102



 柏葉将が、被っていたベールをうっとうしげにむしりとっている。
「ほら」
 それがりょうに投げられる。
 真白は、壇上に立つりょうから目をそらせないでいた。
 りょう……。
 その眼差しは、困惑しているようにも、迷っているようにも見えた。真白に向かって、何かを問いかけているようにも見えた。
 けれど、こんな時なのに、真白は静かな安堵を感じていた。自分が入ってくるまでのりょうが、すごく楽しそうだったから。
 島根にいた頃は、あれだけ痩せていたのに、そして今も、さほど見た目の体型は変わっていないのに、シルバーのタキシードを着たりょうの全身からは、むしろ逞しささえ漂っている。
 だからこそ、今、迷っているりょうの表情が、真白には苦しかった。そして思う。別れたことは正解だった。やはり私が、りょうをいつも苦しめている……。
 ベールを握りしめ、わずかにうつむいたりょうは、そのまま何かを振り切るように、ステージを降りて歩き出す。真白は身構えたまま、立ちすくむ。どうしていいか判らなかった。りょうは歩いてくる。まっすぐ、延長線上に立つ真白のもとに。
「ごめんね。本当はちゃんと、ドレスも着せてあげたかったんだけど」
 立ちすくんだ真白の背後から、母親の声がした。
 何を言ってるんだろう。真白はただ、近づいてくるりょうだけを、怖いような気持ちで見つめている。
「真白は勘がいいから、きっとバレちゃうと思ったのよ。ごめんね。それからおめでとう」
 何言ってるの?お母さん。
 たまたまりょうがタキシード着てるだけで。
 冗談でも、おかしなこと言わないでよ。お願いだから。
「昔を思い出しちゃった」
 それでも、髪を撫でてくれる母の目に浮かんだ涙を見て、真白は何も言えなくなっていた。
「私もお父さんと駆け落ちして、仲間内だけで、こんな結婚式をあげたから」
 そんなの。
 できるわけないじゃん。
 お母さん、バカだよ。
 私とりょうは、
「今の真白の年よ」
 手で頬を包まれた。
―――私と、りょうは……。
「おめでとう……」
 笑う母の顔が滲んでいる。
 ふいに、喉に、熱い塊がこみあげる。
 お母さん。――お母さん、お母さん。
「ご迷惑をかけて、本当に申し訳ありませんでした」
 りょうの声が隣から聞こえた。
 真白は顔をあげられなかった。
「真白のこと、よろしくお願いしちゃっていいかしら」
「こんな僕でよければ」
 何言ってるの、りょう。
 冗談はやめてよ、冷静になってよ、お願いだから。
 こんなこと、ありえないし。
 遊びだとしても、絶対にやっちゃいけないことじゃない……。
 頭から、ふわりとベールが被せられる。
「ドレスは、あとでこれ、末永さんに着せてやるからさ」
 将の声がした。ピアノの前に座っている将は、手袋を脱いでいる。
「本当は今すぐ脱ぎてーんだけど」
「いいからさっさと、曲担当」
 その背後から憂也。
「はいはい」
 柏葉将の指が鍵盤の上を動き、綺麗な旋律が流れ始めた。
