PM9:25 新宿アルタ前



 オーロラビジョンに映し出された映像に、道行く人が、一人一人足を止める。
「なにあれ」
「コンサートだよ、ストームじゃない」
「うそー、超かっこいい」
 その数が、少しずつ増えていく。
「あれだろ、謝罪コンサート」
「いいよなー、芸能人は、何やっても許されて」
「でも、そんな雰囲気じゃないよ」
 画面では、片瀬りょうの横顔が、大きく映し出されている。
 カメラが一瞬捕らえた躍動、弾けるような笑顔に、汗が滴となって飛び散っている。
 カメラがパンする。広いドームのアリーナ。そのアリーナを十字に通る通路を走っている成瀬雅之。
 バク転、歓声、またバク転。
 見事な肢体が着地して、客席に向かってピースサイン。また歓声。
「すっごい人」
「だって東京ドームだろ」
「アイドルファンって怖いな、マジで」
 アリーナ中央のステージには綺堂憂也と東条聡。
 歌う二人のハーモニーに、片瀬りょうの声が被る。
「歌えーーーーーっ」
 中央で、憂也が、歓声をあおるように片腕を回す。
 掛け声にあわせ、観客が一斉に声をあげる。
 鳴り響く歓声が、突き抜ける熱狂が、ほとばしる歓喜が、ビジョンを通して伝わってくる。
「なんか……すげぇな」
「コンサートって歌聞くとこじゃねーの?」
「むしろ祭りみたいな」
「いってみたーい、いきたーい」
「無理だよ、どう見ても満員だろ」
 野次馬が、冷やかしが、少しずつ静かになる。
「ほんとに歌ってんだ、これ」
「踊りうまー、こいつらマジでやってるよ、ダンス」
「ねぇ、こんなにかっこよかったっけ、ストームって」
 テレビの軟弱なバラエティでは、決して見せない顔がある。作り物ではない笑顔がある。
「ほんっとに楽しそうに歌ってんな、こいつら」
 感嘆した声で誰かが呟いた。
 誰の顔も笑っている。
 片瀬りょう。
 綺堂憂也。
 東条聡。
 成瀬雅之。
 アリーナを一周して戻ってきた4人が、再びメインステージでハイタッチ。
 始まりから20分、息もつかせぬスピードを維持したまま、そのステージが動き出す。
 見ているだけで、こちらまで楽しくなるような、最高の笑顔。
「すっげぇー、動いてる、動いてる!」
「なんだか、遊園地のショーみたいだな」
 わっとどよめいた人の輪から、ぽつりとつぶやきが聞こえてきた。
「でも、さっきから、なんで将君映らないの?」






