107
なんだろう。この沈黙は。
雅之は、ちらりと凪を見る。
さきほどから一言も口を開かない凪は、みじろぎもせずに、この沈黙に耐えている。
時計の音だけが聞こえてくる。
二人の前に並べられたお茶は、とうに冷たくなっていた。
都営アパート。家具に圧迫されたような狭い部屋である。
座卓を挟んだ向かい側には、一人の老婦人が座っている。
―――呼ばれたから、来たんだよな。
雅之は、ちらりと凪を見る。そして再度、正面の婦人を見た。
この人が、流川がずっと探していた美波さんの恋人の――母親か。
灰色の肌を持つ、ひどく痩せた老婦人は、半ば白くなった頭を背後にひっつめ、こげ茶色のワンピースを身につけていた。
頑なな正坐をみじんも崩さず、先ほどからずっと、呆けたように、机の一点を見つめている。
言っては悪いが、その表情は、どこか常軌を逸しているように見えた。
(今から、例の恋人のお母さんに会いに行くんだ。流川を一人で行かせるのは危険だから)
自分は用事があるという碧人に無理にヘルメットを押しつけられ、事情もろくに判らないまま、駐車場で待っているという凪の元に駆け付けた。
凪はひどく驚いていて、「来なくていい」と言い張られたが、そう言われると、余計に後には引けなくなった。あの歌舞伎町での一件もある。また一人で暴走しないとも限らない。
押し問答の果て、結局は、焦っている凪が折れて、二人乗りのバイクでここまで駆け付けたのである。
しかし。
「お元気でしたか」
凪が、ようやく口を開いた。
「海堂先生にお電話をされたそうですね。私に用があるというので、お伺いしました」
それでも女は、うつむいたままの顔を上げない。
「おい……」
雅之は、囁いて凪を横眼でみた。
来客にお茶を出したきり、一言も口を開かない女は、雅之の目には、精神のどこかを病んでいるように見える。
が、凪はこういう反応を全て承知なのか、特段気にした風でもなく、冷めたお茶を手にとって持ち上げる。
「成瀬はもう帰っていいから」
「そうはいくかよ」
「だって、成瀬には関係ないじゃない」
「そういう言い方はないだろ」
雅之はむっとしたが、茶碗を置いた凪もまた、少し怖い目で雅之を見上げた。
「じゃあ言うけど、今、こんなことしてる時間が成瀬にあるの?早くみんなの所に戻りなよ。これはね、成瀬がまきこまれていいこととは違うんだから」
「…………」
囁くようにそう言うと、凪は再び前を向き、黙りこくる老婦人と対峙する。
俺はだめで。
じゃあ、あの医学生ならいいのかよ。
凪の言いたいことも、心配してくれている気持ちも判る。判るのに、複雑な嫉妬めいた感情が、理性で押さえた端から湧きでてくる。
俺、何やってんだろ。
自分の感情をもてあましながら、雅之は思った。
こいつとは、もう友達でいようって決めたのに。もう、どろどろ嫉妬したり、怒ったり、そんな辛い関係には戻らないって決めたのに。
だって、俺が、いつまでも引きずってたら。
こいつが苦しいだけだって、判ったから。
「もう、心臓が、もたない、そうで」
はじめて、老女が口を開いた。
雅之は、ぎょっとして居住まいを正す。
妙に語尾がもつれた、ろれつの回らない口調だった。
言葉を覚えたての子供が、たどたどしく語っているのと似ている。
「あと、ひと月も、もてば、いい方だと、言われました。あの子は、ようやく、楽に、なれるん、です」
雅之は凪を見ていた。
唇を引き結ぶ凪の目に、涙の粒が膨らんでいくのを見ていた。
「あの、」
女は、しわがれた唇をせいいっぱい動かしている。「あの、あの」
言葉が不自由なのか、耳が聞こえないのか、それでも女は精一杯、もどかしげに、何かを凪に訴えかけているようだった。
「紙で、お話をしましょうか」
手の平で目をこすってから、凪が言った。
「私、ノート持ってますから、これに」
ノートとペンを差し出され、女は戸惑った視線を凪に向ける。
それでも、最初から言葉を決めていたのか、一度走り出したペンは滑らかだった。
愛季は、自殺じゃありません。
身を乗り出していた、凪の横顔が強張った。
主人を恨まないでください。
あの人は娘がとにかく可愛くて、そして心が弱い人なんです。
上の子を病気で失って、愛季まであんなことになってしまった、その現実を受けとめることができなかったんです。
誰かを恨んで、怒り続けていないと、自分を保つことができなかったんです。
「そんなこと、思ってません」
凪が言った。声は、必死で感情を抑制している。
