(後編)

   
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 ひとつの時代が終わったってことだな。
 葬儀の時、背後で聞こえたその呟きだけが、いつまでもしずくの耳に残っている。
―――バイバイ、パパ。
 あっちに行っても、かっこいいパパでいてね。
 灰色の遺影の中、片頬で、父は渋い笑みを刻んでいた。
 長年病におかされてなお、その衰えた面差しは美しくさえある。
 いまや芸能界を代表する芸能事務所。株式会社J&M。
 真咲真治。
 その創業者の急逝は、彼の生き様同様、青竹を叩き割ったようなあっけなさで訪れた。会社をあげての通夜、葬儀と、ひととおりの行事を終え、今は――わずかな身内と、ごく親しい会社の人間だけが、骨上げの時を待っている。
「お嬢さん、コーヒーでもお持ちしましょうか」
 控え室。
 座したままのしずくに、黒いスーツに身を包んだ美波涼二が、背後から声をかけてきた。今は家を出ているが、数年間真咲家に同居していたJ&Mの所属タレント。他に身寄りのない真咲家では、彼が、実質、今日の葬儀の責任者であり采配者である。
 社の人間はまだ残っていたが、この控え室で、しずくの傍にいるのは美波一人だった。
「いいえ、結構よ」
 しずくがそっけなく言うと、父に面差しが似た美貌の男は、そのまま黙って引き下がる。
 最近のしずくは、かつて兄妹同然に暮らした男をあまり信用していない。
 美波涼二。
 今や、J&Mの看板スターであり、同時に主要フロントでもある男。
「最期を、看取ってくれてありがとう」
 それでも、しずくは、自身の感情を抑えてそう言った。
「ずっと傍にいたんだけど、馬鹿みたいに持ち直すから。安心した途端に逝っちゃうなんてずるいわよね」
「僕も、あんなにあっけない別れだとは思わなかった」
 臨終の日、しずくは父の名代として知己の結婚式に出席していた。北海道、死は電話で、ここにいる美波から知らされた。
 美波はわずかに目をすがめ、卓上に飾られた遺影を見上げる。
「真咲さんらしい最期でした。直前まで普通に話しをしていて、ふっと目を閉じられたと思ったらそれで」
「………り」
 涼ちゃん。
 いつも呼ぶ名を口にしようとして、しずくはそのまま唇を閉じた。
 ここ数ヶ月、妙なほど他人行儀な美波の態度は、彼の言葉遣いの慇懃さにも現れている。
「美波さんと最期に話せて、父も幸せだったと思うわ、ありがとう」
「……………」
「あなたのことは、本当の息子のように思っていたから」
 目を伏せる美波涼二が真咲家に来たのは、しずくがまだ、小学五年生の時である。
 引越したばかりの一戸建ての家に、彼は、ほとんど身ひとつという惨めな姿でやってきた。満身に敵意をむき出しにして、あたかも手負いの美しい獣のような荒々しさで。
 最初は、綺麗なだけの粗野な男だと思った。が、親しくなると、そっけないが、根は優しい男だと判った。優しいというより、他人に甘すぎる――冷たい顔をしているのにおせっかい。それが当時の、しずくが抱いた、年上の少年に対する印象である。
「最期に、父と何を話したの?落ち着いたら聞いてみようと思ってたんだけど」
「……それは、」
 美波の唇が、何か呟いた時だった。扉が静かにノックされる。
 眉をひそめたしずくに代わり、即座に立ち上がったのは美波で、彼は、来訪者の顔を予期していたようだった。
「どうぞ」
 扉を開けた美波の前を、一人の長身の男がすり抜ける。
 唐沢直人。
 現時点で、社内最年少の取締役。
 扉の前で足を止めた直人は、怜悧な目元に憐れむような色を浮かべ、座ったままのしずくを無言で見下ろした。
「お嬢さん、差し支えなければ、唐沢さんから、大切なお話があるとのことなのですが」
 口を開いたのは美波涼二。
 昨年の夏ごろまで、どう見ても嫌悪しあっていた美波と直人は、今は――不思議なほどの不自然さで、常に行動を共にしている。
「まずは社を離れ、個人的な立場で、お悔やみを言わせていただきます」
 靴を脱いだ直人は、静かにそう言うと、しずくの前に膝を進めた。
 折り目正しく伸びた背筋、黙って座っていると、なまじの俳優より端整な美貌の持ち主。
「この度は、誠にご愁傷さまでした」
「どうも」
 しずくは冷めた目で、額を下げる年上の男を見下ろした。
 唐沢直人。
 しずくにしてみれば、子供の頃からよく知っていた父の親友の息子で、見かけ倒しの屈折した性格が愉快な、からかいがいのある男だ。
