18



 寒……。
 夜がこんなに冷えるなら、もう少しあったかい上着持ってくればよかったかな。
 将はどこか所在ない気持ちで、暖かな光が灯る日本家屋を見上げた。
 住所は知っていたが、訪ねたのは初めてだ。
 キッズ同士の噂で、片瀬家が地元の名家だという話は聞いたことがあった。確かに、相当裕福な家なのだろう。高くそびえた外壁、家の概観の見事さが、その格式を雄弁に物語っている。
 歩いても歩いても端が見えないほど長い塀に囲まれた日本庭園、その向こうに、見事な瓦屋根がそびえている。
 寺院の門構えにも似た門扉の前。
 門の前に停まっている数台のバイクを認め、将は足を止めていた。
 見回すと、少し離れた空き地にも、車が二台停まっている。
―――……りょう、いるのかな。
 穏やかで暖かな光の下、恋人と友人たちに囲まれ、楽しいひと時を過ごしているりょうの姿が、目に浮かぶようだった。
(今の澪を見て、君の目で判断してほしい、本当に澪を東京に連れて帰ることが、あの子にとって幸せなのかどうか)
 夕方。
 りょうの帰りを待っていた将の元に現れたのは、りょうと目元がよく似た、長身の、スーツ姿の男だった。
 一目で判った。
 りょうの父親だ。
 男が何故、将がここにいるのを承知の上でやってきたか、どうして東京に戻ることを知っているのかは、考えるまでもなかった。
 末永さんが、呼んだのか……。
 それは、ある種の衝撃だったが、ショックではなかった。彼女の立場なら、むしろ当然だろうと思った。
(私も息子も……随分長い間、互いを傷つけあって生きてきた。今は、お互いを理解しようと、不器用ながら必死になっている……なかなかに、不恰好な父親だが)
 表情も声も冷たい男だったが、時折目に、えもいわれぬ優しい感情が見え隠れする。そんなところまで、初対面の頃のりょうとよく似ていると将は思った。
(そういう関係も、悪くはない……私はできれば、このまま……息子と、穏やかな時間を持ち続けたいと思っている)
 第一子と妻を、自殺という最悪な形で失った。
 この男が、今、表情に出さない部分で、どれだけりょうを必要とし、どれだけりょうに依存しているか、考えるまでもなかった。
(末永さんは素晴らしい女性だ、いずれ二人が結婚して、片瀬の家をついでくれれば、これ以上の幸せはないと思っている。それも……私の身勝手な思いだとは判っているのだが)
 りょうにとっても、末永さんにとっても。
 それは、これ以上ない幸せなんだろう、多分。
(澪は今、家にいる。今夜は昔の友人が、うちに集まる予定になっているらしい。末永さんも手伝いに来ているが、君も来てみるかね)
 いいえ、と将は、末永真白の気持ちを考え、首を横に振った。
 必死なんだ、末永さんは。
 必死で、りょうを、東京に戻らせまいとしている。
 必死で……。
 彼女が今まで辿ってきた道、我慢し続けてきた感情を思うと、むしろそれが、将には愛おしいほどいじらしく思える。
 正直言えば、迷うような気持ちでここまで来た。
 それでも、りょうに会わなければいけない。それでも――決めるのはりょうだから。残酷なようだけど。
 ふと見た腕時計は、11時を回っている。
 門扉のあたりがにぎやかになったのはその時だった。
 軋んだ音がして、大きな木製の門が開く。
「じゃあなー」
「それにしても、結婚なんて、しんじらんねーよ、マジで」
「早すぎですよねー」
 楽しげな男女の声が、入り混じって聞こえる。
 門に灯りが付き、開かれた扉から、将とほぼ同年代とおぼしき男女数人が出てきた。
「ごちそうさまー、片瀬」
「ばーか、あれ、ほとんど末永さんが作ったんだって」
「マジ?」
「じゃ、次は片瀬と末永さんだな」
「何言ってんだよ」
 初めて聞こえたりょうの声。
 塀に背を預けたまま、将は、その懐かしい声を聞いていた。
「じゃあね、真白」
「うん、気をつけて」
 末永真白の声もする。
 出てきた友人たちは、バイクや車に分乗して乗り込み、やがて門の周辺が静かになった。
 道路には、長い影がふたつ、寄り添うように伸びている。
