10


「だから、12時から女風呂になるって聞いたのよ、私」
「なってねぇよ、みてみろよ、外」
 この場合、どちらかが紛れもなく犯罪である。
 将も必死だったが、女も相当ムキになっていた。
「じゃ、旅館の人が忘れたんだ」
「知るかよ、つか、気づけよ、俺が入った時点で」
「だって、目が悪いんだもん」
 将の目は……そこそこいい。
 学生時代、多少落ちたものの、受験が終わったら回復した。
 で、その目がいいことが。
「………出ろよ、とにかく」
 今の将には、むしろ、拷問のようなものだった。
 せめてもの救いは、白濁した湯が、互いの身体を隠してくれていること。
 長い髪を上げている女は、湯のせいか頬を淡く染め、うなじには髪の筋が零れていた。
 ノーメイク、普段より幼い顔、身体には、タオルをしっかりと巻きつけている。白い、抜けるような肌と、綺麗な鎖骨。
―――つか、湯の中でタオルは反則だろ。
 と、そこで説教のひとつも言いたい将だったが、今回は、そのタオルにさえ救われているから文句も言えない。
「出るから、あっち行っててよ」
「行くよ、言わなくても」
「ていうより、来ないでしょ、普通は」
「……………あのさ」
 岩場を出ようとした将は、少しむっとして脚を止めていた。
 てめぇが、のこのこあがっちゃいけねぇから、来てやったんだろうが!
 そんな、無防備に、俺以外の誰が入ってくるかわかんねぇのに。
 俺以外の。
 誰かに、そんな姿、見られたくねぇから。
「……何よ」
「……いいよ、もう」
 どうせ言ったって、この女には何も響かないんだ。
 諦めて、考えないようにしようって、もう何度も言い聞かせては立ち直ってきたのに、なんだって、こんな妙なタイミングで会っちまうんだろう。
 しかし、顔を上げた将は、ぎょっとして、再びしずくに向き直った。
「な、何よ」
「人、こっちくる」
「男?女?これでどっちが正しいか判るじゃない」
「こだわってる場合じゃねぇだろ!」
 水音は、ざふざぶとこっちに向かって近づいてくる。
 ど、どうすりゃいいんだ。
 男だというのは判った。見知らぬ親父。他の団体客だろう。鼻歌まじりだから、少し酒でも入っているのかもしれない。
「おかしいな。確かに確認したんだけど」
「だから、こだわってる場合じゃねぇんだって」
 丁度袋小路のような狭い岩場、2人に他に逃げ道はなかった。
 ど、どうする。
 テレビで顔を知られている俺。ここで、女と一緒なんて――いや、そういう問題ではなく、あんな酔っ払い親父に、見られてたまるか。
 俺の、大切な、
 将は、咄嗟に振り返ると、しずくの身体を抱きしめた。
「???」
 多分、腕の中で、女は相当驚いている。
 鼻歌が、背後で止まる。
 将はそのまま、鋼のように力をこめて、女の抵抗を防ぎ続けた。
「………あ、………あー、こりゃ、どうも」
 沈黙、そして気おされたような声。
「なんだ、最近の若いもんは」
 ブツクサ言いつつ、水音が遠ざかる。
 呼吸も、心臓も止まりそうな数秒間。
「……行ったから」
 耳元で声がした。
 我に返った将は、ばっと手を離す。
 至近距離、岩を背にした女を、抱え込むような体勢になっていた。
「………あのおっさん、出てったら、あがれよ」
「そっちが先にあがってよ」
「あがるけど」
「てゆっか、その前に離れてよ」
「………………」
 腕にも脚にも、滑らかな肌が触れている。
 上気した頬、息遣いさえ、かすめる距離。
 さっきまで何も感じなかったのに、抱きしめた時の柔らかさとか、髪の匂いが、妙に生々しく思い出された。
 逆に、将は動けなくなる。
 間近で絡む眼差し。言葉ではなく、身体の五感で感じる感覚。いつもいつも、距離の殻を破るたびに覚える錯覚。
 これが別の女だったら、間違いなく確信している。
 こいつは、俺のことが好きなんだって。
「…………」
 黙っていると、しずくがかすかに笑う気配がした。
「……何がおかしいんだよ」
 むっとしつつ、将が聞くと、女はわずかに肩をすくめる。
「だって、顔も肌もこんなにつるつるして綺麗なのに」
「…………?」
「腿は、結構ざらざらしてるから」
「????」
 意味を理解し、将は耳まで赤くなった。
「あのさ…………」
 ガ、ガキじゃねぇんだから。
 脛毛くらい、生えるだろ、普通。
 つか、言うかよ、こんな状況で。
「もう、聞きたくないんだ」
「え?」
「君の、お父さんの話」
「……………」
「どういう人で、何をして、どうして死んじゃったのか」
「……………」
「逃げちゃったじゃない、この間」
「……………………」
 将は、しばらく黙ってから、女から身体を離し、岩に背を預けた。
「俺さ、マジな話すると」
 あんたには、軽蔑されるかもしれないけど。
「俺が気になってんのは、あんたが、あの夏キスしてた男が誰かってことだけで」
「………………」
「俺を生んだ両親には、全然関心っていうか、興味がないんだ」
 しずくの横顔は何も言わない。
「つか、逆に教えられても困るっていうか、……ま、知っても、俺の人生には何も関係ないことなんで」
「…………今の、ご両親が大切ってこと」
「………そんなでもねぇんだけど」
 実親への冷めた感覚は、正直、養親に対しても同じだった。
 家族に無関心な父親と、妹を偏愛する母。
 むろん、尊敬はしているし、感謝もしている。
 が、「文学を志せ、本を読め」という父に逆らうように、将は洋楽と洋書にのめりこんだ。勘当覚悟で事務所に入って、今でも反対を承知で続けている。どこかで、干渉されるのを拒んでいるし、経済的な自立だけは維持したいという、意地のような気持ちもある。
「まぁ、関心ないんだ、だから教えてくれなくてもいい」
「意外に子供っぽいのね、メンバーの前では大人ぶってるくせに」
「………………」
 その皮肉も、静かな気持ちでスルーした。
 両親のことは将自身が、この年まで1人で抱えてきたことだ。それを、今更、他人に理解して欲しいとは思わない。
「今でも、親父が好きなの、あんた」
 将は、前を見たままで呟いた。
「前言ったとおりよ」
「それで、恋愛も、結婚もしないんだ」
「………………」
「死んでんだろ、そいつ」
「そいつって、君のお父さんなのに」
「……俺に、何度かキスしてくれたのって」
「………………」
「俺が、そいつに、似てるから?」
「そう」
 少しの間の後、しずくが頷く。
「それだけ?」
「それだけね」
「…………………」
 将は、深く嘆息する。
 どうする、俺。
 自問するものの、もう、答えは決まっているような気がした。
「俺、見ろよ」
「……………」
「俺見ろよ、そいつじゃなくて」
「……………」
「俺、あんたが好きだ」
「……………」
「あんたが、好きだ」


