110


 足音が近づいてくる。
 蒼い闇、今何時だろう。雅之は薄くなった月を見上げた。動かない足は氷のようで、身体は芯まで冷えていた。バカだな、と思っていた。こんなことで、今、風邪でも引いたらどうなるんだろう。
 それでも、踏み込む勇気も帰る決断もできないまま、少し先の自販機とこの場所を、行ったり来たりしている。
 近くなった足音が止まる。
 街路樹に隠れるように立っていた雅之は、思わず視線を向けていた。
「成瀬か」
 聞き覚えのある声がした。
 心臓が跳ね上がっていた。
「こんなとこで、何やってんだ、お前」
 美波さん。
 自然に顔が強張っている。目を合わせられないまま、雅之は歩き出そうとした。
 背中で、鼻で笑うような気配がした。
「とんだピエロだな。お前の恋人が俺の部屋に一晩いたのに、怒るでもない、止めるでもない。お前それでも本当に男か」
「……………」
「可哀想にな、子供のくせに出過ぎた真似をするからだ」
 背後から、煙草の匂いが漂ってきた。
 なんの話だろう。雅之は動けないまま、背中で美波の声を聞いている。
「言っとくが、俺は責任を取るつもりはないからな。あの子が勝手に押しかけてきたから、成り行きでそうなっただけだ」
「………………」
 成り行きで。
 そうなった――?
 眉を寄せて、その意味を考える雅之の前に回り込み、美波はあきれたように、顔をのぞきこんできた。
「お前バカか、本当に頭が空っぽなんだな。まだ俺が言っている意味が判らないのか。お前だってあるだろう、熱心なおっかけに部屋にあがられたことくらい」
 顔をあげた雅之は、そのまま、目の前に立つ男を殴っていた。
 あっけなく吹っ飛んだ男は、ガードレールに腰を打ちつけ、濡れたアスファルトに膝をつく。
「流川に」
 雅之は言った。頭の中が、怒りとも違う何かで真白になっていた。
「流川になにをした!」
「自分で確かめてみたらどうだ」
 美波は、血のにじんだ唇を手で拭って起き上がる。
 ポケットから投げられたものを、雅之は反射的に受け取っていた。鍵だ。
「元の事務所と同じ暗証番号だ、面倒だから、とっとと連れて帰ってくれ」
 わずかによろめいて、そのまま美波は背を向ける。
 何故か、その背中がひどく安堵しているような気がした。
 遠ざかる靴音を聞きながら、雅之は気圧されたように、動けないままでいた。



           111


 俺は、許せるんだろうか。
 エントランスまでの短い距離、走りながら雅之は考える。
 いや、許せるとかじゃない、受け入れることができるんだろうか。
 俺以外の男を、好きになってしまった女を。
 いや、そうじゃない、それも違う。
 上昇するエレベーター。
 雅之は、不思議なくらい沈んだ気持ちで、ぼんやりとランプの点灯を見つめていた。
 俺は、何が辛かったんだろう。
 何が嫌で、ずっとあいつから逃げてたんだろう。
 判っている。自分が傷ついてしまうことだ。
 受け入れるのも、許すのも、多分俺がすることじゃない。それは、流川が決めることだから――。
「あれ?」
 探していた人は、扉の前に立っていた。ちょうど施錠している所だったのか、手には鍵を持っている。
 眉を大きく上げ、不思議そうな顔で駆け寄ってくる雅之を見上げている。
「どうしたの、まだいたの?」
 どう贔屓目にみても、傷心しているとは思えない、いつも通りの女の顔。
 安堵とも違う何かの感情に突き動かされ、走りよるなり、雅之はその身体を抱きしめていた。
「???」
 身体を強張らせた凪が、動転しているのがよく判る。
 何か言わないといけないと判っているのに、言葉が何もでてこないまま、雅之は腕に強く力をこめた。
 凪も、もう何も言わない。
 雅之の腕の中、強張っていた身体が、少しずつ柔らかくなる。
「ごめん、待っててくれたんだ」
「………………」
「……成瀬は、いつも、私を待ってばかりだね」
 ぽん、と、背中に手が回された。
「すっごい冷えてる」
 髪に手が添えられた。
「ごめんね。帰ろう、家までちゃんと送ってくから」
 それでも、雅之は動けなかった。
 凪もそのまま動かなくなる。
「……馬鹿だね、私」
 耳元で、囁くような声がした。
「一緒にいられるだけで、ううん、……同じ時間に生きていられるだけで、すごくすごく幸せなことなのに、いつのまにか、そういうの……わかんなくなくなってたのかな」
 声が、少し潤んでいる。
「こういうの……言い訳するのって、卑怯だと思ってた。でも、あの時も今も、ちゃんと話さないといけないんだね」
「いいよ、もう」
 雅之は言った。
「俺こそ言わなきゃいけなかった。怖がったり逃げたりせずに、あの時言わなきゃいけなかった」
 もう、考える必要はない。
「美波さんのとこなんか行くな」
 今の気持ちだけが、全てだ。
「俺の傍にずっといてくれ!」
 動かない凪からは、なんの返事も返ってこない。
 それでも、背中に回された手から、触れあったままの頬から、気持ちが伝わってくるような気がした。
 もう、離さない。
 雅之は思った。
 俺はこいつを、もう絶対に離さない。



