11


「あれ?どうしたの」
 足音に気付いたしずくが振り返る。
 将は、息を切らしているのを気づかれたくなくて、大きく息を吸ってから歩き出した。
「かえんの?」
「うん、見て分かんない?」
 いや……それはよく判ってんだけど。
 マンションの駐車場前、この時間、さすがに周辺は静まり返っている。
 街路灯だけが照らし出す路上。
 青白い光が、しずくの澄んだ美貌に映えている。それはまるで、この世の別の場所から降りてきた人のようだった。
 きれいだな、と、将は素直に思っていた。
 口に出して言ってみたい、でも言えば確実に笑われるか茶化されるか、まぁ、悲惨な結果は目にみえている。
「車、使えばいいのに」
 結局、そんな言葉になっている。
 将は、しずくの横に肩を並べた。
「車なら、もう事務所のものだから」
「へー、意外に律儀なんだ」
「私用で使う分は、ちゃんと走行距離を報告すること。うちは貧乏事務所なんだからね。年長者の忠告よ」
「…………」
 あっそ。
 なにが年長者だよ、普段おおざっぱなことしか言わないくせに。
「カレー、美味しかった」
 しずくは微笑して将の先に立って歩く。
「最近、コンビニものにも飽きてたから新鮮だったな。片瀬君にお礼言っといて」
「…………」
 私財の全てを、おそらく、ただ同然の値段でJ&Mに売り払った。国内に、もうこの女の居場所はないに違いない。
 今しかない。
 確かにりょうの言うとおりなのかもしれない。
 このコンサートが終わったら、2005年が終わったら。
 この女は、再び日本を出ていくつもりなのだろう。
「どこに帰んの?」
「ん?泊ってるいつものホテル、悪いけどシングルだから」
「…………誰が泊まりたいっつったよ」
「ここでタクシー拾うから、もういいわよ」
 聞けよ、俺の話。
 初めて、しずくの双眸が将を見上げた。
「なに、これ」
「別に」
「……ふぅん」
 冷たくて滑らかな手。
 小さいな、将はそんなことを考えている。
 背は変わらないのに、こんなに小さくて細い手してたんだ、こいつ。
 そのまま、しばらく無言で歩き続ける国道沿い。
 繋いだ手をふりほどきも茶化しもしないしずくの気持ちが、将にはいつものことだが、まるで読めない。
 ようやく、その横顔が唇を開いた。
「怒ってないんだ」
「俺?」
「もっと怒られると思ってた、覚悟して来たんだけど」
「……親父のこと?」
 わずかに笑って、しずくは小さく頷いた。
「夏の騒ぎどころじゃなくなるかもね」
「…………」
 将は、少し黙ってから口を開いた。
「さっきも言った、お前のこと信じてるから」
「あはは、無条件に信じられてもな」
 しずくは天を仰いで笑う。
 信じている。
 信じてはいる、が――。
 将自身が、そもそも父親の素顔をよく知らない。生い立ちや経歴は教えてらっても、肝心な部分がよく判らない。いや、判りたくなくて、無意識に今まで逃げてきたのかもしれない。
「その前に、俺があんたから、親父のこと訊いてもいいか」
「ん、いいよ、なんでも聞いて」
「…………」
 将はひとつ息を吐く。
 覚悟はしていても、やはりその先に踏み込むには、ある種の心構えが必要だった。
「奇蹟は……いつ、作った曲なんだよ」
「多分、彼が亡くなる直前。最後に会った時に曲ができたって教えてもらったから、その少し前だと思う。海よ、君は車の中だった」
 ……あの時か。
 記憶の中のリフレイン、男が女を愛する時。
 あれが、最後だったのか。
「デモテープと映像をもらったのは、彼の死を知らされた後。聴いてみて驚いたし、涙がとまらなかった、わかるでしょ」
「…………」
「あれは、自分のために作った曲でも、ハリケーンズ復活のために作った曲でもない、君のために作った曲だから」
「…………」
「君にために遺した曲……どうしても、彼が自分の作品として、この世に遺したかった曲」
 胸にこみあげたものを振り切って、将は視線だけを伏せた。
 暖かな手、幻のような声。
 生涯でたった一度きりの思い出。
「親父は、自分が死ぬのがわかってたってこと?」
「……そうじゃないの、そういう意味じゃない」
「そんな風に聞こえたから」
「………正確には、彼は死んでいたのよ、死ぬんじゃなくて、あの時すでにアーティストとしては死んでいたの」
「どういう意味?」
「…………」
 しずくの横顔に、少しだけ迷うような色が浮かんだ。けれどそれは、すぐに笑顔で上書きされる。
「もう曲が作れなくなってたって意味かな。哲夜風にいうと、神が降りてこなくなったってこと」
「……ふぅん」
 少しそこに、別の含みがあるような気もした。気のせいかもしれないが。
「そんな中できた曲だから、……大切にしたかったのね。自分の死後、版権が東邦に流れないように、だからわざわざ自分が作ったって言う証拠まで残して、私に預けてくれたんだと思う」
「あの映像?」
「そう……」
 頷くしずくは、やはり、どこか歯切れが悪い気がした。
「不思議だったんだけど」
「何」
「唐沢の親父さんや、古尾谷って人、ハリケーンズでもなんでもない工藤哲夜さんまでいるのに、どうして城之内会長は、あのテープに映ってなかったのかな」
「…………」
 少し考えるよう目になって、しずくは長いまつげを伏せた。
「正直に言うと、あのテープができた本当のいきさつは、私にもよく判らないの。唐沢のおじさまや古尾谷さんにしても、城之内のおじさまを驚かせるために静馬が仕組んだんだろうって、その程度にしか理解されていないようだし……そんな映像が残されていること自体、ご存じなかったようだったし」
「城之内会長は、親父の実の兄さんなんだろ?」
「そう……今思えば、その時、城之内のおじ様にも声をかけていれば、あんな無残な別れ方をしなくてすんだのかもしれないわね」
「……死んだってこと?結局、会えずに」
 しずくは小さく頷いた。
「あの時は、私が城之内のおじさまに連絡をとって、4人で会う約束を取り付けていたの。なのにその前に、静馬さんは、唐沢さんと古尾谷さん、それから哲夜にこっそり連絡をしていたってことになるのかしらね。……なんでそんな真似をしたのか、その理由は、私にもよく判らないけど」
「…………」
 奇蹟の制作過程を、映像として残すため……だったのだろうか。
 だとしたら何故、その場に城之内会長が呼ばれることがなかったのだろうか。
 再会の仲立ちまでしたしずくに一言も伝えることなく、いってみれば極秘裡に、何故。
