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「今のところ何もかも順調です。セットの発注は全て完了、米ユニテックス社から借りた音響機材もゲネプロ二日前には日本に届きます。移動用トラックの手配も、都への届け出も済ませました。スケジュールが厳しいのは最初からですが、ハード面の進捗状況は予定どおりです」
 逢坂真吾の報告が終わる。続いて片野坂イタジが立ち上がった。
「ゲネプロの場所は押さえてあるな」
 念のため唐沢は訊いた。
 席につきかけた逢坂は、30歳の彼を童顔に見せている最大の要素――くるっとした目をさらに丸くして立ち上がった。
「12月24日、幕張メッセを押さえてあります。本当はもう少しコンサートと近接した日を設定したかったのですが、ドーム規模の会場はすでに予約が一杯の状況でして」
「仕方ない、メッセが取れただけマシだろう」
 クリスマスか。
 ふと、気にもならなかったことに、唐沢の意識が止まっている。
 気がつけば12月はもう翌月に迫っている。激動の1年、その締めくくりとなる最後の月が。
「メッセでは、サウンドのリハはあまり期待できないですね」
 唐沢の隣に座っていた前原大成が口をはさんだ。
「えっ、場所、悪かったですか」
 いえいえ、と前原は苦笑して顔を上げる。心なしかこの1か月で頬がひどく鋭角になったように見える。
「僕の言い方が悪かった。どこだって一緒です。ドームはPA泣かせなんです、屋根の残響と反射で、どうしても音が上手く作れない。ゲネプロにしても結局はドームでやらなければ、調整っていうのはできないんです」
「その分仕込みを早くして、当日リハの時間を十分に取らせます」
 唐沢が言うと「お願いします」と前原はやや薄くなった頭を下げた。
 ゲネプロとは――音響、セット、照明、演出、全てのセクションの最終リハーサルのことである。通し稽古といった方がいいかもしれない。
 各セクションチームは前原の手配で都内から集められ、現在、進行表を見ながらそれぞれ独自に準備を進めている。セットにしろ照明にしろ、あまりにも規模が大きすぎるため、一堂に会して準備することができないのである。
 いってみればバラバラに作られていたパーツがようやくひとつになるのが、12月24日、幕張メッセだと言えた。
 前原がこぼしたドームでのゲネプロというのは、余程のビックタレントでなければ到底できない。なぜならコンサートのためにドームを借り上げる場合、その料金は、何千万という規模になるからだ。無論、J&Mのぎりぎりの予算で、それを実現させることは不可能だった。
―――しかし、これで失敗したら、本当に首をくくるしかないな。
 唐沢の唇に暗い微笑が落ちる。
 危うい綱渡り。誰が言った言葉だったか。
 投資という名で預かった資金、コンサートの成功を見越して借りた金は数億に上る。それは全て特注セットの製作費、移送保管費、海外からの機材借入、同じくその移送保管費、トラック、電源車の手配、そして何より、当日のアルバイトを合わせると300人を超える人件費に充てられることになっていた。
 絶対に、失敗は許されない。
 唐沢は居並ぶスタッフの顔を見回す。
 片野坂イタジ。
 逢坂真吾。
 前原大成。
 織原瑞穂。
 鏑矢プロから派遣されているカン・ヨンジェ。
 それからここにはいないストームの5人。
 失敗したら、全員が地獄の底まで堕ちていくことになる。
「僕に、もう少し経験があればいいんですが」
 前原が自嘲気味に苦笑した。
「恥ずかしながら、ドーム級の公演をうち単独でやるのは初めてなんです。正直言うと、不安と期待で武者震いがおさまらないですよ、今でも」
 誰も、笑うものはいなかった。おそらく全員が同じ気持ちだからだろう。
 ハード面での整備は確かにできつつある。けれど――この未知の領域に踏み込むような不安は、おそらく幕が開くまで消えることはないに違いない。
 東京ドーム。
 最大収容人数五万五千人。
 国内最大級のコンサート会場。
 片野坂イタジが、咳ばらいして立ち上がった。
 慢性的な疲労のためか目が赤く充血している。ここ二か月、ほぼ休みなしで奔走しているイタジが今一番頭を悩ましているのが、当日、三百人は必要とされるアルバイトスタッフの確保だった。
「今、織原社長とも話し合っていますが」
 イタジは言いさし、隅に座っている織原瑞穂に視線を向けた。
「アルバイトスタッフに関しましては、一般求人誌を使い、イベントスタッフという形で内々に公募しようと思っています。野次馬目的の志願者を防ぐため、あえてJ&Mの名を出さず、一般学生を対象に募集するということです」
「何人の予定だ」
 唐沢。
「三百十二名を予定しています。芝の養生、セットの組み立て、搬入搬出、清掃、グッズ販売、正直、それでも足りるかどうかです。来月そうそうには面接をスタートして、半ばには確定する予定です」
「難しいだろうが、人選は慎重にやってくれ、さいたまの例がある」
「わかっています、面接には時間をかけるつもりです」
 さいたまの例。
