113
「別れたぁ???」
「はぁ?どういう意味だよ、説明しろよ、雅」
「う、うるせーよ、俺にも意味がわかんねぇんだから」
「え、てか、そもそも別れてたんじゃないの、二人」
きょとんとして、りょう。
すでに幸せのオーラを定着させている男は、他人の不幸に鈍感のようだった。
「だからさ、一回元にもどったんだけど、また別れたんだよ。な、雅」
憂也の無邪気なとどめが、雅之の心臓をさっくりと貫く。
「雅……下手すぎたんじゃねぇか?」
溜息をついて、将。
「俺の指導不足だよ、反省してる」
眉をハの字にして憂也。
「雅はさ、受け身だからダメだったんじゃないかな。凪ちゃんは憂也とは違うんだし、もっと、こう積極的にいってみても」
「だーーっ、なに真剣な目でくだらねーこと言ってんだよ、聡君」
別れた。
しかも、初めての朝でさえなかった。2人が朝の七時半と思ったのは大きな誤りで、実際の時刻は夕方の七時半。ほぼ十時間近く、二人は熟睡していたことになる。
これで流川家の誰かが帰ってきていたらと思ったら……。
「まぁ、あれだよ、凪ちゃんらしいっていえば、そうだよな」
将が言った。憂也も頷く。
「雅がサルになるのを心配してくれたんだろ。サカリのついたサルは見境がないからね」
「そうそう、りょうがいい例だ」
「俺が、なんだって?」
またもや気まじめに暴言を吐いた聡の襟首を、いまにも掴みそうな勢いでりょう。
ああ……今は、そんなことはどうでもよくて。
雅之は頭を抱えている。
コンサートまであと四日。今日は、夕方の稽古を終えたあと、五人そろって寮がわりのマンションで夕食を取った。スタジオを貸し切っての稽古は今日で終了。これからコンサート当日の最終リハーサルまで、五人には久々のオフが用意されている。
「流川の気持ちみたいなもんは理解してるよ。俺のためだっていうのも判る。でもさ、やっぱ、信じられない。どうしてあんなにドライな気持ちになれんのかな、女って」
拳を握りながら、雅之は続けた。
うんうん、と何故か深く頷くりょう。
「せっかくまた2人でやってこうって、すげーもりあがったのにさ。いくら期間限定だからって、あの状況で別れようって言うかよ、普通」
「期間限定?」
将が、ふと気づいたように眉をあげた。
「うん、まぁ、一応、期限決めて別れようって」
「いつまで」
「来年まで」
ふーん、と顔を見合わせた四人が、ぶっと吹き出した。
「てか、あと五日で来年じゃん!」
「ばかじゃね?雅、そんなことでいちいち泣いたりわめいたりしてんなよ」
「のろけなら、よそでやれ、よそで」
「あ、俺、食後用にプリン買ってきたんだった」
「だーーーっ、きけーっ、人の話を!」
もはや誰も聞いてはいない。
将は新聞を開き、りょうはストレッチ、憂也はDS、聡はプリンを食べている。
だってさ。
雅之はうなだれた。
「俺なんてもう、今だって、すげー会いたくてたまんないのにさ」
唇の柔らかさも、肌の滑らかさも、全部、まだ指に沁みたように残っている。
声も眼差しも、まだ全部覚えている。
へんだな、と雅之は思った。
こないだまで、好きは好きでも、そこまで自分の何もかもが流川ってわけでもなかったのに。今は――なんだろう、もう自分の一部が流川に持っていかれて、それはもう、二度と取り戻せないような、そんな気がする。
一分一秒でも離れたくない。できることなら、ポケットに入れて持ち歩きたいと思うほど。
「俺らもあったよな、そんな時が」
「そうだね」
妙に大人目線で、頷きあう聡とりょう。
「凪ちゃんも、一緒だよ」
かすかに苦笑して、将が言った。
「それでも、雅を俺らのとこに返してくれたんだ。末永さんとミカリさんもそうだけど、ほんっとよくできた彼女だよ、あの人たちは」
「将君の彼女には負けるけどね」
憂也。
「なにしろ返すどころか、断崖の底に蹴落としてくれるんだから」
「うるせぇよ」
噛みつく将の横顔を見ながら、ようやく雅之も、気持ちが収まりかけている。
そっか。
まぁ、わかってたけど、やっぱ俺が大人げなかったのか。
今までも、ずっと我慢させて、これからもさせていく関係。
何もできないけど、ただ、大切にしてあげなければいけないな、と、あらためて思う。もっともっと大人になって、精神的に、ずっと支えていけるように――。
「さて、そろそろ帰るかな」
時計を見上げ、憂也がまず立ち上がった。