 誰かが手を叩き、暖かな拍手が、ゆっくりと場内を満たしていく。
「行こう」
 行く……?
 真白はおずおずと顔をあげた。りょうは、白い歯を見せて笑っている。
 その笑顔が、あまりに楽しそうで、子供のように無邪気だから、真白にはもう、何も言えない。
「おいで」
 差し出された腕。それでもまだためらう真白の手をとって、りょうは自分の腕に絡めた。
「じゃ、悪いけど、一足先に幸せになっちゃうかな、俺」
 笑顔で周囲を見回して、りょう。
 静まり返っていた場内に、わっとひやかしまじりの歓声が響く。
「つか、少しは俺に遠慮しろよ」
「末永さん、考えなおすなら今だからな」
「絶対苦労するよ、いろんな意味で」
 綺堂君、雅君、東條君……。
「りょうのこと、よろしくな」
 柏葉君……。
 初めて、真白の目に涙が溢れた。
 もう、いいや。
 これが嘘でも、夢の続きでも。
 もう――
「おめでとう、真白ちゃん」
 ミカリさん。
「おめでとうございます」
 凪ちゃんも、いる。
「真白」
 その声に、真白は足を止めていた。
 ミカリと凪の背後で、控え目に手を振っている女2人。
「七生実……?」
 その一人は、瀬戸七生実だ。こっちに来ている七生実には、上京した初日に会った。でも、どうしてその七生実が今、ここに。
 それから。
「よかったですね」
「彩菜……」
 七生実の隣で、両手で口元を覆い、目を潤ませている小柄な女性。
「よかったですね、本当に本当に、よかったですね」
 泣きじゃくる後輩とは、大阪で別れたきりだった。真白はたまらず両手で顔を覆った。涙がもう、止まらない。
 足が止まってしまった真白とりょうの傍に、雅之、聡、憂也が歩み寄ってくる。
「えー、ではここで、指環の交換といきたいとこですが、何分急で無理でした。その代わりに、じゃん、こちら」
 憂也がおどけて、小さな箱をりょうに手渡す。
 その箱の装飾に見覚えがあった。
 目を見開く真白の前で、りょうが蓋を開いて中を開ける。
「……あ」
 りょうの唇から、小さな声が漏れた。
 驚きは真白も同じだった。
 大阪から島根に戻った時、なくしたと思っていたシルバーのピアス。
 りょうに、初めてプレゼントしてもらった、一度もつけることがなかったピアス。
 りょうが、背後の母に、再度一礼する。
 それから、ピアスをそっと取り出し、真白の耳元でかがみこんだ。
 耳にりょうの指が触れる。
 真白は目を閉じていた。ずっと閉じたままの穴は、少しだけ痛みを伴い、約束の証を受け入れる。
 もう片方。
 けれどりょうは、ふと手を止めて、少しおどけた仕草で自身の左耳を指さした。
 真白はその意味を理解した。
―――りょう……。
 受け取ったピアスを、今度は背のびして、りょうの耳につける。
 涙で、もう何も見えない。
 満場の拍手が聞こえる。
 これは夢だと真白は思った。多分、目が覚めたら消えている。
 だから、もういい。
 もう、何も考えない。
 今はただ、何も考えずに、人生に起きた、この奇跡を抱きしめていたい――。



