AM9:05 東京ドーム バルコニー席




「びっくりした、来ないのかと思っちゃった」
 手を振った末永真白が、開口一番そう言ってくれた。
「本当は観ないつもりだったんです。でも、なんとかギリで間に合ったみたい」
 息を切らして、凪は言った。
 アリーナと二階席の間にあるパルコニー席。最前列、隅の方だが、見通しは良好だ。
 場内はストームコールで揺れている。開演予定時刻を遅れること五分。いまだ出てこないストームにしびれを切らしたファンが、すでに立ち上がってコールし続けている。
 そんな轟音のような喧噪の中にあって、凪のために雅之が用意してくれた席の周辺は、まるでエアポケットのように静かだった。
「うちの親なの」
 真白に声をかけられ、凪は慌てて頭を下げる。
 真白の隣には、先日の結婚式でも顔を見せた上品そうな婦人と、そしていかつい職人風の男が並んで座っている。
「凪ちゃんは、一人?」
「成瀬、弟も誘ってくれたんだけど、みんな忙しくて」
 そう言うと、真白がそっと顔を寄せてきた。
「ここファミリー席みたい。さっきからストームによく似た顔がいっぱいなの」
 えっ。
 と、凪は慌てて周囲を見回している。
 末永パパの隣では、少し影のある美貌の男が所在なげに指を唇にあてている。横顔がそっくりだった。片瀬りょうの父親。
 その隣には、可愛らしい顔をした小柄な女性の2人連れ。顔だちは双子のようだが、年齢にかなり開きがある。これも一目で判った。東條聡ファミリー。
 で、その隣には、
「わっ、ご無沙汰してますっ」
 思わず凪は立ち上がって頭を下げている。
 成瀬のお母さん。あまり家にいないという証券マンの父親の姿もある。
 にっこり笑って手を振ってくれる無邪気な成瀬ママの顔が、今日はまともに見られない。すいません、私……あなたの息子さんと、その。
「すっごい、やりにくいんですけど」
「でしょ」
 真白と顔をあわせ、思わず囁き合っている。そして気づく、視界の端、誰かがそっと手を振っている。凪は背後を振り返って、あっと言葉を呑んでいた。
 梁瀬恭子。
 隣には小さな女の子が座っている。
 眼鏡をかけて、別人のように清楚になった女は、凪に小さく会釈すると、そのまま娘に向き直った。
―――元気になったんだ……娘さん。
 少しだけ胸が熱くなりながら、こんな席に元カノと今カノを同席させた成瀬の無神経さに首をかしげたくなっている。ほんっと、バカ。ま、いっか、今夜はぎりぎり彼女じゃないし。
 それにしても、すごい。
 ファミリー席の衝撃から立ち直った凪は、あらためて圧倒的なドームの広さに呑まれていた。
 東京ドーム。
 日本最大級のコンサート会場。
 総収容人員55000人。
 ここに単独で立てるアーティストは、日本でもまだ限られている。
 卵の内側のような巨大天井。その4方向から、いくつかの照明が筋になって、アリーナ席に落ちている。
 まだ開演前なのに、場内はスモークがたかれたあとのようにけぶっていて、凪の眼にそれは、まるで聖なる場所に、天の光が降り注いでいるかのように見えた。
 それよりなお圧巻なのが、アリーナを埋め尽くした人、人、人。
 円形のドームをぐるりと覆うスタンド席。そこも全て人で埋まっている。2階、3階、天井近い端の端まで、ぎっしりと埋め尽くされている。
 圧倒される。
 正直言えば、少し怖い。人が巨大な集合体になった時、それはどういうものに変化するんだろう。
 いや、それ以前に、これだけの人をひとつに集めることができるストームとは、一体どういう存在なのだろう。
 ふっと、前触れもなく照明が消えたのはその時だった。
 かつて一度だけコンサートに出た凪は知っている。この瞬間が、J&Mショックと呼ばれる場面のひとつだ。
 立ちあがった五万五千の観衆から、一斉に、歓声と悲鳴があがる瞬間。
 その地鳴りがするほどの声は、舞台裏、出番を待っているアイドルにも当然届いている。
 その瞬間彼らは、一気に脳天がしびれるほどの快感を味わうのだ。
「わっ、すご……」
 コンサート初体験なのか、真白が驚いて耳に手をあてている。
 その驚きは、周囲の家族たちも同様のようだった。
 凪は一人、胸がすくような快感と高揚を感じていた。そう、これだ。この歓声が、この雰囲気がJ&Mだ。他のアーティストには絶対に真似できない。ここまで熱烈に存在自体が愛されるものなど、この世界には絶対にいない。
 暗いドームの中、まるで水面に輪が広がるように、青いペンライトが闇を埋め尽くしていく。アリーナ、二階席、三階席、全てが青のライトで塗り替えられていく。それは、いっそ凄絶とさえいえる美しさだった。
 まるで映画のオープニングのような、重厚な音楽が流れだす。最初はさぐるように、やがてクライマックスに向かうように。それは否応なしにこれから起こることへの期待をあおり、ますます声援をヒートアップさせる。
 メインステージに設置されている巨大スクリーン。
 そこに初めて、ぼやけた文字が滲みだした。それはすぐに、輪郭をあらわにしていく。
 綺堂憂也。
 つんざくような悲鳴があがった。
 成瀬雅之
 泣くような声が、そこに混じる。
 東條聡
 ひときわ高くなった明るい歓声が、聡の優しいキャラクターをよく表している。
 片瀬りょう
 さすがの凪も耳をふさいだ。隣席の真白は、どこか不思議そうな眼でこの光景を眺めている。
 しかし、圧巻は次の文字だった。
 柏葉将
 悲鳴、歓声、嬌声、それら全てがまじりあった地響きのような声が、ドームを包み、席巻する。
 すごい。
 凪は眩暈を感じて、揺れるドームを見回した。
 この期待度の高さはどうだろう。
 信じられない。まだ、名前だけで、本人が出てきたわけじゃないのに。
 全ての名前がフェイドアウトする。
 そして、再び闇になったビジョンに、最後の文字が浮かび上がる。
 STORM
 その瞬間、メインステージが照明に照らし出された。
―――え?
 怒号のような歓声の中、凪は目を疑っていた。
 ステージ上空に設置された巨大セット、そこに浮かび上がるシルエット。
 でも、その数は4人しかいない。