 さいたまスーパーアリーナ。ストーム最後のコンサート。
 ファンの中に紛れ込んだ扇動者によって、コンサートが壊れされた。
 アルバイトスタッフを慎重に選ばなければならないのはもちろん、前回のような会場内でのトラプルも未然に防がなければならない。
「そういや、イタさん、警察から中止要請がきたってマジですか」
 ふいに逢坂が口をはさんだ。
「今朝、出がけに記者さんから聞かれたんです。前回が暴動寸前だったから何か言ってくるだろうって。東京ドーム事務局からも勧告受けてますよね、何かあれば即時中止にしてくれって。あっちのことじゃないかって答えておいたんですけど」
「警察からは確かに要請があったよ。しかしそれは、当日の混乱がひどいようならという意味だ。言われるまでもない、五万もの観客に害が及ぶと判ったら、自主的に中止にするしかないだろう」
 イタジは疲れた声でそれに応え、再び唐沢に向き直った。
「最悪の事態に備え、警備会社は手配済みです。当日は最寄駅、入場口、グッズ販売場所、場内あわせて七十人態勢でお願いしています。駅前、特に混雑が予想される方面については水道橋署からも応援いただけるそうです。ただ……それでも、難しい部分はでてくると思います」
「たった七十人?」
「それでも通常の二倍以上だ」
 逢坂のつっこみにイタジが口調を濁す。
 ここにいるイタジと逢坂は、さいたまアリーナの惨劇を目の当たりにしているだけに、その話題となると顔色はすぐれなかった。
「コンサートが始まってしまうと、実際何をされても事後対応しかできません。警察からも警告されていますが、それが最悪の事態であれば、中止もやむないことになります。しかし、警備員を増やせばそれだけ予算もくうし、何より会場にものものしい雰囲気が漂う……」
 少し考えてから唐沢は口を開いた。
「当日、マスコミはどのくらい来る」
「ざっと百名です。すべてを場内に入れるわけにはいきませんから、各社最低限の入場でお願いしています。ただし、当日ドーム周辺は、取材車の乗り入れ規制で随分混乱するでしょう。……正直、取材なんてどうでもいい気分ですが、ここでマスコミを怒らせても何にもなりませんので」
「……マスコミは、逆に扇動者への楔にもなるだろう。それを広報して、事前にクギをさしておくか」
 唐沢は呟いた。マスコミ――唐沢がかつて最も嫌い、最も卑下していたもの。しかしそれが、今はドーム成功の生命線を握っている。
 苦々しいが、今、そっぽを向かれたら何もかも終わりだ。
「コンサート開始前、終了後に、ストームの共同会見を設定しろ。連中は逃げるとしつこく追ってくるが、こちらから情報をオープンにしておけば比較的静かにしてくれる。当日はファン優先であることを、ストームの口からお願いするという形にすればいい。コンサートの安全性についても、マスコミを使って広報させてもらおう」
「了解です」
 イタジの双眸に、ようやくほっとしたものが浮かぶ。
「成瀬雅之の舞台に、10倍近い高値がついたのをご存じですか」
 イタジの着席をまって、それまで黙っていた織原瑞穂が口を開いた。
 株式会社ライブライフの社長でもある織原は、J&Mの公式サイトをはじめとするネット上の広報、そして今回の融資受け付けシステム、チケット販売を全面的にサポートしてくれている。
 かつて、唐沢は、業務提携の依頼に訪れた織原をむげに追いやったことがあったが、今となっては、最も頼りになる相棒の一人だった。
「いくらですか」
 少し興味深げに逢坂。
 織原が黙って指を八本たてたので、全員が息を飲んだ。
「成瀬雅之が一気に注目を集めたこと、それから元々キャパが少ない公演だったことが、その要因だと思われます。これほどのプレミアが見込めるとなると、はっきり言えば、転売目的でチケットを買うプローカーも出てくるということです」
「なんとかならないか」
 唐沢は吐き捨てる。判っていることだが、馬鹿馬鹿しくてやりきれない。こちらがファン層を意識して一万円内の低予算で抑えても、なんら助力さえしない誰かがその何倍もの利益を得ているのである。
「これが前哨となることで、今回のコンサートチケットには、それよりさらに高値がつくことが予想されます。実は前回のさいたまアリーナ……ですか、ネットで拾った情報ですが、少し興味深い話を耳にしましてね」
 織原はいったん言葉を切って、唐沢を見上げた。
「オークションに流れたチケットを、ほぼ即決、しかも十万近い金額で同一IDの持ち主が複数枚同時に落札していたらしいんです」
「……それは確かか」
「すでにIDが削除されている以上、確認しようがありませんがね。もしかすると組織的にチケットが買い上げられていた可能性があります。しかし十万となるとそれ以上のプレミアは見込めません、とすると買占めの目的は」
「…………」
 コンサートの、妨害のためか。
 しかし、まさか、そのためだけに何百万もの金をつぎ込む酔狂は……
 いる。
 たった一社、いや一人というべきか、J&Mを葬り去るためにはどんな汚い真似でもやってのける男が。
 それが私怨か、企業の実益のためか、唐沢にはもう判らない。
