20



「あれ?」
 先に部屋を出たりょうの声がする。
 靴を履き終えた将は、顔を上げる。
 扉の向こうから、勢いよく階段を駆け上がってくる足音がしたのはその時だった。その音に尋常でない何かを感じ、将は急いで半開きの扉を開けていた。
「どした?」
「いや……あの人って」
 目の前では、言いさしたりょうの背中が固まっている。
 将は、りょうを押しのけるようにして階段の下を見下ろし、そこに、記憶に残る顔を見つけて声をあげた。
 階段半ばに立ち、手すりを掴んだまま、二階に立つ将とりょうを見上げている男。
「……水嶋さん?」
「水嶋さんだ」
 気押されたように固まっていたりょうも、同時に声をあげている。
 憂也の元マネージャーで、今は所属事務所社長となった水嶋大地。
 黒いスーツを身につけた男は、ひどく焦燥した顔で、再度、階段を駆け上がってきた。
 その獰猛な勢いに、りょうも将も、思わず後ずさっている。
 二人の傍まで登りきった水嶋は、薄い眼鏡をかなぐり捨てると、充血した目で将を睨みつけた。
「憂也は……どこだ」
 蒼白な声だった。
「え?」
 戸惑う将の前で、水嶋は拳を握りしめる。
「憂也はどこだ、ここに来ていることは判ってるんだ、一体どこに隠している!」
 隠す?
「ちょ……憂也は、ここには来てませんが」
「嘘をつくな!」
 言い返そうとした将の前に、りょうの背中が割り込んできた。
「大声で騒ぐのは勘弁してもらえませんか」
 声に、静かな怒りが滲んでいる。
「憂也は来てません、信じられないなら、中入ってもらってもいいですから」
 その言葉をみなまで聞かず、水嶋はすでに扉に手をかけていた。
 将とりょうは、玄関に立ったまま、突然の闖入者が、室内を荒らしまわるのをじっと見守る。
 水嶋は、扉という扉を全てあけ、押入れやクローゼットまで押し開き、ベランダから室内へ靴下だけで移動する。その気色ばった目は、周りなど何も見えていないようだった。
「なんかの誤解だよ、りょう」
 将は、りょうの肩を叩いた。
「悪いな、俺からちゃんと、水嶋さんに話しすっから」
 冷やかなりょうの横顔は答えない。その前に、水嶋が舌打ちしながら、靴を履いて再び出てくる。
「わかったでしょう、憂也ならいませんよ」
「りょう」
 りょうが切れることの方が、今の将には心配だった。
 将は、りょうを背後に押しやってから、水嶋に対峙する。憂也をマネジメントしている水嶋大地が、ストーム再結成にどんな反応を示すか、それは想像するまでもないと思っていたし、むしろ、こちらから先に、謝罪しなければならないと思っていたほどだった。
「水嶋さん、憂也のことは」
「憂也を出せ」
 しかし、水嶋は、将の言葉を遮るように、歯をむき出しにしてかみついてきた。
「憂也がここにいるのは間違いないんだ、どうして隠す、憂也には大切な仕事があるんだ、お前らとは違うんだ!」
 一気にまくしたてる水嶋は、ずれた眼鏡をすばやく指で押し戻す。
「水嶋さん、憂也は」
「ただじゃすまさないぞ、何がストームだ、ふざけるな」
 誤解だ、しかし口を挟む間は、まるでなかった。
 むしろ憎しみのこもった眼で、水嶋は戸惑う将を睨む。
「金持ちの道楽か?好き勝手するのもいいかげんにしろ、こっちの都合はどうなると思ってる、キャンセルした仕事の違約金はどうなると思ってる、全部お前に請求するからそう思ってろ!」
 その脚が、激しく壁を蹴りあげる。
「何がストームだ」
 水嶋は繰り返した。
 何があったのか。将に判るのは、憂也とこの人との間に、何か、決定的な亀裂が生じたということだけだった。
 憂也は――憂也はでは、今どこにいるのだろう。
「くそっ」
 水嶋の拳が、壁を叩く。そして毒々しい目で将を振り返った。
「お前は犯罪者だ、もうとっくに終わった人間じゃないか!」
 がっとりょうが前に出た。将は、腕でそれを止めていた。
「憂也は、本当にいないんです」
「将君、離せっ」
「りょう、お前には関係ねぇだろ!」
 りょうの激しい怒りが腕ごしに伝わってくる。将は、それを渾身で押しとどめながら、言った。
「憂也はいません、僕に居場所は判りません、でも、ストーム再結成のことで何かもめているなら、責任は確かに僕にあります」
「何かだと、いい加減なことを言うな」
 がっと詰め寄られる、将は咄嗟にりょうを押しのけていた。そのまま水嶋に襟首をつかまれるかと思ったが、男は直前で足を止めた。
「君の」
 声は、わずかに震えていた。
 ようやく我に返ったのか、感情を押し殺そうと必死になっているのが判る。
 逆に、将は息苦しくなった。