                   11


「やれやれ、こっちは締め切りに追われてひぃひぃだっつーのに」
 九石ケイは、やや鼻白みながら、ファックスから流れてくる原稿を抜き取る。
 今頃、島根の高級温泉で……あー、いいわよね、青春真っ盛りの若者たちは。
 高見ゆうりが、外から戻ってきたのは、その時だった。
「ミカリから原稿、届きました?」
「今、届いた、これから校正すっから、待ってて」
「ケイさん、今、入った情報ですけど」
 ゆうりが、そう言いながら自席につく。
 情報――入ったのか、勝手に入り込んだのか微妙なとこだけど。
「何?」
 と、ケイは、情報収集にかけては、誰より有能な相棒を横目で見た。
「5月8日のオリコンチャート、一位は、ヒデ&誓也でほぼ確定だそうです」
「………へぇ」
「予約枚数、推定で十三万枚、初回出荷予定は少なく見積もっても、三十万枚以上」
 新人にしては、いや、新人でなくとも破格の枚数。
 ケイは内心舌を巻く。まさにJ&Mにとっては、社運を賭けた一大イベントだったというわけだ。今回のデビューは。
「片やストームは、予約枚数七万弱、初回出荷予定、二十万枚弱」
 決まったか。
 どう考えても、挽回しようがないほどの差。
 ケイは軽く嘆息する。
 まぁ――まさかと思ったミラクルは、結局はなかったってことだろう。
 同じ事務所同士、デビュー前から何かと比較されていただけに、ストームには悔しい結果だろうけど。
 問題は。
 このリリース合戦の裏に、微妙に首脳陣の権力争いが見え隠れしてるってことで。
 おそらく、真咲しずく氏が、この事務所を去ることで、争いは終結するだろうが、その時、ストームはどうなるのだろう。
「それよりケイさん、ミカリのことですけど」
 と、ゆうりが、手元のパソコンを開きながら、やや不機嫌そうな声を出した。
「この一週間、あちこち取材に出てるようなんですけど、ぜんっぜん報告書回さないんですよね」
「あらま、珍しい」
 この冗談社が、なんとか今まで自転車操業を続けていられるのは、こと、出費にかけては異様に細かい高見ゆうりの監視の目が光っているからである。
 例えボールペン一本でも、なくしたら始末書を書かされるし、最後の一滴がなくなるまで新しいものは買ってもらえない。
「大森が出さないのはいつものことですけどね、ケイさんからも言っといてください」
「へいへい」
 まぁ、確かに珍しい。
 こと、几帳面さにかけては、ミカリほど確かな者はいないのに。
 それにしても、取材、か――。ここ数日、ずっと締め切り前のデスクワークに追われていたはずのミカリが。何だろう、ストーム以外のことなら、ケイにしても何も聞いてはいない。
 卓上の電話がなる。ミカリの机。
 ケイは、手を伸ばしたゆうりを制して、受話器を取り上げた。
「はい、冗談社ですけど」
 少しの間があり、低い、女の声がした。
「ミカリは、今夜は戻りません、どちら様でしょうか」
 ケイは、その名前を聞き取り、メモに記す。
 そして、眉をひそめていた。
 オオサワ エリカ
「戻ったらお電話させましょう、はい」
 電話を置いたケイは、難しい顔で黙り込む。
 記憶に間違いがなければ、そして偶然ではなければ、この女は、かつて親友だったミカリのスクープ記事を書き、ミカリを表舞台から叩き落した張本人のはずだ。
 今では、フリーの記者をやっていると聞いている。
 確か、ミカリの話では。
「………………」
 嫌な予感がする。
―――ま、気のせいだったらいいんだけど。

