5


 
「静馬だ」
 最初にうめいたのは、平蔵だった。
「静馬の歌だ、真ちゃん!」
「……………」
 言われなくてもイントロで判った。
 ほとんど初期の作品で、この施設でしか歌ったことがない曲「君がいる世界」。
 どのレコードにも収録されていないはずの曲。
 音は、渡り廊下の突き当たりから響いている。息せきって駆け込んだ、開けっ放しのホール。
 入り口には「誕生会」と下手な文字の看板がかかっていた。ティッシュのバラで囲まれて、張り紙に描かれて張ってある。
 真冶は、室内を見回した。
 椅子に腰掛けた観客はみな子供だ。そして、ステージには、ギターをかき鳴らす一人の少年。
 無論、静馬ではない。それは声を聞いた時からわかっていたが――
「……………」
 室内に、目指す人の姿はなかった。
 当たり前か。
 慌てた自分がおかしくなり、真治は自嘲の笑みを漏らす。
 仮釈放から、一年。
 一切の連絡手段を遮断し、頑なに行方をくらましている静馬が、こんな場所にいるはずがない。
 静馬の性格をよく知っている真治には、静馬が死んでも――昔の仲間たちに迷惑をかけたくないと思っていることを、理解しているつもりだった。
 いつか、奴自身が戻ってくる気になるまで探さない。
 それが、四人の、暗黙の了解だ。
―――宴会芸か、ド素人だな。
 真治は、ため息と失望と共にそう思った。
 素人どころではない。目茶苦茶下手だ。発音からしてどこかおかしい。なのに。
 真冶はその場を動けなかった。
「………………」
 不思議とその歌声は、心にとつとつと、染みるように響いてくる。
 ぎこちない指がかき鳴らすギターの素朴な音も、そして歌声も。
「彼は、子供の頃、目の前でご両親が殺されるという悲劇を体験したのです」
 いつの間にか、真治と平蔵の背後に、事務所で別れたこの施設の所長婦人が立っていた。
「以来、彼は、人前で言葉が発せられなくなったのです。人の言葉を聞き分けられなくなったのですが……」
 真治は、再度ステージを見上げた。
 流暢とは言えないが、少年の唇は、確かに音を発している。
「心を閉ざした彼が唯一受け入れることができたのが、音楽なのです。彼は、子供の頃、どれだけあなた方のコンサートを楽しみにしていたか判りません。その時のテープを何度も何度も聴いて覚えた歌なのですよ、これは」
「………………」
「そして、今、彼の歌が、ここの子供たちの癒しになっているのです」




 
やがて僕は歌をおぼえ
 世界に小さな花を放つ
 優しさの連鎖が
 憎しみを癒すと信じて
 おおげさなことじゃない
 君がいる世界を守るために
 ちっぽけな僕ができること

 この素晴らしい世界で
 奇蹟のように
 めぐり合う生命
 僕らは、ひどく儚くて
 いつか、この手は離れてゆくけど

 きっと、託した火の行方なんて見えなくていい
 僕らはまるでリレーのように
 命を継いで生きているから

 ほら
 階段の天辺で
 誰かが手を伸ばしている
 次は俺の番だよと


 君を守る翼が力尽きても
 たった一人、君がそこで笑ってくれれば
 僕は、届けたものの意味を知るだろう


 君に届けたいものがあるんだ
 だから僕は、今日も歌を歌い続ける






――――静馬…………
 真治は、静かな涙が、自分の双眸が流れていくのを感じていた。
 静馬、……静馬。
 俺たちのしてることって、そういうものか。
 お前には、最初から、それが見えていたのかよ。
「………真ちゃん……」
 背後から、途切れるような声がした。
「省吾!」
 最初に叫んだのは、平蔵だった。
 弾かれたように振り返った真治は、ものも言わず、雨で濡れた親友の身体を抱きしめた。
 遺書を残して、行方をくらましていた唐沢省吾。
 びしょ濡れのトレンチコート、幽鬼のように青白い頬、一体どこを彷徨ってここまでたどり着いたのだろうか。
「もう一回、やってみようぜ」
 みっともなく泣きながら、真治はそう言っていた。
「死んだ気になりゃ、なんでもできる、俺たちゃまだ生きてるんだ、そうだろう?」
 省吾も、平蔵も泣いていた。男泣きに泣いていた。
「静馬の好きだった言葉だ、Never give in― never, never, never, never」
 諦めるな、決して、決して、決して、決して。
「……たかだか数億の借金じゃねぇか」
 鼻をすすって涙を拭い、真治はようやく不敵な笑みを唇に浮かべた。
「なんとかなるさ」