PM9:35 東京ドーム音響編成室


「やりすぎだ、あいつら」
 矢吹一哉が舌打ちをして机を叩く。
 モニターでは、移動ステージに集結した4人が、そろってのバク転を決めた後、激しいダンスを踊っている。
「こんなので最後まで持つはずがない。歌も踊りも、普段の倍以上きついってのに」
 矢吹の声を聞きながら、美波は黙ってモニターを見つめる。
 マイクを持つ東条聡は、ほぼ休むことなく歌いっぱなしだ。
 柏葉将の抜けた穴。それを埋めようと、柏葉のパート全てを被っている。
 踊りも、普段より前後左右に広く動く、スペースを使ったものになっている。それも、柏葉のいないスペースを埋めるためだ。
 そしてなによりも、掴んだ観客の呼吸を逃さないために、普段の倍以上のスピードで、ノリで、休むことなく走り続けている。
「今日が終わったら、もう死んでもいいと思ってんだよ、こいつらは」
 楽しそうに言ったのは植村だった。
「やぶっちゃんみたいに、計算して、体力や喉を温存できるやつらじゃないんだ。ま、言っても無駄じゃない?」
「最後は、喉も足も動かなくなるぞ」
 苦々しく呟いて、その矢吹が、美波を振り返る。
「どうする、リミットはどう持っても前半だ。MCはさすがに誤魔化せない」
「…………」
 それは分かっている。
 J&Mコンサート恒例のマイクコーナーは、飛ばしすぎたアーティストを舞台上で休ませる手段でもあり、ファンとの密接な交流の場でもある。
 そこで、何もかも正直に話して、柏葉登場の可能性を最後まで引っ張るか、もしくはきっぱり諦めて謝罪させ、最後まで4人でやらせるか。
 いずれにしても、そこで流れも空気も確実に途切れて冷える。
 中には動揺して騒ぎだすものもいるかもしれない。
 もし、会場に妨害の意図をもった観客がまぎれこんでいるなら、そこが唯一のねらい目になるだろう。
 柏葉。
 バカ野郎、最後の最後で、お前は一体何をしている。
 このままじゃ誰の気持ちもおさまらない。こんな終わり方を、誰も望んじゃいないというのに。
「ミラクルの後に、4人が舞台裏に戻ってくる。その時に伝えてくれ」
 美波は、眉を寄せながら言った。
「MC5分前までに柏葉が戻らない場合、観客に謝罪して、このまま4人で最後までやる。観客への説明は俺と唐沢さんでやる。そのつもりで覚悟していてくれ」
「それにしても、将君おっせーなぁ」
 ステージで綺堂憂也が、おどけたような声を出した。
 移動ゴンドラにあがった時にわずかにできた曲の間隙、そこでファンの一部が、たまりかねたように柏葉コールをあげたのだ。
「メイクに時間かかってんじゃない?」
 なんでもないように片瀬りょう。
「じゃ、次の曲は聡君の出世作で、ミラクル」









              *





 終わったな。
 シートに預けたきり動かなくなった頭を見ながら、耳塚は思った。
 力なく垂れた腕が、座席の端からのぞいている。
 あっけない幕切れだった。父親と同じで、もう少し抵抗されると思ったが、用心するまでもなかったか。
 ラジオからは、うっとおしいポップスが流れている。


 一人じゃ折れそうな足も
 君が手を取ってくれれば立ち上がれる
 一人じゃ小さすぎる声も
 君とならきっと届く
 一人じゃ高すぎる壁も
 君とならきっと乗り越えられる



「ドーム、サイコーーーーっっっ」
「みんな、最後まで俺たちについてこいよーーーーっっ」
 底抜けに明るい若者たちの声が響く。
 わずかな苛立ちを感じながら、耳塚はライターを持ち上げた。足元にはこの日のために用意した家庭用コンロが置いてある。
 今は眠っているだけの柏葉将だが、この炭に火をともせば、二度と目覚めることはないだろう。
 耳塚側の扉と運転席を除き、窓には全て目張りがしてある。テープには、むろん柏葉自身の指紋が付着している。
 発見されるのは明日の朝か、それとも昼か。いずれにしても、それまでには、柏葉将のいましめは解かれ、自殺だと推定されるに必要な証拠がそろう手はずになっていた。それらの作業には、耳塚が直接手を下すこともない。
「よう」
 低い声がした。
 耳塚は手をとめていた。
 狭い車内、むろん、声の主は一人しかいない。
「悪いやつほど、実はいい人だったりするんだろ。あんたにさ……最後に、礼を言わせてもらえないかな」
 最後の力を振り絞っているのか、かすれた、弱々しい、けれどどこかふてぶてしい声だった。
「夢うつつに色んな死に方想像してたよ。……飛行機おっこちたり、車にはねられたり、余命宣告されたり……色んな終わり方があると思うけど」
 わずかだが、声が途切れる。
「そん中じゃ、そこそこ幸せな死に方じゃねーのかなって思ってさ、今の俺」
「そう思っていただけて幸いですよ」
 神経にきたか、それとも最後の強がりか。
 ライターを押して、耳塚は火種に火をつける。
「俺がいなくても、大丈夫だろ」
 夢をみているような声だった。
 耳塚は目をすがめる。
 彼は実際、夢を見ているのだ。今、4人の仲間と共に、ドームに立っている夢を。
 歓声が聞こえる。掛け声が聞こえる。歌声が聞こえる。


