PM6:45 渋谷NHKホール


「ヒデ」
 最終リハーサルが終わり、本番は十五分後に迫っている。
 衣装とメイクを終えた貴沢は、控え室を出たところだった。背後から河合の声が追いすがってくる。
 振り返った親友の顔には、あからさまな焦燥が浮かんでいた。
「今、増嶋さんからメールきたけど、やっぱ、柏葉がまだ来てねぇらしい。もう七時になるってのに」
「客席にいろよ」
 貴沢は冷ややかに言い捨てた。
「ファンに気付かれたらやっかいなことになる。それにドームのことは俺たちには関係ないだろ」
 客席からここまで一気に走ってきたのか、河合はうなだれ、肩で荒い息を繰り返している。
「悪いが、もう時間がないんだ」
 貴沢はきびすを返そうとした。
「俺、行ってくる」
 は?
 振り返って見た河合の目には、初めてみるような熱い感情が揺らいでいた。
「ドーム、今から行ってくる。増嶋さんも、他のMARIAの連中も行ってんだ。晃一さんも剛史さんも、仕事終わったら行くらしい。緋川さんもだ」
 それがどうしたよ。
 それが、俺と、なんの関係があるんだよ。
「サムライも行くし、なにわも行くし、昔のキッズの仲間もいっぱい来てる。みんな、連絡受けて、いてもたってもいられなくなったんだ。俺行くよ、行きたいんだ。ごめんヒデ、今度はなんて言われても、絶対に変えられない」
 せきを切ったように言いきった河合の目から、ぽたぽたと涙が滴った。
「仲間なんだよ、俺たちは」
 仲間?
 少年漫画じゃねーんだぜ、誓也。
「同じ場所で、同じパッションをわけあってきた仲間だ。どこにいったって、それは絶対にかわんねぇんだ」
 涙を払って、河合は続けた。
「やっと判ったよ、確かに俺たちは特別なんだ。アイドルっつー現実にはあり得ない存在の、辛さも怖さも楽しさも素晴らしさも、やってる俺たち以外には絶対に理解できない。ヒデ、俺たち以外の一体誰が、今のストーム助けてやれるよ!」
 くだらねぇな。
 黙っている貴沢に、そのまま深く頭を下げて、河合はきびすを返して走り出した。
 どうする気だ。
 ドームに駆け込んで、飛びこみでステージにでも立つつもりか。
 そんな真似をすれば、今の事務所から解雇されるのは目に見えている。挙句、干されて抹殺され、ストームの二の舞だ。
 馬鹿げている。
 いつからお前は、そんなバカになったんだ、誓也。
「ヒーデ」
 やわらかい、春の花片のような声がした。
 背後から――貴沢は振り返らなかった。声だけですぐに判った。というより、リハーサルの時から、貴沢の意識には、ずっとこの女の存在があった。
「何やってるの?本番前に友達と喧嘩?らしくないね」
 何タメ口聞いてんだよ。
 お前と俺じゃ、タレントの格が天と地ほど違うのを忘れたのか。
 かつて、アイドル歌手としてデビューしたものの、さっぱり売れず、際どい写真集を出すまでに落ちぶれていた少女は、貴沢よりふたつ年上だった。
 地道な路上ライブが地方でスマッシュヒットを産み、今、女は、若手シンガーソングライターとして、この年末の舞台、話題の人として出演することが決まっている。
「久しぶりだね」
 振り向かないまま、貴沢は女の声を聞いていた。
 今更何を言われても、こちらから言うことはひとつもない。
「怒ってんだ、もしかして」
「…………」
「あたしが行かなかったから?約束の日に、あの場所に行かなかったから?」
「…………」
「頑張ってるね。ヒデのことはずっと見てた、ずっと応援してた。本当だよ、ヒデは、いつだって私の支えだったから」
「…………」
「初めて私なんかと一緒に死んでもいいって言ってくれた人だもん。……本当だよ、ヒデのことが忘れられないから、大好きだから、私はあの場所にいかなかったんだよ」
 死のうよ。
 生きてるより、死んだ方が楽だと思わない?