 水嶋の痛みが、苦衷が、苦しいほど伝わってくる。
「君の安易な思いつきで、こっちがどれだけ迷惑してると思ってるんだ……」
「申し訳ないと、……思っています」
 将にとっては、初めてぶつかった、生の壁。
 が、この痛みも苦しみも、これから始まる大きなことへの、最初の小さな試練にすぎない。
「だったら君が憂也に言ってやってくれ、自分の価値を下げるような仕事には手を出すな、今の自分を大切にしろと言ってやってくれ!」
「………………」
「言ってやってくれ!」
 肩を掴まれる。
 なすすべもなく、将は激しく揺さぶられる。
「どうして答えない、柏葉君!」
 俺には。
「どうして答えない、元はといえば、君がダメにしたストームじゃないか!君がつぶしてしまった場所じゃないか!」
 俺には、何もできない。
「……申し訳ありません」
 俺には、何も……決めてやることは、できない。
「水嶋さん!」
 階下で、車の扉が開く音と、そんな声が同時にした。
 将を戒めていたものが外れて自由になる。りょうが「あっ」と小さな声をあげるのが同時だった。
「何やってんだよ、こんなとこで」
 憂也。
 少し型の古い青のファミリーカー、憂也がなんだってそんな車に……と思ったのもつかの間、その助手席から雅之が、運転席から聡が飛び出してきた。
 勿論、将にもりょうにも、意味がまるで判らない。
「憂也……」
 ふらふらと手すりに歩み寄った水嶋が、気の抜けたような声を出す。
 階段を駆け上がってきた憂也は、さすがに動揺を隠せない表情で、水嶋の少し手前で足を止めた。
 ロゴの入ったデザイナーシャツにデニムのジャケット。
 階段の下に立つ普段着の雅之や聡と違って、よそ行きだというのが一目で判る。
 憂也は、数段上の水嶋を見上げ、眉を寄せたまま嘆息した。
「あのさ、水嶋さん」
「どうして連絡しない、どうして勝手に逃げたりした」
「俺、ちゃんと居場所知らせてるし、逃げてなんかねーだろ」
「どうして、仕事を勝手にキャンセルした」
 憂也が、疲れたように額に手を当てる。
「勝手に決めたの、水嶋さんじゃん」
「俺はお前のマネジメントをしているんだぞ」
「契約の時ちゃんと決めたろ、俺が気に入らない仕事は絶対にしないって」
「お前のためを思ってのことじゃないか!」
 その応酬を、雅之と聡が、不安気に見上げている。
 三人が乗ってきた車がレンタカーだと、将はようやく気がついた。が、一体どうしてこの時間に、憂也のマネージャーも含めて全員がここに集まったのか、その理由は判らない。
「……電話でも話したけど」
 憂也が、かすかに嘆息して、長い前髪をかきあげた。
「俺、ストーム、もっかいやるから」
「それは許さない」
「水嶋さんには絶対に迷惑かけない、少しはかけるかもしれないけど、ストーム成功させて、絶対倍にして返すって約束するから」
「だめだといったら、絶対にだめだ、憂也!」
 悲鳴のような声だった。
 説得をあきらめたのか、憂也がうつむいて息を吐く。
「……水嶋さん」
「俺と帰ろう、向こうで仕事は、山のように待ってるじゃないか、こんな所でつまづきさえしなかったら、お前は来年、世界的なスターなんだ」
「だからさ、そんなに上手くいかないって」
「どうして今さらストームなんだ、一体何のメリットがある、お前までマスコミに叩かれて、芸能人生、そこで終わりにしたいのか」
「終わらねーよ、そんなことじゃ」
「終わったじゃないか、現に、ストームはなくなったじゃないか」
「だから、なくなってねーんだって!」
 憂也の声に、初めて激しい感情が浮かんだ。
「俺の中じゃ、ストームなくなってないんだって、水嶋さん、俺、何回も言ったじゃん、将君は絶対戻ってくるし、ストームは絶対元に戻るって」
 将は、不覚にも視線を逸らしていた。
 全員が、しんとして、初めて見るような憂也の真剣な顔を見つめている。
「そりゃ、まさか、たった二ヶ月ちょいで戻ってくるとは夢にも思ってなかったけどさ、でも戻ってきた以上、俺、水嶋さんがなんつったって、やるよ。絶対にやる、これだけは、何言われても絶対に引けない」
 思いつめた目で、水嶋が口を噤む。
「だからって、水嶋さんと縁切るとか、そういうことでもねーから」
 憂也は、熱をこめた口調で言葉を繋げる。
「しばらくは、色んな面で迷惑かけると思うし、そういう意味では、フォローしてくれんの、期待もしてる。映画のことも、もってきかた次第では、なんとかなるんじゃないかとも思ってる。冗談抜きで水嶋さんは、俺が知ってるマネージャーの中では最高の人だから」
「……憂也……」
 うつむいた水嶋が、低く呟く。
