たらひどく不思議なことだったが、それは同時に、しずくの父真治も、そして城之内慶も、現実的な唐沢省吾、そして心配性の古尾谷平蔵でさえ――全員が信じ、そして期待していた夢のようだった。
 静馬は絶対に戻ってくる。
 そしてもう一度、光の下で、かつてのように輝くはずだ、と。
 なぜなら、4人が、ほとんど人生の全てを賭けて守り抜いたJ&Мとは、元来静馬を再デビューさせるための会社だったからだ。
 が、しずくの思い出の中の静馬は、彼らが信じているそれとは違う。
 彼は一人の男で、決して英雄でもスターでもない。男だ――しずくにとっては初めて、人の持つある種の本能の、その片鱗を垣間見せてくれた男。
 男が女を愛しているという真実。
 一人の女を情熱的に見つめ、熱っぽく唇を重ねていた場面が、彼の発した言葉のひとつひとつが、今でも映画の一こまのように思い出せる。
 そして、あの奇蹟のようなメロディがいつもその場面にかぶさって聞こえるのだ。
 あの時、しずくは何かを感じ、何かを知った。
 ああ、そうなんだ、と、心の底で幾重にもからんだ鎖が、ふいに霧散して消えたような不思議な開放感を味わった。
 その時の感覚は覚えているのに、何を感じたのか――それが、どうしても言葉として出てこない。
―――無駄だったかな。
 振り返らない男の背中に礼を言ってから、しずくは店の外に出た。
(曲ができたら、会いに行く)
 きっと、その曲はできなかった。
 父の祈りも、哲夜の夢も、結局は届かなかった。
 時間は残酷だ。でもきっと、それが現実。才能という、つかみどころのない、神の気まぐれのような財産が、決して人の永遠ではないことを、しずくはよく知っている。
 死んだ父はまだ幸せだった。きっと、夢みたまま逝ったのだろう。まだ、かつての盟友が、やがて元の輝きを取り戻すはずだと。
 薄暗い階段を降りかけていた最中だった、ふいに、獰猛な力がしずくの背後から襲いかかってきた。
「………??」
 強盗?
 そう思う間もなく、壁に強く押し付けられる。背中に密着した体温から、アルコールの香りがした。
「じっとしてな」
 さっきの男だ。
 かすれた声と、視界に映る腕時計で判った。
 一人でブランデーを飲んでいた五部刈りの男だ。
「お金ならバックの中よ」
 しずくは落ち着いた声で言った。
 声をあげれば、上に届くかも知れない。が、酩酊している静馬が、異変に気づいてくれるかどうか。
―――それに、気づいても来ないかもしれないし。
 しずくを壁に押し付けたまま、男の手が、慣れた手つきでバックの中を探っている。すぐに目的のものを見つけたのか、財布が抜き取られる気配がした。
「ねぇちゃん、いい女だな」
「……………」
「いさぎいいとこも気に入った」
 その先は、しかし、しずくには想定外だった。
「騒ぐと殺すぞ」
 手早くスカートがたくしあげられる。
「五分ですませてやるよ、口封じだ、ねぇちゃん」
 逃げようと反転した腕を捕らえられ、背中でつよくねじられた。相手はプロだとすぐに判った。身体を自由を奪う術を心得ている。
―――いた……、
 腕が折れそう。苦痛の声は、手で塞がれて奪われる。
 下からは、にぎやかな軍艦マーチが聞こえてきた。多少の声を出しても、誰も来てはくれないことを、しずくは眉をしかめながら確信していた。










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