 がんじがらめに縛られた日々。そこから、初めて抜け出せると思った。
 この女と一緒だったら。
 二人で、駆け落ちの真似ごとみたいに最果ての温泉地まで逃げて、海岸で手を繋ぎ、一晩中海を見ていた。
 朝には、不思議なくらい、死への渇望がなくなっていた。
 東京でお互い頑張ることを誓いあい、そして来年の同じ日に、ここで会おうと約束したのだ。
「俺は行った」
「知ってる」
「ずっと待ってた」
「知ってる……ヒデは一途だもんね、可愛いくらい一途だもんね」
「…………」
「だから、行かなかったんだよ、私」
 もう聞く必要はない。
 貴沢は歩き出そうとした。
 この女が事務所から金銭を受け取っていたという事実を、貴沢は何年もかけて自分の中で整理した。もう、二度と思いだしたくないし、振り返りたくもない過去の思い出。
「信じられないなら、信じなくていいよ。でも忘れないで、ヒデはね、私の光なんだ」
「………………」
「いつまでも、キラキラ、王子様みたいに輝いていて……それが私の、私を照らす光になるから」







PM8:35 東京ドームステージ裏


 絶え間ない波のざわめきのような歓声が、巨大セットの向こう側から聞こえてくる。
 東京ドーム。
 コンサート会場としては、日本一の収容人員を誇る最大規模のステージ。
 全国からかけつけた5万5千人の観客と、そしてドームを取り巻く数千のファンが、幕が開く瞬間をいまかいまかと待ちわびている。
 開演まであと25分。
 衣装をつけ、最後の最後、ぎりぎりまで打ちあわせをしていた4人は、向かい合うように立ち、それぞれの顔を見た。
 東條聡。
 綺堂雄哉。
 成瀬雅之。
 片瀬りょう。
「円陣は、将君が来てからだ」
 聡は言った。
「わかってる」
 残る3人が、それぞれ頷く。
 コンサート前の恒例行事、スタッフとストームで、円陣を組んで気合いを入れあう。
 4人の傍には、緊張の面持ちで、それでも睨むように客席を見ている新人5人が立っている。そして元キッズたちも、それぞれが決意を秘めた眼差しで立っている。
「あ、そうだ、その前に、なんつーの、ちょっと似合わないかもしんねーけど」
 ふいに、雅之がわたわたと、ポケットから青い紐状のものを取り出した。
「お客さんの手に、青いリボンがついてんの、観た?」
「ああ、なんだろって思ってた。新しいサインかな」
 聡。
「流川や碧人君が考えてくれたんだけど、これ結んでると、J&Mの応援団って証拠になるんだって。別に俺らがつけなくてもいいんだけど、なんつーのかな」
「いいんじゃね?」
 憂也が笑った。
「俺らも同じものつけようよ。俺らだってJ&Mの応援団なんだしさ」
「予備あったら、他のみんなにも配ろうよ」
 りょうも、すぐに同意してくれる。
「おいおい、お前ら、なに可愛らしいことやってんのや」
 あきれたような声がした。
 スタッフ用通路から、いかにも芸能人オーラをまき散らしてやってくる2人組の王子様。同じ関西弁でも、この人たちの訛りは柔らかくてどこかやさしい。澤井剛史、そして晃一。
「うわっ澤井さんたちまで??」
「てか、みんな、結構暇なんじゃ……」
 すごい。
 聡は、やや呆然としつつ、自分たちの周辺を見回してみる。
「いよいよやな」
「俺が緊張してきたよ」
「俺らもでられへんかなー」
「無理や、事務所クビになってまうで」
 いつのまに、元J&Mがこんなに集結してしまったのだろう。MARIAもいる。サムライ6もいる。なにわJamsも、それから、
「お前ら、絶対に負けんなよ!」
 河合誓也。
 東邦EMGプロに移籍を決め、今、絶対この場にいるべきではない男もいる。
 ドームが一望できる別室には、美波と矢吹と植村が控え、コンサートの総指揮を執ってくれている。
 ステージ裏、別のエリアでは、REN率いるジャガーズが、最高の音を出すべく待機してくれている。
「将君のおかげかな」
 雅之が、ぽつりと呟いた。
「へんな言い方だけど、みんな将君のこと心配して、ここに集まってくれたような気がするから」
 J&Mが解散して。
 もう二度と、顔を合わせることがないと思っていた仲間たちが。
「よせよ、まるで将君の置き土産みたいな言い方じゃないか」
 明るくそれを否定しつつ、それでも聡も同じことを思っている。
 これで。
 これで将君がここにいたら。
 本当に最高のステージなのに。
 頼む将君。