 しかし感覚として判っている。あの男は決して、何があっても、静馬の意志をつぐJ&Mの飛躍を見逃しはしないだろう。
「……それは、対策を講じる必要がありますね、確かに」
 苦い声で前原が呟いた。
 唐沢も無言で眉を寄せた。
 柏葉の件も、仕組まれた罠だった可能性がある。とすれば危ない橋を渡ることなどわけもない連中だ。コンサート当日、何をしてくるか予想もつかない。
 どれだけ事前に入念な準備を積み重ねても、当日の暴挙ひとつでライブは簡単に壊れてしまう。例えば場内で発煙筒がたかれる、爆破物の予告が入る……ドーム管理者も警察も警戒を強めている中、何かあればそれだけで続行不可能――ジ・エンドだ。
「すでに榊弁護士を通じて、ネットオークション最大市場であるヤフーには、法的措置を警告しています」
 織原は続けた。
「いったん個人の所有物になったものを売るわけですから、違法性ということになると判断が微妙だそうですが、今回に限り、ヤフーでは、コンサートチケットの取引が開始された場合、即座に削除することを約束してくれました。が、もちろんそれにも穴はあります。検索に引っ掛からない形で出されれば、管理者にしても手の打ちようがありませんし、また、ネットにオークションのたぐいは無数にあり、個人や私設サイトでやりとりされるものにまで、手を回すのは不可能です」
 今の体制では。
 と、織原は少し疲れた声で付け加えた。
「それこそ、専属のアルバイトが何十人も欲しいところです。二十四時間体制で監視して、高額転売に至るケースには警告をする……しかし、それにしても限界はあります」
 結局。
 何をどう準備しても、完璧には至らないのだ。
 人手にも予算にも限界がある。
「最後は、蓋を開けてみるしかないか」
 唐沢は呟いた。
 それが地獄への入り口なのかどうか。
 ここまできたら賭けるしかない。
 危うい綱渡りの結末は、最後の幕が下りるまで判らないのだ。
「グッズ、パンフレット制作については予定通りです」
 最後に、カンが発言した。
 特撮会社「鏑谷プロ」の広報部長。
 国籍は韓国だが、学生時代からずっと日本に滞在している。手足の長い美貌の青年で、その薄い唇から出てくるのは綺麗で流暢な日本語だ。
 今回鏑谷プロは、コンサートの公式スポンサーになってくれたばかりではなく、グッズ製作販売部門を一手に引き受けてくれた。当日のコンサート撮影、DVD映像化まで、全て同プロが手掛けてくれることになっている。
「すごく可愛いマスコット人形ができました。明日にでも見本を届けますが、ストームファンなら絶対欲しくなりますよ」
 カンはいたずらめいた笑みを端正な顔に浮かべると、それから少し真顔になった。
「イベントスタッフの件ですが、ご事情はよく判りました。そういうことなら、多少はご助力できると思います。イベントならうちは馴れていますからね。経験豊富な学生アルバイトも何人か確保していますし、身元も確かな連中ですから」
「助かります、ありがとう」
 和やかな散会となっても、唐沢は一人、席を立てないままでいた。
 都内にある小さな賃貸マンション。マスコミ攻勢が冗談社にまで及んだため、この数日はずっとここに詰めている。
 目の前にあるのは最終の進行報告書。唐沢はページをめくる。そして自身の拭いきれない不安の理由を模索する。
 チケットは一瞬で完売。矢吹、植村、レインボウの参入を受けて練り直された演出構成は度肝を抜くほど豪華で、芸術性の高いものになっている。
 前原制作の動くステージ、片瀬発案の意表をつくオープニング、ワイヤーとゴンドラを駆使したステージは、ドームを埋める全ての観客に平等の満足を与えるだろう。
 バックバンド・ダンサーは浅葱悠介が推挙してきたインディーズの連中で決まった。その秀逸な技術には、芸にうるさい矢吹でさえ太鼓判を押したほどだ。
 ストームのハーモニーは日ましに確かなものになり、日々過酷なトレーニングに耐える五人の肉体は、むしろアスリートの美しささえ滲ませている。
 完璧だ。
 唐沢は思う。
 ここまで豪華で見事なコンサートを、近年開催できたことがあるだろうか。うちでも、いや、他のアーティストでも。
 当日来た誰もが三時間強、夢の一時を過ごせるだろう。このまま――何事もなく12月31日が到来さえしてくれたら。
 しかし、その非の打ちどころのない完璧さが、むしろ唐沢には恐ろしく感じられる。
 もしかして、ここが上ってきたものの頂点かもしれないという不安。
 もう唐沢は、真咲しずくが消えてしまった本当の理由を知っている。しかし、それでも納得できない思いは、迷いとなって錯綜していた。
 真咲しずくは、最後に東邦真田に向けて、途方もなく大きな大砲を撃ったのだ。
 なのに、静まり返った海面からは、激震の余波は戻ってこない。
 まるで、嵐の前の静けさのように。
「これが、お前のマジックのいきつく場所か」
 唐沢は口に出して呟いていた。
 ストームは確かに大きな波に乗った。けれどその先の未来が、今はまるで見えてこない。
「教えてくれ、お前は一体、何がしたかったんだ……」