 
                     12


「疲れてないっすか」
「聡君こそ」
 手を繋いで、暗い砂浜を歩き続ける。
 背後の海岸では、楽しかった花火の余韻か、まだ賑やかな声が聞こえている。
 聡は、傍らのミカリを見下ろした。
「にしても、すげー誤解されてたみたいで、俺」
 さっきまで、散々、憂也や雅之に責められていたことを思い出し、聡は頭に手を当てた。
「夕飯終わってから、ずーっとサウナに入ってたんですけど、なんかこう、ミカリさんと抜けた、みたいな」
「私は、仕事で、別室にこもってただけなのにね」
 ミカリは笑う。
 聡も笑おうとしたが、正直、サウナから戻った時は、笑うに笑えない状況だった。
「気分よく部屋戻ってびっくりですよ、雅は凪ちゃんにビンタされて泣いてるし、憂也と将君には、責任とってお前が謝って来いってどやされるし」
「あはは」
「で、行きましたよ」
「行ったんだ」
 ミカリが目を丸くする。
 そう、結局行かされた。自分の流されやすさに、ほとほと情けなくなるけれど。
「まぁ……凪ちゃんの方が、むしろ落ち込んでたみたいで」
 何があったか知らないけど、二人して落ち込んでるんだから、どうしようもない。
 ミカリが自然に足を向けたので、砂浜に打ち上げられた流木、聡とミカリは、その木の上に肩を並べて腰掛けた。
「男になったのかな、成瀬君も」
「……まぁ、なれなかったから、あのビンタだと思うんですけど」
 ぐーからぱーが救いかもしれない。
 ま、どっちも痛いだろうけど、今夜の場合。
 少しだけ会話が途切れる。
 静かな波の音と、そして潮の香りが、2人の沈黙を包み込んだ。
「そういや、仕事って何してたんですか」
「原稿書いてた、実は真咲さんと、部屋変わってもらったの」
「え、そうなんだ」
 まぁ、確かに時期的に忙しいはずだ。締め切りも近いはずだし。
 しかし、あの真咲さんが……じゃ、今夜あの人が、凪ちゃんや末永さんと同じ部屋で寝るんだろうか。
「来る?」
「え?」
「部屋」
「…………」
 戸惑いつつ、いやその戸惑いは、どうやって同室のりょうと雅を誤魔化そうかということだったのだが、とりあえずこくこくと頷いた。
「行きます!」
「うん、待ってる」
 くすっと笑われる。
 そのまま、指を絡めて、唇を合わせようとした。
「……まって」
「え?」
「柏葉君と、真咲さん」
「えっ?」
 ミカリがそっと指差した先、旅館がある方の土手沿いから、ミカリが名を言った2人が、連れ添って歩いてくる姿が見えた。
―――あれ、将君、眠いっつってたし、真咲さんは、先に戻ったんじゃなかったっけ。
「……なんだか、不思議な雰囲気ね、あの2人も」
「そ、そうすっね」
 仲いいんだか、悪いんだか。
 でも、こうやって揃いの浴衣に上着を羽織って並んで歩く姿を見ると、年の差なんか関係なく、普通にお似合いって感じがする。
 暗くてよく見えなかったけど、将の雰囲気が、妙に柔らかくなった感じがした。
―――うまく、いったのかな。
 だったらいいな。
 真咲さん、わけわかんない人だけど、将君と仲良くしてるあの人なら、信じてもいいかなって思うから。
「……映画、来月封切りだったっけ」
「あ、はい、確か来週辺りから、予告が流れると思うんですけど」
「楽しみね」
「すっごく、いいものになってますから」
「……………」
 ミカリはそれには答えず、聡の肩に頭をあずけた。
 甘い温もりと、寄り添ってくる体温。
 だ、誰かに見られてなきゃいいけどな。
