―――出ない……。
 ほうっと嘆息して、携帯を切る。
 聞き飽きたメッセージ、そこにいくら伝言を吹き込んでも、もう一カ月以上、なんの応答もない。
「ケイさん」
 ふいに背後、至近距離から声をかけられ、はっとして顔をあげる。
「え、どうしたんですか?似合わない顔しちゃって……はぐっ?!」
 真面目な顔で暴言を吐く大森に肘鉄をくらわしてから、九石ケイは再び携帯を持ち上げた。
―――直人……。
 何やってんのよ、あんたは。
 マンションは、気がついたら引き払われてもぬけの殻。
 行方不明になったJ&M元社長――と、マスコミもその行方を捜している。
 一部株主からは、株価暴落の責任者として、代表訴訟をも提起される可能性があると噂されている。
 かつて頂点にいた者の凋落ぶりが見たいのは、世の常だ。マスコミは、視聴者は、かつてテレビ局ですら意のままに動かした男が、今、どんな惨めなさまで生きているか、それが知りたいに違いない。
 それが、人……。
 それが、この世界のもうひとつの現実……。
―――直人。
 ケイは遠い目で、灰色の雲が重く垂れ込めた夜空を見上げる。
 残暑はまだまだ続いている。台風の接近が近いとあって、今夜は、一雨きそうだった。
 あんたは今、どこで、何を考えているの……?