 
 
                 41



 元気かな。

 君に手紙なんて初めて書くよ。
 書いている僕も戸惑っているけど、読んでいる君もさらに戸惑っているだろうね。

 元気かい?

 月並みだね、でもそう訊かずにはいられないんだ。
 あれから何年たっただろう。あの日から毎日、毎日毎日、僕は心の中で、そっと訊いていたような気がするよ。
 今も、やっぱり訊いている。
 元気かい。
 調子はどうだい?
 もう、二度と、決して戻っては来ない過去で笑っている君に向かって。


 これから僕は、おそらく君が、二度と振り返りたくないと思っている僕らの過去について、当時、僕が知っていたこと、思っていたことを全て正直に書こうと思っている。
 そう、昭和の終り、僕らが本当の意味でひとつのユニットでいられた最後の年の話だ。
 なにをいまさら、と、眉ひとつ動かさない君の表情が目に浮かぶようだよ。
 確かに、君にとっては、いまさら聞いてもどうにもならない言い訳かもしれないし、僕にとっては、ただの都合のいい贖罪かもしれないね。
 ただ、そうだとしても、これだけは判ってほしい。
 これは僕が救われたいための謝罪じゃないんだ。僕のためなんかじゃない、むしろ僕は、君にずっと憎まれたいと思っているほどだ。
 君の、ためだ。
 君のために書いている。
 勝手なことを言うようだが、どうか、それだけは判ってほしい。
 本当は一生、口にするつもりはなかった。
 それくらい、自分たちの犯した罪は重いのだと思っていた。許しを乞うことさえ、許されないほどに。
 でも、今は、全てを打ち明けることが僕の責務だと思っている。
 その理由は最後に書こう。この手紙を書いた意味も、そこで判ってもらえると思うから。
 さて……、まいったな、ここまできて、もう何を書いていいのか分からなくなっている。
 どこから書こう。
 あれは、――シンデレラアドベンチャーの千秋楽の朝だった。
 いきなりかかってきた一本の電話。今思えばそれが、今日まで続く後悔の日々の始まりだったのかもしれない。