「おくろっか」
 りょうの声。
「りょうは、どうするの?」
 真白の声。
「今夜はうちに泊まる、親父が泊まれってうるさいから」
「私は一人で帰れるよ」
「送るよ、遅くなったから、家に電話入れといて」
 優しい声、手を繋ぐ二人の影が、歩きだした将の影と重なる。
「まだ片付けが残ってるけど」
「いいよ、あんま遅くなると俺が真白の親父さんに怒られる」
 視線をあげたりょうの、その笑顔が、ふと翳った。
 それは、その背後に立つ、末永真白も同じだった。
「……将君」
 呟くりょうの前で、将は笑って片手をあげた。
 三人を包む、月がゆっくりと翳っていった。



               19


「高校の……二個上の先輩が結婚すんだ」
「ふぅん」
 じゃ、俺と同い年か。
 青い月が、照明を消した部屋を、水の底のように包み込んでいる。
「今日はそのお祝い……みんな、一回、俺んちに来たいっつってたから」
「そっか」
「当の主役は、九時には帰っちゃって、あとはみんなでだらだら喋ってたんだけどね」
 りょうの横顔が優しい。
 優しくて、そして寂しい。
 りょうが一人で借りて住んでするアパート。
 狭い布団に並んで横になりながら、りょうが腹ばいになり、将は仰向けで天井を見ている。
 耳元から、りょうの匂いがした。
 昔、同じ部屋で、一緒に暮らしていた頃と同じように。
 違うのは、その頃、同じ方向を見ていた二人が、今は、多分、別の方向を見ているということだけ。
「……でも、びっくりした、いつも不意打ちだね、将君は」
「まぁな、あんな時間に悪いな、とは思ったんだけど」
「夢でも見てるのかと思ったよ、マジで」
「元気そうじゃん」
「……将君もね」
 それきり、しばらく会話が途切れる。
 他の誰にも感じられない、りょうとの沈黙は、将にはいつも心地いい。
 こうやって、心が離れていると判った今でも、その感覚が変わらないことが、将には不思議なくらい嬉しかった。
「色んなこと……あったけど」
 りょうの横顔が、どこか遠くを見ながら呟いた。
「耐えられないと思ったし、……死にたいとも思った……彼女を……あんなに、傷つけて」
「うん」
 将は目を閉じ、相槌を打つ。
「将君が逮捕された時もそうだった、俺のせいだ、そう思った、……もしかすると、俺が会見か何か開いて、あの日に起きたことを説明してれば」
「それはいいし、お前とは全然関係ないよ」
「俺が何言っても、将君は絶対そう言うんだ」
 りょうの声が、寂しげになる。
「どっかで庇護されるのが……いやになってたのかな、俺」
 ふと見上げた綺麗な目は、やはり将ではなく遠くを見ていた。
「俺、親父が大嫌いで……いつもいつも、どっかで反発してたし、絶対言いなりにならないって頑なに思ってた、でも本当は甘えたかったし、頼りたかった、……だから、その分、将君に甘えてたのかもしんない」
「………………」
「いつのまにか、将君のことが、親父みたいに思えてきたのかな……ちょっとしたことに子供みたいに反発してさ、今思えば、ものすごくわがままだった……恥ずかしいよ」
「気にしたことなんてなかったよ」
 わずかに笑い、りょうは、自分も仰向けになった。
「今、すごく落ち着いてる……色んな、辛いことの終着点が今なら、それはそれで、悪くないかなって……そう思ってる」
 それは。
 この町で、生きていこうと、そう決めたってことか。
「真白が言うんだ、人には、天使と悪魔が住んでるって」
「天使と悪魔?」
「そのどっちを出すかはその人次第なんだって……意味、よくわかんねーけど、色んな人に傷つけられた俺助けてくれたのも、やっぱ、色んな人だったから」
「……………」
「……人や自分、責めてばかりいるのも、よくねーなって……そう思った」
「お前だって、誰かを助けてるんだぜ」
「……うん、そうだね」
「お前が考えてる以上に、だよ、りょう」
「………………」
「ストーム、もう一回やろうと思ってる」
 りょうの横顔は動かない。
 静かな眼差しが、無言で天井を見上げている。
 その横顔が呟いた。
「夢、みたんだ」