「私こそ……ひどいことを言いました。本当に、申し訳なかったです」
愛季が最後に言い残した言葉を、私、全部覚えています。
主人もようやく、その言葉を受け入れてくれました。
あなたの、おかげです。
凪がうつむいて首を振る。何度も振る。
雅之はたまらず、その手を上から握りしめていた。
何故だか、そうしないといけない気がした。
女がペンで書いた、娘が遺した最後の言葉。
それを凪は、みじろぎもせずに見つめていた。何も言わずに見つめていた。
その睫毛から、綺麗な涙が何度も落ちる。
最後に女は、再び訴えるような眼で凪を見上げた。
美波さんに、伝えてください。
愛季が大切にしていたあの人を、どうか助けてあげてください。
娘が安心して、天国に旅立っていけるように。
「わかりました」
凪は言った。涙を拭う、もうその目は泣いていない。
「すぐに行きます、私、このことを美波さんに伝えてきますから!」
108
「ここで、悪いけど」
バイクのエンジンを切って、凪は雅之を振り返った。
この場所には、苦くて辛い思い出がある。
雅之は、ちらつく雪が顔にかかるのを、手で払った。
あの時は雨だった。オレンジの傘。ここで、この場所で、二人は別れを決めたのだ。
「送ってあげられなくて悪いけど、地下鉄まだやってるし、一筋抜けたらタクシーがいっぱい通ってるから」
そう言って凪は、国道の方を指さす。
一人で、行くんだ。
雅之は思った。そして、こんな所までついてきた自分を、少し滑稽にも思っていた。
目の前には美波涼二が住むマンションがある。
「少しなら、待ってるけど」
それでも、何かに突き動かされるように、雅之は言っていた。それは、もしかすると、自分にヘルメットを無理に押し付けてくれた碧人のためだったのかもしれない。
ヘルメットを抱えた凪が、表情を止めて雅之を見上げる。
「少しじゃないかもしれないから」
ひどく静かな声だった。
「話によっては、戻ってこないかもしれないから」
「………………」
雅之は、無言のまま、その意味を考える。
「ありがとう」
冷えた手が、そっと雅之の手に触れた。
「ついてきてくれてありがとう。本当に感謝してる。一人じゃやっぱりつらかったと思うから。でも」
「…………」
「やっぱりここから先は、私一人じゃなきゃダメだと思ってる」
「…………」
「ごめん」
そっか。
お前がそこまで覚悟きめてんなら、もうこれ以上言うことなんてないし、あっても、なんて言っていいかわかんないけど。
「頑張れよ」
今、笑えてるかどうかも判んないけど。
「うん」
それでも、にこりと笑う凪の笑顔に、雅之は強い胸の痛みを感じている。
遠くなる足音が、やがて途切れて聞こえなくなる。
雅之はぼんやりと、雪に覆われていく凪のバイクを見つめていた。
(すごいでしょ、250CC)
(成瀬を一番に乗せてあげるよ。私、車の助手席なんて苦手だしね)
そっか。
好きなんだ、俺。
まだこんなに、あいつのこと好きなんだ。
馬鹿みたいだ、今頃、そんなことに気づくなんて。
今頃――全部失って、もう戻らないってお互い確認しあってから気づくなんて。
吐く息が、白く闇に溶ける。
今更、遅い。
情けねぇな、俺。
あの時も、今も、あいつを、止めることさえできないんだ――。
109
「美波さん?」
冷えて、静まり返った部屋。リビングには食事をした形跡さえない。
それでも、電気だけはついている。
凪は、リビングから奥に続く扉を開ける。寝室から、淡い青の光が漏れている。
「……寝てるんですか」
そっと囁いて扉を押した。
室内の照明は落ちている。闇に包まれた部屋からは、人の気配はまるでしない。ただ、壁際に添えつけられたテーブルの上、開いたノートパソコンだけが、青い光を放っていた。
「…………」
パソコン。
シャットダウンしています、というメッセージと共に、いつまでも砂時計が点滅している。部屋の主はここにはいないようだった。
美波さんは、何を見ていたんだろう。ふと、凪は思っていた。パソコンなんてめったに開かない人なのに、ひょっとして、J&Mの――
踏み出した足が、何かをぐしゃりと踏みつける。乾いた、紙きれのようなもの。
凪はかがみこんで、拾い上げた。それは破れて、しわくちゃに丸めてある。
―――手紙……?
涼二、という名前が読み取れた。
どきり、とした。美波さんに来た手紙だ、これは見てはいけないものだ。
けれど、飛びこんできた言葉が、凪の心臓を縛っている。目が離せないまま、動悸が強く胸を打つ。
なに、これ?
