「残念ですが、そういったことは、お答えしかねます……」
若い女事務員の困惑しきった対応から、今の返事は予想していた。
「そうですか」
将は軽く嘆息し、それでも丁寧に一礼した。
小雨が、グランドの四方を囲む花壇を揺らしている。
「傘、お持ちではないんですか」
「いいです、そのあたりで買いますから」
事務員の気遣うような声に、背を向けて歩き出す。
山梨県 韮崎 私立養護施設「はばたき」
両親に遺棄されたか、もしくは死に別れた子供が預けられる私設の寮。
将の父親であるSHIZUMAこと城之内静馬、そしてその兄で、現在行方がわからない元J&Mの会長、城之内慶が育った場所である。
日当たりのいい静かな立地、高級そうな外観を持つ近代的な建物は、一見この施設を、別の用途のものに思わせる。将も、見事な門扉と建物の壮麗さに、まず目を見張ったし驚いた。なんら収益の上がらないボランティア施設に、ここまで投資する出資者も珍しいだろう。
が、その出資企業とは、決して表には出ないが解散した旧J&M。
もともとは別の場所にあり、目を覆うばかりにひどかったこの施設を、十数年前、J&M――というより城之内慶が、多額の寄付により移転させ、全面的に立て替えさせたのだ。
そういった事情を全て、将は、空港で別れたきりの養親から聞かされていた。
この町で、そしてこの施設で、城之内兄弟と、唐沢省吾、真咲真治、古尾谷平蔵。
J&Mをつくった五人の男たちが出会ったのだと。
無論、施設の出身でもなんでもない唐沢直人の所在が、関係者の口からストレートにわかるとは思えなかった。
が、同じく行方をくらましている父親の住所だけでも、わずかな手がかりを見つけられたら、と思ったのだ……。
―――役所にでもいってみっかな。
戸籍は無理でも、住民票の閲覧なら、なんとかなるかもしれない。
直人の父親、唐沢省吾が横浜で開いた会計事務所もまた、J&Mが潰れると同時に閉鎖された。
二代に渡って会社を支えた唐沢父子は、そろって、同じ時期に表舞台から姿を消したことになる。
将は最後に、もう二度と来ることのない場所を振り返った。
午前正午前、昼食時なのか、二階建て横長の施設は奇妙なほど静まり返っている。
グランドに点在する原色の遊具、円形のモダンな講堂、音もなく雨を吸いこんでいく黄土色の砂、渡り廊下を歩いているジャージ姿の女子職員。
想像していた感慨は、何も沸いてはこなかった。寂しいくらい、なにも。
父が育った施設ではあるが、もう当時の残滓は何も残っていないのだろう。いや、残っていたとしても、将にはそれを計る術がない。
軽く息を吐いてきびすを返し、入ってきた下駄箱を抜け、門扉に向かおうとした時だった。
自分を見つめる視線を感じ、将はふと顔をあげる。
下駄箱の陰、うらぶれた銀行マンのようなその男は、脱いだばかりの靴を片方手にして、呆けたように将の立つ方を見つめていた。
雨に濡れそぼった灰色のスーツ。白髪混じりの薄い頭髪。不格好な猫背。
「あ」
将がまず声をあげた。
相手が、弾かれたように眉をあげる。それから――不思議なほど悲しげな目になり、そして、丁寧に一礼する。
雨が、少し激しくなる。
元会社の監査役だった男の顔を、将は、ほとんどまともに見たことがない。
唐沢直人の父。
唐沢省吾は、互いに黙礼を交わした後も、泣きそうなほど悲しげな目で、将をずっと見続けていた。
「新生 J&M」
1
「数字はどれだけいっている」
「今週には四十パーセントに届きます」
即座に帰ってくる腹心の声に、真田孔明は満足して頷いた。
「で、向こうは」
「うちの動きには、まだ」
「来月中に、五十パーセントまで買い占めろ」
真田はそれだけ言って立ち上がった。
東京赤坂。
東邦EMGプロダクション最上階にある会議室。
真田の前には、大仁多営業担当部長が直立している。
多汗症なのか、適温の室内でも、いつも汗をかいている巨漢の男は、今は本来の仕事ではなく、真田の密命の下、特別なプロジェクトチームのリーダーとして動いている。
長年真田が、懐刀として飼ってきた使い勝手のいい男。
「あの、中西先生の方は」
「その心配なら、必要ない」
部下の杞憂を切り捨て、真田は椅子を回して対面の巨漢を睨みあげた。
「お前の分際で余計なことまで心配するな。ここから先は、針の先ひとつのミスも命取りになるぞ、去年のような失敗は二度と許さんからそう思え」
「ぐ、軍事級のレベルです、もう、簡単には」
「もういい、でていけ」
昨年の暮、東邦幹部を震撼させた事件が、真田の耳に届いたのはつい先月のことだった。しかしその件では、真に苦情を言いたい相手は別にいる。