 
君と僕は同じじゃない
 顔も声も手も足も 
 好きな色 見たい映画 得意分野も料理の味も
 同じものは何一つないけど

 違う手だから取り合える
 違う身体だから抱き合える
 違う声だからハーモニーが生まれ
 違うからこそ分かり合う喜びがある



「聞こえるだろ、あんたにも。すげーな、みんな、4人できっちりドーム仕切って盛り上げてる。いや、4人じゃないんだ、5万人の仲間があいつらにはついてるんだ。あんたが、何人ドームに送り込んだか知らないし、仕掛けがあるのかもしれないけど、関係ない、もう全然関係ない」
『今日はほんっとーにありがとう』
『最後まで一緒に楽しもうぜ』
『絶対にみんなを幸せにしてやるからなーーっ』
 ラジオから聞こえる声。
 歓喜と希望に満ちた声。
 光だ。
 4人の仲間が光の下にいる。
 なのに、影に、今、この男は横たわっている。
 耳塚は冷めた目で、柏葉将の動かない手を見る。
 なのに、この男は、まだ絶望していないのか。
「最高の、気分だよ」
 動かない手が呟いた。
「本当にありがとう。こいつらの歌を聞きながら死ねるんだ。人生に、
これ以上の見せ場なんてねぇよ。……あんたには、感謝してる」
「…………」
「ありがとう……」
 途切れた声。
 歌声だけが響く車内。
 ばかばかしい。
 しょせん、負け犬の強がりだ。
 冷ややかに眉をひそめ、耳塚はオーディオに向かって手を伸ばした。最後の最後で詰めを誤った。こんなものをつけるのではなかったか。
 ふいに、凶暴な闇が動いた。
 耳塚は声をあげていた。
 獰猛な獣に指を食いちぎられるような感覚だった。渾身の力で振りほどく。
 皮手袋は破れ、裂けた皮膚から血がしたたった。急いでハンカチで包んだが、血痕がぽたぽたとシートに落ちる。
「よう、これであんたのDNAが、俺の歯にも車にもばっちり残っちまったな、おっさん」
 血まじりの唾を吐き捨てながら、振り返った柏葉将がにやりと笑った。
 薬を、飲まなかったのか。
 耳塚は冷静に拳銃を取り出している。ロシアから密輸入した最新式の消音銃。
 矢口組を経由すれば、この程度のものなら簡単に手にはいる。
 が、柏葉将は、そのまま勢いよく頭をステアリングにたたきつけた。
「??」
―――気でも、狂ったか。
 刹那に思ったが、すぐにそれは大きな過ちだと思い知らされる。
 激しいクラクションが鳴った。
 押しつけた頭の下から、途切れることなく大音量が鳴り響く。
「無駄だといったろう」
 耳塚は襟首をつかみあげた。
 しかし、柏葉はひるまない。再度、その腕を振りほどくように、頭からステアリングにぶつかっていく。
 静かな夜に、まるで悲鳴のようなクラクションが鳴り続ける。
―――こいつ。
 髪を掴んで顔をひきあげさせる。
 そのまま喉に腕を回した。うめいた柏葉は、しかし、次の瞬間、頭上にせりあがっている。
 頭突き。鼻に強烈な衝撃を受け、さしもの耳塚の腕がゆるんだ。
 そのまま、柏葉は自由な足を振り上げる。それは再びクラクションを叩き、大音量が車を囲む木々を震わせた。
「無駄だ」
 髪を掴んでぎりぎりと引き上げながら、耳塚は言った。
「ここに、人は誰もこない。騒いでも誰も助けにはこない」
「ところが、無駄じゃないんだな」
 柏葉の足は、まだクラクションの上にある。
「年長者の言うことは聞いとけって、大人の忠告律儀に守ってよかったよ」
 なんの話だ。
「走行距離、俺がマンションについた時から60キロ程度しか動いてねぇの。ここ、東京都内だろ」
「…………」
「わりーな、うちの事務所貧乏だからさ、いちいち走った距離報告しなきゃなんねぇんだよ」
 もう、自殺の線は無理か。
 というより、これ以上ここで騒がれるとまずい。
 耳塚は運転席の扉を内側から開けてやる。そして、待っていたように転がり落ちる柏葉より早く、その前に立ちふさがる。
「楽な死に方より、苦しい死に方を選ぶわけですな」
「どっちだって死んだら終わりだ」
 両腕を背後で拘束されている柏葉は、まだ体勢を整えられない。
 耳塚は、その顎めがけて足を思い切り振りあげた。
 うめいてのけぞる腹を、背を、容赦なく蹴りつける。
 咳き込んで、海老のように丸まって呻き、それでも、耳塚を見上げた柏葉の目は笑っていた。
「あんたって、面白いな」
 無言で、拳銃を突きつける。
「あんたがこんなことまでするのは、真田のおっさんのためか、それとも自分の満足のためなのか。この程度のことで喜んでるなら、あんたも真田のおっさんも、変人だとしかいいようがねぇな」
「なんとでも」
 安全装置をはずす。
「君をコンクリにつめて、海に沈めるのは、確かに少々手間ですがね」
「金も時間もあまるほどあるんだ。ほかに楽しいことなんて、世の中にはいっくらでもあるだろ」
「私の価値観が君に理解できるとは思えませんな」
「なんで?人間で、男ってことだけで、価値観なんてある程度同じだろ」
 同じなものか。
 貴様に――。
 貴様などに、俺とあの人がたどってきた道が、理解できるものか。
 指が無感動に引き金を弾いた。
 それは、一瞬身をすくめた柏葉の頭上数センチの草の中に打ち込まれる。
「坊ちゃんは、夢をみているんですよ」
 息を荒げながら、柏葉がいぶかしげに眉を寄せる。
「子供の頃、クラスの人気者だった友だちに混じって遊ぶ夢です。私にも、坊ちゃんにも、決してかなわなかった夢だ」
「…………」
 拳銃を右手に構えたまま、耳塚はポケットから飛び出しナイフを取り出した。
 鋭い刃が、冷えた月光を受けてきらめく。
 そのまま柏葉の身体に馬乗りになった。胸部を圧迫されて息が詰まるのか、綺麗な男の顔が、苦しげに歪む。
「このまま」
 刃のきっさきを、柏葉の額にあてた。
 強く押し付ける。それだけで人の柔な皮膚は簡単に裂け、一筋の血が額を伝って耳に流れた。
 肩で息をしたままの柏葉は、それでも気丈にのしかかる死神を見上げている。
 人の顔など、しょせんこの薄皮一枚だ。
「君の顔を縦に切り裂いたら、どうなると思いますかな。綺麗な鼻筋はふたつに裂け、唇はいわゆるミツクチと呼ばれる異形になる。二目と見られない醜悪な顔だ」
「…………」
「その顔で、何年も生きながらえるのも、悪くない選択ですな」
「やれよ」
 即座に言って、柏葉は笑った。
「それで、俺の何かが変わるとは思えないけどな」
「…………」
 わずかに笑い、耳塚は指に力をこめた。
 やはり、こいつは。
 生かしてはおけない。
 ふいに、背後に危険の匂いを感じたのは、その時だった。
 振り返った刹那、手首に激しい衝撃が走った。



