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「だからもう、いいかげんにしなさいって言ってるのよ」
いきなり聞こえた険のある声に、凪は驚いて手を止めている。
「どうして判ってくれないの、悠介がいることでかえって将は迷惑してるの。あなたは足手まといなのよ」
慌ただしい足音が入り乱れて二つ。そしてどこかで聞いた声。
身構えるまでもなく扉が開く。
うつむいたまま入ってきた男は、そこでたまりかねたように振り返った。男の背後から後を追うように入ってきた女を。
「あのさ、頼むから、もう俺のことはほっといてくれよ」
「何よ、どの面さげてそのセリフよ」
負けじと女も言い返す。
シャンプーのCMに出てきそうなつやめいたストレートヘア。スレンダーな身体に小さい顔、端正で綺麗な目鼻立ち。
亜佐美さん。
ようやく凪の記憶が喚起された。
苗字は忘れたが、温泉旅行に一緒に行ったモデルみたいなお姉さん。柏葉さんとも幼馴染で、今一緒に入ってきた――浅葱悠介さんの恋人。
九石ビル四階――見慣れない大型機材と楽器類で埋め尽くされたこの部屋が、そもそも何の部屋なのか凪は知らない。
「私は悠介のなんなのよ。心配だから来てるんじゃない、それをほっといてくれって何なのよ」
「だから今だけだよ、今年だけなんだって!」
ひどくエキサイトしている二人は、室内にいる凪にはまるで気づかないようだった。
最も凪は、ごちゃごちゃスイッチのついた機械の陰に隠れるようにして座っており、背の高い2人には、そもそも眼中にさえ入らないのかもしれない。
「将の役に立ちたいんだ」
悠介は言った。凪にはその背中しか見えない。
「役って何の?いまさら悠介に出来ることが何かあるの?」
亜佐美はおおげさに両手を広げる。
「ここだってもう誰もこない、悠介には将の居場所さえ分からないんでしょ?もうね、将の傍には本職のスタッフさんがついてるの。PAだって編曲だって、悠介より実力も経験もあるプロが、ちゃんとストームにはついてるのよ」
「だからなんだよ、俺は将の」
「もう将に悠介は必要ないの!」
男の背中が動かなくなる。
残酷だな、と凪は思った。詳しい事情は判らないし、亜佐美の態度も謎だけど。――それでも凪には、そんな言葉を好きな人に吐く亜佐美の方が、今、より辛い思いをしているように見える。
「前みたいなライブハウスでやるんじゃないの。東京ドームよ?日本一の収容人員を持つステージよ?悠介にはね、その規模も広さも想像だってできないはずよ?」
うなだれた悠介が、長い息を吐くのが判った。
「……将は、友だちなんだ」
「そんなの、将が一番よく判ってるわよ」
「ほっとけないんだ。そうだろう?年末の幕が開くまで何が起こるか分からないんだ。将にはもう後がない、これで失敗すれば、もう二度とこの世界には戻ってこられないかもしれない」
「そうよ、だから私たちは、私たちの立場で応援してればいいのよ」
「どんな形でもいい、俺は将の役にたちたいんだよ!」
初めて聞くような激しい声。今度は亜佐美が黙る番だった。
「子供の頃からずっと一緒だった。泣いたり笑ったり、憎んだり喧嘩したり色んな事があった。俺と将のことは、悪いけど亜佐美には絶対に判らない。俺は将の才能に惚れてるし、間違いなく本物だと信じてる。だからあんなことで、将にダメになってほしくないんだ」
「…………」
「12月31日、将が無事にステージに立つのを……俺、どうしても見届けたいんだよ」
「…………」
黙ってしまった亜佐美が、横を向いて唇を噛む。
「お父様がどれだけ怒ってるか、知らないわけじゃないんでしょ」
「……親父は、関係ないだろ」
「悠介の居所なんてとっくに知られてるし、その気になれば、この事務所に圧力かけるくらい平気でやるわよ」
「……させないよ、そんなこと」
悠介の口調が濁る。
亜佐美が、それにつけ込む様に前に出た。
「どうやって?あなたが今までお父様に逆らえたことが一度だってあった?」
「だからさせないって言ってるだろ!」
「わかってよ、私の言いたいことくらい!今悠介が将の傍にいるってことはね、将にとっては余計な爆弾ひとつ抱えてるようなものなのよ!」