 間にあってくれ。
 十分でもいい、一分でもいい、このステージに、俺らと一緒にあがってくれ。
 再びスタッフ用通路から、どやどやと人が流れ込んでくる。
「あっ」と、雅之が声をあげた。
 先頭にいるのは、かつてテレビを席巻した「崖っぷちサッカー部」の面々たち。
「おう、雅、激励にきてやったぜ」
「久しぶりやなー、キャプテン」
「がんぱれよ、雅君」
 神尾恭介、ミラクル中田、それから……。
 うるっときた雅之の肩を、先日舞台で共演したばかりおはぎが叩く。
「今日は、自分に負けるなよ、雅君」
 頷く雅之は、耐えきれずに目を指で押さえている。
「東條さーん」
「水くせーなぁ、バックダンサー足りなかったら、まず俺たちに声かけてくださいよ」
「それにしても、すっげーとこでコンサートやるんですねぇ」
 続いて入ってきたのは、ミラクルマンセイバー、そして、尾崎智樹率いる映画スタッフたち。
「なにこれ、こんなとこに初めて入ったわけ」
 長髪をかきあげながら、脚本家の神田川洋司。
「おう、がんばってセイバー復活させてくれや、サトシ」
 オタク監督降木庭に、エヴァ鈴木。
 今度、目をうるませたのは聡だった。
「アイドル、がんばってるかい?」
 りょうが、はっと緊張する。
「片瀬君、来年の海外公演は、ぜひ一緒にいきましょう」
「片瀬、ゆうとくけど、もう佳世はお前にわたさへんで」
「舞台で待ってるわよ」
 海老原マリ率いる、劇団臨界ラビッシュのメンバー。
 それから。
「うわー、すごいねぇ、東京ドームか」
「こんなものを、宮原アニメより選ぶとは……全くわからん」
 ぶっと、憂也が吹き出した。
「なんで保坂さんと藤村のとっつぁんが来るんだよ、意味わかんねぇ、俺」
 笑いながら、涙を指で払っている。
 最後に、今日までJ&Mを守り、支え続けてくれたメインスタッフが入ってきた。
 唐沢直人、織原瑞穂、鏑谷会長、カン・ヨンジュ、片野坂イタジ、逢坂真吾。
「当初の見込みより、取材が予想外に少なかったんだ。そのために用意したシートに、みなさんをご招待させてもらったよ」
 片野坂イタジ。
「今までの集大成だ、四人できついと思うが、がんばれよ!」
 逢坂真吾。
「寝坊した赤レンジャーの見せ場なんか奪っちまいな」
 鏑谷会長。カンと織原が、その背後で微笑している。
「柏葉は絶対に来る」
 唐沢直人。
 聡は頷いた。雅之も、りょうも、憂也も頷く。将君は――絶対に来る。
「段取りは、美波から聞いているな」
「わかってます」
「奇蹟が合図だ」
 力強く、四人は頷く。
 歓声が高くなる。ストームコールが響き始める。開幕まであと5分。
 もう、迷いも不安もない。
「楽しもう」
 聡は言った。
「これが俺たちの、本当に最後のコンサートだ」









            *




―――ここ……どこだ?
 頭の中がガンガンしてる。二日酔いの、一番最悪の時みたいだ。おかしいな、最近は全然飲んでねぇはずなんだけど。
 てか……すげぇ、身体がだるい。
「気づかれましたかな」
 闇の底から滲むような、陰鬱な声がした。 
 将は身体を起こそうとして、身動きできないことに気がついた。
 かしげた頭が硬い壁にあたっている――窓ガラス。靄が晴れ、次第に鮮明になってくる視界。ようやくここが、車の運転席だと理解する。
「少しばかり麻酔の量を間違えたようでしてね。このまま目覚めなかったら、少々残念だと思っていたところです」
「…………」
 覚醒と共に、激しい頭痛が襲いかかってくる。
 そうか、思いだした。ついさっきのことだ。マンションの地下、車から降りようとした時、ふいに目の前に黒い男が現れた。
 身がまえた刹那、目がちかっとして、うわっと思ったところを、背後から別の誰かにしがみつかれた。後ろからタオルで顔を包まれて――それきりだ。記憶はそこで途絶えている。
 この車は、事務所のものだ。
 ついさっきまで、将自身が運転していたもの。 
 将は、その運転席に座っている。座っているというか、シートに寄りかかるようにして寝かされている。手首は背中で拘束されていた。痛みはないが、ゆるく巻きついたタオルのようなものは、多少の力ではびくともしない。
「あんた、真田さんと一緒にいた人だろ」
 将は言った。自分の言葉に呂列が回っていない。頭にも視界にもまだ淡い霞がかかっている。手が動いたら、自分の頬を一発殴ってすっきりしたい気分だ。