act12   クロスワード






                 1



「すまなかったね、所用を片付けていたら、こんな時間になってしまった」
「全然、私もすっかり忘れてたし」
 和気藹々?
「久しぶりだな、君の作ってくれたポワレは」
「あなたは外食が多いから少し塩分をひかえてみたの、味はどうかしら」
 つ、つか、普通に仲のいい夫婦??
「あのさ」
 さすがに腹に据えかねて、将は腰を浮かせていた。
 日付が変わるまであと三十分。
 真咲しずくが学生時代から住んでいたマンションの広々としたリビングに、何故か集合した三人の男女。
 一人は言わずとしれたこの部屋の主、真咲しずく。年齢不明。
 もう一人は、わずか二ヶ月ほど前に入籍したその夫、世界的シェアを誇るゲームメーカー「ニンセンドー」社長、御影亮。多分、女より十くらいは年上。
 で、もう一人、暴力事件で引退したアイドル、柏葉将。……多分女より、十くらいは年下。
「邪魔みたいだから、俺、帰るし」
「あら、もう?」
 と、あっさりというか、不思議そうにしずくが答える。フルーツのトレーを片手に将を見上げるその目には、「あれ……そういえば、いつからいたのかしら」みたいなものが漂っている。
「お邪魔しました」
 ひきつった絵顔で将は言い差し、脱いだ上着を持ち上げた。
 つか、ばかばかしくて腹さえ立たない。
 一体そもそも俺ってナニ??
 ド真面目な顔で死んだっつーから、覚悟決めて来てみれば、部屋の主は寝巻きに大あくびしながら出てくるし、で、唖然と立ちすくんでいる背後で「やぁ、柏葉君、本当に来たんですね」とそいつの夫がにこやかに出てくるし。
 つか、ありえねーだろ。
 その2人に「まぁまぁ、上がって上がって」と勧められて、つい上がりこんだ俺もどうかしてたけど、その俺をリビングの隅にほっといて、夫婦の会話しか楽しんでないこいつらって……。
 殺そう、いつか。
「外は雨だよ、柏葉君」
 穏やかな深みのある声が、背中から聞こえた。
「そう焦らなくてもいいじゃないか、別に、明日が仕事というわけでもないんだろう」
 絶対嫌味だろ、それ。
「このまま三人で、朝までいてもいいじゃないか」
 室内には、歌劇「トゥーランドッド」が流れている。滑らかで力強いイタリア歌手のテノール。
 曲は、折しも「誰も寝てはならぬ」つか、寝れねーだろ!こんな状況じゃ。
 しずくは何を考えているのか、わずかな笑みを口元に浮かべたまま、無言でグラスを持ち上げている。真紅の液体は、御影が持参したワインで、それは将の目の前にもある。
 グラスの赤が、白い肌に反射して揺れる。
 透き通るような肌をしたしずくは、今夜、いつも以上に美しく見えた。
 突き上げるようなテノールが、静かな空気を震わせる。
「どういう理由で、あんな嘘をついたんですか」
 つとめて冷静に、将は御影亮を見下ろした。
 切れ長の目に微笑を浮かべ、御影は静かな目で将を見上げる。
 別れた時にも飲んでいた。今は、酔いの片鱗さえ浮かべてはいない。暗い色のスーツに、陰りのある紫紺のネクタイ。
「このあたりは、なかなかタクシーが捕まらないんですよ」
 この部屋に入ってずっと、将の存在を故意に無視していた男は、ごく自然に、将の質問をスルーした。深みのある眼差しは、静かな挑発を含んでいるようにも見える。
「今は、車もお持ちではないですよね、成城のご自宅も売りに出されたと聞きました」
 だからなんだよ。
「一体君は、どこへ帰るつもりですか」
「今夜は、ホテルに泊まるつもりなんで」
 雅之の名前を出すのを無意識に避け、将は、短くなった前髪を払った。
 目の前に座る男は、恋敵(ただし昔の)である前に、雅之と聡のボスなのである。
「ほう、どこの」
「……言う必要がありますか」
 聡と雅と、これから一緒にやっていくということは。
「これから、君はどうするのかな」
「…………」
「大学もやめて、仕事もやめて、その若さで、すでに就職浪人ですか」
「…………」
 年商、数百億。
 この春、男が吐いた予言どおり、ライバルのサニープレステをすでに過去のヒット作にしてしまった男は、現在、世界でトップクラスの収益をあげる会社の社長である。
 聡と雅之と、これからもう一度一緒にやっていくということは、この巨大な男を敵にまわすに他ならない。
「まぁ、座りなさい、せっかくの夜じゃないか。年長者の話は、最後まで聞くものだよ、柏葉君」
 つか、いつあんたが俺に話しなんかしてくれたよ。
「話があるなら、聞きますけど」
 が、ここは、子供っぽく怒った方が負けだ。
 将は、感情を押し殺し、再び御影の前の席についた。
 一体なんの嫌味だか、皮肉だか知らないが、男としても人間としても、はるか高みにいる男が、やたらと自分を挑発しているように思えるのは、気のせいだろうか。
「君は、ナバロンの嵐を観たことがあるかな」
 しかし、御影の第一声は、将の予想を裏切るものだった。
「……戦争映画ですか、いえ」
 ナバロンの嵐。
 レンタルビデオ店で、パッケージだけは手にとったことがある。昔のアメリカ映画で、第二次世界大戦を舞台にした戦争映画だったはずだ。
「第二次大戦の最中、連合国の奇襲部隊が、ドイツ軍の領土に侵入し、戦争の重要拠点であるダムを破壊するという物語です。作戦遂行中、奇襲部隊の主人公たちはありとあらゆる困難に出会う。妨害、裏切り、仲間割れ……それをひとつひとつクリアして、ようやく彼らは目的のダムにたどりつく」
「…………」
 つか、なんの話だろう。
 コーヒーを片手に、むしろ白皙の肌をもつ男は、まんざら酔っているとも思えない。
「ダムに爆弾をしかけ、これで作戦は成功したと誰もが思う、観ているものも皆胸をなでおろし、そしてこう思う、さぁ、あとは、全員で上手く逃げるだけだと」
 曲が最高潮を迎えている。
「しかしそこで、最大にして最後の困難が主人公たちを待ちうけているんです。彼らはダムに閉じ込められてしまった、脱出は失敗した、爆発の時は迫っている、さぁ、どうやって、この最大の難関をきりぬけよう」
「…………」
「続きは、DVDでも借りてみなさい」
 目を細めて笑い、御影は静かに立ち上がった。
「ナバロンの嵐は、マクリーンの最高傑作です。最大にして最後の敵は、物語のラストにこそふさわしい」
 一体何の話だろう。
 クライマックスの後、合唱と重なり、曲が静かにフェイドアウトする。
「そろそろ、帰るよ」
「あ、うん」
 御影に声を掛けられ、少し慌てて、しずくが立ち上がる。
 その、どこか幼い横顔に、将はわずかな寂しさをかきたてられていた。
 私、結構ファザコンなのかな。
 彼くらいの年の人といるのが、一番落ち着くのよね。