「やっぱ、言い訳してもいい?」
 手を繋いで、止めてあるバイクまでの距離を歩きながら、迷うような声で、凪が口を開いた。
 もう朝になった空気が、澄みきって2人を包み込んでいる。空には明けの明星が輝いていた。
 ふいに寒気が襲って来て、雅之は激しいくしゃみをした。
 やばい。
「……大丈夫?」
「へ、平気だと思う。気が張ってる時は、風邪引かないらしいから」
「それ以前の問題として、よく凍死しなかったね」
 怖いことをさらりと言って、凪は再び、思案気な溜息をもらした。
「……いいよ」
 暁闇の空を見上げながら、雅之は言った。
「流川が言い訳したいなら、聞く。でももう関係ないと思ってるけど」
「うん……」
 バイクにたどり着く。ヘルメットを手にしたまま、凪はそれでも逡巡しているようだった。
「その前に聞くけど」
「うん」
「私と美波さんって……その」
「……?」
「どういう関係だと、思ってた?」
 えっ。
 いきなりそんな、にわかに大人になりきれない所に突っ込まれても。
「いやー、な、なんつーの、そこは、ほら、なんていうか、過去は過去のこととして」
 いや、過去じゃなかったらどうしよう。今でも辛い片思い状態だったりしたら。
「俺は気にしないよ」
 うん、と雅之は自分に言い聞かせるようにして頷いた。
「へんな言い方だけど、今は流川の全部が俺じゃなくてもいいんだ。いや、そうなってほしいけど、今は、まだ、そうじゃなくてもいい」
「……そう?」
 妙に疑心的な目だった。
 え、と雅之は戸惑っている。今、俺、すげーいいこと言ったつもりだったのに。
「じゃあ聞くけどさ、成瀬の全部って、私なわけ?」
「………………」
「それ、絶対違うよね」
 いや。
 違うってことも……でも、……あれ?
「ま、いいんだけどね。全部女のことしか考えない男ってのも、気持ち悪いし」
 さばさばと凪は言う。雅之は逆に慌てていた。
「ちょ、あのさ、俺がいうのはそういう意味じゃなくて、その、恋愛っていう意味においてってことで」
「恋愛においてって意味なら、私は全部成瀬だよ」
「…………」
「正直言うと少しは揺れたけど、それは勘違いだってすぐに判ったし、少なくとも、成瀬がやってたみたいな肉体的な浮気はしなかったし」
 ぶっ、と雅之は吹きだしていた。
「な、なな、なんだよ、それ」
「だってそうじゃん。そういうことしてたじゃん。私はっきり言われたもん、オーラ……なんだったっけ」
「わーっっ、もう言うな、そんなこと口にすんなっっ」
「絶対、成瀬の方がひどいことしてたもん」
 しらっとしている凪。
 かなわない、と雅之は思った。ここで強気に出ていいのは絶対俺の方のはずなのに、簡単に形成が逆転している。女って一体……。
「たださ」
 バイクに背を預け、ふいに静かな口調で凪は呟いた。
「それでも、やっぱり美波さんは、私には特別なんだ。そういう意味では私の方がひどいのかもしれない。美波さんは特別で……ある意味、成瀬より特別で……これからも、多分そうだと思うから」
「…………」
 うん。
 なんとなく、判るよ、その感覚。
 美波さんにとっても、多分それは同じなんだろうな。
 だって、俺に殴られた時、あの人、不思議なくらいほっとした顔してたから。お前のこと、すげー大事にしてるって、それがよく判ったから。
 悔しいけど。
 二人の関係に、俺が入って行くことなんて、正直無理だと思ってるから。
「いいんだ、俺」
 少し笑って、雅之は言った。
「本当にいいんだ。そういう流川が好きだからさ。だから本当に、今のままでいいんだ」
「うん……」
 ようやく凪の顔にも笑顔が浮かぶ。
 正面から見つめあった視線。凪がゆっくりと距離を詰めてくる。
 えっ、もしかして、この雰囲気。
 雅之はドキッとして硬直した。
 も、もしかして、いきなり仲直りのキ、
「……ごめん」
 が、凪は呟き、そのまま、雅之の胸に額を預けた。
 そして、ムードの欠片もなく、ふわぁ、と大きなあくびをする。
「気が抜けたら、すっごい眠くなってきた」
「…………あっそ」
 ま、いいんだけどさ。
 そういうの、当分は期待しないことにしよう。雅之は気を取り直して、けなげに自身に言い聞かす。せっかく仲直りしたのに、また振り出しに戻るのはごめんだし。
「帰ろう。俺はいいよ、マジでタクシー拾うから。お前バイクで大丈夫か」
「大丈夫……だと思う」
「お、おい、何頼りないこと言ってんだよ」
 こっからタクシーで……俺は近いけど、流川のとこまでは少々ある。金、あったかな。
「ミカリさんとこ行ったらどうかな。あっ、まじーな、一人じゃない可能性もありだし」
 そういう意味では、うちのマンションもかなりあやしい。
 まさか、真咲さんと将君が二人で……なんてことも、ないわけじゃないし。
「あのさ」
 凪が呟いた。
「もうちょっと、一緒にいたいんだけど」
「………うん?」
「………いいかな」
「………………」
 えっ、俺と??
 い、いいけど、それは。
「ちょっと頑張って、うちまでこない?」
「うちって、お前んち?」
「へんな意味じゃないからね、冬休みだから風も帰ってるし」
 そこは、冷ややかな目で釘を刺された。
「少し休んだら、帰りはちゃんと送るから。ついでで悪いけど、渡したいものがあるんだ」
 渡したいもの。
 すでに凪は、バイクにまたがっている。
「なんだよ、それ」
「来たら判るから」
 凪はそれだけ言って、ヘルメットで顔を覆った。