 将には、まだしずくが何かを隠しているような気がした。が、しずくは苦笑して肩をすくめた。私にも判らないことはあるのよ、とでも言いたいように。
「永遠の謎ね、真実を知っている人は、もうこの世にいないから」
「……謎、か」
 結果、何年もの時を経て、その時撮られた映像が、奇蹟の版権を東邦から守ったのだ。
 そこまで、静馬という男は計算していたのだろうか。
「今、城之内会長は?」
「入院中……病気なの、もう意識は殆んどない状態」
「そっか……」
 うなずいたしずくが、気を取り直したように将を見上げる。
「他には?」
 親父とあんたは、どういう関係だったの。
 そう訊こうとして、やめた。
 今更聞いて、何がどうなるというものでもない。
 この世にいない人には、たとえ何をしようと、決してかなうわけがないのだ。
「おふくろのことは、知ってる?」
「一度だけ会ったわ。こういっていいなら、君はむしろ、お母さんによく似てると思う」
「…………」
 見つめられる。けれど、先に目をそらしたのはしずくの方だった。
「綺麗な人だったわ、理知的で、優しそうで、それでいて芯が強そうで、私が何年も忘れられなかったのは、実は静馬さんじゃなくて、タカコさんの方だったのかもしれないって、後になって思ったくらい」
「タカコ……?」
「多香子、多いに、香るに、子供、君を生んだお母さん」
 初めて聞いた実母の名前。
 将は不思議な感慨で、しばし言葉が出なくなる。
「生まれつき心臓が弱くてね。後から聞いたんだけど、出産には耐えられない身体だったみたい。それでも、どうしても子供が欲しかったのね、そうして生まれたのが君、お母さんの命を引き換えにして出来た命」
「…………」
 出産後、間もなくして死んだとだけは聞かされていた。
 俺のために、死んだのか。
 俺を、産んだためだけに。
「君が聞いてないなら、それだけは、柏葉のお父様のご配慮だったのかもしれないわね」
「…………」
 それを、もし多感な時期に聞いていたらどうだったろう。もしそれを、養母への複雑な思いと重ねたり比べたりしてしまっていたら。
 確かにその通りかもしれない。実母のことを、曖昧に濁されていたのは、もしかすると、柏葉の父の、妻への配慮だったのかもしれない。
「私はね、悔しいけど一度も君のお父さんの視界に入ったことはないの。彼が大切にしていたのは、多香子さんの思い出と、ペットのバニー、本当にそれだけ」
「バニー?」
 条件反射でむっとする。
 しずくは笑って、少しだけ身体を寄せてきた。
「彼が飼っていたうさぎ、彼は一度も呼ばなかったけど、名前は将」
「…………」
 バニー。
 じゃあ、バニーって……。
 肘で軽くつつかれる。
「君は信じられないくらい幸せ者なんだよ、判るかな、ずっとひねてたバニーちゃん」
「……うるせーよ」
「他には?」
「……もう、いいよ」
 腑に落ちなかったもの全てが、今は納得できた気がする。
 その状況で、急性アルコール中毒で死んだという親父の死に方だけが、なんとも情けない気はするが。
 それも、ありなんだろう。
 人は、強くもないし、完璧でもない。みんな弱さを許し合って生きているものだから。
「最後に、いっこだけ、いいか」
 それでも将は訊いていた。
「前も聞いたし、答えも知ってる。でも、もう一回、聞きたい」
「なに?」
 しずくは不思議そうに瞬きをする。
「今、お前が見てるのって……誰?」
「は?君以外の誰を見てるの?」
 返事は即答。思いっきり眉をひそめたしずくは、将の目の前で手を振って見せた。「ほら、視界、入ってない??」
 いや…………。
 空気、読めよ。頼むから。
「さて、現実のストームに戻るけど」
 あっさり話題を変えたしずくの声に、元の張りが戻った。
「君はわかってるんでしょ、綺堂君も判ってると思うけど、情熱王国に出ることの本当の意味」
「………東邦とケンカするってことだろ」
「そう、しかもまるで勝ち目のないケンカ」
「あんたらしくないね、負けるって判ってる勝負に手を出すわけ?」
「だって勝負をするのは私じゃないもの」
「…………」
 しばし黙った将は、うつむいてわずかに笑った。
 本当に……この女は。
 何を見てるのか知らないけど、どうしてそんな無謀な賭けができんのかな。
 つか、俺のこと、本当に少しくらいは大切に思ってくれてんのかな。
 つないだ手に、少しだけ力がこめられたような気がした。
 信じているし、信じられている、今はもう、それだけしかない。
「そういや、さっき、おふくろからメールあったよ」
「なんて?」
「テレビに出るなら言葉には気をつけろってさ」
「……早いのね」
 取材の合間に電話を入れた。おふくろは――親父が説得してくれたんだろう。
 気丈なメールをくれた心配性な母親の心中を察し、将は胸が痛くなる。
 しずくはおどけたように、将を見上げて笑った。
「そういや私、お母さんには目茶苦茶嫌われてるんだった。間違っても君のお嫁さんにはなれないわね」
「………………」
 どういう冗談だよ、それ。
 赤信号が目の前にある。横断歩道の先の陸橋の下、空車待ちのタクシーが止まっているのが見えた。
「この信号が、青になるまででいいから」
「……そっか」
「早く帰ってもう寝なさい、喉にも肌にも夜更かしは大敵よ。綺堂君に言われたボイトレのコーチなら、明日中に手配しておくって伝えて」
「ありがとな」
 つないだままの手が、今は少し暖かい。
「…………」
「…………」
 遠くで、クラクションの音がした。
 体温が感じられる距離。
 互いの鼓動の音が、混じり合って聞こえるような気がする。
 やべー。
 今、すげー、好きな気持ちでいっぱいになっている。
 離れている時は、逆に信じられたものが、一緒にいると判らなくなる。こいつは俺のこと、本当はどう思ってるんだろう。
 苦しい。
 離したくない。
 もっと触れて、キスして、抱きたい。
 ずっと、このまま一緒にいたい。
「じゃ」
 青い光とともに、するりと体温がすり抜けていく。
 振り返り、笑顔で手を振ったしずくは、少し早足で横断歩道を横切って行った。
「…………」
 その細い姿がタクシーに乗り込むのを見届けてから、将はきびすを返して歩き出す。
 ポケットに手を入れようとして、ふと止める。まだ、未練のような残り香が、重なっていた場所に残っているような気がした。
 手のひらにそっと唇を寄せてから、将はそのまま歩きだした。