 その言葉どおりなのかもしれない。この女が少し慌ててみたり、子供みたいにうんって素直に頷く様を、今日、はじめて見たような気がするから。
「今夜はありがとう」
「私も……楽しかった」
 その刹那、顔を見合わせる2人の間に流れた空気に、将は、自然と視線を下げる。
 御影は、もう何度もこの部屋に足を運んでいるのだろう。
 将よりも慣れた仕草で、将よりもリラックスして、そして――この奥にある女の寝室で、何度も2人は――。
「じゃ、柏葉君、私はお先に失礼するよ」
 別に、いちいち俺に断んなくても。
 つか、俺、そもそも一体、何しにここまで来たんだろ。
 しずくに付き添われて玄関に向かっていた御影が、ふいに足をとめて振り返った。
「君たちストームにとっての、最後の敵はなんだろう」
「…………」
 え?
 最後の敵?
 戸惑って顔を上げる。御影はわずかに破顔し、傍らのしずくに笑いかけた。
「やはりまだまだ、子供だね、彼は」
「そうかもね」
 つ…………つか。
 2人の姿が、玄関に消えて、やがてしずくだけが戻ってくる。
「帰る」
 上着を羽織った将は、不機嫌をぎりぎりで殺して女の傍をすり抜けようとした。
 一体全体なんなんだ、今夜は。
「あら、だったら送ってもらえばよかったのに」
「俺のこと馬鹿にしてるだろ」
「なんで?」
「普通、2人同時に部屋にあげた りしねーだろ、つか、なんだって、俺があんたら夫婦に同席しないといけねーんだよ!」
「あ、そうだ、コーヒー余っちゃったんだけど飲む?」
「……………………」
「話あったから、来たんじゃないの」
 あのさ。
「いい、また明日」
 袖をふいに掴まれる。
 将は驚いて、自分より目線が少し下の女を、見下ろしていた。
「……痩せたね」
 淡い碧が滲んだ瞳。
 褪せた唇には色がなかった。
「あんたもね」
 不思議な動悸がして、将は何故か、それだけしか言えなかった。
 