「はっ、早くっ、柏葉さんっ」
 意味が、分からない。
 背後から将を引き起こし、必死でいましめを解いてくれている男。どうして、今、よりにもよって旧J&Mで一番頼りなかった男がここにいるのか。
 そして。
 今しがた将にのしかかっていた怪物と、格闘している男。
 どちらも見上げるほど背が高く、そして凄みのある体格をしている。耳塚と藤堂戒。二人の男は、大木に身体を押し付けあうようにして揉みあっている。
 年齢の若い藤堂の方が圧倒的に有利に見える。それでも、耳塚は危険な武器を保持している。
 腕のいましめがようやく解ける。
「藤堂さん」
「いきなさい!」
 思わず駆け寄ろうとした将を、厳しい声で藤堂は制した。
「こんな男に二度と関わりあってはいけない、君たちはもう、勝ったんだ」
 勝った。
 将は、そのまま立ちすくんでいる。
「わからないのか、君が日本に戻ってきた時点で、もう君たちは勝っているんだ」
 藤堂の異相が、わずかに優しくなったように見えた。
「柏葉さん、早く」
 背後で、小泉が袖を引く。旧J&M時代、ストームの現場マネージャーだった小泉旬。唐沢を通じて新生J&Mに引き抜こうとしたが、ニンセンドープロに残るといって譲らなかった男。
「行きましょう!今ならまだ、ドームに間に合う!」
 間に合う。
 間に合うのか、本当に。将は咄嗟に時計を見ている。午後9時45分。
「無駄だ」
 耳塚がわめいた。
「都内は今大渋滞だ、ドーム周辺は特にひどい、貴様はどうやっても間に合わない」
「後から私も必ず行くと」
 最後に、将を振り返って藤堂は言った。
「唐沢社長に、伝えてください」
 将は頷いて走り出す。
 ドームへ。
 ドームへ向かって。
 もう、迷っている時間が惜しい。
 待ってろ、みんな。
 絶対にたどり着いてやる。
 俺がいくまで――絶対にそこで待ってろ。
 