「大丈夫ですか」
 走り出してすぐのタクシー、運転手の問いかけに、目を閉じていたしずくは顔を上げる。
 バックミラー越しに見えるのは、まだ若そうな青年だった。新人なのか、制服があまりさまになっていない。
「なに?お金なら持ってるわよ、酔ってもないし」
「いえ、顔色が随分悪そうだから」
「もともと悪いの、実はその辺の道路で死んだ幽霊だったりして」
「こっ、怖いこと言わないでくださいよ」
「こんな美人の幽霊はいないわよ」
 笑って、しずくは目を閉じる。
「さっきの人、恋人ですか」
「よく喋るのね」
「あっ……め、迷惑ですね、すいません」
「ううん、面白いから、話してて」
 本当は少し疲れていた。
 身体が、休息を求めて悲鳴をあげているのがよく判る。
「すげーお似合いのカップルだなぁって、信号の手前からずっと見惚れてたんです、俺。彼、あなたにぞっこんなんですね、車が出るまで、ずっとこっち見てたから」
「若いのに、古臭い言葉使うのね」
「す、すいません」
「いいこと教えてあげるわ」
「えっ、なんすか」
「実は彼は年上専門のツバメで、私の方が、むしろ彼に夢中なの」
「そ、そうなんすか」
「もう、いくら入れ込んだか……」
 そっと、涙を拭う真似をする。
「あ、テ、ティッシュあります、こ、ここ」
 しずくは笑って、まだ幻のような体温が残る手のひらを見る。
「冗談よ」
 そして、その手のひらに、そっと唇を当てていた。







                

 

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