             103


「もう帰んの?」
「うん」
 凪はそう言って、ヘルメットを持ち上げた。
「もう少しいればいいのに」
 碧人が、背後を振り返りながら言う。真っ昼間のクリスマスパーティは、いまだ帰る客が誰もいないまま、尽きない話で盛り上がっている。
「……うん、でも、戻んなきゃ」
 場内を、横眼で見ながら、凪は言った。
 片瀬りょうと真白が消えて、柏葉将もいなくなった(多分着替えのために)。雅之も、今はいない。ストームで今残っているのは聡だけだ。
「美波さんとこ?」
「…………」
 それには答えず、凪は手早く上着を羽織った。
 行かなきゃ。
 別に美波さんが、私を待っているわけじゃない。
 彼は確かに、ずっと待っているけれど、その相手は私じゃない。
 でも、こんな日に、彼をたった一人、あの寂しい部屋に置いておくわけにはいかない。
 今夜は無理にでも連れ出そう。少し外に出て、散歩して、食事にでも誘ってみよう。
「少し、話してったら?」
 軽く嘆息して、碧人の手が凪からヘルメットを取り上げる。
 雅之のことを言っているのだとすぐに判る。凪は黙って、碧人を見上げる。
「こんな機会めったにないじゃん。お前もあいつも、なんか話したそうな眼してたけど、お互いに」
「そんなことないよ」
「そうかな」
「そうだよ」
 凪は手を延ばす。碧人はひょい、と、身を交わした。
「あのさ」
「もうっ、子供みたいないたずらしないでくださいよ」
「俺、お前のこと好きなんだよ」
「…………」
 いや。
 凪の中で、周囲の喧噪が一時とまる。
 こんな場所で、ついでみたいに告白されても。
 うつむいた凪の手にヘルメットを戻して、碧人は壁に背をあずけて空を仰いだ。
「もう、すげー好きでさ。自分でも不思議なくらい、お前のことばっか考えてる」
「………あの」
 それは、――私には。
「いい、最後まで聞いて」
 凪を遮り、碧人は疲れたように溜息をついた。
「好きすぎて、なんかもう、恋愛なんか超えてんだ。もしかして俺ら、前世で兄妹だったのかな」
 いや、それだとミサちゃんの立場は……。
「だからさ」
 碧人は続けた。
「お前が無理してんのみると、なんかすげー腹立つし、辛いんだよ」
「無理なんか、」
 言葉が詰まった。
 碧人の気持ちに、優しさに、胸が苦しくなっていた。
 無理をしているのは海堂さんだ。なのに私には、その気持ちに答えることができない。
 でも、私だったらどうだろう。私だったら――好きな人を、こんな風に笑顔で送り出すことができるだろうか。
「……とにかく、今日は」
 帰ります。
 迷いながらそう言いかけた時だった。ウエストポーチに入れていた携帯が震えた。
 何度も震えるそれは、メールではなく通話を意味している。
「出たら?」
 少しためらってから、凪は取り出した携帯を開く。そして眉をひそめていた。
「海堂さんの、お母さんから」
「えっ」
 今度は碧人が、驚いて凪の携帯を見のぞきこむ。「おふくろが?なんでお前の携帯に?」
「……………」
 嫌な予感がする。
 海堂碧人の母、海堂倫は、保坂愛季が入院している私立病院の院長だ。
 すでにアルバイトをやめた凪に、その倫が電話してくる理由は、ひとつしか思いつかない。
 愛季さんに、何かあったんだ。
 こわばる手で、凪は携帯を耳にあてる。
「はい……」
 心臓が、嫌な風に高なっていた。