PM9:10 静岡県レコードショップmakimoto


「え、なんで一人いないの?」
「演出だろ?さっすがJ&M、引っ張るだけ引っ張る気なんじゃないの」
 いつの間にか、店頭の前には人が集まりつつあった。
 商店街から駅へ続く帰り道。いくら人どおりが多いといっても、年末の午後九時すぎ、さすがにサラリーマンの客はいない。
 店の展示ケースに置いてあるパソコンの前で足を止めるのは、たいていが最後のセールスを終えたばかりの商店街の人たちである。
 演出か、アクシデントか。
 一瞬確かに客席はどよめいたが、それは続いて爆発したメインステージを囲む花火で、一気に歓声に変わった。
「こういうのって、街頭で流しちゃっていいの?」
 店内を片付けていると、外から顔馴染みの電器屋が訊いてきた。
「ちゃんとピーテレに確認したよ、金とらなきゃいいんだってさ」
 牧本大悟はそう答える。
 実際、考えられないと思う。
 見ただけでわかる。舞台セットも照明も、ものすごい金をかけたコンサートだ。それを、ほとんど無料で公開する。スポンサーから金が入るならともかく、そうでなければ、まさに捨て身としか言いようがない。
「しかし、すごいね」
 寿司屋の親父が、感嘆したように呟いた。
「どんだけ人気があるんだ、こいつらって。客の声で歌なんか聞こえねーじゃないか」
 確かにそれは、圧巻だった。
 コンサートというより、観客を見ているだけでぞくぞくっと鳥肌がたつようだ。
 ストームの歌声には、全て観客の大合唱がかぶさっている。同方向に揺れるペンライト、踊って、揺れて、歌う客席。中には泣いている客もいる。まるでそれ自体、ひとつの巨大な生き物のようだ。
「うおっ」
 スーパーの店長がのけぞった。
「すげー、動いてるぞ、このステージ!」
 メインステージ中央が、切り取られたようにせりあがる。
 折りたたみの脚がのびあがり、その高さはアリーナ席の数メートル上になる。そのまま、ステージが、ゆっくりとアリーナ中央めがけて動き出す。
 その上には、綺堂憂也、成瀬雅之、東條聡、片瀬りょう。
 黒と赤をベースにした異国の軍服のような衣装を身につけている。
 全員が、テレビで見たときは別印象のようにスマートで、足が長くて綺麗だった。