 それは、矢吹からの電話だった。
 ひどく動揺した声で、いや、最初から彼の声はひどく怒っていて、冷静さを欠いていた。
「植は知っていたのか」
 矢吹はいきなりそう言った。
 僕は半分寝ぼけていたが、もちろんそれ以前に何のことか判らなかった。
「独立のことだ、お前は、それを聞いていたのか」
 話を聞きただしていく内に、僕にも理由が判り始めた。いや、判ったなんて生易しいものじゃない。正直に言うと、頭を鈍器で殴られて真白になったような気分だった。
 君が独立する。
 しかも、事務所の看板アイドルのヒカル、そして次世代を担う緋川拓海を引き連れて。
 そんなはずはない、と僕は言った。けれど矢吹は、確かな証拠を様々な形で入手していた。写真、企画書のコピー、会話のテープ……。
 彼がどのような経緯でそれらを手にしたか、説明するまでもないと思う。
「裏切り行為だ」
 矢吹の声は怒りを通り越していたのか、恐ろしいくらい淡々としていた。
「出て行くならあいつ一人で行けばいい。なんだって、他の連中まで連れて行くんだ」
 僕は……何も云えなかった。
 言葉が何も出てこないほど、電話を切った後も、僕は打ちのめされていた。
 気がつくと電話が床に投げ出されて、僕は一人で泣いていた。
 何がショックだったんだろう。色々な感情があったと思うけど正確には思い出せない。ユニットが解散になることが寂しかったのかもしれないし、仕事がなくなることも怖かったのかもしれない。ただやはり、何も聞いていなかったことが悔しかった。
 君の口から、――何ひとつ聞かされないまま、切り捨てられようとしている自分が情けなくて、ただ悔しかった。


 随分前から判っていたんだ。
 僕と、君は、この世界で歩いていける速度が違う。
 デビューの頃から、こんな夢をよく見たよ。
 君が、きらめく光のように空に向かって駆け上がっていき、僕は、地上で、ただその背中を見送っているんだ。
 さびしいのに、嬉しくて、悲しいのに懐かしい。そんな不思議でやるせない感情を抱いて、僕は君という光を見送っている……そんな、夢だ。


 僕と矢吹とは、その日の昼に唐沢社長――いや唐沢部長のオフィスに呼ばれた。
 用件は、彼がこれからしようとすることに手を貸してほしいというものだった。
 唐沢さんは、事務所の大改革をもくろんでいたんだ。その手はじめが、彼にとっては目の上の瘤でもある古尾谷平蔵取締役、当時僕たちが古尾谷派と呼んでいた人たちを一掃することだった。
 さすがに僕らは躊躇した。
 いくら事務所を守るためとはいえ、なんといっても古尾谷さんは恩人だ。僕らにとってはデビュー前から世話になってきた、タレントの立場を守る最後の砦のような人だ。
 それを――騙しうちのようにして追い出すなど。
「このままでは、うちの事務所は古尾谷さんと心中することになる」
 しかし、唐沢さんはこう断言した。
「古尾谷さんが立ち上げようとしている新事務所のバックには、東邦プロがついている。古尾谷さんは騙されている、いや、騙されているのを承知で勝負に出ようとしているのかもしれない」
「もはや、古尾谷さんと城之内社長の亀裂は修復しようがないところまで来ている。いずれは必ず袂を分かつ、我々はその被害を最小限に抑えるだけだ」
 その言葉で僕は揺れたし、矢吹はすでに決断していた。
 東邦EMGプロダクション。
 シンデレラアドベンチャーでも散々煮え湯を飲まされてきた会社の名前を出されたことが、矢吹の心に火をつけたのかもしれない。
 僕らは結局、唐沢さんと組むことにした。
 その後、唐沢さんが、いや僕らが具体的に何をしたか、君はもう知っていると思う。
 念のため、僕の立場からみた事実を書いておこう。
 唐沢さんは、まず、「シンデレラアドベンチャー」、その千秋楽で君にアクシデントを起こさせることを、僕らを使ってそそのかさせた。
 東邦プロに一矢報いるという意味もあり、君と東邦の関係を悪化させようという目論見もあった。それが彼の言う「アクシデント」の理由だったし、僕らも勢いで鵜呑みにした。
 あの日、東邦プロの真田会長が客席にいたのは知っていただろう。僕らにすれば、あれはささやかな、そして愉快な復讐だったんだ。
 舞台裏ではヒロインの交代という本当のアクシデントが起きてしまったが、山瀬あいが出ても、早川明日香が出ても結果は同じことだったと思う。ラストの花道には、必ず保坂愛季が立っていた。僕らが、そうさせていただろうからね。
 ただ、その時は僕らも知らなかった。
 唐沢さんに、もっと深い意図があったことを。
 あの「アクシデント」は、唐沢さんがこれからしようとすることを、東邦プロに転化する伏線でもあったということを――。