憂也と聡、そして雅之は、今夜から実家に戻る予定になっている。幕が開いてしまえば、その先は何が待っているか判らないコンサート。五人で話し合って、束の間の年末を、できるだけ家族と過ごそうと決めた。
「りょうの親父さん、もうこっちに来てるんだっけ」
「うん、親父と二人でツインの部屋なんて、ちょっとぞっとしないけどね」
りょうも苦笑して、ハンガーから上着を取る。
「将君は、マジでいいの?」
雅之は訊いた。
この中で、将一人が戻る場所がない。ロンドンには帰らず、東京に残ると決めた将を、雅之だけでなく、聡も憂也も、ついでに言えば片野坂イタジも前原大成も家に来るように誘ったのだが、将は一人で、このマンションに残ることにしたようだった。
「待ってんだよなー、例のあの人が来るのをさ」
にやにや笑いながら、憂也が冷やかす。「よっ、いじらしいね、バニーちゃん」
「待ってねーよ!」
またもや噛みつくように言い返した将だが、その横顔が、ふと物憂げな溜息を洩らした。
「つか、戻って来るくらいなら、最初からいなくなったりしないだろ」
やっぱ、いなくなったんだ。
雅之は聡と顔を見合わせている。
どうしてだろう。もう雅之にも判っている。将君にはあの人しかいないし、多分あの人にも将君しか考えられない。サッカーで言えば最高のコンビネーションプレーができる相手。アイコンタクトさえ必要ない、この人生で巡り合えたことが奇跡としか言いようがない相棒。
一見して、どんな突拍子もない場所に蹴られたボールでも、それは互いを信じているからこそ放てる最高のキラーパスだ。
雅之はそう信じている。将君は、そのパスを受けたんだ、そして最後のゴールに向かって放とうとしている。
「あいつはさ、大昔、性質の悪い魔法使いに呪いをかけられたんだ」
静かな声で、将は続けた。
「魔法……?」
「しょっ、将君、何リリカルなこと言ってんの?」
「似合ってねー」
「俺、鳥肌たってきた」
が、めいめい勝手な感想を漏らす四人。
「うるせーっ聞けっての!」
がーっと怒鳴り、将はひとつ咳ばらいをする。
「俺にもよくわかんないけどさ、あいつの心には、病気とかそんなのとは違う、すげー重たくて冷たい何かが、まだ解けないで残ってんだよ」
「何か……って?」
眉を寄せながら、聡。
「さぁ……、俺の親父のことなのかな、俺にも上手く説明できないけど」
将の横顔が、わずかに笑った。
「そういうの、全部解き放ってやんねーと、あいつは俺のところには来ないよ。絶対に」
「じゃ、どうすんのさ」
再び椅子に座りなおして、憂也がにやりと将を見上げる。
「王子様なら、そこはあきらめちゃいけねーんじゃないの?」
「誰が諦めるって言ったよ」
将は立ち上がり、全員の顔を見回した。
「いよいよだな、コンサート」
「うん」
「おう」
「ああ」
「だな」
全員の目に、静かな闘志がゆらめいてよぎる。
俺たちの、終わりの始まりのコンサート。
「奇跡って色んな意味があると思う。唐沢さんの言うように、大勢の気持ちをひとつの方向に動かすこともそうなら、俺らには、俺らにしか起こせない奇跡があると思うんだ」
「俺らにしか……起こせない奇跡?」
繰り返した雅之に、将は強い眼差しで頷いた。
「コンサートっていう場所でさ。そこにいる人たち、俺らも、スタッフも、五万のお客さんもみんな、全員が最高の気分になって、最高の時間を共有するってことだよ」
まぁ、コンサートって、大抵ならいつも最高に盛り上がるものだけど。
その程度を奇跡というなら、J&Mのアイドルなら、どこでもかしこでも簡単に奇跡を起こしてしまっているのではないだろうか。
と、雅之は少し不思議な気持ちで、将の言った言葉を考えている。
将は続けた。
「前、りょうが言ってたよな、人の心には天使と悪魔が棲んでるって」
「……うん」
戸惑ったように、りょうが頷く。
「2005年の12月31日、東京ドームに結集した全ての人がさ、俺らもスタッフも、お客さんも、一人残らず全ての人が、3時間のコンサートの中で、自分の優しさや喜びや愛しさを全部出し合って、ひとつに繋がって、同じ情熱と時間を共有する。終わってしまえば2度と同じメンバーで会うことはない、いってみれば一期一会の、それは奇跡の空間だと思わないか」
言葉を切り、将は全員を見回した。
「その空間を作り出すのが俺らの仕事だし、それが、俺らにしかできない奇跡だ」
奇跡。
俺たちにしか、できない奇跡。