 が、今は、死んだ父の居場所を乗っ取るような形で、この唐沢直人がJ&Mの最年少取締役である。
 平の営業で採用された彼は、ヒカルの成功で社内の業績を業界トップに押し上げた。
 そして――古尾谷平蔵率いる反対派を、そのヒカルと共に切り捨てるという、見事な造反劇をやってのけた。直人の今の地位は、まさに彼自身の頭脳と謀略で掴み取ったものである。
 美波が、卓上の急須から茶を注ぎ分て、唐沢の前にすすめている。
「…………」
 しずくは、そんな美波の翳りを帯びた横顔を、どこか寂しい気持ちで見つめた。
 直人の手によって断行された、急速な世代交代劇。
 そこに、ここに座す美波涼二が手を貸したことは間違いない、としずくは見ている。
 父は何も言わなかったが、古尾谷平蔵が事務所を去ったことには、はかりしれない衝撃を受けたはずだ。それが、父の、鋼のような気力を奪ったとは思いたくないけれど。
―――何があったのか知らないけど。
 そこに立ち入るつもりはない、が、美波は――確かに裏切ったのだ。誰よりも彼の才能を愛し、わが子のように可愛がった父を。
 昨年の夏以来、目に見えて寡黙になった美波は、もうかつてのように、しずくに親しく口を聞いてくれることもなくなった。あれほど若手に人気があった彼が――事務所内でもどこか孤立し、ただ、唯々諾々と唐沢直人に従うだけの存在に成り下がっている。
 普段から、センチメンタリズムを切り離して他人に接するしずくも、こと、美波のことだけは、複雑な感情が拭いきれないままだった。
「慶おじさまは?」
 しずくは気を取り直すと、葬儀が終わってすぐに姿が見えなくなった男のことを口にした。
 城之内慶。
 父の親友で、現取締役社長。会社のダブル創業者の一人である。
 直人は居住まいを正し、口元に儀礼的な笑みを浮かべた。
「お気分が優れないようなので、先に帰っていただきました」
「……つめたいのね」
「ご病気なのです、それに、随分気落ちしておられた」
「……………」
 それにしても、死んだ親友の娘に、声ひとつ掛けないという理由もないだろう。
 人が変わったと言えば、城之内慶のそれは美波の比ではない。
 かつては、しずくをわが子同然に可愛がってくれた男だった。が――ここ半年は、交流も途絶え、訪ねてくれることさえなくなった。
 実際、そんな風にしずくの周囲から去っていったのは、城之内慶だけではない。美波もそうだし――社内で唐沢派についた連中は、全員、真咲真治から一線を引くことを決め、同時にその娘、しずくをも明らかに敬遠している。
 あたかも、近づけば――古尾谷平蔵のように、あっさり解雇されると思い込んででもいるかのように。
「今日くらいは、ゆっくり思い出話ができると思ってたけど」
 しずくは、さばさばと言って肩をすくめた。
「古尾谷のおじさまも来なかったし、寂しいお葬式になっちゃったわね」
 割り切ってはいるものの、本当に寂しい葬儀だった。
 どこか冷ややかな社の連中は、全員が唐沢直人の顔色ばかりを伺って、誰もが、故人を忘れ去っているかのように見えた。
 今も、しずくの傍に、誰一人として挨拶にさえ来ない。
「まぁ、いまさら、会わせる顔がないというところでしょうか」
 直人はわずかに苦笑し、どこか馬鹿にしたように呟いた。
「なにしろ、裏切り者ですからね、古尾谷さんは」
「……………」
 美波や緋川などを引きつれ、独立を図っていたという古尾谷平蔵。
 それが、どういう真意に基づいたものか判らないが、温厚な古尾谷を、そこに至るまで追い込んだのは、間違いなく直人だろう。
 古尾谷の退場により、真咲真治と城之内慶の間にあった信頼も崩れた。
 とどのつまり、4人の男たちが創り上げたJ&Mは、たった一人の野心家の手によって真っ二つに分断されたことになる。
 そしてその野心家は、自らの成功経験を、この会社の基本方針として根付かせようとしている。
―――アイドルね。
 しずくは内心、直人のやっていることを軽蔑していた。
 ソウルなど何一つ感じられない既製品のようなミュージック。唐沢や美波のやっていることは、既製品を、いかに効率よく売るかという算段だけだ。
「お嬢さん、ここからが本題で――取り込み中、まことに申し訳ないのですが」
 目の前の男はわずかに膝を進めると、怜悧な顔に、ほとんど表情を浮かべることなく続けた。
「あなたが相続されたご遺産、特に当社株について、一度、きちんとした形でお話しなければならないと思いまして」