一体何が書いてあるの。
これは、もしかして。
「何をしている」
びくっと身体が震えていた。
背後、誰もいないと思った闇から聞こえた声。
いたんだ。
凪は、動悸をおさえて振り返った。
「……ごめんなさい……勝手に、入りこんで」
声のした方を見た。ベッドの上、黒い塊がわずかに人の気配を漂わせている。
美波さん。
なに、してるんですか。
その言葉は、喉の中で飲みこんだ。
嫌な予感が、凪の胸をしめつける。
隠れていたわけでも、寝ていたわけでもない、この人は、この部屋で、死んだように時を過ごしていただけなのだ。今までこんなことは一度もなかった。どんなに状態がひどい時でも、凪に対してだけは、人並みの対応をしてくれていたのに。
美波さんは、知っているんだ。
息苦しさの中で、凪は理解した。
知らされたんだ、愛季さんの時間がもう、ほとんど残されていないことを。
「これ、もしかして、植村さんから来た手紙ですか」
闇にひそんだ影は動かない。
凪は、意を決してその影の方に歩み寄った。
ようやく目が慣れてくる。ベッドに片膝を抱いて座り、ぼんやりと空の一点を見つめている美波涼二。昨夜別れたままの姿に、凪は胸が痛くなっている。
「美波さん」
その刹那、凪の背後でパソコンの電源が落ちた。
室内が、闇の中に沈んでいく。
「勝手に読んでしまってごめんなさい。でも、ここに書いてあることが本当だったら、美波さんが本当に戦わないといけない相手は、J&Mとは違うんじゃないですか」
闇は、微動だに動かない。
凪はさらに歩み寄り、その傍らに膝をついた。
「美波さん、聞いて下さい。今日、愛季さんのお母さんに会ってきました。やっぱりそうだった、愛季さんは自殺なんかじゃなかった。本当にあれは、不幸な事故だったんです」
動かない横顔は、わずかな感情も浮かべてはくれない。
凪はその手を握りしめた。
「愛季さんは、意識を失う前に、お母さんにメッセージを残してるんです。美波さんへのメッセージです。電気つけてください、今、それを」
ふいに、獰猛な力で手首を掴まれていた。
「……?」
痛っ、そう思った時には、ベッドに仰向けに倒されている。
ねじられるように掴まれた手首。全身に重みがのしかかっている。闇の中、見つめている暗い眼差し。
「電気、つけてもらえますか」
動揺と動悸を抑えて、凪は言った。
「これは、すごく大切なことなんです。美波さんにとって、本当に大切なことなんです」
前も、こんなことがあった。
あの時の美波は、多分過去の妄想にとらわれていた。今も、同じなのかもしれない。今の美波の目に、凪はおそらく見えていないし、声さえも届いていない。
ふいに、手首のいましめが緩んだ。
美波が、何か呟いた気がした。
そのまま優しく頬を撫でられ、唇が近づいてくる。
逃げることはできなかった。
―――美波さん……。
どこまで、私は。
どんな形で、この人を受け止めて、支えていけばいいんだろう。
かかわった以上、関わろうと決めた以上、無責任に投げ出すことだけはしたくない。
「美波さん」
セーターの下から、冷たい手が滑りこんでくる。
「美波さん」
凪はあらがわずに、繰り返した。もう一度美波が呟いた、愛季。
涙が溢れた。
この人の時は。
「私を……見て」
もう、何年も前から、一秒も前に進んでいない。
「私を見て、美波さん!」
泣きながら凪は、美波の肩を掴んでゆさぶった。
「私は愛季さんじゃない、愛季さんはここにはいないんだよ!」
「…………」
動きを止めた美波が、凪を見下ろす。
「美波さんが、私のこと必要なら、私はいつだって傍にいるよ。でも私は愛季さんじゃない、愛季さんとして傍にいることはできない。そんなこと、絶対にできない」
闇の中、美波の目は動かない。
そのまま、凪を見つめている。いや、美波の中では凪ではないものを見つめている。
そこに、ゆっくりと本来の美波が戻ってきたような気がした。
涙を両手で拭い、凪は自由になった半身を起した。
「聞いて、美波さん」
「帰れ」
「美波さん」
「もういい、頼むから帰ってくれ」
苦しげな声だった。そこに必死で押さえた怒りがあることも判った。
彼にとって、過去の世界はやすらぎで、現実はただ苦悩でしかない。その現実に、多分、凪が呼び戻してしまったから。
「……ごめんなさい」
床に腰をつき、ぼんやりと外を見つめている美波からは、もうなんの反応も返ってこない。
凪はベッドを降り、その傍らに膝をついた。
「美波さん」
動かない、横顔。
「愛季さんが最後に遺したメッセージ、みてもらえますか」