「あいつのことも、その日にきっちりけりつけてやるよ」
最後に、将らしい笑みを浮かべ、不敵な青大将は肩をすくめる。
「泣いても笑っても、五人でステージに立てるのはこれで最後だ」
聡が、噛みしめるように言って、立ちあがった。
「未練も悔いも、ひとかけらも残らないほど燃え尽きよう」
例えその先に何が待っていようと。
もう恐れるものは何もない。
自然に5人は歩み寄り、拳を強く突き合わせていた。
「12月31日に」
「東京ドームで」
「起こそうぜ」
「5人で」
「奇跡を!」
絶対にできる。
そのために出会った。
この広い世界で、そのために巡り会えた5人だから。
114
「まだ行方が掴めないだと?」
耳塚は眉を寄せた。
ラジオが煩い。消したいが携帯で手がふさがれている。もう片方の手はステアリング。もう年末だというのに、夜の国道はひどく渋滞していた。
「大澤絵里香の方はどうだ、実家には探りは入れたんだろうな」
埒のあかない報告に、苛立ちだけがかきたてられる。
実際、ここまで気持ちのさざ波が消えないことなど、耳塚には初めての経験だった。
どうも、嫌な予感が拭いきれないままでいる。
不安要素はもう一つあった。情報流出のホンボシだと確信していた安永光が、強行に関与を否定し続けていることである。一年前の不正アクセスは認めた。ただし、今回は絶対に違うという。もし、安永自身が罠に嵌められていたとしたら、いや――そもそも安永が、本当の情報流出者に囮として利用されていただけだとしたら。
しかし、切れ者の安永さえも追いおとすような人材が、今の会社にいるだろうか。
苛立って耳塚は舌打ちをする。
気持ちが定まらない原因はわかっている。全ては、買収を強行に進め過ぎたせいだ。足元を固めきる前に、こちらの動きを公表してしまったこと。
―――筑紫を甘くみすぎていたな。
それは、確かに耳塚自身のミスでもある。が、最初からどこか胡散臭い所のある男を、懐深くまで入れてしまったのは、ボスの――真田孔明だ。
冷静なビジネスマンである真田が、いつも計算より感情を優先させてしまう。J&Mそして柏葉将に関してだけは。
ラジオから耳ざわりなメロディーが流れだす。
奇蹟。
『今月の二十四日からDLが開始されたストームの奇蹟ですが、えー、すごいです。すでに発売済みのヒット曲なんですけど、今日までの1週間で、なんと150万ダウンロードを記録しました。これは日本では新記録ですね。何かとバッシングが続いているストームですが、人気の高さは健在のようで』
嫌な曲だ。
耳塚は嫌悪で眉をしかめる。
バカバカしい、無料だから人が寄ってくるのは当然のことだ。わずかでも金が入る機会を話題欲しさに無駄に逃している。もうJ&Mは末期症だ。本気で潰す価値さえない。
『話題が沸騰している年末のコンサートは、インターネット上での無料生中継が決定。中継するライブライフのピーテレは、会員登録が相次いでパンク状態だということですから、登録は早めにした方がいいかもしれませんよ?年末は紅白を見るかストームを見るか、楽しみになってきましたねぇ』
信号が赤になる。耳塚は無言でラジオを切った。
ふと、意外な人物の名前が聞こえてきたのはその時だった。
阿蘇ミカリ。
冗談社の記者か。
「女の実家に?それは確かか」
どういう繋がりがあるのだろう。わからないままに、耳塚はその意味を模索する。
「わかった。とにかく目を離すな。何か掴んだようなら、女ごと確保しろ」
次第に、冷ややかな感情が戻ってくる。
こんなところで足がかりを掴んだか。思わぬ伏兵というやつだな。ただし、それは、うちのとっての。
「12月31日は予定どおりだ」
再びアクセルを踏みこみながら、耳塚は冷静な声で言った。
「真田会長の目の前で、コンサートは崩壊する」
いや、そもそも主役を欠いたコンサートが、そこまで持ちこたえられるかどうか。
「柏葉将の監視を続けろ。そう、全て予定どおりで構わない」
12月31日、柏葉将が東京ドームに立つことは、ない。
これで、本当に終わりだ。この鬱陶しい仕事とは永久に手が切れる。
携帯を切って、耳塚はゆったりとハンドルに手を添えた。
坊ちゃん。
これで、あなたは、2度と過去の幻影にわずらわされることはなくなりますよ。
あなたの人生に、城之内静馬も、柏葉将も必要ない。
全て私が――排除します。
115
「ミカリちゃん、待って」
玄関を出た所で声が追いすがってきた。