 将の傍らではりょうが、憂也の背後では聡と雅之が、それぞれ呼吸さえひそめたまま、二人の様子を見守っている。
「憂也……今回は、俺も……引けないんだ」
 低い、かすれるような声だった。
「今回の映画出演に、俺は自分の人生の全てを賭けたといっても過言じゃないんだ……随分、金もつぎこんでいる……失敗は、絶対に許されない」
 それには憂也が、言葉を失って目をすがめる。
「それでも無理なのか、それでもお前は、99パーセント失敗が確約されているストームに戻るというのか」
 うつむいた憂也が拳を握る。苦しそうだった。
「………失敗は、絶対にさせないから」
「……憂也」
「頼む……ここんとこだけは、俺……信じてくれねーかな」
「…………」
 唇を噛んだ水嶋が、ポケットに手を突っ込む。
 将がはっとした時、男の手には、不似合いな小刀が握られていた。
「水嶋さん!」
 憂也がさすがに顔色を変え、その下にいる雅之と聡が身を乗り出す。
「人生かかってんだ!」
 その小刀を自身の喉下にあて、水嶋が叫んだ。
「俺だって、引くに引けないんだよ、憂也!」
 背後でりょうが固まっている。将も、動くに動けなかった。
 海外で何があったのか、明らかに今の水嶋は、正常な判断を欠いている。自らの喉にあてられた凶刃が、いつ翻って誰かを傷つけないとも限らない。それが、対峙する憂也に向けられないとも。
「お前が首を縦に振らなければ、俺はここで死ぬしかない」
「……水嶋さん……」
 憂也がうめく。
 辛そうな目が、足元に落ちて揺れている。
 握り締めた拳が震えている。
 ここまで追い詰められた憂也を見るのは、将には初めてのような気がした。
「俺……どうすりゃいいんだよ」
「俺と戻ってくれ」
「………………」
「戻ってくれ、憂也」
 うつむいた憂也が、諦めたような息を吐く。
「戻るといえ、言ってくれ、憂也!」
 無言のまま、憂也はもう何も言わない。
 噛んだ唇が震えている。一瞬強く眉を寄せ、何かを振り切るように憂也が顔をあげた時だった。
「あ、あなたが、大切なものって、なんなんすか」
 雅之だった。
 それまで、むしろ凍りついたまま、二人の応酬を見守っていた雅之が、憂也の背後から身を乗り出すようにして、ぎこちなく水嶋を睨みつけていた。
「お、俺、今の話聞いて、よくわかんなくなった、あんたの大切なものって、憂也なんですか、それとも自分の人生なんですか」
 水嶋の顔が、わずかに歪んだ。
「お、俺は」
 少しためらったようにうつむいてから、雅之は、今度はまっすぐな目で水嶋を見上げた。
「俺は、少なくとも憂也のことを大切に思ってる、だから、そんな卑怯な真似で憂也縛ったりなんかしないし、絶対にできない。そ、それだけは、あんたに絶対に、負けてないって思ってますから」
「……雅……」
 呟いた憂也の表情から、思いつめたものがゆっくりと消えていく。
 水嶋が、震える手で、小刀を降ろしたのが同時だった。
 将は、背後から駆け寄って、その小刀を奪い取る。しかし、水嶋はもう無反応だった。
「……じゃあ、お前らの立場だったらどうなんだ」
 よろめいて壁に背を預け、水嶋が呟いた。
「才能のポテンシャルが違う奴らが、五人でつるんでいる限り、結局誰かが、誰かの足を引っ張っているんだ。それでも言えるのか」
 それでも、
「それでもお前らは、相手を大切にしてると言えるのか!」
 最後の激しさで、水嶋が言い放つ。
 ずっと、見えていた問題。
 ずっと、……見えなかった答え。
 雅之が黙り、憂也の顔色がわずかに翳る。将もまた、何も言うことができないでいた。
 いままでもこれからも。
 五人でいる限り、必ず突き当たる、目に見えない大きな壁。
「俺たちは……確かに」
 静かな声がした。
「同じ速度では、歩いていけないけど」
 聡だった。
「だったら、ちょっと速くいってる奴は、少しだけ歩幅を緩めて、とろい俺は、……ちょっとだけ足を速めて」
 言葉を切り、聡はわずかに微笑した。
 優しい目だった。
「そうして、手をつないで、一緒に歩いていけばいいと思ってます」
 聡。
 将は目を逸らし、軽く息を吐く。
 やべー、こんなとこで、涙腺使ってる場合じゃねぇのに、俺。
「同情だとか、馴れ合いだとか、足を引っ張るとかそんなじゃなくて」
 水嶋は、もう何も言わない。
 ただ無言で、うなだれている。
「急ぐやつも、とろい俺も、一人でいるより、その方が絶対に大きくなれるって」
 目を逸らした憂也も、うつむいた雅之も、多分同じことを考えている。
「今、俺たち、それが本当にわかってるんです」