「ライブライフの報復戦、ですかな」
ぎしり、と椅子がきしむ。
大仁多が去った後、それまで、真田の背後で、ずっと黙っていた男が呟いた。
耳塚恭一郎。
年齢不詳。時に三十代にも見え、時に百歳よりふけて見える。実際は真田より、七つか八つ年上の男。
百九十近いやせぎすの長身で、色白、唇だけが血のように紅い。彫刻のような鋭く切れ上がった目鼻立ち。目元から顎にかけて残る手術痕のせいか、この業界でついたあだ名がモンスター。
「あんな失敗をすると思うか、この俺が」
子供の頃から一緒にいた男が何を言いたいか察し、真田は不機嫌な声をあげた。
「買収とは金が全てだと思っている無教養な男と一緒にするな、俺を誰だと思っている」
「メディアの買収は、確かにメリットも多いでしょうが、相手は報道を使命だと誤解している血気さかんな連中です、そう容易ではありませんよ」
金属のこすれあうような口調で耳塚が言う。
真田は、鼻で軽く苦笑した。
「ライブライフは政治家への根回しを怠った、しかし私は違う」
「坊ちゃんに何を言っても無駄でしょうがね」
「坊ちゃんはよせ」
さすがに苛立った声が出ていた。
「ついでに言っておくがな、社内で起きたトラブルは、全てその日のうちに俺にあげろ、お前の独断で処理するな、昨年の情報部のミスがどうして今年になって俺の耳に入ってくる!」
「全てと言われますがね、あなたの心臓の方が持ちませんよ」
悠然といなされ、舌打ちをして真田は黙る。
情報の一本化はトップに立つ真田の至上命令だ。が、近年ピラミッドの実質的なトップにいるのは、会長である真田ではなく、東邦の暗部とも言える情報部を束ねる、耳塚という気がしてならない。真田の耳に入ってくるのは、耳塚の意思決定を介した情報ばかりだ。
耳塚は赤い口中を見せ、珍しくはっきりと笑った。
「心配なされなくとも、会長の本意を裏切るような真似は絶対にしませんよ。その程度には信用していただかないと」
「わかっている」
苦く呟き、真田は椅子に座りなおした。シガーを口に挟み、ようやく冷静さを取り戻しかけていた。耳塚相手に熱くなっても始まらない。結局は疑う必要もない、耳塚とは、言いかえれば真田そのものといっても過言ではないのだ。
肉親よりも信頼できる、映し鏡のような忠実な僕。
特に気があうわけでもない、信条が同じだというわけでもない、言ってみれば、偶然といきがかりで傍にいるだけの男。不思議だった、なのに気がつけば、互いの運命を共有して生きている。
「いずれにせよ、買収は、大詰めといったところですかな」
「数字では、確実に勝利が見えている。大詰めというよりエンドロールはもう間近だ」
真田は大仁多が用意した資料を見て、わずかな気炎を吐いた。
むしろ、ここから先は、すでにその後の世界を見込んで動かなければならないだろう。その先の世界、2005年の向こう側、日本という、メディアがつき抜けた力を持つ娯楽大国を、親に見捨てられた異端の血を持つ男が支配するのだ。
「……絶対に、成し遂げてやる」
自身に言い聞かせるように、呟く。
年齢を考えると、この場所に立っていられるのもあと数年。時間は、あまり残されてはいない。
目の上の瘤だったJ&Mの切り崩しも、貴沢秀俊の獲得も、全てこの日のための布石にすぎない。真咲しずくの出現で多少筋書きが狂いはしたが、それも全て軌道修正済みだ。
もう、唐沢直人にもJ&Mで名を馳せたいかなるタレントにも、真田には一抹の興味もない。邪魔にならない程度に活躍させて、余計な力を持ち始めたら潰すまでだ。
「元ストームの柏葉将ですがね」
耳塚の言葉に、立ちあがって退室しようとした真田は、眉を寄せて足を止めていた。
柏葉将。
忘れていたようで、胸の底でずっと淀んでいた名前。
「……それが、どうした」
「数日前に一時帰国して以来、どうも日本で動いているようですな」
これが本題か。
珍しく本社に顔を出した耳塚の意を知り、真田は目をすがめたまま、席についた。
「で?」
「あなたの心臓が持ちますかね」
「ふざけるな、さっさと続けろ」
耳塚は肩をすくめる。けれどその表情はむしろ冷酷で、ユーモアの欠片さえ浮かべてはいなかった。
「先月、私も営業から聞いて初めて知ったのですが、キャンセル待ちだった東京ドームの日程が、どうも押さえられたままのようでしてね。それも会長のお耳には入ってはいなかったようですな」
「……何の話だ」
「仮押さえしているのは、旧J&M株式会社、それを取り消して個人名で柏葉将」
腕を組んだ耳塚を、真田は静かに見上げた。
柏葉将。
柏葉将だと?