「今夜は、本当にありがとう」
絵里香の母親。
ミカリにとっては、子供の頃から世話になった人でもある。
立ち止まったミカリの手を、老いた手が握り締めた。
「本当にありがとう、訪ねてきてくれてうれしかった。絵里香は、あんな子だけど、まだミカリちゃんが友達だと思っててくれて……」
「いえ、こちらこそ年の瀬にすいませんでした」
東京に出たミカリと絵里香に何が起きたのか、地元の人たちはほぼ正確に知っていた。ミカリも帰る場所をなくしたが、居心地の悪さは絵里香の方がさらにひどかったろう。絵里香が幼馴染を売ったこと、そして、そのためにミカリが全てをなくしたことを、ここにいる母親はよく知っている。
「東京を離れて、どこかで元気にやってるとは思うんですけど」
心優しい母親を心配させたくなくて、ミカリはあえて明るく言った。
思い切って訪ねてみたものの、絵里香の居所はやはりつかめないままだった。予想はしていたが、実家にも随分長い間帰っていないらしい。
「連絡があったら私に教えてください。会って、話したいことも色々あるので」
「それでね、ミカリちゃん」
少しためらったように、母親はエプロンのポケットから、一枚のハガキを取り出した。
「これ、絵里香は出席できないって、返事をしておいてくれないかしら」
出席?
ミカリは眉をひそめて、ハガキを受け取る。
「同窓会やるんでしょ?電話で断ろうかと思ったんだけど、私がかけるのも、どうかと思って」
「…………」
同窓会。
ここに来る前に寄った実家では、そんな話は一度も出なかった。几帳面な妹が、手紙はいちいち取っているはずなのに。
「わかりました、連絡してみます」
それでも、にっこりと笑ってミカリは旧友の自宅を後にする。
少し離れた街燈の下で、ミカリはハガキを裏返して見た。
中学の同窓会。ミカリの出身中学の名前と、日時、場所、そして幹事の名前がそこに記されている。
中学。
ミカリは唇に手をあてた。
おかしい。
二年で引っ越した絵里香に、この中学から通知が届くはずがない。
もう一度表を見る。
二年三組大澤絵里香様。
二年三組、その年の夏休みに絵里香は山口に転校したのだ。
終業式の日、二人で泣いて、絶対に大学で会おうねと約束して。それで、それから――。
もしかして。
ミカリはハガキをバックに収めて、タクシーを拾うために走りだした。
これが謎だとしたら、解けるのは世界中で私しかいない。
もしかして、これは私へのメッセージなのかもしれない。
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「うーん」
高見が髪に手を入れて、ぐしゃっとかき乱す。
「六文字の英単語、六文字の英単語、か」
東京神田、冗談社。
煙草を口にくわえたケイは、疲れた目で天井を見上げた。
明日は大晦日、通常なら休暇に入っているところである。
むろん、年内は休まず営業しますと張り紙をはったところで、客足が伸びるわけでもない。
「しぼりこめないかい、やっぱり」
「無理ですね、候補が多すぎます。家族の名前、仕事の名称、愛人、馴染みのホステス、昔のペット、あだな、屋号、調べれば調べるほど、頭が混乱してきて」
大森が調べられるだけ調べた、真田孔明の個人情報。
「実際、無理ですよ。これはある程度真田さんに近づかないと、絶対に無理な仕事なんです」
お手上げなのか、高見は資料を押しやって立ち上がる。
「期限はあと一日、もちろん私たちが東邦内部にもぐりこめるわけもない。仮にもぐりこめる人間でも、あれだけガードの固い真田会長の傍に近づくのは不可能です。白ウサギの言うとおりです。私にダメなものは、彼にだってできない」
しかも。
ケイは無言で煙草をふかす。
そこまで危ない真似をして情報を手に入れたとしても、それを使うことができない。その使い道が、ケイには皆目見当もつかない。
警察も、検察も、テレビも新聞も、それが灰色の情報なら握りつぶされて終わりだろう。それどころか、司法の刃が、今度はダイレクトにケイや冗談社に向けられるかもしれない。
―――最初から、無理だったか。
明日は、ホテルプリンス高輪で、東邦主催の大掛かりなパーティが催される。民放、国営テレビの重役連が出席するそのパーティは、実質、日本のメディアを牛耳る首領たちの集まりといってよかった。
その時間、ストームのコンサートが東京ドームで開催される。