 今何時だろう。事務所で打ちあわせを終え、マンションに戻ったのが午後十一時過ぎ。あれから、どのくらいたっているのだろう。
 窓の外は闇だ。見慣れた都会の風景ではない。視界を遮るように、暗い森が延々と続いている。
「よく、ご記憶で」
 金属が軋んだような声で、背後座席に座っている男が答えた。
「声も顔も、忘れられないからさ」
 振り返ろうにも、首が麻痺したように動かない。将はバックミラーに視線だけを向けた。しかし、闇に滲んだ男の顔は、その輪郭さえうまくつかみ取れなかった。
「悪いけど、話があるなら、手みじかにしてもらえないかな」
 これってどういう状況だよ。
 そう思いながら、将は続けた。
「明日は大切なコンサートなんだ。早く寝ないとお肌に悪いって、うちのマネージャーに叱られるからさ」
 かすかに、背後の男が笑った気がした。
 将は、不吉な予感にとらわれている。
「睡眠なら、もう十二分にとられたと思いますな」
 どういう意味だ。
 暗い空。でもよく見ると、深夜とはその濃度が少し違う。明け方の空――いや、もしかすると。
「今は、12月31日の午後8時55分」
 同時に将は、車内デジタル時計を目にしていた。
 PM20:55
 見開いた眼の前で、その数値が56になる。
「あと4分で、君のいうところの大切なコンサートの開始ですな」
「……………」
 将はそのまま押し黙った。
 嘘だ。
 信じない。
 が、重い霧に覆われた思考、鈍くしびれて動かない身体。
 窓から見えるのは、暗い闇にそよぐ木々。都内とは思えないほど閑散とした風景。
 駐車場での出来事は、感覚としては一瞬前だ。が、もし、あれから意識を失っていたとしたら、それからどれだけの時間が経ったのか、将に判断する術はない。
 もし。
 身体の中から、ゆっくりと何かが抜け落ちていく感覚がした。
 もし、それが本当なら。
 ドームでは、一人欠けたストームが、コンサートの幕があくのを待っていることになる。
 4人の、将のいないストームが。
 鼻先をかすめるように、ぬうっと腕が伸びてくる。それはラジオのチューナーを回し、車内に音が流れだした。
<さて、この時間は予定を変更して、東京ドーム、ストームのコンサートを生中継でお送りします。世間では色々非難されているストームですけど、長年このラジオ局でストームビートっていう番組をやっていてくれたんですよね>
 将もよく知っているアナウンサーの声が流れる。
<開演5分前、ドーム周辺は青いリボンをつけた女の子たちで溢れかえっているそうです。これは、J&Mを応援しようという表明サイン。ほんっと、すごいことになっていますよ、年末の東京ドーム>
 将は、眩暈を感じて目を閉じた。
 もう疑う余地はない。
 ここは、どこだ。
 この男の目的はなんで、どうやったら、俺はここから逃れることができるんだろう。
 どうやったら、仲間たちのもとに帰ることができるんだろう。
 将の内心を見透かしたのか、背後の男は、暗くくぐもった笑いを洩らした。
「無駄ですな、君はもう、どうやっても東京ドームにはたどり着けない」
「あんた、何が目的だ」
「いや、それ以前に、君はもう、2度と東京へは戻れない」
「………………」
「君はここで、残念なことに、死を選んでしまうからですよ」
 一体なんだ。これは。
 なんの話をしてるんだ、このおっさんは。
 真田のおっさんもそうだけど、少し頭がおかしくなってんじゃねぇのか。
「薬が残っていて動けないでしょう。いや、最も動いても無駄ですが」
 後頭部に、硬い異物が押し付けられた。
 不思議なほど現実感がないまま、将はそれが、拳銃なのではないかと思った。
「驚きませんね」
「それ以前に意味がわかんねぇから」
 普通ありえねぇだろ。
 別にやくざ同士で抗争しているわけでも、犯罪をおかしたわけでもないんだ。
 ただ、解散がほぼ決定した5人組のアイドルが、最後に東京ドームでコンサートをしようっていう、それだけのことじゃないか。
 それで、どうして俺がここで死ななきゃならない。
 いや、あまり考えたくないけど、人生でたった2度しか会っていない男に、どうして殺されなきゃならない。
「理由を探しているのですかな」
 将の内心は、背後の男に筒抜けのようだった。