           104


「似合ってるじゃない」
 背後の扉があいて、第一声がそれだった。
 鏡越しに立つ人を見て、将は顔を拭っていたタオルを置いて振り返った。
「うるせーよ。つか、笑ってんなよ」
 それでも一向に笑いやむ気配のないまま、しずくが歩み寄ってくる。
「すごい、近くでみるとウエストなんかはちきれそうよ」
「腹筋ついてんだよ。出て行けよ、着がえんだから」
 殺そう、憂也を。
 再びタオルで思いっきり顔をこすりながら、将は静かに決意を固めた。
(どうすんだよ、将君うんって言わなきゃ、計画全部パーなんだけど)
(いやならいやでいいよ、だったら将君がなんとかしろよ)
 そりゃ、大切な日、約束の一時間前にすべりこんだ俺が悪かった。しかし、しかし、だ。
「見せたいものって、これだったんだ」
「んなわけねぇだろ!」
 いつからいたのか知らないが、しずくが現れたのは、肝心のイベントが終わった後。
 ピアノ演奏を終えた将が、なかば逃げるように場内を出た時、廊下でばったり出くわしたのである。
 その時のしずくの顔と、自身が感じた衝撃を、将は一生忘れないだろう。
「ああ、苦しい」
 しずくは、将の隣に腰かけながら目の端にたまったらしい涙を拭った。
「こんなに笑ったの久しぶりかも。ありがと、いいもの見せてもらったわ」
「いいから早く出て行けよ」
「マスカラ、残ってる」
「え?」
 濡れたタオルを取り上げたしずくが、将に膝を寄せてくる。
 近づいた顔。
 綺麗だな、と将は思った。
 睫毛にも、唇にも、昨夜抱いた時の名残が残っているような気がする。
 白いカシュクールのニットにふわりとした薔薇色のスカート。
「可愛いね」
「え」
 つい口に出してしまっていた。言ってから、しまったと思ったがもう遅い。
 ただでさえ立場がない状況で、からかわれる要素を自ら作ってしまったようなものだ。
「あー、服、似合ってっから」
「そう?」
 が、しずくは曖昧に目をそらして、何故か将の目を見ないままで、「普段着だけど」と呟くように言い添えた。
 え?
 将は逆に固まってしまっていた。
 え、もしかして、今マジで動揺してんの?こいつ。
「………………」
「………………」
 何か俺まで、意味もなく緊張すんだけど。
 ふいに目の前の女が、ひどく身近に感じられる。年の差や立場など関係なく、一人の女なんだという実感がわいてくる。
 が、しずくはすぐに、いつもの顔になって将を見上げた。
「可愛かったね、片瀬君の彼女」
「見てたんだ」
「うん、遠くからだけどね。人の幸せを見るのは好きだな、自分までいい気持ちになっちゃうから」
「俺らも結婚する?」
「あはは、それはいいけど、どうかなぁ。タキシードが似合いすぎるのよね、私」
「誰がこの格好でするっつったよ!」
 ああ、もういい。
 とにかく脱がないと、何を言ってもさまにならない。
 ふと鏡の前、視界の端に、オレンジと白の花をまとめたブーケが見えた。
 そっか、持って出るのを忘れてた。つか憂也の奴、どこまで細かく用意してんだか。
「これ」
 将は、ブーケを取り上げて、しずくに渡した。
「何?」
「やるよ。持ってて」
「私が?」
 しずくが眉をあげる。
「似合ってる」
 その目を見ながら、将は言った。
「どうしたの、今日はそればっかりだね」
「本当に似合ってるからさ」
「…………」
 キス――あと少しで唇が触れると思った時だった。
 バタン、と勢いよく扉が開く。
「おーーっ将君、ここにいたんだ」
 ぎょっとして、互いの顔を素早く離す将としずく。
 が、立ちすくむ雅之の目は、ありえないものを見た!という驚愕をありありと浮かべていた。
「え、な、何今の、もしかして」
「見られちゃったか」
 将が口を開く前に、しずくが笑って立ち上がった。
 そして、将の肩をいきなりぎゅっと横抱きにする。
「ごめん、バニーちゃんがあんまり可愛いんで、つい襲いたくなっちゃった」
「はぁ??」
 愕然とする将。が、雅之はそれで納得したのか、はぁ、と頷き、どこか憐れむような眼で将を見る。
「そっか、将君、朝帰りまでしたのに、立場全然変わってなかったのか……」
「う、うるせーよ」
 そんなんじゃねぇのに、今のは。
「あ、そだそだ、真白ちゃん帰りの時間迫ってっから、いつまでも遊んでないで、早くそれ脱いでもってけって憂也が」
「脱ぐからさ」
 将は、冷えた怒りを噛みしめながら振り返った。
「頼むから、全員、出てってくれ!!」