                    6



 しずくは、足を止めていた。
 渡り廊下の途中。
 背後のホールでは、まだ少年の演奏が続いている。
 部屋の中で、父と――それから、父が探していた唐沢省吾の姿を認め、しずくはそっと室内を抜け出したのだった。
 唐沢のおじちゃん、無事だったんだ。
 安堵すると同時に、父の目につくところに、自分がいつまでもいてはいけないと思った。
 多分、娘の存在が、手のかかる男たちの邂逅の妨げになる――子供心に、そんな生意気なことまで考えている。
 足を止めたしずくは視線をめぐらせた。
―――空耳……?
 通り過ぎ様、締め切った一室から、かすかに聞こえたギターの音色。
 雨音はもうやんでいる。
 背後で聞こえる演奏とは、音の大きさが明らかに違う。
 立ち止まったまま、しずくは、息をひそめて耳を済ませる。
 やっぱ、空耳かな。
 幻のような音は一瞬で、それはもう、いくら神経を尖らせても聞こえてこない。
 「音楽室」
 見上げると、扉に小さな板看板が張られている。しずくは何かに引き寄せられるように、その扉を開けていた。
 木製の扉が、軋んだ音をたてる。
 日は暮れて、青白い闇の中、柔らかな月光が一筋、室内に差し込んでいた。
 机と椅子が並んでいる部屋。黒板の前の、古びたグランドピアノ。
 彼らはそこに立っていた。
「やっぱり、あなただと思ってた」
「抜け道は昔のままだ、無用心だぜ」
「だって、私が元に戻したんだもの」
 綺麗な人たち。
 しずくはそう思っていた。
 差し込む月明かりが逆光になって、2人の男女をシルエットのように浮かび上がらせている。
 男も女も、どちらも――存在そのものに非現実感が漂い、この世に生きている人ではないようだった。まるで、月が魅せる幻影のようだ。少なくとも、しずくにはそう見えた。
「カズシが手紙をくれたんだ、仮釈になる、少し前だ」
「そう」
「来年の誕生会で、歌を歌うから、絶対に来てくれって書いてあった、いまさら、いけねぇだろ、大迷惑かけちまった俺が」
「だから、こっそり忍び込んできたんだ」
 会話が途切れても、二人は微動だにしない。
 互いを縛るように見つめあったまま、一筋も視線をそらさない。
「もう、死んじゃったのかと思ってた」
「絶対、待ってろって言っただろ」
「何年、待ったと思ってるの」
「………………」
「待ちくたびれたわ、待つ気なんてなかった、明日、カシワバ君とアメリカに行くの、今日は最後の挨拶に寄っただけ」
 雲が切れたのか、ふいに光が角度を変え、月が2人の顔を照らし出す。
「馬鹿みたい」
「……………」
「奇跡みたいな、偶然ね」
 透き通るような女の横顔。その瞳に涙がたまり、それが頬を滴るのが見えた。
「行くなよ」
「勝手なこと言わないで」
「……行くな」
 男が、女の腰にそっと手を添える。それから――キス。
 しずくは動けなかった。
 まるで足が、地面に張り付いてしまったように。
 奇跡みたいな偶然。
 何故かその言葉と、先ほどホールで聞いたメロディが重なった。
 あの音楽が、きっと2人を呼び寄せたのだ。不思議な確信と共にそう思った。
 音楽が――
 体の中に、ふいに、何かがつきあげてくるような、不思議な感覚。
 わかった。
 しずくは思った。
 わかった――何かが、何かが、今、私にはわかった気がする。
 「真公の娘か」
 声。
―――私?
 我にかえって顔をあげると、男の目がしずくを見ていた。
「……真咲君の?」
「さっきからいたんだ、親父と同じでいい性格してやがる」
 月明かりの下、初めてしずくは男の顔を正面から見上げていた。
 肩頬に笑みを浮かべ、どこか野生を帯びた黒目がちの涼しげな眼が、じっとしずくを見下ろしている。
「親父に似て、べっぴんだ」
 それだけ言うと、男は女の肩を抱くようにして促した。
 通り過ぎ様、しずくは、頭を軽く叩かれる。
「曲ができたら、会いに行く」
 曲が、できたら…?
 しずくの視界に、しっかりと繋がれた二人の手が見えた。
「それまで、俺のことは誰にも言うなよ」
「……………」
 いたずらめいた眼差しに、うなずくことも忘れたまま、何故かふいに、両頬が熱くなるのを感じていた。

 



 あの日のことは、ずっと夢かもしれないと思っていた。
 大人になるまで――
 夢の中の存在だった彼と、再会する日まで。
















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