「人は誰しも、人生に起きた出来事に、理由と意味を求めるものです。しかし、意味などない。すべては子供が蟻を踏みつぶす程度の気まぐれと偶然で成り立っている。そこに、意味など、何もないのですよ」
「蟻と子供はコミュニケーションできねぇけど」
 言葉がもつれ、舌を噛みそうになりながら、将は言った。
「人間と人間ならできるだろ。あんたに理由を訊くくらいの権利はあると思うけどな」
「君が納得できるものではないでしょう」
「納得してハイそうですかって殺されるバカはいねぇだろ。俺はただ、理由をあんたに聞いてんだ」
「君は、本当に」
 頭に押しあてられていた異物が離れた。
「本当に、父親によく似ている」
「…………」
 将は空を睨んだまま、その意味を考える。
 記憶の中、封印しようとしていた真咲しずくの言葉の意味を考える。
「君の存在が」
 デジタル表示が56から57に変わる。
「君の存在が、私には不愉快だからですよ」
「俺、あんたに何もしてねぇけど」
「君が何をしようとすまいと、関係ない。君の存在自体が、ボスの判断を惑わせている。私にはそれで十分です」
 真田孔明。
 将は背筋に初めて寒気を感じた。
 背後で、何か重たいものが引きずられる音がした。
「これも、真田のおっさんの命令か」
「これも?意味がわかりませんな。何もかも私一人の判断でやっていることです」
「親父を殺したのも、じゃ、あんたの判断か」 
「意味がわかりませんな」
 あいつは、知っていたんだ。
 将はようやく理解した。最初は半信半疑だったし、あの女の勘違いか思いこみであればいいと思っていた。
 真咲しずくは、知っていたんだ。過去の調査で、そこまで掴んでいたんだ。城之内静馬が、決して事故で死んだわけではなかったということを。
(この世には、どうにもならないことがたくさんあって)
(それが判った時には寂しかったな)
(ひとつ言えるのは、マリさんに殴られるまで、私はとんでもないバカをしようとしてたってこと)
 ホテルで、真田孔明と会食したとき。
 真咲しずくの態度はあきらかにおかしかった。まるで、何かの感情に必死に耐えているかのような。元始的な嫌悪を懸命に押し殺しているかのような。
 そして、耳塚が現れた時、将を庇うように前に出た背中。
 あの女は――知っていたんだ、最初から。
「意味がわかんねぇのは、何度も言うけど、俺だよ」
「煉炭自殺というのを、ご存じですかな」
 かちり、とライターの音がした。かまわずに将は続けた。
「そこまでするあんたってなんなんだ。気に入らないからって、気まぐれだけで、俺も親父も殺すのか。それなりのリスクがあるはずだ、あんたにも、真田さんにも」
「私の罪が、暴かれる可能性をおっしゃっておられるなら」
 ゆるやかな声だった。
「そのリスクは、ありませんな」
 もう一度、ライターを弾く音がした。
「あなたの携帯電話に、あなたが打った簡単な遺書が残されています。最初はみなが驚くかもしれない。信じられないというかもしれない。しかし、結局はこういうことで落ち着きます。どんな強い人にもそういうことはある、人は弱い生き物だから」
「…………」
 それは、将自身が、父親の死を納得した理由でもある。
「君には自殺の動機がある。君自身にはなくても世間的にはいくらでも動機づけできる。戻らない過去の栄光、君のために何もかも失った友人たち、莫大な借金を抱えた会社、ドーム公演という強烈なプレッシャー」
「誰も信じねぇぜ」
「最初はね、けれど人はいずれ、現実を受け入れます。自分が前に進むために」
 デジタル表示が変わる。57から58。
「証拠は何ひとつ残っていない。マンションの監視カメラは、何故かその時間誤作動をしていた。目撃者もいない。君がここにいて、これから起こることは誰も知らない」
「あんただって人間だ」
 どんな薬を飲まされたんだろう。混濁する意識の中で、将は懸命に声を振り絞った。
「ミスだっておかすだろう。目撃者がいないなんて、あんたが今判断することじゃないと思うけどな」
「仮に、いたとしても」
 くぐもった笑いを含んだ声だった。
「その目撃者が、表にでてくることは、絶対にないでしょうな」
「…………」
「さて、そろそろ時間だ」
 絶望が、足元から這い上がってくる。
 何を言っても、この男の心にはみじんも響きはしないのだろう。
 力を入れてもびくともしない戒め。そもそもその力さえ冗談程度にしか入らない。
 つか、俺マジで死ぬのかよ。
 すっげ、現実感ねぇんだけど、マジで?