                 2



 室内には、先ほどとは違うメロディが流れている。クラッシックのアソート集なのだろう。ラフマニノフのピアノ曲。
「あんたが、こんなしみったれた曲が好きだとは知らなかったよ」
「私じゃないの、彼の趣味」
 あっそ。
「歌劇が好きでね、随分沢山、観につれていってもらったかな」
「へー」
 トレーを手にしたしずくが、キッチンから出てくる。
 ソファに座る将の目の前に、淹れたてのコーヒーが置かれる。
「離婚したんだ」
「へー」
 ………………。
 えっ?
 固まる将の隣に、しずくはなんでもないような顔で足を組んで座った。
「今日が御影しずく最後の日、最初から決めてたの、最後の日は二人で一緒に過ごそうって」
「………………」
「彼が来たってことは、今日、届けを出してくれたんじゃないかな」
 時計は、深夜ゼロ時を回っている。
 将は、まじまじと、隣に座る女を見下ろした。
 つか。
「……いいの、そんな日に俺がいて」
「だって、御影さんが連れてきてくれたんでしょ」
「そりゃ……」
 確かに連れて来られたといえば、その通りで。あんなくだらない嘘につられて、のこのこここまで来てしまったんだから。
 しかし、なんつー。
 一体どういう頭の中身してんだ、あのおっさん。
「…………早すぎじゃねー?」
「そ?結構長く続いたような気もしたけど」
 雨音が、窓ガラスを叩いている。
 その一時だけ、しずくの横顔が寂しそうに見えた。
「お互いの利用価値がなくなったってこと、君には理解できないと思うけど、私たちの結婚って愛情だけじゃなかったから」
 なんだよ、それ。
 将は、戸惑いにも似た怒りを感じて、御影が去って行った方角を見る。
「誤解しないで、私の方が彼以上に、利用もしたし騙しもしたんだから」
 その言葉が、将を別の所で傷つけている。けれど昔ほど、それはすぐに怒りに変わったりはしなかった。
「離婚は、利害が決裂したってこと?」
「………ま、そんなとこね」
 雨。
 多分、少し前から振り出していたのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
 愛情だけじゃなかったってことは、逆に言えば愛情もあったってことなんだろう。
 いかにも寝ぼけた風に出てきたくせに、部屋には客人をもてなす用意が存分にできていた。御影の好きな料理、御影の好きなフルーツ、音楽、フレグランス……多分、そうなんだろう。
「つか、なんで?」
「離婚?」
 そうじゃなくて。
 将は、戸惑いを隠せないまま、湯気のたつカップを持ち上げようとした。
「なんで、俺、」
 こんな日に、わざわざ同席させられたんだろう。
 こんな大切な日に、どうして。
「あちっ」
「ばか、何やってんのよ」
 目測を誤って、弾いてしまったカップは、横から手を出したしずくの指で押さえられる。
 けれど代わりに、琥珀色の熱湯が、わずかだが白い指をぬらしている。
 将は、咄嗟に、その手を取っていた。
「悪い」
「……平気」
「……………」
「……………」
 雨音だけが、どこか遠くから聞こえている。
 本当は、今。
「………………」
 自分が考えているのと同じことを、指先を重ねた人も、同じように思っているような気がした。
 将は、視線を戻しながら、手を離す。
 だったら、今。
 こんなことをしてる場合じゃないってことも、多分、同じように判っているはずだ。
「帰ってきたんだ」
 しずくの声が、いつもの調子に戻る。
「きたよ、てめーのしょーもない仕掛けに引っ掛かって」
 将もまた、元に調子に戻っていた。
 東京ドームの使用予約。
 電話を受けた時から、なんとなく、嫌な予感はしていた。
 この手の、馬鹿げた、かつ規模のでかい嫌がらせをする相手は、将の知り合いの中にはたった一人しかいない。
「引っかかった以上、覚悟はできてるんでしょうね」
「……………」
 ふいに冷たく突き放した声。将は無言でしずくの横顔を見る。
 前を見つめる遠い目は、目の前の景色というより、自身の何かを見つめているような気がした。
 暗く、深い、時折しずくが見せて、将には今まで理解することができなかった暗碧色の瞳。
「自分の人生だけじゃない、他人の人生まで巻き込んで、地獄の底まで落ちていく覚悟よ」
 将は黙って目をすがめる。
「言っとくけど、今度こそ、失敗したら二度と這い上がってはこられない。どのメディアからも徹底的に干された挙句、マスコミにズタズタに叩かれて、ジ・エンド」
 足を組みなおしたしずくは、静かな目で天井を見上げる。
「芸能人以前に、人間として、致命的なダメージを負うことになるかもしれない。せっかく生き残った成瀬君や東條君はもちろん、海外デビューが決まった綺堂君にとっても、取り返しのつかない汚点になるかもしれない」
 初めて将は、目の前の人が見ているものが、わずかに垣間見えた気がした。それは暗闇の中の瞬きにも似て、すぐに掴み所がなくなったが、確かに見えた気がした。
「全員で地獄を見る覚悟がないなら、手付け金なんていらないから、さっさとキャンセルしてきなさい。今回は、それくらい危険な遊びよ」
 互いの眼差しが、深い場所で混じり合う。
「判ってる、でも、あいつらを連れて行くのは地獄じゃないぜ」
 将は、自分に言い聞かせるように頷いた。
「じゃあ、天国?」
「ストームが行きたかった場所だよ」
 腹に力をこめて言った。
 しずくの目が、将を見上げてそこで止まる。
「ストームが、本当にいるべき場所だ」
 そう、あんたがそのチャンスを最後にくれた。
 それが、俺の、すべきことだ。