「いつの話だ、それは」
「今年の大晦日、12月31日です」
何かの間違いじゃないのか。
そう言いかけた真田は、眉をしかめたまま、耳塚を睨んだ。
「どうしてそれを、すぐに報告しなかった」
「わかるでしょう?いくらなんでも手違いだろうと思ったので、が、どうもそうではないらしい。元ストームの連中は、年末に何か起こそうとしているようですな」
一瞬感じた得体の知れない感情の片鱗を、真田は苦笑とともに噛み潰した。
「何かとは……何だ、一体」
失望の笑いがこみあげる。
将。
君を買いかぶっていたのかな、私は。
まだ、速い、あの事件から二ヶ月もたっていない。
一年か二年か、いずれほとぼりが冷めて戻ってきたら、私が庇護して再デビューさせるつもりだったが、一体何をとち狂っているのだか。
というより。
「……完全に自滅するために、戻ってきたというわけか」
一体誰が、スキャンダルまみれの元アイドルを神輿に担ぎだそうとするだろう。
結局は、世の中の厳しさも、現実の残酷さも、何一つ知らない子供なのだ。若くしてちやほやされすぎて、周りが見えなくなっているのだろう。
「失望したな、今度こそ、本当にだ」
真田は呟き、眉をしかめた。
静馬の遺伝子、将――君が、そこまで愚かだとは思わなかった。
世間に見放された君が、年末のドームで、子供の手遊びでもするつもりか。
もはや、潰す価値さえない褪せた才能だ。
「同感ですが、放置されますか」
「無論」
真田は眉を開き、薄く笑うと、悠然ときびすを返した。
「出てくれば容赦なく叩き潰すまでだよ、耳塚君、容赦なくね」
そう、現実の厳しさを、父親に代わってこの私が教えてやろうじゃないか。完膚ないほどに、徹底的に。
「当面は将と、ストームのメンバーから目を離すな、それから協会を通じて、大手PA、イベンター会社全てに圧力をかけろ、ストームはこの業界を完全に追放された存在だ。彼らに手を貸すものには、必ずなんらかの制裁があるとな」
「容赦ないというより、むごたらしいほどですな」
「柏葉将がいることが、ストームの不幸だったと思えぱいいさ」
将。
そして君は、翼をもがれて再び私の元に還ってくる。
君の父親がどうしても言わなかった一言を、将、君が土下座して口にするんだ。
そうすることで、ようやく私はこの傷を癒すことができるのだから……。
2
「本当に先ほどは驚きました」
元会社の役員でもあった男は言った。
白々と明るい照明に照らされた清潔な廊下、唐沢省吾は、将の少し先に立って歩いている。
「君と静馬が親子だと知ってはいても、今まで、さほど似ているとは思っていなかった、なのに今日は」
―――まるで、静馬がそこに立っているかと思ったほどです。
そこで振り返った男は、口調を濁して苦く笑う。もともと細い目が柔和に細まり、人のよさがにじみ出るような笑顔になる。
「まぁ、場所のせいなんでしょうね、雨が、そう錯覚させたのかもしれません」
雨か。
将は、窓越しに灰色の空を見上げる。
市内の外れにある私立の総合病院。
ここに、唐沢直人が入院している。
「……すいません、まさか唐沢社長が入院されているとは、想像してもいなかったので」
「公表しておりませんから」
穏やかに答える男の背は、少し猫背気味のせいか、将より随分低く見える。
白髪の目立つ薄い頭。しみが浮いた赤茶けた皮膚。ごく平凡な、どこにでもいそうな男が、元J&Mの役員で、しかも、あの泣く子も黙る唐沢直人の父親だとはそれこそ想像もできないだろう。
「あれは、母親似なんですよ」
将の視線の意味を察したのか、照れたように笑いながら、男は口を開いた。
「死んだ真治にもよく言われました、トンビが鷹を産んだろうって、それはお互いさまだろうと、二人して言い合ったものです」
真治。
真咲しずくの……父親だ。
「し……」
じゃねぇ。
将は軽く咳ばらいした。
「真咲しずくさんと、唐沢社長は、親しかったんですか」
ええ、と男は頷く。
「二人とも一人っ子でしたからね、母親同士も仲がよかったし、兄妹みたいなものでした。あれらが小さい頃は、もうどうにもならないほどの貧乏のどん底でね、同じ部屋で寝起きしていた時期もありましたし……」
何かを懐かしむように、男の目が優しくなる。
「年は直人が上なのに、あいつは弱くてめそめそ泣いてばかりでねぇ、しょっちゅう、しずくちゃんに叱られてましたっけ」
ふっと、囁くような声で男は笑う。
将は、無言で頷きながら、内心では、意外さに顎が落ちそうになっていた。
えー??