              112


「おじゃましまーす……」
 背後から聞こえる雅之の声が戸惑っている。
 先に部屋に入った凪は、リビングのあまりの散らかり具合に軽い眩暈を感じていた。
 風の奴、昨日はここで友達でも呼んで騒いでいたに違いない。
 母は単身赴任先の父親のところに行っている。そうでなければ、さすがに朝の五時、いくら相手が旧知の幼馴染とはいえ、男連れで帰宅はできなかった。
「うわ、すごいな」
 背後で足をとめた雅之も戸惑っている。
 凪はひきつった笑顔で振り返った。
 初めてボーイフレンドを部屋にあげたシチュエーションとしては、最悪だな、と思いながら。
「ちょっと片付けるから、先に部屋あがってて」
「え、部屋って」
「二階、向かって右が私、隣で風が寝てると思うから静かにね」
 うん、と、居心地悪そうに周囲を見回し、雅之が階段を昇って行く。
 不思議だな、とその背中を見ながら凪は思った。いつも見慣れた自分の家に、一番好きな人がいる。いつもの光景に、ごく自然に馴染んでいる。それが不思議で、そして、くすぐったいような嬉しさがある。
「さてと」
 勿論、この後始末は風にやらせるつもりである。暖かいものでも作ろうと、凪は台所に入ろうとした。
「…………」
 手紙が、冷蔵庫にマグネットで張りつけてある。