                 21


 列車の時刻が迫っている。
 背後では、りょうと聡、雅之と憂也が話している。
 将は、笑顔でそれを見やってから、一人、所在なく立つ真白を振り返った。
「レンタカー、悪いな」
「ううん、それくらいなんでもないから」
 真白は微笑して首を振る。
「でもびっくりした、いきなり全員集合なんだもん」
「俺だってびっくりしてるよ」
 昨夜、空港に戻った憂也から、雅之の携帯に連絡があったらしい。「将君一人じゃ、説得されて戻ってくんのがオチだから、暇な奴らで応援行こうぜ」と。
 そこで、急きょ空港に集合して、広島空港までひとっ飛び。
 で、後は、明け方にレンタカーを借りて、夜通し走ってここまでたどり着いたという。水嶋がそれを知り、大慌てで先回りしてきたのだ。
「ま、馬鹿なんだ、あいつら」
「虫が知らせたのかも知れないね」
「……かもな」
 将が微笑すると、真白が表情を翳らせ、視線を下げる。
「ありがとな」
「…………」
「りょうのこと、よろしく頼むよ」
 うつむいたままの、真白の睫がわずかに震えた。
「私……」
「なんとも思ってねーから、俺」
「…………」
「むしろ嬉しかった、末永さんがそこまでりょうのこと思ってくれてたことが、これ嘘でもなんでもなく、本当に嬉しかったんだ、俺」
「………………」
「ありがとう」
 うつむいたままの真白の肩を、将は、そっと叩いた。
「三角関係の勝負に俺が負けたんだ、りょうは今日から、末永さんだけのもんだよ」
 視線を下げたまま、わずかに笑って、真白が首を横に振る。
「柏葉君」
 そして、見上げた目が、将を捕らえた。
「……私ね」
 その眼差しの意味をはかりかね、将が、眉を寄せた時だった。
「チケット送るからな、真白ちゃん!」
「東京ドーム、りょうと二人で、絶対に来いよ!!」
「元気でなーっっ、東京きたら、絶対に会いに来いよ」
「てゆっか、俺はまだ、りょうのことあきらめてねーから」
 最後に、いたずらっぽく憂也がウインクする。
「一度はりょう、俺のもんになるっつったのに、やっぱ、優しくしてやんなかったのが、まずかったか」
「か、彼女の前で、なんつーことを言ってんだ、お前」
「妬くなよ、雅」
 和やかな雰囲気に包まれる。
 でも、誰もが知っている。
 この現実感のない日常の延長が――別れだということを。