              *




 耳をつんざくような激しいブレーキ音をたてて停まった車。
 衝撃で前のめりになり、目隠しをされたままのミカリは、額を勢いよく前席のシートにぶつけていた。脚の痛みはもう限界を超えていて、鼓動が脈打つたびに、脳髄まで激痛が届く。半ば朦朧としていたミカリは、そのままの姿勢で動けなくなった。
 ここまでの長い道中、何度も意識を失いかけた。その度に、最後の気力を振り絞って正気を保ち続けてきた。気を失えば楽だろう。でも、同時に万が一あるかもしれない、一縷の望みさえ失ってしまうことになる。
「おらっ、何やってんだ、コラ」
「おのれ、気でも狂ったんかい」
 咆哮のような怒声がミカリの両隣から同時に聞こえ、ドアが開き、冷たい12月の冷気が暖房で温もった車内に流れ込んできた。
「どういうことや、これ」
 運転席からも、男が飛び出す気配がした。
 逃げるなら、今だ。
 濁って行く意識の中で、ミカリの本能がそれを理解した。外からは、獣のような喚き声と、重いものがぶつかりあい、そして水気をおびた何かが踏みしだかれる音が、背筋が寒くなるような恐怖と共に聞こえてくる。
 何かが、起きたのだ。
 自分を拉致して、どこかへ連れて行こうとしている連中に、何か、予想外のアクシデントが。
 両手は背後で縛られているが、怪我をした足は自由だった。ミカリは息を吐いた。熱い。熱で身体が火照っている。歯を食いしばり、動かない足を引きずるようにして、ずるずると後部シートを移動する。がくり、と足場を支えていたものがふいになくなった。そのまま、もんどりうってアスファルトの上に転がり落ちる。額が擦り剥けて、焼けるような痛みが走る。
 逃げなきゃ……。
 どうしたって、這ったって、ここから逃げなきゃ。
 ふいに、背中から腰に腕を回される。力強い腕に抱き起こされる。ミカリは身よじって逃げようとした。
 目隠しが解かれ、視野が唐突に開かれる。ミカリは目を見開いていた。
「じっとして」
 青とシルバーのヘルメット。青のライダースーツを身にまとった男の声は、最初に監禁されていた部屋に、途中から合流した男のものによく似ていた。
「僕は、君を助けにきた」
 男の身体からは、オイルと血の匂いがした。
 そのままヘルメットを脱いだ男の顔を、ミカリはどこかで見たと思っていた。どこだったろう、すごく、すごく身近なところで……。
 男の手が傷を負った脚に触れる。知覚が麻痺しているのか、もう、何も感じない。
 背後では、もう何の物音もしない。怖いほど静まりかえっている。
「柔道の絞め技です。殺してはいません」
 落ち着き払った、理知的な声だった。
「折れている……随分ひどい。すぐに救急車を呼びましょう。僕は一緒には行かれませんが」
「あなたは……?」
 ミカリは訊いた。
 安堵がミカリから、緊張感を奪いかけていた。
 男は、横顔だけを見せてわずかに笑った。
「白馬の騎士」