 姉貴へ
 友達と鎌倉まで行ってくる、帰りは明日になるから、お袋適当に誤魔化しといて。


「流川」
 二階から声がした。
「隣の部屋あいてっけど、風君、いないみたいだよ」
「あ、そうなんだー」
 風のバカ。
 まぁ、しょうがない。ちょっとまずい展開ではあるけど、お互い眠いし、それどころじゃないだろう。
 それに、ちゃんと渡して、謝りたいこともある。
 ココアを持って部屋にあがると、雅之は所在なさげにベッドの端に腰かけていた。
「いや、狭いから、どこ座っていいかわかんなくてさ」
「いちいち言い訳しなくていいから」
 にっこり笑って凪。
 ベッドと勉強机で占領された部屋は、まぁ確かに、腰の落ちつけようがない。本当はリビングで話すつもりだったが、あの惨状ではどうにもならない。
 ココアを机の上に置いて、凪はクローゼットの中から、ずっと収めていた箱を取り出した。
「これなんだけど」
「…………?」
 一瞬不思議そうに眉を寄せた雅之が、すぐに包装で思い至ったのか、あっという目になる。
「誕生日にもらった靴……ありがとう、でも、本当はサイズが全然あわなかったんだ」
「えええっ」
「ごめん、すぐに言えばよかったんだけど」
 いつでも返品できるよう、元通りに包装しなおしたそれを、凪は雅之の前に差し出した。
「嘘だろ、お、俺、超はずかしいじゃん」
「ごめん、申し訳ない」
「いや……まぁ、そりゃ、俺が勝手に送ったんだし」
 包みを手にした雅之が、戸惑ったように言い淀む。
「すっごい高そうだったから、ずっと気になってたんだ。もう返品は無理かもしれないけど、誰かサイズのあう人がいたら、その人にあげたらどうかな」
 しばらく眉を寄せていた雅之が、その眉をあげて凪を見た。
「俺が??」
 なんだ、その反応の遅さは。そう思いながら、凪は続ける。
「だって、私が誰かにあげたら、その方が失礼じゃん」
「まぁ、……そりゃそうだけど」
 言いさした雅之が、再び凪を見る。
「俺が??」
「じゃあ、私が、誰かにあげちゃっていいの?」
「いや、それも微妙に嫌だけど」
 それでも、雅之は未練のように、じっと包装紙に覆われた箱を見つめている。
 そして、何を思ったか、いきなり包みをばりばりと破り始めた。
「ちょっ、せっかく綺麗に包み直したのに」
 唖然とする凪の目の前で、全ての紙をむしりとった雅之は、その箱の中から一度も履いていない靴を取り出した。
 アンクルベルトのついた華奢なパンプス。
 淡いブルーの光沢のある素材で、ガラスみたいな綺麗な石がその表面を彩っている。まるで、靴の形をした宝石のようだ。
 後から雅之に聞いた、シンデレラのガラスの靴。
「すごく可愛いから、残念だと思ったんだけど」
 言いかけた凪は、顎を落としていた。
「ばっ、なっ、何やってんのよ、成瀬!」
 その、触れたら壊れそうな華奢な靴を、雅之が両手で持って力いっぱい左右にひっぱっている。
「きゃーーーっっ、やっ、やめて、もったいない、壊れちゃうじゃないっ」
「大丈夫だよ、ものがいいんだから」
 そして雅之は、やおら凪の足元にかがみこんだ。
「かしてみ」
「やだ」
 その意味を察し、凪は両足をひっこめる。
「いいからかせよ、もっかいやったら入るかもしんねーじゃねぇか」
「無理、やだ、絶対にやだ」
「いいから」
 足首をぐいっと掴まれる。意外な強引さに驚きつつ、「やだっっ、離してよっ、エッチ、痴漢!」凪はわめいた。しかし、雅之も譲らない。もちろん力では敵わない。
「つま先が、ちょいきついのかな」
「だから言ったじゃない、絶対に無理なんだって、もうーーっ、やだっ、早く離してよ、変態っ」
「わ、わかったよ、なんだよ、さっきから人聞きの悪い」
 呆れたように雅之が立ち上がる。
「……あれ」
 凪は、振り上げた足を見て、はた、と視線を止めていた。
 履けてる。
「だから言っただろ、伸ばしたらけっこういけるんだって」閉口したように雅之が肩をすくめる。
「確かにちょっときつそうだけど、靴屋にいって調整してもらえば、全然大丈夫だよ、その程度なら」
「…………」
 履けてる。
 ちょっとつま先が窮屈だけど、あれだけ入らなかった靴が、すんなりと足に収まっている。
 嘘みたい。
 嘘みたい……。
「流川?」
「…………」
「えっ、な、なに、なんで??」
 隣で雅之が慌てている。
 凪にも、どうしていいのか判らなかった。
 私、なんでこの程度で泣いてるんだろう。
 どうして、涙が止まらないんだろう。
「ごめん……」
 凪の肩を抱きながら、雅之が呟いた。
「なんで謝るの」
 しゃくりあげながら、凪。
「だって、俺が泣かせてるような気がするから」
「…………」
 背中に腕が回って抱き寄せられる。大きくて暖かな胸。そのまま、しばらく泣けるだけ泣いた。
「ごめん」
 頭をそっと撫でられた。
「そんなに靴のことで悩んでたなんて、知らなかったから」
「………………」
 いや……それは違うし、ま、いっか。
 馬鹿だな、私。
 最初から私は成瀬のシンデレラでよかったんだ。
 最初から、私は、ここにいてよかったんだ。
 最初から――そんなことに今頃気づくなんて、私って成瀬以下のバカだ。
 雅之が、ぎこちなく顔の向きを変える。凪は目を閉じた。キス――。
 優しくて、柔らかくて、甘い。
 何度も何度も、離れては触れる唇。
 好き……。
 大好き。
 胸がいっぱいになって、また、あの感覚がやってくる。唇から、吐息から、抱きしめられている腕から。眩暈にも似た陶酔。このまま何もかも忘れて、溶け落ちてしまいそうな。
 恋は――麻薬。
 この口づけは甘い罠。
「……ごめん」
 額をあわせて、雅之が囁いた。
 もう凪は、その顔を見られない。
「今度は、なに」
「いや、その、最初に謝っとこうと思って」
「…………?」
 なにを、と聞こうとして、凪はようやく我に返った。今更だけど、この状況は、少しばかりまずすぎる。2人きりの部屋、戻らない家族、心なしか雅之の目も、「もう逃がさないモード」になってるような。
「あのさ」
「結婚しよう!」
 腕をすりぬけようとした時だった、いきなりの暴言?に、凪は顎を落としていた。は?
「そ、それくらいの覚悟はあるから、俺。つか、もう一生、流川以外、誰も好きになんねーから!」
「………………」
 真剣というより、必死な眼差し。
 凪の中で、もりあがった感情がするすると引いていった。そっか、なんかの本で読んだよ、そういや。男の人って、その時になるとどんな臭い嘘でも平気でつくとか。
 本当に、その実例を間近で見ちゃった感じがする。
 しかも、今の、末永さんのパクリじゃない?
「……ウソ臭い……」
「う、嘘じゃねーよ」
 凪は疑念の眼差しで、雅之を見上げながら、身体を離した。
「じゃ聞くけど、私がもし明日死んだらどうすんの?成瀬は、これから先の長い一生、ずっと私のことを思い続けて生きていくわけ?」
「う」
 と、馬鹿正直に詰まる男。
「ほらね、そんなありえないこと、軽々しく言わないでよ」
 が、一瞬ひるんだと思わせた男は、すぐに身を乗り出してきた。
「じゃ、俺が先に死ぬから」
「………………」
 は?
 唖然として、凪は雅之を見上げている。
 何て言ったの、今、この人。
「俺はいいよ、俺が死んだ後のことまでは気にしない。約束する、なんの保証もないけど、流川は、絶対俺より長生きする!」
「……………………」
 それ、あんたがする約束とは違うような。
 しかも、普通、そこは、僕は死にませんとか、君を置いて僕は死なないとか、そういうことを言うべきなんじゃ……。
 馬鹿だなぁ。
 心底呆れて、凪は思った。
 ほんっとに、この男って、救いようがない。
 憧れていた小学生の頃、この本性を知っていたら、……でも。
「そんなの、寂しいじゃん」
 それでもやっぱり、好きになっていただろう。
「あんたみたいな面白い男が先に死んじゃったら、さみしくて、どうやって生きていっていいかわかんないじゃん……」
 それでも。
 例え、どんな形で巡り合っていたとしても。