                3



「……将君、遅いね」
「……渋滞、してんじゃないかな」
 午前一時。
 どこの道路が渋滞なんかしているのだろう。
 自分で吐いた言葉に思わず笑って、雅之は暗くかげる天井を見上げた。
 本当に帰ってくるんだろうか。
 それとも、もしかして。
「憂也、まだトイレ?」
 ベッドに寝そべった聡が呟く。
 将を真咲しずくの元に送り届け、戻ってきた聡もまた、何かを考えるように、ずっと無口のままだった。
「電話してんじゃないかな、携帯もって出てったから」
 雅之はそれだけを言い、少し煩くなった雨音に耳を澄ませる。
―――憂也……大丈夫かな。
 多分相手は、まだ海外に一人残っているマネージャーだろう。アルマーニ水嶋、何度か着信があって、憂也が、それを無視していたのも知っている。
「雅、少しは寝ろよ」
「それ、俺のセリフだって」
 そのまま、互いに無言になる。
 雨と時計の秒針の音だけが、朝と夜の狭間で揺れる室内に響いている。
 前途多難。
 目を閉じた雅之の頭に浮かぶ文字は、それだけだった。
 失った時間を取り戻すためには、これから――沢山の人を裏切り、傷つけていかなければならない。
 雅之も、聡も、そして憂也も。
 稽古中の舞台はどうなるんだろう。雅之は無論、続けるつもりだが、もしスポンサーが降りると言い出したら。
 取り返しのつかない段になって騙しのように告白するより、明日にでも、ストーム再結成のことは、打ち明けるつもりだが、結末が見えているだけに、周囲の反応が恐ろしくもある。
 恐ろしいというより――ただ、申し訳ない。
「明日、考えようよ」
 ふいに、聡が呟いた。
 雅之が振り返ると、聡は目を薄く開けたまま、天井を見上げているようだった。
「色んなこと……まず、みんなで話さなきゃいけないだろ。雅だけじゃない、将君も憂也も、俺も……今、色んなこと、多分自分一人で抱えて、一人でなんとかしようとしてる」
「……そだな」
「前と同じ失敗だけは、二度としたくないし、させない」
 聡の声が、別人のように力強く聞こえた。
「俺たちも、ない頭しぼってみよう、今までみたいに、将君や憂也の決めたことについてくんじゃなくてさ」
「…………」
「絶対幸せにするっつって、去っていく恋人引き止めたんだ、命がけで幸せにしてやろうよ」
「それ、将君のことかよ」
 それには、苦笑して、雅之もようやく目を閉じた。
 そうだよ、将君。
 だから、戻ってこいよ。
 真咲さんに何言われても、現実の厳しさ、思い知らされても。
 絶対に――戻ってこい。
 俺たちのところへ。