 僕はそこで立ち止まる
 漆黒の世界に響く 綺麗な波の音
 あと一歩 そうやって僕の背中を押す


 「うわっ、うまいな、これ本当に歌ってんだ」
  東條聡。
  その歌声の上手さは折り紙つきだ。
  娘の影響ですっかりストーム通になってしまった大悟は頷く。

 そっと背に触れた温もり 
 君だと気づいた時
 目を閉じたままの幼い僕は
 差し込む光を体中で受け止めた


 綺堂憂也。
 その背後で、片瀬と成瀬が踊っている。
 ステップを踏んで、ターン、ムーブ、そして目にも止まらない早さで、逆方向にターン。
 素人目にも、一糸乱れぬそのダンスは、かなりの鍛錬を積んだもののように見える。
 手をあげる、下ろす、上を向く、横を見る。すべてのタイミングが、小気味いいほどぴったりとあっている。

 愛する歌 切なき音
 白い鳩は誰のもとへ
 伝えたい言葉は
 宝箱に仕舞い込んで


 生声だろうか、牧本は内心驚いていた。少しだけずれているし、CD収録曲とはあきらかに違う。が、決してCDには劣らない、見事な4人のハーモニーだ。
 ポップな曲調。
 場内は怖いくらいヒートアップしている。それを、綺堂がさらにあおる。
 片瀬も成瀬も東條もあおる。
「踊れーーーッッ」
「声だせーーっっ」
「最後までついてこいよ、東京ドー――――ム」
「今夜はみんなで最高の夜にしようぜーーーーーっっ」


 アクシデントでは、ないか。
 大悟は安堵の息を吐いている。
 奇蹟以来、すっかりストーム贔屓になってしまった。女房から無駄なことはよしなさいよ、と言われたにも関わらず、こうやって街頭でコンサート映像を流そうと決めたのもそのせいだ。
 アクシデントではないだろう。
 でなきゃ。
 大悟は、液晶の中で最高の笑顔を見せている4人を見る。
 よほどこの場に立てたことが嬉しいのだろう、見ているこっちまで、幸せになるような無邪気な笑顔だ。子供だな、と思うと同時に、こんな子供をあそそこまで追い詰めた世間が、なんだか憎らしくなってくる。
 もし、これがアクシデントなら。
 もし柏葉がいないのがアクシデントなら、こんな顔ができるはずがない。