 この先に進むことが。
 ずっと怖くて逃げて来たけど。
 もういいや。
 こうなることが、今はすごく自然のような気がするから。
 ふいに、雅之がいぶかしげな眼になって動きを止める。
「急に不安になってきた」
「……?」
「いや、だって今までも、いつもいいとこで邪魔が入ってたから」
「……あのさ、集中途切れるようなこと言わないでくれる?」
「ご、ごめん」
 半身を起した雅之が、そのまま着ていた衣服を脱ぎ棄てる。
 カーテンの向こうは暁の青。
 ぎこちなく身体を縮めて、凪は自分の服が脱がされるのを手伝った。
「寒い」思わず呟くと、「俺も」と笑われて、ようやく緊張が解けていく。
 抱き合った素肌は暖かかった。暖かくて――いい匂いがする。
 触れて、触れられる。最初はおずおずと、どこかためらいがちに、それが少し大胆になって、やがて急速に2人を隔てている境界が溶けていく。
 広い背中に手を回しながら、凪は思った。
 知らなかった。男の人の身体って、こんなに綺麗なものなんだ。
 髪も肌も、すごく甘くていい匂いがする。
「……小さい」
「胸?」
「ばっ、ちがっ、そんなの思っても絶対言わないし」
「…………」
 言ったも同然だよね、今。そう思いつつ、凪は雅之の額に落ちた髪をすくう。
 その指を握られて、口元に寄せられてキスされた。
「流川が、ちっちゃいからさ」
 へんだな、私。
「なんだか、俺が壊しちゃいそうだ」
 こんなことで、心臓が痛いくらいドキドキしてる。
 こんなに大切に扱われて、自分のやせっぽちの身体が、宝物みたいに愛しく思えてくる。
「や……」
「……ごめん、もう、少し」
 こんな顔するって初めて知った。
 私……今、どんな顔してるんだろう。
「流川」
 どんな目で、こいつのこと見てるんだろう。
 長いようで、短い時間が終わった後、雅之の唇がおでこに当てられた。
「すっげ、可愛い」
 凪は、潤んだ目を見られたくなくて、視線を下げる。
「大好き、すげー好き、絶対一生、大切にする」
 また、そんな軽いことを。
 それでも凪は、雅之の汗ばんだ肩に唇を寄せた。
―――私も、大好き。
 一生とまではいかないけど、多分負けないくらい、大好き……。