 
                4



「随分な覚悟ね」
 少し眠いのか、しずくは、将の反対側のコーナーに身を寄せ、膝を抱くようにして背を預けた。
「疲れてんなら、寝ろよ、俺、もう帰るから」
「ううん……いい、雨が止むまでここにいて」
 物憂げに長い睫を伏せて目を閉じる。
「…………」
 将は少し迷ってから、立ち上がって奥の寝室をのぞいてみる。
 そして、少し驚いていた。室内の隅に詰まれたダンボール、元は物置場のようだった部屋が、半ば、綺麗に片付けられている。
「この部屋、引っ越すんだ」
 毛布をとって戻りながら、将は聞いた。
「引っ越すのとは……少し違うけど、余計なものを処分してるだけ」
「へー」
 それを、女の肩にかけてやる。
「ありがとう」
 甘えた声が、くすぐったかった。
「君を駆り立てるものは何?意地?それとも、自分を陥れたものへの復讐?」
 そのまま目を閉じた女が、先ほどの続きを口にする。
 将は無言で、少し冷めたコーヒーを飲んだ。
「意図的につぶされたのは、もう知ってるんでしょ、あなたたち全員が」
「……親父に聞いたよ、あんたの方が詳しく知ってんだろうけど」
「城之内静馬のこと?」
「事務所の上ともめて、その人刺したんだろ、それが東邦の真田さん」
「………………」
「やっと判ったよ、あのおっさんが、妙に俺に拘ってたわけが」
 真田孔明。
 不自然な出会いの理由も、やたら絡んできたことも、優しさと怖さと愛情と憎しみ、そんなものがごっちゃになった眼差しの意味も。
「刑務所出た後、無責任に女作って子供生んで、育てられないから手放して、アルコール中毒だっけ、なんか話聞いただけで、サイテーなおっさんだな、そいつって感じだったけど」
「……それで?」
「柏葉の親父のお兄さんにあたる人が、そいつの幼馴染で」
「柏葉、怜治さん」
「そう、俺引き取ってくれたのもその人で、でも……香港で死んじゃって」
「知ってるわ、だから今のお父さんが、あなたを実子として引き取ったのよ」
「………………」
「私は十九の時、初めて君の存在を知ったけど、真田会長は去年まであなたのことは知らなかったみたい。不思議ね、彼の情報網をもってすれば、簡単にわかりそうなものだけど、誰かが情報を故意に止めていたのかもしれない」
「誰?」
「さぁ、真田さんの周りには、色んな思惑をもった人が沢山いるから」
「…………」
「彼のためなら、命さえ辞さない男もいる……城之内静馬の存在は、真田サイドにとっても危険きわまりないものなのかもしれないわね。真田会長にとって、城之内静馬は、ある意味唯一のウィークポイントでもあるんだから」
「ウィーク、ポイント……?」
「つまづきよ、ビジネスには不要の感情、真田会長が、静馬やハリケーンズに拘ることが、一体東邦にとって何のプラスになるの?」
「………………」
「あなたに、静馬の息子というレッテルが付きまとう以上、逆に、真田会長からあなたを引き離そうとする動きもあるかもしれない。別に真田さんを庇うわけじゃないけど、あなたの逮捕劇は、彼の真意とは違うと思うわ、多分ね」
「………………」
 自分が、仕組まれた罠に落ちたのは知っていた。
 でも、それを仕組んだのは、真田孔明ではない……?
「下世話な言い方だけど、前みたいに一人で夜中にうろうろするのだけはやめておきなさい」
「わかってるよ」
 雨音が優しくなる。
「……聴いたよ、親父の曲、叔父さんの遺品の中に残ってた……レコードだったけど」
「そう」
「少しだけ恨んだ、そういう遺伝子、なんで俺に遺してくんねーのかなって」
 しずくがわずかに笑う気配がする。
「……聴けば聴くほど、ますます親父って男がわかんなくなった。一体どうして、あんな綺麗な曲を作れた人に、ああいう真似ができたのかな」
「…………」
「真田のおっさんも俺にはよくわかんねー、手持ちのタレントが独立したいっつった時、そこまで人って、残酷な気分になるものなのかな」
 将は、しずくの横顔を見下ろす。
「あんた……何か知ってる?」
 目を閉じていたしずくは、眠っているようにも見えたが、わずかに首を横に振った。
「彼が真田会長を刺した理由なら、私は知らない……というより、誰も知らないの、彼は警察でも裁判でも何ひとつ、動機を口にしなかったから」
「…………」
「自分のしでかしたことの落とし前は、自分でつけたかったんでしょう。……そういうとこ、君と一緒ね」
 俺と、一緒か。
 もう何年も前に、髪を撫でてくれた暖かで無骨な手。
 幻のように、自分の名前を呼んでくれた声。
 ずっと否定して、拒否しつづけてきた男。真実を聞いたからって、そこでなにか、劇的な変化があったわけじゃなかったけど、今はその時の思い出が、ただ懐かしく、胸が苦しくなるような感傷と共に思い出せる。
「世の中には……俺なんかが、理解できねーくらい、悲惨で残酷なことが沢山あって」
 拘置所で一緒だった男は、今はどうしているのだろう。
 子殺しを自己の中で正当化して、今でも世の中だけを恨んでいるのだろうか。
「俺がしゃかりきになっても、どうにもならないくらい、人って複雑で、色んな感情や思いがこんがらがってて」
 嫉妬、欲望、憎悪、悪意……人の気持ちが、歌やドラマみたいに綺麗なものばかりじゃないと、思い知らされた日々。
 それらの感情の巨大な集合体に襲い掛かられたストームが、なすすべもなく崩れていくのを、ただ見ているだけしか出来なかった日々。
 しずくの返事はない。
 かすかな吐息だけが聞こえてくる、もう寝てんのかな、そう思いながら、不思議に静かな気持ちで将は続ける。
「俺に……何ができるわけでもねーし、そういうの、俺のすることでもないんだけど」
 釈放されて自由になった時、もう、ただ笑って歌い続けることはできないと思った。
 自分の歌も笑顔も、存在も、この世の別の場所を歩いている人たちには、絶対に届かないし、意味のないことだと思えたから。
「でもさ」
 少し眠いかな。
 飛行機では、ほとんど一睡も出来なかった、そういえば、何時間前に寝たんだろう、俺。
 暖かな温みが肩に寄り添ってくる。将もそれに背を預け、そのまま目を閉じていた。
「ひとつひとつ……こんがらがった糸に光をあてて、ほどいていけば、絶対理解できないことなんて、実はねぇのかなって思ってみたりしてさ」
 俺一人じゃ、それは絶対無理なんだけど。
 ストームなら、できんじゃねぇかな。
 できるっつーのも、おこがましいかな。
「昔さ、織原のおっさんに言われたんだ、ライブライフの……覚えてる?」
 アイドル=仏様。
 あの時は意味が判らなかった。辞めてみて、降りてみて初めて、その言葉の本当の意味が判ったような気がした。
「ストームは、光なんだ」
 肩を寄せ合った人は動かない。
 将もまた、暖かなまどろみの中に引き込まれていた。
 ストームは光だ。
 光は……輝きかなきゃ、意味ねぇだろ。





















 
 ※この物語は全てフィクションです。



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