 聡は、微妙に不安を感じて周囲を見回す。
「最終回、どうなるの?」
「え?」
「セイバー、来月いっぱいで終りでしょ」
「あー……まだ本が出来てないんで、ちょっと俺にもわかんないんですけど」
「判ってる範囲で教えて」
「………あ、はい」
 なんだろ。
 こんなこと言われたの、なんだか初めてっていうか、ちょっと、雰囲気へんかなって気がすんだけど、ミカリさん。
「セイバーが、ダークサイドから生まれた存在だってことが、結局は、地球のみんなにばれちゃって」
 怪獣をこの世界に生み出す力、その元になるパワーが分離して、セイバーという異種が生まれた。
「……で?」
「ヒーローが一転、悪者扱いされるようになるんです。聡も、身柄を拘束されて、監視されて」
「……………」
「そこを抜け出して、戦いに行くんですけど」
 第四十九話、セイバー追放。
 それが敵の罠だった。地球軍から一斉に攻撃されたセイバーは、愛するレイラの命を守るため、やむなく味方に反撃する。
 その結果、地球防衛軍基地を攻撃した汚名を着せられ、ついに地球の敵、とみなされてしまうのである。
「聡は逮捕されて……そこまでです、もらってる本は」
 第五十話の台本は、まだできていない。話のあらすじさえ聞かされてはいない。
 現在、神田川と降木庭が、最終話の台本を練りに練り上げているという。
 ただ、
「サブタイトルだけ、決まってるみたいなんです。すげー偶然かなって思ったんですけど」
「……奇跡、」
「はい、あ、すげー、わかっちゃいました?」
 聡が笑いかけると、ミカリは、少し不思議な表情で微笑した。
「ミラクルマンは、奇跡の男だから」
 繋いだ指が、少しだけ冷えている。
「きっと、奇跡が起こるのね」
「……………」
 まぁ、一応子供向けのエンターテイメント番組だから。
 そんな、悲劇的な終わり方はしないだろうけど……。
「聡君、好きよ」
「え?」
 そっと唇が重なってくる。
「好きよ……大好き」
「……ミカリさん」
 背中に回される腕、寄り添ってくる温かな温もり。
「本当に、大好き」
「………………」
 なんだろう、どうしたんだろう。
 戸惑いながら、聡もミカリを抱きしめる。
 でも、ちょっとまずいような。さっきも上を将君が通ったばっかだし。
 少し離れた場所では、イタちゃんや小泉君、レインボウのスタッフだって残ってるのに。
「人の気持ちが、永遠だったらいいのにね」
「………え?」
「このまま、時間が止まればいいのに」
「…………」
 このまま、時間が。
 潮の音が、一時強く耳を突く。
「ここで止まっても、……俺、まだまだ子供だから」
 聡は、少し笑ってから、ミカリの髪に手を添えた。
 まだまだ子供すぎて、ミカリさん幸せにすることができないよ、今のままじゃ。
 ストームもまだまだで、止まってられないし、こんな所で。
「そうね」
 が、あっさり肯定されて、聡は少しだけがっくりする。
 風が冷たい。少し冷えたミカリの髪に、聡はそっと口づけた。
 ふいに、愛しさが胸を満たす。
「俺……行くから、今夜」
 例え、誰に何を言われても、絶対。
「待ってて、……絶対、行く」
「うん……」
 顔をあげたミカリと、キスを交わす。何度も、何度も。
「もう一回」
 顔を上げたミカリに、囁かれる。
 もう一度、キス。
「……もう一回」
 なんだろう。
 今日のミカリさん、本当に子供みたいだ。
「もう一回」
「……………」
 でも、今日ほど。
「もう一回」
 俺、この人に愛されてるって、思えたこともないかもしれない……。