 それを僕が正確に知った頃には、僕はすでに、彼の立派な共犯者の一人だった。
 君が後日調べた通り、愛季ちゃんにビデオ映画の「仕事」を紹介したのは、僕だよ。
 今でも本当に不思議なんだ。その時の僕は、一体何を考えていたんだろう。
 おそらく、感情と呼べるものは何も持っていなかったような気がする。頭の中には、まるでお芝居の筋書のように、これからの段取りが入っていただけだったような。
 その筋書きを書いたのは、当時、唐沢さんの側近をしていた藤堂さんだ。
 愛季ちゃんを使って君を脅迫し、移籍を断念させる。
 君が思いとどまれば、新事務所の設立そのものが成り立たなくなる。その機に乗じて古尾谷派を切り崩し、内通メンバーと動かぬ証拠をあぶり出す。
 あとは――城之内会長の言質さえ取れればいい。連中を追放しろ、と。
 それでも、現実に愛季ちゃんを車に乗せて、運転席に座った時。
 僕は自分が、冷酷な悪魔になったという自覚をはっきりと持っていた。
 無邪気に君との生活を話す愛季ちゃんに、笑顔で相槌を打ちながら、自分がここまで残酷な、浅はかなことができる人間だと、その時はじめて知った気分だった。
 僕は、君に裏切られたんだ。
 そう自分に言い聞かせた。
 これは、当然の報いだし、事務所を守るためには仕方のないことだと。
 何度も自分に言い聞かせた。
 別れ際、笑顔で手を振ってスタジオに走って行く愛季ちゃんの背中を見ながら、何度も自分に言い聞かせた。


 それからのことは、僕は知らない。いや、怖くて、知らないふりを装っていたというのが本音かもしれない。
 気づけば移籍騒動は沈静化し、君は唐沢さんの忠実な側近になっていた。
 古尾谷さんは退任、ヒカルは解散、そしてギャラクシーがデビューした。
 唐沢新体制のもと、事務所は、第二の黄金期へ向けて走り出そうとしていた。
 君は愛季ちゃんと今までどおりのつきあいを続けていたし、彼女のスキャンダルがメディアを騒がすこともなかった。
 結局は――何もなかったのだと、僕は、そう思おうとした。
 僕がしたことは、君には何の影響もなかったと、そう思おうとした。
 やがて君の眼差しに、あきらかに僕らへの軽蔑が浮かぶようになっても。
 疑心暗鬼でぎこちなくなった三人が、もう二度と昔みたいに笑ったり、本音で語ったりできなくなったことが判っても。
 僕は逃げ続けていた。
 後悔から、のたうつような慙愧から。
 結局は、何もなかったのだと。
 この苦しさも虚しさも、逃げたいほどの肩の重みも、全て、なんでもないことなんだと。


 今思えば、あの時点で君はもう知っていたんだね。
 僕らがしてしまったことも、唐沢さんがしていたことも。
 なのに、君の態度は一筋も変わらず、君は忠実な唐沢さんの側近であり、事務所の参謀でありつづけた。
 僕にひとつ判らないことがあるとすれば、その時の君の感情だけだ。
 君はあの頃、一体何を考えていたんだろう。
 愛季ちゃんが、あんなことになる半年も前。あの頃の君が、今思えば僕には一番恐ろしかったのかもしれない。