びくっと凪は身をすくめている。亜佐美が――身をすくめたから。
殴るのかな、と思った。そんな張りつめた糸が切れたような一瞬だった。
「……とにかく、親父のことは、俺が自分でなんとかするから」
力ない声で言って、悠介は亜佐美を押しのけるようにして退室する。
亜佐美は動かない。ただ唇だけをきつく噛みしめている。
「なによ……人の気も知らないで……」
少し潤んだ呟きが聞こえた。
―――どうしよう……。
凪は動くに動けない。
このまま隠れていた方がいいのか、聞いていましたと名乗り出た方がいいのか。
折しも風が吹きこんできた。それが、凪の脚元にあったいくつかの写真を舞上げる。
「……あ」
立ちあがった途端、視線があった。
まず……。
気まずいながらも、凪はぺこりと頭を下げる。
亜佐美はあっけに取られた顔をしていたが、やがて呆れたような微笑を浮かべた。
39
「わー、すごい」
凪は身を乗り出して歓声をあげた。風が冷たく頬を撫でる。けれど午後から一転して晴れた陽気のせいか、それはどこか温かく感じられた。
建設途中の建物に入ったのは初めてだ。
お台場。
まだ鉄筋が生々しくむき出しになったビルの屋上。凪と亜佐美、ヘルメットを被った二人が見下ろしているのは、いまや観光スポットとなったエフテレビ本社ビル。
二人の頭上を、ヘリコプターが轟音をあげて飛び去っていく。
ここは、そのエフテレビが四百億もの資産を投じて建設中の新社屋なのである。
別名エフテレビ台場スタジオ。その名のとおり、テレビ撮影用の専門スタジオである、地上十五階、地下三階、民放一人勝ちと言われている天下のエフテレビならではの豪華施設だ。
完成予定は来年の春と言われているが、早くもテレビではお台場新スポットとして話題を呼んでいる。
「壮観でしょー、関係者ゆえの特権ね」
一度行ってみたかったの。そういう亜佐美の横顔は屈託なく笑っている。
「あっち側にできてるのは多目的ホール。エフテレだけじゃなく色んな企業が共同出資してるみたいだけど、関東地区最大規模のイベントホールになるんですって。すぐ傍にビックサイトがあるっていうのに、強気よねぇ」
「へぇー……」
眼下に広がる広大な敷地、その中で半ば完成したアーチ状の建物が、碧の屋根を透き通った日差しにきらめかせている。
土台、鉄骨が幾重にも組み上げられた骨組。クレーンで持ち上げられている巨大なコンクリート柱。
間近でみると、それはとんでもない凄味と迫力に満ちて、にも関わらず機械的で精密な、人知では測れないと思うほどの規則性を保っている。
「なんか想像もつかないです。こういう建物を作ってるのが自分と同じ人間だなんて信じられない。どういう勉強したらこんな技術とか身につくのかな」
「つくづく思うわ、人類の英知の積み重ねね」
二人の背後をエフテレビの腕章をつけた男2人連れが通り過ぎる。凪は少しだけ緊張した。女2人の物見遊山、いくら亜佐美がこの建設を請け負っている浅木建設の御曹司――悠介の婚約者だとしても、ちょっと気が引けてしまう。
「テレビ局の許可ってそんなに簡単に降りるもんなんですか」
「テレビ局?」
「ここの、見学の」
見学?と亜佐美は眉をあげ、それから笑った。
「あのね、建物っていうのは、建設中はまだ建設会社の管理下にあるの。特にこの工事は機材の発注も全部浅葱建設が被ってるから、施工主さんの許可は、……まぁ、いらないんじゃない?」
そういうもんなんだ。
まだ鉄骨を組みあげただけの眼前の建物は、白いシートで覆われており、そこには大きく、CMなどでおなじみのロゴ「浅葱建設」と記されている。
「すごいわよね……四百億の大工事よ?こういうの見ると、なんだかしみじみと思っちゃう。悠介って……実はものすごーく特別な人なんだって」
浅葱建設。
そっか、と凪も思っている。さほど深い知り合いでもないから考えたこともなかったが、浅葱悠介もまた、ストームの面々に劣らないほど特殊な環境下にいる人なのだ。
二人の眼下で、米粒ほどの人の群が、忙しなく働いている。
浅葱悠介とは――本人の意思はともかくとして、いずれその群の頂点に立つことが宿命づけられた存在なのだ。