「なんの?」
「将君の夢……何度も何度も、何度も見たよ、離れてから」
 そう言うりょうの眼差しは、夢を見ている人のそれのようだった。
「こうやって、将君が俺迎えにきてくれて、言うんだ、りょう、もっかいストームやるぜ、一緒に東京に帰ろうって」
 楽しそうな横顔に、将もつられて笑っている。
「で、俺はいつも、同じこと答えるんだ」
「…………」
「俺は、行かないって」
 静かな目が、将を見つめる。
「……………」
 俺は、いかない。
 最初から、その言葉を聴くためだけに、ここまで来てしまったような気がする。
 将は、天井に揺れる光と影を見上げる。
「……どう、説得しても、無駄なんだろ」
「うん、……多分ね」
「俺たちが、りょうのこと、すっげー必要としてるって、そう言っても……ダメか」
「…………」
 りょうの横顔が、わずかに翳る。
「今、傍にいる人を大切にしたいんだ」
「うん」
「……それは、将君や雅、聡君が大切じゃないっていうのと、少し違って」
「わかってるよ」
「……今は……ここを、離れちゃいけないような気がする」
「そっか」
「それに、……怒らない?」
「怒るなら、もうとっくに怒ってるよ」
 はじめて顔を見合わせて、二人して笑っていた。
「俺、足手まといだと思うんだ、戻っても」
「りょう」
「否定されると思ったけど、はっきり言うよ、俺、戻っても、絶対真白を切り捨てられない」
「…………」
「前みたいに離れられなくて、また、周りに迷惑かけて、また彼女を傷つける、もうあんなのは、二度といやだし、絶対に繰り返したくない」
「……………」
「わかってほしい……俺なりに、考えて……決めたことなんだ」
 そうか。
 ……そうか。
「否定するつもりは、最初からないよ」
「……ありがとう」
 寂しいけど。
 本当は今、ちょっと泣きたいくらい悔しくて寂しいけど。
 りょうが決めたことを、否定するつもりは最初からない。
「真白のこと、許してやってくれないかな」
「なんの話だよ」
 切り返すと、りょうがかすかに苦笑するのが気配で判った。
「……気にしてないなら、いい」
 そして、そのまま天井を見上げる。
 少し考えてから、将はりょうを横眼で見た。
「りょうが持ってる天の羽衣、隠してるのは自分だって言ってたよ」
「え?」
「……そんな可哀想なことをさ、もう言わせないようにしてやれよ」
「…………」
「残るって決めてんならさ、もう」
 意味を理解したのか、ゆっくりと陰るりょうの横顔から、将は目を逸らしていた。
 りょうは何も言わない。
 静かに、秒針の音だけが響く室内。
 そっか。
 将は、不思議なほど真白な、そして静かな思考の中で、やり場のない視線を天井に向け続けていた。
 そっか。
 それが……りょうの答えか。
 もう、どっかで覚悟してたけど、本当にそうなっちまったんだな。
 ああ、ストーム、これで4人になるんだな、マジで。
「将君みたいな兄貴がいたらな」
 ふいに、りょうの冷ややかな横顔が優しく崩れた。
 少し驚いて、将は振り返る。
「なんだよ、いきなり」
「うぜーとか思いつつ、なんだかんだって甘えそう、俺」
「お前みたいな面倒な弟いらねーよ」
「とかなんとかいっちゃって、結局最後まで面倒みてんだ、将君は」
「みねーよ、これからは自称、氷の男だから、俺」
「あははっ」
 その弾けた笑いが引き金になって、互いの感情が、堰を切ったようにほぐれて流れる。
 尽きない会話の中、時計の秒針が、止められない時を刻んでいく。
「東京ドーム?」
「すげーだろ」
「すげーなぁ、つか、夢みたいだよ、絶対、観にいくからさ、俺」
「観客が野次ってもケンカすんなよ」
「あー……それは自信ないぁ」
「俺も、正直、自信ない」
 将は苦笑して腕を伸ばす。
 釈放後、最後のコンサートのブイを見せてもらったが、正直、身の毛がよだつ代物だった。
 あの舞台に立った4人が、あの日、はじめて感じる観客の悪意にどんな感情を抱いたか、それは想像するしかないけれど――。
 その悪意にも、これから、立ち向かっていかなければならない。