                  22


 真白一人を待合に残し、りょうはホームに出て、四人の旅立ちを見送った。
 発車の時刻が迫っている。
 ここで別れたら、距離だけでなく、住む世界も、まるで別の場所にいってしまう仲間。
「げ、元気でな」
 言葉を詰まらせる雅之は、もう涙で目を赤くしている。
 りょうは苦笑して、その頭を拳で小突く。
 馬鹿だな、それじゃまるで、これが、今生の別れみたいじゃないか。
「後悔したら、いつでも戻って来いよ」
 落ち着いた声で、聡。
「しねーよ」
「だから、もしもの話だって」
 聡君、本当に大人になったんだ、なんだろう、今ならミカリさん、聡君の傍にいても、大丈夫な気がするよ、本当に。
「ストームは五人なんだぜ」
 笑顔で、憂也。
「とりあえず、復帰までの穴は埋めとくから、安心して休んどけよ」
「サンキュ」
 色々きついこと言われて、むかついたこともあったけど。
 憂也のそれは、後で考えると、全部正解なんだ、悔しいけどさ。
 尊敬っつったら、面映いけど。
「……将君のこと、頼むな、憂也」
「えっ、俺には雅が……」
「おいおい、その笑えない関係、ついに完全復活かよ」
 将が背後から突っ込みを入れて、その場が笑いに包まれる。
 憂也がいてくれるから――将君、任せられるって気もしてたんだ。本当だよ。
 それから、将君。
「……元気でな、りょう」
「……うん」
「しっかり食えよ、お前は夏に食が細るから」
「大丈夫だよ」
「眠れなくても、薬なんかに頼るなよ」
「大丈夫だって」
 言葉が途切れる。
 言葉より大切な何かが、交し合う眼差しの裡に、読み取れたような気もする。
「……じゃあな」
「……うん」
 締まる扉。
 動き出す列車。
 ガラス越しに、精一杯手を振ってくれる仲間たち。
 いつかその姿が遠ざかり、視界が滲んで揺れている。
 りょうは息を吐き、目の端にたまったものを、指で払った。
 さよなら。
 汽車の陰は、もう夕闇の中に滲んでいる。
 改札を出たりょうは、待っているはずの人の姿がないのに、ふと気がついて顔をあげる。
―――真白……?
 濃い群青と茜色が混じる夕暮れ。
 息を切らしたりょうは、駅裏の海岸沿いに、探していた人の後姿をようやく見つけた。
「ごめん、待たせた?」
 駆け寄ってそう言うと、少し意外そうな眼で真白が顔をあげる。
 夕日で逆光になっている。
 りょうは、真白が泣いていたことにようやく気がついていた。
 笑顔で前を向いて、真白が先に立って歩き出す。
「怒っていいのに」
「なんで?」
「りょうが謝ることじゃない、私が勝手にいなくなったのに」
「男同士の友情ドラマに引いちゃった?」
 りょうは笑って、真白に手を差し出した。
「返して」
「……?え」
「ほら、これ」
 不思議そうに瞬きする真白の手から、りょうはそれを掴みとり、手元でまるめて太陽を飲んで赤く染まった海めがけて投げ捨てる。
 もう。
 もう、君を絶対に放さない。
「棄てたよ」
「…………」
「俺が真白に預けてたもの、そんなもの最初からねーけど、今はもう本当にない」
「……柏葉君に、聞いた……?」
「もう真白に、そんなこと言わせちゃダメだってさ」
 その瞳が潤む前に、澪はだまって、真白の身体を抱き寄せた。
「帰ろう、家に」
「………うん」
「今夜は俺がメシ作るよ」
 闇に沈んでいく遠景。
 もう、決して届かない距離。
 澪は顔をあげ、もう過去になった四人の笑顔を思い浮かべる。
 さよなら。
 さよなら、みんな。
 いつか、今いる場所が一番幸せだって。
 そう言える生き方をするって、約束するから。