 不愉快だと思うが、唐沢社長の話をさせてほしい。
 君と古尾谷さんの独立騒動が起こった当時。
 彼はあの頃、社内で非常に苦しい立場に追いやられていた。
 言うまでもない、原因はその前年からくすぶっていたヒカルの移籍騒動だ。あの移籍は東邦プロが仕組んだもので、目的は無論、急成長したJ&Mを弱体化させることにある。
 言っては悪いが、そこに乗じた形になったのが古尾谷さんと君らの独立だった。
 古尾谷さんが独立しようとした真意までは、僕には判らない。けれど、前述した通り、彼の背後に東邦プロの息がかかったスポンサーがついていたことだけは間違いない。
 唐沢さんの立場でそれを放置することは……できないだろう。
 というより、君らが東邦の傘下という形で独立してしまえば、事務所はもうおしまいだ。どうしたって、どんな手を使ったって、止めるしかなかったろう。だから彼は、古尾谷派の一掃を断行したんだ。
 彼と僕らがしたことを正当化するつもりはない。できるとも思っていない。けれど、それが当時の偽らざる状況だったことだけは理解してほしい。
 唐沢さんもまた、追い詰められた中でそれを決断したんだ。
 やったことは言い訳しようもない、身勝手で卑怯、他人の人生を虫ケラのように踏みにじる、最低の行為だ。
 しかし、言い訳になるのを百も承知で、そして愛季ちゃんの名誉のためにも、これだけは書かせてくれ。
 あの時行われた撮影は、ごく普通の、なんら恥ずべき部分がないものだったんだ。おそらく愛季ちゃんは、最後まで意味が判らなかったんじゃないか。
 唐沢社長は冷酷な人だが、そこまで極悪な人じゃない。彼には「あやしげなビデオに出演した」という脅しだけで十分だったんだ。そもそも、そんなビデオなんて発売される以前に作られてさえいなかったんだよ。
 最後まで読んでくれ。
 どうか、この手紙を破らないでくれ。
 そのビデオ映像が、何故か、それから三年後、君と愛季ちゃんの結婚会見の日に流出した。
 僕が思うに、そのニュースに一番驚いたのは、唐沢社長だったのではないか。


 今、僕らはストームと一緒にいる。
 年末の東京ドームコンサート。
 開演は午後9時。2005年最後の3時間を使って行うコンサートは、2006年、新しい年の幕開けと共に終了する。
 涼二。
 僕らは長い物語を紡んできた、長い、長い物語だ。
 僕ら拾い、育ててくれた真咲真治、城之内慶、その時代から続く、長い長い、青春の物語だ。
 僕らもまた、その登場人物の一人であり、バトンを受け継ぎ、手渡した一人である。そして今、最後のバトンを持って大きな壁に立ち向かおうとしているストームを、決して逃げずに見守らなくてはいけない立場でもある。
 不思議な連中だね、ストームは。
 あらためて言うまでもないか、君が見出し、育て、光の中へ送りだした連中だから。
 覚えているかな、彼らが入ってきた時のことを。
 飽きやすく才気ばしった綺堂は、挫折に弱く、長続きしないのではないかと言われていたね。
 成瀬は感情表現が不器用で、演技も歌も飲みこみが悪い。オーディションで、何故君が成瀬を抜擢したか、しばらく話題になっていたほどだ。
 片瀬は神経が細く、不安定。
 東條は、ごく普通のおどおどした少年で、これといった花がない。
 柏葉は、いつも別の場所にいるような冷めた目をしていて、せいぜいクラブ気分の芸能活動だろうと――誰もが中途脱退を予感していたような男だ。
 全員が、スターとしては全く不完全な個体。なのに五人になると、それ以上の、いや、何倍ものパワーを放つ。
 本当に不思議な連中だ。
 多分、彼らは知っているんだ。
 歩いていくスヒードは違っても、五人一緒の方が輝けるということを。
 だからこそ、決して手を離さずに五人でいるべきだということを。
 僕らが越えられなかった壁を、彼らはもうとっくに超えているんだよ。
 涼二、忘れないでくれ。
 それが、君が作り上げたストームなんだ。
 それが、君が唐沢さんと作ったJ&Mなんだ。









                

 

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