PM9:15 冗談社


「やっぱり、マトリックスがあやしくないかい」
 ケイは、髪をぐしゃりとかきあげながらそう言った。時刻はすでに九時を回った。焦燥だけが募っていく。ミカリも柏葉将も、いまだ見つかったという連絡はない。
「マトリックスねぇ」
 高見は気のりしないようだ。
 その高見はパソコンを使い、何百通りものアナグラムから、パスワードを探そうとやっきになっている。 
 しかしそれも、さすがにお手上げのようだった。
 9時7分、予定より7分遅れでコンサートは開始された。
 その模様は、ミカリのデスクに置かれたノートパソコンで映し出されている。
 覚悟はしていたが、4人だけのステージ。オープニングで一瞬どよめいた観客は、今はその4人と派手な演出に乗せられて、すっかり当初の違和感を忘れている。が、それも時間の問題だろう。20分たち、30分たち、1時間もたってまだ柏葉将が出てこなければ、もう誤魔化しは通用しない。主催者側も、なんらかの説明をしなければならなくなる。
「あたしが最初のカンにこだわりすぎてるのかもしんないけどさ、どうもそっちから頭が離れないんだ。だって今まで味もそっけもなかった白馬の騎士のメッセージがだよ、最後のこれだけ、妙に詩的で意味ありげじゃないか」
「まぁ、これ自体が暗号だから……」
 言いさした高見が、天井を仰ぐ。「マトリックス、か」
 ケイは、椅子を引きずって、高見の傍に身体を寄せた。
「マトリックスってのは、あんたみたいなサイバーオタクには、教典みたいな映画なんだろ?電脳世界、暗躍するハッカー、まるであんたと白ウサギ、それから白馬の騎士みたいじゃないか」
「…………」
 高見は黙ったまま、天井を見つめている。
 その白ウサギ、こと元中核派に所属していたお尋ね者のハッカーは、ネットの向こうで、今も高見とケイの指示を待っている。すでに侵入するためのトラップは仕掛けられているに違いない。難攻不落、一度の失敗が命取りになる東邦EMGの社内ネットに。
 午後9時15分。東邦主催のパーティも始まっている時間だ。
 いずれにせよ、もう迷っている暇はない。
「辞書で調べたけど、マトリックスには、母体って意味もある。母体、真田さんの母親の線はどうだい」
「それなら最初に潰しましたよ。外国の方ですからね、ファーストネーム、相性、略称、全て潰してみましたけど、しぼりきれませんでした」
 疲れたように高見。
「母親じゃないなら、なにか別の意味があるんだよ」
 自分の中の野生のカンが。
 絶対にここだと告げている。ケイは口調を強めて続けた。
「母体、母体だよ、つまり全ての源ってことだ。すべての根源、ここに至った全ての原因だよ。真田さんをここまでさせる動機はなんだろう。真田さんが、ここまでJ&Mを憎むようになった理由ってなんだろう」
「城之内静馬への、こだわり、ですか」
「あの人は、静馬に刺されたんだ」
 頭の中で、何かがひらめいた気がした。
「じゃ、なんだって静馬は、真田さんを殺そうとまで思いつめたんだろう」
 多分、そこに。
 高見のいうところの、最後のピースが隠されている。
 パズルを完成させるための。
「彼は、公判でも、理由を一言も語っていませんよ」
 高見の声にも、焦燥が浮かんだ。
「それを、これから探し出すのは不可能です。でも、……でも」
 忙しなく、パソコンのキーを叩き、高見は画面を睨みつける。
「確かにそこに、私もひっかかりは感じたんです。真田さんの経歴にことさら闇の部分があるのが、城之内静馬に刺された前後。実は大森を行かせた理由もそこなんですが」
 大森。
 すっかり存在を忘れていたケイは、思わず空いたデスクを見ている。
「静馬の裁判中に、真田孔明の愛人が子供を産んでいるんです。逆算すると事件の少し前に妊娠したことになる」
「その女が、実は静馬の女だった」
「ち、違いますよ、静馬の恋人なら」
 一瞬拍子抜けした高見の顔色が、その刹那変わった。
「……いえ、もしかして」
 電話が鳴った。ケイの携帯。着信は大森。
「大森かい?」
『わっ、わかりましたよ、真田孔明の愛人の件っ』
 声が思いっきり上ずっている。
 ケイは高見を見る。高見はもう、ケイを見てはいなかった。じっと空を睨みつけている。
『地元のホステス仲間に聞いたんです。随分酔ってたから、本当かどうかわかりませんけど。出産は、やっぱり嘘みたいです。別の女性が産んだ子供を引きとるために、お金もらって契約したとか。そっ、その人が言うにはですね。真田孔明の本当の相手は、この地元の、養護施設の出身で』
 ケイは、大森が言った人の名前を鸚鵡返しに呟いた。
 静岡――韮崎。
 どうしてすぐに、その符号に気付かなかったのだろう。
 わかった。
 最後のピース。
「もういい」
 高見がインカムを取り上げたのが同時だった。
「オオカミから白ウサギへ、パスワードはTAKAKO、繰り返す、パスワードはTAKAKO」















 

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