                23


「で、そろそろ種あかしてくれてもいいんじゃねー?」
 頬杖をつきながら、憂也が将を上目遣いに見上げた。
「これから、どう動くつもりなのさ、将君」
「………うん」
 窓の外を見ていた将は、物憂げに頷く。
 夕暮れの町並み。
 りょうのいた町が、どんどん遠ざかっていく。まるで、二度と戻れない過去のように。
 感慨をふりきって、将は三人に向き直った。
「前も言ったけど、みんなは、それぞれの仕事もどって、なるべく穴あけないよう、頑張ってみてもらえないか」
「それは判ってるけど、色んなこと曖昧にしたままじゃ、限界もあるよ」
 聡。
「今、はっきりしたこと言えないのは判るけど、将君の考えだけでも聞かせてもらえないかな」
「…………」
 将は目をすがめ、窓の外を見る。
「俺……途中で降りるから」
「え」
「東京に戻る前に、寄り道しようと思ってる」
「どこに、だよ」
 将は、全員の顔を見回した。
「会社、作ろうと思ってる」
 全員が、神妙な目で将を見つめる。
「新しいストームをマネジメントする、芸能会社だ、年末の旗揚げ公演も、その会社でやろうと思ってる」
「で?」
 即座に、憂也が面白そうな目になった。
「その会社の社長は将君?それとも真咲さん?」
「……俺は、なるべく表に出ないほうがいいと思ってる。多分あの女も、……受けてくんねーんじゃないかと、思う」
 将は、気持ちを固めて、顔をあげた。
「実は今から寄り道して、俺が考えてる新会社の社長に、会いにいこうと、思ってる」
 そして、そこで言葉を切る。
「ただし、就任については、お前らに異存がなければの話だ」
 しばらく考えていた憂也が、鼻の頭を指で払って呟いた。
「唐沢さんか」
「……そう思ってる」
 えっと、驚いた顔をしたのは、雅之と聡だった。
「いいんじゃねーの」
 さばさばした声で言ったのは憂也である。
「会社がぶっ潰れる前、それでもなにわを立ち上げて、あそこまで盛り返した手腕はたいしたもんだと思ったよ。まぁ、色々あったけど、俺はそんなに嫌いじゃないし」
「……うん、俺もいいと思う」
 聡。
「怖かったし、いやな人だけど、憎めなかったっつーか……上手く言えないけど、いなくなって、初めて」
 うん、と雅之が頷く。
「いい会社だったなって思ったよ、俺も、J&M」
「まるで、体育会系のクラブだよな」
 憂也の言葉に、うんうん、と雅之も頷く。
「先輩がいて俺らがいて、後輩がいて……男ばっかでへんなとこだってずっと思ってたけど、なんつーのかな」
 雅之の目が優しくなる。
「アイドル魂っつーの?上から色んなもの受け継いで、それを俺らが下に伝えていくっていうか、そういう場所がJ&Mでさ」
「……それ、作ってくれたのは、なんだかんだっつっても、唐沢社長と美波さんなんだよね」
 聡が、そう言葉を繋ぐ。
 そっか。
 将はようやくほっとして、息をつく。
「でも、唐沢さん、行方不明だとか聞いてるけど、将君、居場所わかってんの?」
 聡の問いに、将は苦笑して首を振った。
「しらねーよ、しらねぇけど……あの人の本籍、東京ってことになってるけど、実は違うらしくて」
「そうなんだ?」
「まぁ、だめもとで訪ねてみようかな、と思ってる」
 もしかしたら、だけど。
 親父に聞いた、あの町に、唐沢直人はいるのかもしれない。
「新しい、会社か……」
 憂也が呟いて、そのまま仰向けに横になる。
 仰向けといっても狭い車内のシート。そこは雅之の膝の上である。