PM 9:50 冗談社


 侵入成功
 打ち出された文字に、ケイは思わず拳を握りしめている。
 やった。
 難攻不落の壁を、打ち破った瞬間。
「大変なのはこれからですよ」
 高見が、時計に目を走らせながら言った。「もう時間がない。ここからどう、真田さんに接触するかです」
 確かにもう、一刻の猶予もない。時刻は9時50分。
「あたし、バンビ」 
 ケイは、高見のインカムを取り上げた。
『随分老けた子鹿だな』
 てっきり肉声かと思って身構えたケイは、拍子抜けして高見を見る。
 完全に変換された、テレビでよく聞く匿名告発人の声である。
「こっちからの声も、音声を変えてます」
 高見が小声で囁いた。
 一体どんな声にしてるんだろう、咳払いしてケイは続ける。
「今、のぞいてる箱には何がある?何かおいしいものでも入ってる」
 しばしの沈黙が返ってきた。
『随分なごちそうが入ってる』
「ディナーにしたら、いくらぐらいの値段かな」
『さぁな、軽く、二、三億はいくんじゃないか』
 それは。
 確かに随分なごちそうだ。
 ケイは、手肌に鳥肌がたつのを感じながら、ひとつ息を吐いた。
「それをデータにして、こっちに回してもらえないかな」
『前にも言った』
 相手の声が少し厳しくなった。
『このデータを迂闊に使うとこっちがやばい。言っとくがコピー禁止、閲覧のみってやつだ』
「それだと何の意味もないんだよ」
 ケイは思わず声を荒げる。
 電話が鳴ったのはその時だった。ケイのデスク。高見がすかさず転送を押して受話器をとる。
「こっちは、友人の命がかかってんだ。私らにとっては、その箱が最後の切り札なんだよ!」
『東邦と取引するつもりなら、悪いが俺はここで降りる』
「…………」
『あんたは、東邦の怖さが何もわかっちゃいない。いいか、この世界ではな、警察と政治家を動かせる奴が、言っとくけど何よりも強いんだ』
 どうにもならないってことか。
『東邦には、それに加えて金融界のバックもついている。この世界じゃもう、怖いものはなにもない』
 もう、どうにも。
「ケイさん」
 高見の大声で、うなだれていたケイは、はっと我に返る。
「柏葉将が発見されました、ミカリもです!」
 思わずインカムをかなぐり捨てていた。
「無事なのかい?」
「2人とも、命に別状ないそうです。ただ、ミカリは怪我がひどくて、しばらくは戻れないって」
 どうなってんだ、この急展開は。
 ま、ハッピーエンドって、こんなものだろうけど。
 ケイはインカムを耳にあて、再びパソコンに向き直った。
「白ウサギ、ちょっと事情が変わってさ、色々やってもらって悪いんだけど、」
 もう、
 言いかけて、ケイは言葉を途切れさせていた。
 そうか、――あるじゃないか、たったひとつだけ方法が。
 どうしてそこに、最初に気付かなかったんだろう。
「そのデータ、あんたの手で、世界中に流してもらえないかな」
『はっ?』
「あたしも使わない、あんたも使わない、世界中の誰も使わないけど、世界中のみんなが知ってんだ、これでどうだい」
 沈黙。
 ぶっと吹き出すような笑い声が聞こえた。
『少なく見積もっても、三億のごちそうだぜ』
「食べられなきゃ意味なんてないだろ」
『オーケー、やってみる。ちっとばかし、トラップを仕込む時間をくれ』
 さて、鬼が出るか、蛇が出るか。けれどそんなことは、もうケイにはどうでもいい。
「今の電話、真咲さんからだろ」
「そうです」
 完敗。
 認めたよ、あんたを。
 私もちょっとは惚れてたけど、あんたになら、柏葉将を任せてもいいいかな。
「柏葉将は、ドームに出られるんだろうね」
 あとは、それだけ。
 そうでないと、竜に目が入らない。この物語が終わらない。
















 

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