                    13


「……楽になった?」
「うん、まぁね」
 風が冷たい。
 将は、少し後ろを歩く女を振り返る。
 脱衣所を出たとき、本当に気分が悪そうだった真咲しずくは、ようやく普段とおりの顔色に戻っていた。
 土手の向こう、花火もそろそろ終りなのか、大きな打ち上げ花火と、賑やかな歓声が聞こえる。
「行かないの?私は1人で大丈夫なのに」
「いや……いいよ」
 傍にいたいんだ。
「俺のせいだし、長風呂させたの」
 別に、何かを期待してるわけでもないんだけど。
 多分、生まれて初めて、恋を告白した夜だから。
「……もう少し、歩こうか」
 意外にも、そう言ってくれたのはしずくだった。
 将は無言で頷き、やがて歓声も花火の音も聞こえなくなる。
 暗い海に、星みたいな光が煌いていた。
 波音が、静かに、永遠の旋律を奏でている。
「別に……返事が欲しいとかじゃねぇから」
 将は、素直な気持ちで口にした。
「あんたが、俺以外の誰かを好きになっても、別に暴れたり恨んだりしねぇし。……むしろ、」
 あんたが幸せなら、それでいいと思ってるし。
 受け入れるまで、少し時間がかかるとは思うけど。
「……私のことなんて、」
 言いかけたしずくが、足を止める。
「何……?」
「……ううん」
 振り返ると、ゆっくりと首を振る。
「あのね」
 しずくは将の隣に歩み寄ってきた。
「私と君は、見ているものが全然違うの」
「………………」
「いつか、君もそれに気づくわ、そして、私のことなんて」
「………………」
 しずくは苦笑して、わずかに視線を伏せた。
「なんで好きだったのかって、むしろ、後悔する日が来ると思う」
「なんだよ、それ」
 わずかな憤りを感じ、将は女から視線をそらす。
 意味、わかんねぇし、マジで。
「私は、あなたの味方じゃないもの」
「……………」
「夏には、君の前からいなくなるし、君とは、違うものを見ているの、昔も、今も、これからも」
 将は目を伏せ、しばし黙った。
「あの……織原って人が言ってたよ」
「織原君?」
 しずくが訝しげに眉を寄せる。
「あんたは、すごく先を見てるんだって、どんくらい先かわかんねぇけど、……言ってるのって、そういうこと?」
「どうかな、確かに、……すごく先を見てるのかもしれないけど」
 しずくはそれきり、口をつぐむ。
 乾きかけの髪が、風に煽られ、将の肩にわずかに触れた。
「あんた、昔、奇跡がどうとか言ってたの、おぼえてる?」
 将は、視線を海の向こうに向けながら言った。
「……奇跡?」
「音楽が、人の心を開くたったひとつの鍵だって、昔、自分はそれを、一度だけ観たことがあるって」
「…………………」
「人の心を高みに高みに押し上げるものだって、それが音楽の持つ力で、その先に、人が生きている意味とか、理由とか、そういう世界が広がっているんだって」
「…………………」
「俺、……あんたとは、レベルが違うかもしれないけど」
「…………………」
「あんたに話を聞いてから、俺もずっと、それを見てた。俺には無理だって判ってたけど、ずっと見てた。今だって……たぶん見てる」
 しずくは何も言わない。
 無言の横顔が、少しだけ険しくなって、じっと夜の海に注がれている。
「ねぇ」
「……何だよ」
「キスしよっか」
「…………………………」
 は?
 え??
 今の聞き間違い?つか、なんだってこういう展開?
 将は、固まったまま、傍らの女をかろうじて見下ろす。
「……親父の代わりだったら、ごめんだよ」
「代わりじゃないよ」
「………………」
「代わりなんて思ったこと、一度もない」
 嘘……?
 本気……?
 また、本気になったらすかされる、いつもの惨めなパターンだ、どうせ。
「なんだよ、それ」
 動悸を押し殺して、顔を背ける。
 喜んでいいのか、疑っていいのか、まだ将には判らない。
「それが、答えって思っても、いいってこと?」
「なんで?今日の気持ちは永遠じゃないもの」
 が、しずくはあっさりと笑った。
「永遠なんてどこにもないのよ、今日は今日、明日は明日」
「………………」
「今日は君の恋人でいたい、それじゃ、ダメ?」
「………………」
 なんつー、虫がいいっていうか、身勝手というか、男心への配慮ゼロっていうか。
「……恋人、だよな」
「うん」
 大真面目な将に、無邪気なしずく。
「あ、でもリミットは旅館の門限までってことで」
「はぁ?」
「無理なら、今の話はなし」
 旅館の門限は確か一時。
 ということは、あと十分足らずしかない。
「…………………………………」
 こ、の、女…………。
 多分、思いっきり、弄ばれてるよ、俺。
「お前さ、俺の気持ちなんて、これっぽっちも判ってねぇだろ」
「……………」
 しずくが、微笑して嘆息する。
「やっぱ、無理か」
「無理に決まってるだろ」
「じゃ、私も無理だ」
「………………」
「ごめんね」
「………………」
 背後の明りが、いつの間にか消えている。
 そろそろ、宿に戻らないといけない時間。
 将は、黙って立っているしずくの腕を引いて、自分の胸元に抱き寄せた。
「………………」
「………………」
 胸が、痛い。
 動悸で、心臓、おかしくなりそうだ。
 他の誰にも感じたことのない、強烈で切なすぎるこの感覚。
 殆ど目線が変わらない身長、少しだけ顔を下げて、唇を合わせる。
 唇はすぐに開いて、深くなる。
「………座ろ」
 将は、しずくの腰を抱いたまま、草の生い茂る土手に膝をついた。
「………キスだけ」
「わかってる」
 最初のキスの時、頑なに身体に触れられることを拒まれたから。
 背中に手をあて、仰向けに倒す。
 しずくの両手が、将の背中に回される。
 体重を支える膝が痛かったが、そんなことはどうでもいいくらい、頭の中が白くなっていた。
 互いに唇を開いて、恋人同士の、深みを求め合うような、キス。
「……上手だね」
「……言ってろよ」
 背中に回される腕に力が入って、強く衣服を掴まれているのが判る。
 呼吸が、乱れて交じり合う。
 長いようで、短い、短いようで長い時間。
 ほとんど時間の感覚のなくなった将の髪に、しずくの手が添えられた。
「………………」
 将は無言で目を閉じる。
 明日になれば、本当に忘れられるんだろうか。
 この、苦しすぎる感情を。
「月が綺麗よ、バニーちゃん」
「……………」
 この後に及んで、バニーかよ。
 髪を撫でてくれる、しずくの手は優しかった。