「…………」
「お母さまの書いたメモがあるんです。美波さんに遺した言葉です」
「…………」
凪はウエストポーチに手をかけた。
「必要ない」
冷やかな声。
まるで凪を拒絶するかのように美波は立ちあがる。凪も立ち上がっていた。
「美波さん」
「帰れ」
「美波さん」
「帰れ」
それでも動かない凪を見ると、美波は上着を掴んで寝室を出る。リビングを突っ切り、玄関に向かう。その背を追いながら、凪は咄嗟に言っていた。
「どうして逃げるんですか!」
どうして。
「美波さん、愛季さんからのメッセージなんですよ」
それでも振り返らない、とりつくしまのない背中。玄関で、車のキーを掴んだ美波の手を、凪は上から押さえていた。
「これは、すごく大切なことじゃないですか」
前を見たままの美波の目は、もはや過去の幻影さえ見ていないようだった。
「俺には関係ない」
冷めた声で、美波は言った。
「それが何であっても、一切聞く必要はない」
「…………」
判らない。
凪は困惑しながら、蒼く陰った美波の横顔を見る。
どうして聞こうとしないのだろう。恋人の最後の言葉だ。聞けば、美波がこれまで信じていた価値観が変わるかもしれないのに。なのに、どうして。
「俺にとって大切なのは」
低い声がした。
「愛季を殺した奴を、絶対に許してはいけないということだ」
「………………」
美波さん。
凪は、こみ上げる感情を、辛抱強く堪えた。
「聞いて下さい、植村さんの手紙のことは私にはよく判らないけど、愛季さんは、殺されたわけでも、自殺したわけでもないんですよ」
「愛季は、死んだ」
「美波さん、」
「死んだ」
「美波さん!」
「わかってないのはお前の方だ!」
感情のすべてを吐き出すような声だった。
言葉を失い、凪は目だけを見開いた。
「愛季は死んだ」
美波の唇が震えた。
その刹那、彼が頑なに自身を覆っていた殻に、初めて亀裂が入ったような気がした。
「愛季は死んだ、俺がこの手で殺したからだ」
「…………」
何、言ってるの……?
意味が判らず、凪はただ、呆然と美波を見上げる。
「植村の手紙に書いてあったことは全部本当だ。そんなことは今更説明されるまでもない。当時、調べられることは全部調べた。全部、俺も知っていたことだ」
「………………」
知っていた。
「だったら」
震える声で、凪は言った。「だったら、どうして」
「俺が、愛季が邪魔になったからだ」
「…………」
「あんな馬鹿げたスキャンダルをすっぱ抜かれて、庇った俺まで叩かれた。仕事は次々キャンセルになって、マスコミの怖さをいやというほど思い知らされた。俺は、今の仕事を失いたくなかった。事務所を、なにより俺自身をマスコミから守りたかった。だから、愛季に言ったんだ」
闇の中の美波の表情が、凪にはもう判らない。
「もうお前とは結婚できない」
「………………」
「別れて、……お互いにやりなおそうと」
「………………」
「俺がそう言ったんだ」
「………………」
美波さん。
「……俺が、殺した」
軋むような、悔恨が聞こえた。
「仕事が、自分が可愛くて、愛季を見殺しにした……」
よろめいた身体。凪はそれを支えていた。
「だから俺は、」
「………………」
「絶対に俺を、赦しちゃいけないんだ……」
わかったよ、美波さん。
美波の身体を抱きしめる凪の目に、新しい涙が幾筋も流れた。
あなたは、ずっと自分を罰し続けてきたんだね。
そうしないと、あなたの心が、愛季さんのいない時を受け入れることができなかったんだね。前に進むことができなかったんだね。
前に進みたいという自分を、もう一人の自分で常に罰しながら、そうやってあなたは生きてきたんだ……。
あなたにとって、一番大切なものを、自分自身で傷つけながら……。
「聞いて、美波さん」
美波を抱きしめながら、凪は言った。
「それでも、やっぱり聞いて下さい。どんなに辛くても、あなたは聞かないといけないと思うから」
違う。
凪は思った。
どんなに辛くても、それを伝えなくてはならないのは、もう私だ。
託されたメッセージは、十数年の時を経て、愛季の母親から、凪に手渡された。
これを、美波に伝えるのは、もう凪の責任だ。凪にしかできないことだ。
涼ちゃんに、伝えて。
私、いつかきっと、涼ちゃんと同じ舞台にあがるから。
だから、心配しないで。
絶対に、心配しないで。
絶対に元気になって、涼ちゃんと同じ場所に立つ日がくるから――。
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