年末の日本恒例行事、紅白歌合戦も開催される。
放送界のボスたちは、一体何を肴に、これからのメディアの未来を語るのだろうか。
「それにしても、真田さんってのも、なかなか不幸な生い立ち背負ってんだね」
同情する気にはさらさらなれないけど。
ケイは、床に落ちた一枚の写真を拾いあげる。
白黒の写真、さびしげな眼をした一人の女性が写っていた。一見して日本の人ではないと判る鼻筋と髪色。ロシア人だというその母親は、横浜の高級娼館で、真田の父親に見染められて水揚げされた。
真田孔明は――つまるところ、愛人の子だったのだ。
「母親は、孔明さんが九つの時に死んでんだね。気の毒に、子供だけ本妻に取られて、自分はほっぽりだされてさ、さぞかし無念だったろうねぇ」
引き取られた時、真田家には四人の兄たちがいた。異国の血を引く小さな子供が、そこでどんな目にあったのか、容易に想像がつくようだった。
差別の激しかった時代だ。真田孔明はあの容姿だけで、随分世間から異端児扱いされただろう。その真田を守るために、おそらく父親がつけたのが――耳塚恭一郎。
モンスターは十七歳、真田孔明が十の時から、真田家にボディーガードとして雇われている。
「筋金入りの、腰巾着、か」
入れ替わりの激しい極道の世界で、結局はその世界からも正式に足を洗い、耳塚は以来、ひとときも離れずに真田孔明の傍にいる。世間からひたすら疎外され続けた男二人、その胸底に流れる感情は、ケイにはとても想像できない。
「真田さんは、結婚してないけど、愛人に産ませた子供を引き取ってるね。篠田真樹夫、東邦の現社長だ」
「その愛人は、わずかな手切れ金をもらってお払い箱ですよ」
高見が、ケイを遮るように肩をすくめた。
「悲しい話ですけど、子供ってのは、知らず知らずに父親と同じ道を辿ってるのかもしれませんね」
サーバーでコーヒーを注ぎ入れ、高見はふうっと嘆息した。
「もしかすると白馬の騎士は、パスワードを知っているのかもしれません」
その言葉に、ケイは眉をひそめている。
「どういう意味だい」
「このままじゃ、どうやったって答えにはたどり着けない。そんな謎を白馬の騎士が投げてきたとは思えない。だとしたらあのメッセージには、パスワードの秘密を解く鍵が含まれているのかもしれないってことです」
メッセージ。
「僕は救世主……か」
僕は救世主、白ウサギを探せ。
「でも、おかしいじゃん」
ケイは、椅子をひきずって高見のデスクに身体を寄せた。
「だったらなんで、白馬の騎士は自分でシステムに侵入しないのさ」
「危険だから……」
独り言のように高見は呟く。
「もしかすると、彼自身が、常に監視されている立場の人間なのかもしれないですし」
「それにしても、だったらもっと直接的な形で、パスワードを教えてくれてもいいんじゃない?」
「……それは、そうなんですが」
言い淀んだ高見は、そのまま考え込む様に唇に指を当てる。
「絶対何か、見落としていることがあるんです」
何か――。高見はいらいらと、唇を噛んだ。
「その何かが判れば、多分、パズルのピースが収まるように、全てが判るはずなんですよ、絶対に」
「見落としっていっても」
携帯が鳴る。ケイは言葉を切って、それを耳に当てた。
『ケイさん、私です』
ミカリ。
『聞いてください、絵里香が私に残していたものが判りました。CDディスクです。今夜中にデータをそちらに転送します』
「え?」
背後から車が通る音が聞こえる。
ミカリなら、今日にでも東京に戻るといっていたのに。
「あんた、今、何やってんのさ」
『2人で埋めたタイムカプセルです。絵里香が引っ越した日に埋めたんです。その中に入ってました。これは、絵里香が私に残してくれたものだと思います』
ミカリの声が、いつになく高揚している。
背後で、車のクラクションの音がした。
「ミカリ」
ふいに不安にかられ、ケイは語気を強めていた。
「わかったよ、わかったから早く家に帰りな。いざとなったら、そんなものどうでもいいから、無事に東京に戻ってくるんだよ」
『わかってます、じゃ』
再度、クラクションが聞こえた。それが耳に聞こえた最後の音だった。
「………………」
なんだろう。
とてつもなく、嫌な予感がする。
明日は12月31日。
全ての運命が決まるコンサート。
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