め、めそめそ泣いてた??
あ、ありえねーだろ、あの唐沢社長が?
「直人が変わったのは、あれの母親が死んでからです」
暗い雨。
男の声が、雨に滲んで溶け込んでいく。
「母親が一人で育てたようなものでしたから、もう……べったりでね、死に水をとったのも直人です。泣いて泣いて……私はあのまま、……直人も死んでしまうのかと思ったほどですよ」
将は、無言で目をすがめる。
誰の人生にも、影がある。誰だったろう、人は月だと誰かが言った。決して他人に見せない裏がある。
「いや、……あの時、直人も死んだのかもしれません」
「え?」
病室は目の前だった。
唐沢省吾は足を止め、改めて将を振り返った。
「傷は確かに治りました、けれど、戻らないものもある」
戻らないもの。
悲しそうな目だった。悲しいというより、悲壮な決意を固めた眼差し。
最初に施設の門扉で、将を見つめていたような。
「傷って……事故にでも、あわれたんですか」
扉に視線を巡らせ、将は男の顔を伺い見る。
病室に記された名前は一人だった。
野坂直人
世間の注目を避けての偽名なのか、それとも、死んだという母親の旧姓なのか。
「全て、私の責任です」
将の視線を避けるようにうなだれると、唐沢省吾は、力ない声で呟いた。
「いってみれば母親を死なせた時、私は直人も永遠に失ったんでしょう」
その眉が、苦しげに寄せられる。男は迷うように首を振った。
「今回も私は、ただ直人を取り戻したかっただけなのかもしれません、真田会長への妄執を断ち切ってやりたかったから……だから、だから」
上ずって言葉を途切れさせ、男は唇をかみ締める。
なんだろう。
将は思わず扉の向こうを凝視する。妙な胸騒ぎがした。一体唐沢社長は、今、どういう状態なのだろう。
「……入ってもいいですか」
男が頷いたので、将は軽くノックしてから、扉をあけた。
かすかな薬品の匂いがした。
白く陰った四角い部屋。陰鬱なカーテンの向こうに透けて見える灰色の空。
その人はベッドに半身を起こし、手元で本を開いていた。
淡いブルーの袷を羽織り、髪は癖もなくまっすぐに落ちて、それが耳にかかっている。眼鏡はかけていない。
少し痩せた白い肌、むき出しの腕の白さが目を焼いた。怜悧な目が、いぶかしげに将に向けられる。
「……唐沢社長」
緊張していた将は、ほっとして息を吐く。
しかし、唐沢の表情は変わらなかった。
闖入者を威嚇するような目で、じっと将を見上げている。
―――社長……?
「記憶が、ないんです」
背後の声に、将は驚いて振り返っていた。
「あれは、昔辞めたキッズに刺されたんです。ひどい深手で、出血も相当だった。大腿部の腱が切れていて、まだ、まともには歩けません」
多分、一生、元通りにはならないでしょう。
将は、その声を、別の場所から聞こえるような気分で聞いていた。
もう、戻らない。
この人もまた、取り返しのつかない傷を負って生きている。
「……記憶が、ないって」
「手術の前は、まだ意識ははっきりしていた……でも、麻酔から覚めたとき」
将は、かつてのボスを振り返る。
もう唐沢は、二人の会話を聞いていない。
無表情の横顔をうつむけたまま、再び読書に没頭している。
「あれの記憶からは、家族のことや、J&Mのことが、抜け落ちてしまっていたんです……」
※この物語は全てフィクションです。
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