           104



 聡は足を止めていた。
 あり得ないカップルが、狭い通路、壁に背を預けて立っている。
 その内の一人が、聡が探していた雅之だった。
 そして、もう一人は。
「よ、元気だった?」
 真咲しずくは、聡を見上げて、おどけたように肩をすくめてみせた。
「来てらしたんですか」
 さすがに聡は驚いている。
 将から来るとは聞かされていたものの、会場ではついに姿を見ることがなかった。多分、誰も、ここに姿を消した元副社長がいることを知らないはずだ。
「ちょっと暇だったから、寄ってみちゃった」
 しずくが手にしているブーケに目を止め、それを少し不思議に思いながら、聡は雅之を振り返った。
「雅、碧人君が、お前のこと探してるみたいでさ」
「俺?」
 眉をあげて、雅。
「うん、事情わかんないけど、なんか焦ってるみたいだった。まだホールにいるからさ、ちょっと行ってみたらどうかな」
「そりゃ……いいけど」
 少しためらった風に歩きかけた雅之が、そこで足をとめて、真咲しずくを振り返った。
「あの」
「ん?」
「あの……その、いろいろ、あったけど」
 不思議そうに、しずくが首を傾ける。
「俺は、その」
 口ごもった雅之が、気持ちを固めたように顔をあげた。
「認めてるから、その……将君の恋人として!」
 しずくの表情は動かない、不思議なほど静かな目で、雅之を見つめている。
「それだけ」
「……うん」
 ようやく、柔らかい微笑が、人形みたいな綺麗な顔に広がった。
「ありがとう」
 雅之が照れたように視線を下げ、そのままきびすを返してホールの方に駆けていく。
「将君は?」
 その背中を見送った聡は、立ったままのしずくに訊いた。
「中、でも今入ったら殺されるわよ」
 なんか、雰囲気変わったな、この人。
 そう思いながら、聡はしずくの隣に立つ。
「また、J&Mに戻ってきてくれたんですか」
「あはは、それはみんなが許さないでしょ」
「…………」
 少しうつむいてから、聡は続けた。
「俺は、感謝してます」
「なんの話?」
 しずくが笑う。
「ストームをもう一回解散させちゃうこと?それともJ&Mを潰しちゃうこと?」
 聡は、静かな目でしずくを見つめた。
「あなたに、こうなることが読めなかったとは思わない。でもそれは、将君のためだったって、今は心から思ってるから」
 多分、あのまま。
 コンサートが成功していたとしても。
 将はそれを最後に、ストームを去っていたはずだと聡は思う。そして二度と戻っては来なかったろう。それが、聡がよく知っている将という男の性格だから。
 それを、この人は最初から判っていたのではないだろうか。
 東邦真田という、これからもずっとJ&Mにとって巨大な敵であり続ける組織と戦っていくためには、もっともっと、今よりもっと、5人が、唐沢が、スタッフが、強くなることが必要だと。
 すげー、乱暴なやり方だけど。
 苦笑して、聡は続けた。
「……今は、本当にそう思ってます。だからあなたには、本当に感謝してるんです」
 しずくは何も言わない。
 ただ、黙って、足元を見つめたまま、微笑している。
「もしよかったら、向こうの会場に行きませんか。みんな、真咲さんのこと」
「これ、あげる」
 ひょいっと、目の前に花束が差し出された。
「え?」
「君の恋人にあげて、一応花嫁のブーケだから、ご利益あるんじゃない?」
 でもこれは。
 花束と女を交互に見つめ、聡は戸惑う。
「私にプロポーズしたいなら、薔薇の花百本ってとこかな」
「は?」
「帰るって、伝えといて」
「えっ、でも」
「コンサートは、絶対に観に行くから」
 ふわり、とスカートが翻る。
「元気でね、ありがとう!」



「将君」
 背後の扉が開く。
 立っているのは、困惑した顔の聡。鏡ごしに将を見て、そして自身の背後を振り返っている。
「あのさ、真咲さんが」
「行ったんだろ」
 妙な癖がついた髪を指で払いながら、将は言った。
「……いいの?」
「いいよ」
 顔を見た時から判っていた。別れを言うために来たんだろうということは。
 今は――どうしたって変えられない。
 あいつの気持ちを動かせない。
 でも、いいさ。
 どこに行ったって、俺が必ず見つけてやるから。