                 14



―――誰だろ……亜佐美さんかな。
 まどろみの中、凪はそっと薄目を開ける。
 窓際の布団では、真白が寝息をたてている。
 戻ってこないのは、亜佐美とミカリで……ミカリは、別室で仕事をしているとは聞いていたものの、その代わりに、J&Mの副社長がこの部屋に来るとは、さすがに凪にも信じられないままでいた。
 が、出入り口に一番近い布団。
 上着を脱いで、そこに腰を下ろしたのは、まだ凪が、一度も話したことのない、際立って美貌の女性である。
 ずっと寝付かれなかった凪は、ますます目が覚めるのを感じ、あわてて目をしっかりと閉じた。
 つ、つか、こんなえらい人と同部屋で、朝、どういうリアクションで起きればいいんだろ、私。
 真咲しずく。
 ついつい――薄目を開けて、見てしまう。
 しずくは長い髪を指で梳いている、その横顔に、薄く空いた障子から漏れる月光が、青白く筋を引いていた。
―――ほんっと、綺麗だな、この人って。
 遠目で観たときもそう思ったが、こうして間近で見ると、別世界の人みたいだ。
 しずくが、ふいに静かに立ち上がる。
 帯がほどけて、浴衣が肩から滑り落ちた。
―――あ、
 見えたのは一瞬。
 凪は咄嗟に目を閉じていた。
 今の……何?
 見間違い?それとも。
 背後では、ひそやかな衣擦れの音。
 凪は目を閉じたまま、今目にしたことは、一生誰にも言うまいと思っていた。
 それが、勘違いであろうとなかろうと、絶対に。














※この物語は、全てフィクションです。


>back >次回最終話 勝負の結末が五人にもたらしたものは。