「………………」
 遺産か。
 予想もしていなかった話。
 そういや、どれだけあるんだっけ――しずくはわずかに首をかしげる。
「ご自宅である世田谷の一等地、軽井沢の別荘、そして六本木と青山のマンション、それから東京郊外の土地。その相続税だけでもかなりの額になります。真咲氏は、私財のほとんどを株式に変えておられたので、キャッシュでは、とても納付できないでしょう」
「それで?」
「あなたはまだ大学生になられたばかりだ。会社経営に、無論、興味があるはずもない。資産として持っておくには、株の保有率が高すぎて危険だとも言えます」
「言いたいことはなんなの?」
 しずくがにべもなく言うと、直人の端整な顔が、わずかにゆがんだ。
「株を売って相続税を払えってこと?いつから税理士の真似事まではじめたのかしら」
「………あなたは、当社の経営を左右しかねないほどの株式を相続されたのです、しずくさん。あなたが、下手にそれを第三者に売れば、当社の屋台骨が崩れかねないほどの」
「……………」
「私としても、当社株が危険な持ち主に譲渡されるのを、黙って見過ごすわけにはいかないので」
 へー。
 それは知らなかった。
 なんにしろ、会社の株なんかに興味はない。会社の方で買いたいというなら売るし、後は好きにすればいい。
「どうすればいいの?」
 しずくがそう言うと、はじめて直人は愁眉を開いて頷いた。
「相応の金額で、株式は、できれば会社の方で買いとり先を決めさせてもらえればと」
「直人!」
 怖い声が、ふいに2人の間に割って入った。
「お、お前は何を考えているんだ、なにも、こんな席でする話しじゃないだろう!」
 完全には閉まっていなかった扉。そこに、いつから立っていたのか――血相を変えて姿を現したのは、普段物静かで、滅多に声を荒げない、唐沢省吾、ここに座す直人の父親だった。
「お嬢さん、相続の話は、いずれ弁護士の榊を通じて話があると思います。何も今、焦って結論を出すことじゃない」
 若い頃針金のようだった身体は、今はほどよく肥え、いつも蟹みたいな泣き笑いの表情を浮かべている。が、その柔和な顔には、珍しく激しい怒りの色があった。
「直人、ここは親族の控え室だ。とっとと出て行け!」
 父親に怒鳴られ、直人は、あきらかに不快を表情に出して立ち上がった。
「失礼します。この続きは、また、近々」
 この――無神経なまでの明快さが、直人の欠点であると同時にどこか憎めない点でもある。むしろ、ビジネスに余計な感情を差し挟まない彼の割り切り方が、しずくは好きだ。
 が、生きた人を相手にする芸能事務所で、そのスタンスが果たして正解なのかどうか。傍観するしかないしずくは、その結末を、やや冷めた目で見てやるつもりでいる。
 退室する直人を、今や彼の忠実な腹心となった美波が、先導するようにして送っている。
「お嬢さん」
 立ち上がったしずくの傍に、今度は直人の父――唐沢省吾が苦々しい顔で歩み寄ってきた。会社では、取締役専務である。
 息子の非礼を繰り返し詫びた男は、わずかに沈黙した後、思いつめた目でしずくを見つめた。
「株の話は、……よくよく、お考えの上で、お返事ください」
 最近、すっかり息子にいいようにされている篤実な男。その声は、非常に小さく、しかもどこか苦しげだった。
「真咲副社長は、会社の後継にお嬢さんを推しておられた、それは、城之内社長も同じです」
「そんな話、子供の頃に、冗談みたいに言われただけよ」
「……………」
 唐沢省吾はわずかに眉を寄せ、何かを言いかけ、そして力なく唇を閉じた。
 唐沢省吾。
 実直で生真面目な人柄に疑念を差し挟む余地がないのは、しずくもよく知っている。ある意味、誰よりも深く事務所を愛し、影になり、日向になり、誰よりも苦労を重ねてきた男。蓬髪にも似た白髪頭が、彼のこれまでの辛酸と苦労を物語っている。
 が、今――その優しい性格ゆえに、息子、直人のサポート役に成り果てた男に、いままでのような信頼を寄せていいのかどうか、しずくにはいまひとつ判断できない。
「いずせれにせよ、よくお考えください。真咲さんのご遺志は、あなたの中に生きている」
 省吾はうつむいたまま、彼の癖で妙に喉に絡む声で言った。
「私は、……そう信じておりますので」














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