              105


「寒くない?」
「うん……少し」
 たった10分の花嫁衣装。素肌に、冬の空気が沁み込むほど冷たい。
 真白は空を見上げた。
 午前中、少しだけ降った雪は今は止んで、頭上には冬晴れの空が広がっている。
 ビルの屋上。今は二人きりしかいない。
「結婚したね」
 手をつないだままのりょうが、そう言って真白を見下ろした。
「俺の奥さん」
「…………」
 優しい眼差し。
 真白も静かに、りょうを見上げる。
 もう2度と、繋ぐことのないと思っていた二人の手。
「迷ったけど、もうこれでいいと思ってる、俺」
 りょうの唇が、真白の額に触れた。
「迷ったんだ」
「そりゃね」
 顔をあげて、りょうは笑った。
「せっかく真白が決めてくれたことなのに、それを無駄にしていいのかなって思ったよ。別れた時、俺以上に、真白がつらかったはずなのに」
「そんなことない……」
「もう2度と、真白にあんな真似をさせちゃいない。そう思ったから、俺は東京に戻ったんだ」
 唇が、ピアスをつけたままの左耳に触れた。
「真白も、すごい顔してたね。今にも逃げ出したいって目になってた」
「だって」
 真白も笑った。
「あれだけ大袈裟なことして別れたのに、あの再会はないじゃない」
 互いに笑って、両手の指をからめて、寄り添い合った。
 りょうの胸から鼓動と温もりが伝わってくる。大好き――真白は思った。この世界でただ一人、巡り合えた運命の人。
 身体を重ねたまま、互いの胸の音だけを聞いている。
 りょうの手が、真白の髪をそっと撫でた。
「入籍したり、一緒に住んだり、……そういうのは、何もできないと思うけど」
「うん……」
 知ってる。
 そんなこと、最初から望んでないよ、りょう。
「ただ、今日から俺は真白のものだから。これからずっと、真白はそう思ってていいから」
 真白を見下ろし、りょうは綺麗な目をすがめて笑った。
「だけど、真白を縛るつもりはない」
―――りょう……。
「向こうに行って、俺以外の誰かを好きになっても構わない。嫌いになって忘れたってかまわない。俺は最低の男だから。今も、これからも、何も真白にしてやることはできないから」
「…………」
「これは俺だけの約束だし、誓いなんだ。だから真白は、自由にしててかまわない」
「私こそ、りょうを縛らない」
 りょうを遮るように、真白は言った。
「りょうの約束なんかいらない。そんなものなくても構わない。私はずっと前に誓ってるから」
 私には、澪だけだって。
 この先何があっても、もう、他の誰も好きにはならないって。
「もう、行かなきゃ」
 キスの後、涙を誤魔化して真白は笑った。
 純白のウェディングドレス。12時で魔法の解けるシンデレラのように、それを脱がなければならない時間は迫っている。
「ずっと着ていたいけど、寒くてもう、風邪ひきそう」
「俺もずっと、見ていたい」
 抱きしめあった。
 こんな未練が自分に残っているのが不思議なくらい、強く、りょうの身体を抱きしめる。
「島根、帰るんだ」
「うん」
 別れてしまえば、もうこの温もりを分かち合うことはない。あるとしても、それはきっとずっと先の未来の話。
 二人が、もっと大人になって、私が私らしく、りょうがりょうらしく、胸を張ってそれぞれの道を歩ける日が来てからの話。
 今日は――その日のための約束だから。
 頑張って。
 澪……絶対に、絶対に自分に負けないで。
 私も、絶対に負けないから。
「俺は織姫なんだっけ」
 ふいに、りょうが呟いた。
 意味が判らず、真白は顔を上げている。
「一年に一回は二人で会おう」
「…………」
「一年で一日だけ、俺は当て字の澪に戻るんだ。その時は夫婦みたいに、二人で普通に過ごしたい」
「…………」
「一緒に起きて、メシ食って、散歩して、買い物行って、そんなんでいいから、一緒にいよう。真白は一日中掃除してても構わない、アイロンだって気がすむまでかけてくれ、その日だけ俺の傍にいてくれれば」
「…………」
「一年で、一日でいいから」
「…………」
「俺に、片瀬澪に戻る時間をくれないか」
「…………」
 それは。
 真白は呟いた。涙がこぼれた。
「りょうが決めることだから」
 焦らないで。
 私はいつだって待ってるから。
「澪が、私に会えるって思ったら、私も澪に会いたいと思ってる。それは、絶対そうだから」
「…………」
「今日は、そのための約束をしたんだよ、私たち」
 ようやくりょうが、小さく頷いて微笑した。
「そうだね」
 互いに笑顔を交わして、抱きしめあった。
―――りょう……愛してる……。
 いつの間にか降りだした雪が、二人の睫毛を結晶で濡らしている。
 いつだって心は、今日のまま、いつもりょうの傍にいる。
 だから、離れても、それぞれの道を生きていける。



