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2005年12月31日
AM9:14 JR水道橋駅












 鋭く冷えた冬の空気が、師走の街に降り注いでいる。
 数日前の降雪が嘘のように、この日、東京都内は穏やかな陽光に包まれていた。
 2005年12月31日。
 今年をあと一日と残した街からは、すでにサラリーマンの大半が消えている。通常であれば、どの都電も閑散としているはずの朝の駅構内。
 しかし、年内最後の仕事に赴くために、JR水道橋駅、地下鉄東京メトロ、後楽園駅、都営地下鉄春日駅に降りたった乗客は、みな同様の驚きで足を止めた。
 朝の九時すぎ。東京ドームを有した小さな街に、イベントのたびに人が溢れるのはいつものことだ。
 が、この時間、この光景は確かに異様なものがあった。
「ストームのコンサート、一枚でいいからチケットを譲って下さい」
「席はどこでもかまいません」
「お願いします、チケットを譲って下さい!」
 駅構内から外に向かって、ずらりと並んだ若い女性たちの列。その手には画用紙か段ボールの切れ端。口ぐちに叫ぶ言葉と同じ女文字が、道行く人に訴えている。
 その列はどこまでも続く。銀色に輝く東京ドームの屋根に向かって、延々と続いている。
「どうなってるんだ」
 その光景を横眼で見ながら、水道橋駅の安全監視センター、名田吾朗は悲鳴をあげた。
 今日、東京ドームでは、日本中の注目を集めるイベントが開催される。
 タレントの暴力事件がきっかけとなり、その存在の有無をめぐる議論が社会現象にまでなったストームのカウントダウンコンサート。警察からも最大限の注意を払うよう警告されているビックイベントである。
 無論、名田は最大限の注意を払った。なにしろ、最低でも五万五千人が集まるイベントである。しかも、J&Mのイベントには会場外でのグッズ販売がついてくるから、数千人は余分に見積もる必要がある。
 この師走、動員された鉄道警備員の数は半端ではなかった。JRとしては総動員体制で挑むつもりでいる。しかし。
「何かの間違いじゃないのか」
 名田は、インカムを耳にあてながら、非番職員宅へダイヤルを続けている部下に向けて呟いた。
 手元のパソコンでは、都内各電車の乗車率が表示されている。JRのネットワークを通じて、この駅に何人の客がなだれこんでくるのか、その予測数値が容赦なく送られてくる。
 今朝の始発から、その予兆はあった。
 朝の電車は停まる度に大量の女性たちを吐き出し、すでに狭い駅構内はチケットを求める女性たちで溢れている。
「どうなってるんだ」
 名田は再度呟いた。
 J&M屈指の人気を誇った貴沢秀俊の時でさえ、ここまではひどくなかった。いや、今日のそれは、今までのどのイベントとも比較にならない。
「とにかく、早く来てもらえますか。ええ、午後からですが、変更です、全員に収集をかけてます」
 部下の声も、苛立っている。
 また電車が滑りこんでくる。
 名田は、呆然と、その扉からあふれ出てくる女性たちを見つめた。
 これは、何かの間違いじゃないのか?
「コンサートの開催は夜の九時だ、今はまだ朝の九時だぞ」