「お、おい、憂也」
「眠いんだ、なんだか急に眠気がおしよせてきた」
「つかお前、昨日の車でだって、一人で熟睡してたじゃねーか」
「そうだっけ」
「……りょうは、あれでよかったのかな」
 二人の言い合いをスルーして、ふいに、聡が呟いた。
 列車が動き出してから、ずっと寂しそうだった聡の横顔が、注目を集めて苦笑する。
「りょうの気持ち、尊重するのが一番だとは思ったけど……本当にあれで、よかったのかな、と、思ってさ」
「りょうは、戻るよ」
 両手で目を押さえながら、憂也が呟いた。
「聡君の、あーんな名言聞いたんだ、あれはあとからボディブローみたいにきいてくる、りょうは、絶対に戻ってくる」
「…………」
 将は無言で苦笑する。
 りょうはそれでも、もどらない。
 その硬くなで一途な気性を、おそらく誰よりも将自身が一番よく知っている。
 りょうを戻すことができるのは、多分。
―――柏葉君、
 最後に、将を見上げた眼差しだけが、気がかりではあるけれど。
 天の羽衣か。
 末永真白は、りょうの本質を悲しいくらい見抜いている。それが将には、自分のことのように悲しかった。
「りょうの話は、もうよそうぜ」
 話せば、辛くなる。未練だけが重なっていく。
「……だって、解けたんだ」
 どこか眠たげに、憂也が呟いた。
「解けたんだ……俺の……」
 語尾が不明瞭で最後の言葉が聞き取れない。
 将はそのまま黙り込む憂也を見下ろし、そして言葉を失っていた。
 手の甲で両目を隠す憂也の唇が震えている。その頬に、幾筋も零れて伝うもの。
「あれ、憂也……泣いてる?」
「うるせーよ」
 驚いた声をあげた聡が、雅之を見て、さらに驚いている。
「ま、雅までなんで?」
「うるせーよ!」
「将君……?」
「ま、ほっとこうぜ」
 困惑している聡。将は苦笑して視線を逸らす。
 憂也と雅、二人が同時に泣き出した理由は判らない、判らないけど――底のところでわかるような気もする。
 クロスワードってなんだろう。
 将は、憂也が最後に呟いた言葉を反芻する。
 わかるのは、憂也の中で重くひっかかっていた何かが解けたということだけだ。
 多分――聡が口にした言葉で。



 俺たちは、同じ速度で歩いていけない。

 だから、速く行ってる奴は少しだけ歩幅をゆるめて、
 とろい俺は、ちょっとだけ足を速める。

 そうして、手をつないで、俺たちは歩いていくんだ。

 急ぐやつも、とろい俺も、一人でいるより、その方が絶対に大きくなれるって。


 今、俺たちは、それが本当にわかっているから――。




―――りょう。
 それでも。
 それでも将は、幻影を追うように、夢を見てしまう。
 もう何年も前、自分を追ってきた足音が、いったん途切れて、そしてまた聞こえてきたように。
 足音がして。
―――将君。
 そう、名前を呼んでくれることを。
 絶対にあり得ないと知りながら、心のどこかで待ち続けている――。




















 クロスワード 完








 
 ※この物語は全てフィクションです。

唐沢の生まれ故郷で、将は思わぬ人と再会する。
そして聞かされた衝撃の真実、真咲しずくが帰国した本当の目的とは?
その地で何故かはち合わせになったケイとしずく。
唐沢の変わり果てた姿を見たケイは、しずくへの怒りが抑えきれず……
次回「新生J&M」お楽しみに。


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