              106


「わっ、また降ってきたな」
 ぶるっと震えて、聡は背後のミカリを振り返った。
「雅と凪ちゃん、大丈夫かな」
「バイクの二人乗りだしね。ちょっと心配ではあるけれど」
 ま、大丈夫なんじゃない?
 ミカリは笑って、手元の携帯を押し開いた。
 一足先に帰ったケイから、メールが入っている。
 夕方、藍色の薄闇の中、白い雪の結晶が天から舞い降りている。それは、灰色の街に降る、神様からの贈り物のようだった。
―――真白ちゃん、無事に帰ったかな。
 年が明ければ真白は渡米し、片瀬りょうとは否応なしの別れが待っている。
 けれど、今日、手を繋いで屋上から降りてきた二人の顔が、あまりに穏やかな幸福に包まれていたので、もう大丈夫だとミカリは思った。
 もう、何があっても、あの二人は大丈夫だろう。
 幸せの余韻が、連れだって帰る聡とミカリの2人にも尾を引いている。
「九石さんから?」
「うん、ちょっと待って」
 メールを開くミカリの頭上に、聡が傘をかざしてくれる。


 ミカリ、カンちゃんが仙台支局に飛ばされた。
 どうやら敵は、あたしたちの動きに気づいてるみたいだ。
 くれぐれも、危険な真似はしないように。


「…………」
「何?」
「ううん」
 ミカリは笑顔で携帯を閉じた。
「もしかして、年末も休まず出て来いって?」
 聡は無邪気に笑っている。
「コンサートの取材には行くわよ。でもそれまでは少しお休み、実家に帰ってみようと思って」
「そっか」
 嬉しそうに頷く聡から、ミカリは微笑して目を逸らした。
 九州に帰る目的は、別にある。
 行方をくらましている大澤絵理恵の家を訪ねるため。けれどそれを、聡に言うつもりはない。
「目立っちゃうかな」
 聡の傍に身を寄せながら、ミカリはいたずらっぽく囁いた。
「いいよ、俺、歩いてても芸能人だって気づかれたこと、一回もないんだ」
「それはそれで問題ね」
 それでも二人、ひとつの傘に収まって、雪の街を歩きだしている。
「素敵な結婚式だったね」
「うん」 
 自然に手を繋いでいた。
「綺堂君には、お礼言わないといけないね。会わせてあげたいとは思ったけど、あんな展開、まさか夢にも思ってなかったから」
「誰も、想像だってしてなかったよ」
「いい子だね、綺堂君は」
「……うん」
 今も、きっと綺堂君のおかげだから。
 それは口には出さず、ミカリは思う。こんな風に自然に、もう一度2人で話せる時間を持つことができた。どこかぎこちなかった距離を、ごく自然に埋めることがてきた。それもきっと――。
「凪ちゃんも、どうやら大詰めみたいだね」
 手のひらで溶ける雪を見つめながら、ミカリは言った。
「本当なら、ずっと一緒にいた碧人君がついていってもよかったのに、最後の最後で、雅君にナイトの座を譲っちゃったんだ」
「憂也と飲みに行くんだってさ、今夜」
「そうなんだ」
「俺の気持ちが判るのはお前だけだって、妙に意気投合して盛り上がってたよ。憂也も碧人君もいい奴だから、いつか絶対、幸せになるよ」
「……そうね」 
 ミカリは舞い落ちる粉雪を見上げる。
 意地はって一人で帰ったケイさんも、その気持ちがよく判っていない唐沢さんも。
 みんなみんな、幸せになるといいのに。
「僕たちも、十年くらいしたら、許されてるかな」
「…………」
 ミカリは聡を見上げている。
「ミカリさんのドレス姿、見たくなった」
「十年もしたら、怖くてむしろ見られないわよ」
 切り返すと、う、と聡が言葉に詰まる。
「いいのよ、約束なんて」
 ミカリは笑って、傘の柄に添えられた聡の手に、自分の手を重ねた。
「何もいらないの、私。今、こうしていられるだけでいいから、……本当よ」
 互いの、少し冷えた指。
 凍える息、唇も冷えていた。
「来年も、再来年も一緒にいよう」
 再び歩き出しながら、聡が言った。
「いつか、ミカリさんを胸はってみんなに紹介できる日まで、俺……がんばるよ」
「……うん」
 そんな日が。
 本当にくるのだろうか。
「その日まで……待ってて」
 それでもミカリは頷いた。
 信じてもいい。なんの保障もない夢のような未来、そんな日が本当にくるかもしれないということを。
 今夜は、クリスマスだから。
「……待ってる」
 どんな奇跡も、信じていい夜だから。















 

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