「でも悠介にはさ、その本当の意味も重要さも、多分、なーんにもわかってないのね」
亜佐美は、さばさばした声で続けた。
立ち聞きした罰。
むしゃくしゃしてるからつきあって。
亜佐美の車に乗せられて、ショッピング三昧の後、カフェでお茶、最後につれてこられたのがここだった。まさにセレブのデートコースだ。
「結婚したって食べさせてもらう気はさらさらないから、あいつがミュージシャンになろうと何になろうと好きにしたらって感じだけど、自分が持ってるものを判ろうとしない態度には腹たっちゃうなぁ。あそこの親父さんは確かに横暴なんだけど、悠介も馬鹿なのよ」
「…………」
「悠介が背負っていくものは、本当はすごいものなんだよ、将に負けてないほどすごいものなんだよって、……判ってほしかったな、それはお金とかエライ人になるとかそういうことじゃなく、この世界に何かを残していける仕事だっていう意味で」
遠くを見つめる亜佐美の眼差しが、優しく風に溶け込んでいる。
「将は形には残らないもの、悠介は残るもの、それだけの違いなのにね」
形に残らないものと、残るもの。
それだけの違い。
それだけの、違い……か。
「わかんないでしょ、私の言ってること」
「そんなことないですよ」
「いいのよ、私だって全部整理して喋ってるわけじゃないんだから」
本当になんとなく、亜佐美の言いたいことは判るような気がした。自分も、おそらく浅葱悠介と同類だから。
風が吹き上げてくる。
どこかから人の名前を呼ぶ声が聞こえた。クレーンが軋む音。鉄鋼が小さな火花をあげている。
ふっと世界が、突然鮮明になった気がした。
成瀬のことが好きだった時。
絶対同等でいたかったし、精神的な部分では一緒でいたいと思っていた。歯をくいしばってでも、同じ世界にしがみついていたいと思っていた。
途中でそれは、あきらめた。
いや、あきらめたはずだった。わかったからだ、成瀬の夢は私の夢じゃない。憧れはあっても、私が追っていくものではない。J&Mをやめたときに気付いたこと。
私は私、あいつはあいつ。
それぞれの道を一生懸命切り開いていけば、それでいいんだと。
忙しなく凪は考える。そう、そうだった、そのつもりだったのだ、でも。
でも、多分、それが途中で揺れ始めた。
自分の手を振りほどき、一気に高みへと駆けあがる成瀬の背中を見続けることが、少しずつ辛くなりはじめた。
やっと、わかった。
その頃自分が揺れていた本当の理由が。成瀬がどんどん遠い人になって、焦ったり、さびしかったり、虚しかったり、それはもしかすると嫉妬みたいな感情だったのかもしれないけど、多分あの時の自分は、何かが欲しかったのだ。
何か。
自分にも何かできるという、確かな自信――そんなものが。
浅葱悠介の必死さが、凪には切ないほどよく判る。それが幼馴染で親友なら、なおさらだろう。しかも、男同士なら。
私も、同じだったから。
「将は私たちとは生きていく場所が違う……悠介も私みたいに、早く気づけばいいんだけどね」
独りごとのような言葉を切ると、亜佐美は笑顔で凪を振り返った。
「で、凪ちゃんはあんなとこで何してたわけ?」
「えっ、あっ」
「言いたくないなら、いいのよ」
一瞬言葉に詰まった凪は、少し考えてわずかに笑った。
「語りたい気分ではあるんですけど、説明すると半日くらいかかりそうで」
「あはは、確かにそれは聞いてられないわ」
「ありがとうございます」
言ってから、凪は手にした封筒を胸元に押しあてた。
「え?」と、亜佐美は眉を寄せる。
「亜佐美さんと話したおかげで……なんだろう、ちょっとふっきれた気分なんです」
「え、なになに、私何か言った?」
凪は微笑してから首をかしげた。
「なんだろう、多分ここ最近の私、ずっと冷静じゃなかったんです。足が地についてなかったっていうか。けど、その理由がいきなりどーんと腑に落ちた感じで」
「……?意味わかんないんだけど」
「自分の意地のために必死になっても、誰にも気持ちなんて通じませんよね」
「……うん」
「全部自分のためだったんです。誰かのためだなんておこがましい、……やっとそれがわかった気分です」
わかった……。