「うわっ」
 凪は小さく叫んで跳ね起きた。
 すっごい熟睡してた気がする。気のせいじゃなくてマジで。初めて男の人とお布団に入った日に、ここまで無防備に寝てしまう私って……。
 すぐに枕元の時計を見る。
 七時半。
 こんなものか。
 ほっとして、ようやく我に返って隣にいるはずの人を見た。
 よかった。自分よりまだ無防備に熟睡している人がいる。子供のような寝顔に、覚えたての愛しさがかきたてられる。
「そろそろ、起きようよ」
 そっと、剥き出しの肩に触れてみる。額を隠している髪、睫毛。少しだけドキドキした。不思議だった、たったあれだけのことなのに、昨日の自分とは、もう違っている自分がいる。
 が、
「憂也、悪ぃ、もう少し」
 その寝言でロマンチックな感情はかき消えた。
 そうですか、今、あんたの隣にいるのは綺堂さんですか。
「起きろ、コラ!」
 かけていた布団を引き剥がす。
「うわっっ」
 と、両腕で胸をかくすようにして跳ね起きる雅之。
「な、な、何?地震?」
 アイドル……いや、それ以前に、男としてのオーラなし。
「おはよ」
 それでも、妙にくすぐったい気持で凪は言っていた。
「うん、おはよう」
 少し照れたように、雅之が頭に手を当てる。
 そのまま、自然に唇を合わせていた。柔らかく陰った日差しが、室内を明るく照らし出している。
 額をあわせ、二人はもう一度キスをした。
「なんか食べる?」
「えっ作ってくれんの?」
「うん、ありあわせのものでよければ」
 いきなり、ぎゅうっと強く抱きしめられる。
「もうっ、痛いっ、なんなのよ、一体」
「だって、嬉しいからさ」
 どうしよう、すっごい幸せ。
 やばいくらい幸せ。
 好きな人と迎える初めての朝。
 知らなかった、この世界に、こんな幸せがあったなんて―――。
「成瀬……」
 肩に頬を預け、凪は囁いた。
「その前に、ひとつお願いがあるんだけど、いいかな」













 

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