「本当に……やんの?」
「ドーム?」
「うん、……風当たりは、まだまだ厳しいんじゃないかな」
「跳ね返さなきゃ、飛ばされてそれで終わりだろ」
 将は笑って、肘で頬を支えてりょうを見下ろした。
「まだストームは、いい意味でも悪い意味でも知名度がでかいんだ、跳ね返して、なお輝くには、逆に、今しかないと思ってる」
「……………」
「風がやんだ頃、懐かしのグループ復活、みたいにやってみろ、その時いくつだかしんねーけど、そんなお情け頂戴の復活だけはゴメンだぜ」
 憂鬱気だったりょうの顔に、安堵の微笑が浮かんでくる。
「将君らしいや」
「無茶だと思ってるだろ」
「思ってないよ、将君なら、絶対なんとかすると思ってる」
「……俺、一人じゃ」
 将は、言葉を途切れさせて、前を見つめた。
「多分、諦めてた、頭の中で想像するだけで終わってた、実際……そのつもりでロンドンに帰りかけてた」
「…………」
「雅と、聡がさ」
 あの日のことを。
 多分俺は、一生忘れないだろう。
 二人が泣きながら、空港まで追いかけてくれた日のことを。
「あいつらとならやれるって、そう確信したから、決めたんだ。昔とは絶対に違う、今の雅と聡なら大丈夫だって」
 例え、何もかもなくしたとしても。
 あいつらとなら、人生最大の勝負に打って出られる。
 いや、絶対になくさせはしないけれど。
「……そっか」
 りょうが呟き、布団の上に手を出して、かすかに息を吐く。
「なんか、思い出す、将君ち、居候してたとき」
「狭かったよな、ベッド」
「萌々ちゃんに写真撮られたし」
「あれが出回ったら、マジやべーな」
「……指輪、まだ持ってるよ」
「……うん」
「ずっと大切にする……この先も、一生」
「…………」
「将君のことも、……みんなのことも、絶対に忘れない」
「…………」
 時が。
 とまっちまえばいいのにな。
 時計はいくらでもぶっこわせるのに。
 残酷だな、時間って。
「将君……」
「ん?」
「手、繋いでいい?」
「……いっけど」
「俺が寝たら離していいよ」
「なんだよ、どこまで甘える気だよ」
 笑うりょう。そのまま繋がった、冷ややかで暖かな手の感触。
 不思議だった。
 今、初めてりょうの何もかも知った気がしたし、将もまた、自分の何もかもを、りょうに見せた気がした。
「……りょう、昔さ」
 やがて、隣からは、密やかな寝息が聞こえてくる。
―――寝てんのか。
 昔さ、覚えてるかな。
 俺が中坊で、お前がまだ小学生だった頃。
 キッズでついてったサムライのコンサートで、横浜だったかな、俺が一人でホテルを抜け出した夜。
 ちょっと面倒みてやっただけのお前が、なんでだか俺の後をいつまでもついてきて。
 あん時も、二人で海見ながら一晩中手を繋いで、気が付けば朝だったっけ。
 あの時一緒だったお前と、8年以上たっても、まだこうやって一緒にいるんだ。
 これってすげーことだよ。
 すげーことだと思うんだ、……りょう……。




「将君、おきた?」
 朝。
 現実の眩しさに目をすがめた将は、枕元の腕時計を見て跳ね起きた。
「うわっ、すげー時間」
「どうせ予定ないと思って、起こさなかった」
 そう言って笑うりょうは、どこか腫れた目をしている。
 慌てて布団を畳みながら、将はキッチンに立つりょうを振り返った。
「メシ、どうする?」
「簡単なものなら、用意するよ、真白が作ってくれた料理も残ってるし」
「じゃ、悪いけど、シャワー借りていいか」
「うん、タオルは後で出しとくから」
 脱衣室で、鏡に向き合う。
 りょうよりさらに、腫れた目をしている自分がいる。
 少しだけおかしくなる。寝たふりをして、その実なかなか眠れなかったのは、お互いさまってやつなんだろう。
「お湯の出し方、判る?」
「判るよ」
 すげー、現実感ねぇけど。
 これが、りょうとの、最後の朝になるんだろう。



















 
 ※この物語は全てフィクションです。



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