AM9:35 神田冗談社


「もう、びっくりしました、今朝戻ってみたら、いきなりこの有様で」
 大森の声が泣いている。
 ケイは、呆然としつつ、まるで嵐が通り過ぎた後のような室内を見回した。
 冗談社――のはずだった場所。
 電話は全て床に投げ出されている。デスクは空洞だらけで、抜かれた引き出しが、同じく床に中身ごとぶちまけられている。校了を終えたばかりの原稿、写真、その他書類が、いたるところに散らばって、それが泥のついた靴で踏みにじられている。
「コーヒーサーバー、ぶっこわれてます」
 ひっくりかえったソファの向こうから、ひょい、と高見ゆうりが立ち上がった。手にはどす黒くなった雑巾をぶらさげている。同時に鼻につく濃密なコーヒーの香り。
「あんた、無事だったのかい」
 ケイは、ほっとして溜めていた息を吐き出した。
 すでに、この事務所に常駐しているといってもいい女は、ここ数日、殆んど自宅には戻っていない。事務所に空き巣が入った――大森からの一報を受けた時、まずケイが青ざめたのがそれだった。高見は、大丈夫だろうか。
 寝不足の目を赤く腫らしたした相棒は、ひょい、と所在なく肩をすくめる。
「今朝は、煌さんのとこに行ってたんです。例の、真田会長の身辺調査の追加分を受け取りに」
「……あんたが無事なら、それでいいよ」
 転がった電話器を持ち上げながら、ケイは肩を落としていた。正直言えば、一報を聞いた時、心臓が止まりそうだった。この上、高見までもと思ったら。
「ミカリから連絡は」
 高見は、無言で首を横に振る。
 今夜中にデータを送ります。そう言ってきれた電話。それがミカリとの最後になった。
 明け方近くまで待っても、なんの連絡もないばかりか、携帯さえ繋がらない。
 ケイは嘆息して、椅子に腰かけた。
「今朝、でがけにミカリの実家に電話してみたよ。迷惑だとは思ったけどね。そしたら驚いた、夕べ遅くに電話があったみたいなんだ、ミカリから」
 冷静に言っているつもりで、まだ収まりきらない動揺が、ケイの語尾を震わせた。
「今夜は仕事で戻らないけど、心配しないでって」
「ミカリ、本人からですか」
「妹さんがお姉さんの声を忘れてなきゃね。でもその時間は、あたし達が何度電話しても繋がらなかった時間なんだ」
「…………」
 その意味を察したのか、険しい目で高見が黙った。
 九州でミカリが消えた。
 そして――今、東京では、冗談社の事務所が見るも無残に荒らされている。
「ミカリは一人じゃないのかもしれないですね」
 高見が呟く。ケイは何も言えなかった。
 最悪の、展開。
 ここまでやるのか。そう思う反面で、どうしてこうなることが予測できなかったのかとケイは思う。記者仲間からは最大限の忠告をされていた。真田孔明には手を出すな。真田財閥は日本経済のブラックボックスだ。出せば――必ず破滅が待っている。
 ミカリはおそらく、そのボックスを開く鍵を拾ったのだ。
 だから消えた。
 いや――消された。
「くそっ」
 だん、と、机の上を叩く。崩れそうな書類の山が、雪崩をなして床に落ちる。
 その黒い箱に、とんでもない化け物がひそんでいたら――あまりに非現実的で、想像さえしていなかったが、ミカリの命ごと、鍵は闇に葬られるかもしれない。
「あたしのせいだよ」
 うめくようにケイは言った。
「最悪だよ。相手が暴力でかたをつけてくるってことを、はなっから忘れてた。いくら知恵や策略で対抗しようとしても無駄なんだ。相手は、その程度のことなら、平気でやってくる連中なんだ」
 モンスター、耳塚恭一郎。
 元々は関西関東を牛耳る矢吹組に所属していた、筋金入りの極道である。
 今でも、矢吹組と真田財閥の繋がりは深い。悔やんでも悔やみきれない。どうしてその程度のことに、もっと、注意できなかったのだろうか。
「あの、け、警察には」
 呆けたように2人を会話を聞いていた大森が、ようやく我にかえったように口を挟んだ。
 警察に通報しようとした大森に、ストップをかけたのはケイだった。これが単なる空巣でないなら、おそらく、証拠は何も残っていないに違いない。それどころか――下手に騒げば、ミカリの命がますます危うくなる可能性がある。
「データは全部無事ですね、侵入された形跡もない。まぁ、私の鉄壁のブロックが、初めて役にたったってことですけど」
 パソコンを再起動させながら高見が言った。「部屋の中、ざっと見てみましたけど、多分、なくなったものは何もないと思いますよ。これが敵さんのしたことなら、目的はひとつだと思います」
「警告、か」
「そんなとこでしょう」
 だとしたらその目的は――これ以上関わるな、ということだろうか。
 ケイは、陰鬱な目で床を見る。
「同じだね」
 そして、自嘲気味に呟いた。
「柏葉将が、逮捕された時とおんなじだ。例えは妥当じゃないかもしれないけどライブライフ、織原の親父さんが逮捕された時と同じだよ。一生懸命こつこつと積み重ねてきたものが、暴力的な弾圧によって覆される。取り返しがつかないほど木端微塵になる。やっと判ったよ、東邦の最後の切り札は道徳なんかじゃない」
 真田孔明のためなら、なんでもやってのけるモンスター、耳塚恭一郎。
「ケイさん、とにかく警察に連絡しましょう」
 蒼白な顔で、大森が受話器を掴みかける。「大切なのはミカリさんの命ですよ、もう、そんなこと言ってる場合じゃないじゃないですか!」
「…………」
 それは、思案のしどころだ。
 ケイは両手のひらを握りしめる。
 大森に言われるまでもない、大切なのはミカリの命だ。しかし、行方が分からなくなって、すでに十時間以上が過ぎている。もし、殺害の意図を持って拉致したなら、今更何をしても手おくれだし、二十歳を超えた成人女性が、たかだか一晩行方をくらませた程度では、まず警察は動かない。
―――警察に、今判ってることを何もかもぶちまけるか。
 立ち上がりかけたケイだったが、判っていることなど何ひとつないとすぐに気がつく。
 一笑に付され、なおかつこちらの動きが東邦に伝わり、高見の前科も洗いだされる。その挙句、ミカリが戻ってくる可能性は、ゼロ以下になるだろう。
「ケイさん」
「黙ってな」
「ケイさん!」
「黙ってなって言ってんだよ!」
 ケイの剣幕に、大森が凍りついている。
―――最悪だ……。
 どうすればいいんだろう。思考が凝固したまま動かない。
 今日は2005年最後の日。東京ドームで、運命のコンサートが開催される。わかっているのは、今起きていることを、ドームにいるJ&Mのスタッフに、絶対に耳に入れさせてはいけないということだけだ。
 静まり返った室内に、ふいにベルが鳴り響く。
 のろのろと顔をあげたケイの視界に、受話器を取り上げる高見が映った。
「はい、冗談社」
 その顔がみるみる曇る。
 ケイは、言い知れない不安を感じたまま、相棒の表情を見続けていた。












 

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