「死に方としては楽だと思いますな。真田会長はあなたの顔が何より好きだった。きっと安らかな、生きていた時と同様の美しい顔のまま、君は発見されるでしょう」
 考えろ。
 将は懸命に視線だけをめぐらせる。
 どうやったら、この窮地を抜けることができるのか。
 どうやったら、東京に戻ることができるのか。
 コンサートを前にしてメンバーの一人が消えた。
 唐沢さんも、スタッフも、今頃懸命に探しているはずだ。多分、あの女、真咲しずくも。
 携帯に遺書があるとこの男は言った。だとしたら、車内のどこかに携帯もある。電波をたどれば、この居場所は簡単に割り出せるはずだ。
「携帯電話は」
 この男。
 将は手肌に鳥肌がたつのを感じた。
「もちろん、東京を出る前に電源を切っています。電波からこの場所が割り出されることはありえません。東京からここまで半日以上。運転席には君に面差しがよく似た男が座っていました。オービスにもその証拠は残らない。今は年末の午後9時。今からどうやっても、どうしても、君は東京には戻れない。コンサートには間に合わない」
 この男――死神か。
「君に、奇跡は起こらない」
 声だけが、闇の中で将を押し潰すようにのしかかる。
「君の選択肢は、苦しんで死ぬか、安らかに死ぬか、もうそのふたつしか残されていないのです」
 魔に射すくめられたような恐怖が、将の全身を硬直させる。
 男の声に笑いが滲んだ。
「この世界に、そもそも奇跡など存在しない。君の死は、それを証明するためのものになるでしょう。夢も希望も、しょせんは絵空事にすぎないと、君が身を持って、君の仲間たちに教えてあげることになるのです」
 視野がデジタル表示の変化を捕らえている。58から59。
 考えろ、自分の声が、小さく頼りなく揺れている。考えろ、でも何を?もう逃げられない、もう間に合わない。人生で最後になるステージに、もう、何をしても絶対にあがることができない。もう――何をしても。
「もちろん、君がいようといまいとコンサートは失敗します」
 淡々とした声で男は続けた。
「今夜の客が、全員君たちの味方とは限らない。ステージの半ば、観客席からに一斉に発煙筒が投げ込まれる予定になっています。場内には警察関係者が待機している。むろん、コンサートは即時中止。いくら続けたくとも、警察が、これ以上の続行を許しはしないでしょう」
 ふいに、座席が背後に倒れた。
 衝撃に耐えながら仰向けになった将の顔に、男の手が被さってくる。
 大きな手を覆う皮手袋。皮越しなのにいきなり素手で触れられたような錯覚がした。冷たい、蝋のようになめらかな感触。ぞっと全身が粟立っている。
 そのまま、獰猛な力で目から鼻をふさがれる。狭い車内、将は、両腕を拘束されたまま苦しい姿勢で仰向けになっている。逃げたくても身動きできない。
 鼻骨が折れるかと思うほどの力に、苦しくなって唇を開く。
 その刹那、口の中に小さな異物が落とされたのが判った。吐きだそうとした口を上から強くふさがれる。その手のひらは、同時に鼻も覆っている。息ができない。
「飲みなさい」
 死者の使いが囁いた。
「君が楽に逝くための睡眠剤です。飲まなければ、今、窒息して死ぬまでです」
 首を振って抗おうとする。さらに強くシートに頭を押しつけられる。後ろ手に縛られた肩が激痛で軋む。息ができない、胸が苦悶で熱くなる。
「いずれ錠剤は唾液でとける。嚥下しようがしまいが、私には同じことですがな」
「…………」
 観念して、将は口中の異物を嚥下した。
 喉の動きを見て、男の手が顔から離れる。
 空気を求め、将はあえぎ、そして何度も咳き込んだ。
 そして悟った。このまま、逃げるすべもないまま、ここで俺は、眠るように死へといざなわれていくのだと。
 ここで。
 ピンチに陥ると判っている仲間たちの元へ駆けつけることもできないまま。
 将はうつろな目でデジタル表示を見た。そしてふと、何かが胸の中をかすめるのを感じていた。
 なんだろう――その瞬間表示が変わる。
 PM9:00
 コンサート開始。
「絶望していますね」
 背後で、歓喜を押し殺したような声がした。
「君の今感じている絶望が、私には手にとるようだ。この甘美な報酬が、私にとっては最大の動機だと、そう申し上げておきましょう」














 

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