本当にやっと判った気がする。何をしても上手くいかなかった理由も、それを知っているにも関わらず、海堂さんがまだあきらめずにやろうとしてくれていることも。
本心で言えば、こんなことを続けても……という諦めの気持ちの方が強かった。
でも、もう一度、頑張ってみてもいいのかもしれない。今は、本当に素直な気持ちでそう思えている。本当の意味で、誰かの心を動かす覚悟も準備も、あの時の私には何もできていなかったから。
亜佐美がいぶかしげに瞬きをする。多分、意味が通じていないのだろう。
「……それが、冗談社さんでやってた資料探し?」
「説明が難しいけど、そんなとこです」
わずかに首をかしげた後、亜佐美の目がやさしくなる。
「凪ちゃんは一途ね、前も思ったけど」
「そんなとこないですよ」
そんなこと――ない。
いろんな所で揺れ続けて、強がって、結局大切なものを無くしてしまった。
多分、一番大切なものを。
「ストームのこと、雅君から何か聞いてる?」
「………え?」
そのなくした名前をふいに出され、どきり、と胸が音をたてた。
「聞いては、ないです」
「それでも話くらいはするんでしょ?」
えっと。
どこから説明したらいいんだろう。
この人は、雅之とのことをどこまで知って、どういう立場で私を誘ってくれたのだろう。
「実は、ちょっと気になることがあってね」
呟くように亜佐美は言った。
「ストームのことですか?」
「……正確には、将のことなんだけど」
柏葉さんのこと。
凪はようやく、亜佐美の本題がここからなのだと気がついた。それが、あまり楽しい話でないことは、その横顔が告げている。
何故か心臓がざわついた。
「悠介には、将の内面がまるで見えてないから、……ていうか、これは私の勝手な感覚だから、もし違うと思ったら聞き流して」
亜佐美は陰った眼差しを、灰色の雲が出始めた空に向ける。
「小学校の卒業式の時の話なんだけどね。あ、私と悠介と将は同じ小学校、知ってると思うけど」
亜佐美は続けた。
「その卒業式で、卒業生代表が答辞を読むの。まぁどこの小学校も同じだと思うけど、うちが少し特殊なのは、学年末テストの成績最優秀者が選ばれるのね。その年トップで選ばれたのは将。その時だけじゃないわね、あの頃は何で競っても一番は将、悠介は頑張るんだけどいつも次点なの」
「へぇ……」
「ただ、卒業式の日、悠介にはどうしても代表になりたい理由があったの。ずっと海外に行っていたご両親が帰国されて……悠介の卒業式のためにね。お二人とも同じ小学校の出身だから……わかるでしょ」
「学校の伝統をよく知っていた」
「そう」
亜佐美はかすかに笑って小さく頷く。
「悠介は何も言わなかった。将も、何も言わなかったと思う。その前日までいつも通り、でも当日、将は卒業式に来なかった」
「………………」
「将だってその日、海外からお父様が帰国されていてね。あの頃の将は何かと父親に反発していたけど、だからこそ余計に見てほしかったんじゃないかな……結局、将の本心はいつもわからずじまいなんだけど」
亜佐美の唇から吐息が漏れる。
「将って……人のことになるとしつこいほどこだわるのに、自分のことになると不思議なくらいあっさり諦めるとこがあるじゃない」
「………………」
「心配なの……今、ストームは絶好調だけど、まるで容量を超えて膨れた風船みたい、いつかささいなことで壊れてしまいそうな気がして」
パンッ。
最後は冗談で濁すような笑い方だったが、凪は笑うことができなかった。
亜佐美の言いたいことが、凪の胸にゆっくりと沈んでいく。
「とにかく私は、不発弾ひとつ、がんばって将から引き剥がすから」
いたずらめいた眼で亜佐美は笑った。
「凪ちゃんは、雅君と協力して将をしっかり見張ってて、ぜったいとんずらさせちゃだめだからね」
答えられない凪から目を逸らして、亜佐美は綺麗な背中をそびやかした。
「東京ドーム、何もできないけど、逆に私たちにしかできないこともあるしね」
私たちにしか、できないこと……。
凪は、その言葉を噛みしめる。
私たちにしか、できないこと。
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